第三章 禁断の外出 17話:【赤き滴、そして王の怒り】
広場に響いた聖歌の言葉に呼応するように、難民たちの目が一変した。空虚な餓鬼から、殺意に染まった獣へと。
先頭にいた男が配給鍋を蹴り倒し、アリシアに掴みかかる。その勢いで、彼女が深く被っていたフードと外套が激しく引き剥がされた。
「……ッ!」
夜の闇を溶かしたような、艶やかな黒髪が露わになった瞬間、誰かが叫んだ。
「黒い魔女だ! 王を操る毒婦を殺せ!」
それはまるで断末魔のような叫びだった。天使たちの洗脳は、彼女を「慈悲深き女王」ではなく「世界を蝕む魔女」として認識させていたのだ。憎悪の連鎖が、暴力の奔流となってアリシアを飲み込む。
その時、人混みを割って一人の影が躍り出た。エルサだ。
彼女は鋭い千里眼で状況を把握すると、即座にアリシアの前に身を投じ、自身を盾にして後ろ足で後退した。
「女王、下がってください!」
エルサが背後で魔力を練り上げる隙間を縫い、複数の子供たちが飛び出してきた。彼らの手には、錆びついたナイフが握られている。
アリシアは絶句した。相手はかつて自分がパンを配り、名前を呼んだ、あの子供たちだ。この子たちに魔法を放てば、命を奪ってしまう。
攻撃を黙って受け入れるしかなかった。
小さなナイフが、彼女の白い肩を、腕を、頬を切り裂く。
熱い血が滴り、泥を赤く染める。その瞬間、アリシアの血の匂いが、境界の向こう側――古城の奥底に座す「絶対的な存在」の鼻腔を強烈に刺激した。
――シンが、気づいた。
古城の門が砕け散る音すら聞こえなかった。ただ、世界が「王の怒り」によって歪んだ。
レヴォルテを従え、境界の外へ降り立ったシンが目にしたのは、狂信者たちに囲まれ、血に汚れた黒髪を揺らす愛しい妻の姿だった。
「……あ、あ……」
シンは言葉を発しなかった。ただ歩いた。
彼の周囲を舞っていたピクシーたちや、高みで見物していた天使の先兵たちが、王の殺気――威圧の波動だけで、骨を砕かれ、紙屑のように空へと吹き飛ばされていく。
「どけ」
それは言葉ですらなかった。王の絶対的な暴力の意志が、道を塞ぐ難民たちを強制的に排除する。
駆け寄ったシンは、泥だらけで血に塗れたアリシアの身体を、壊れ物を抱くようにして抱き寄せた。
「……シン」
アリシアの意識が遠のきかける。幸いにも、ナイフの傷は浅く、致命傷には至っていない。だが、シンの瞳には、もはやこの世のすべてを焼き尽くす黒い炎が宿っていた。
「……私の愛するものを、よくも傷つけたな」
シンが見上げる空には、もはや太陽は存在しなかった。ただ、王の怒りに呼応して暗転した、死の闇だけが広がっていた。




