第三章 禁断の外出 15話:【禁断の境界線】
「騒がしいわね、境界の外で何が起きてるの?」
アリシアは玉座の間の窓辺に立ち、結界の向こう側に広がる薄暗いスラム街を見下ろして呟いた。窓の外では、これまで聞いたこともないような濁った熱気が渦巻いている。
玉座には、シンが深く腰を下ろしていた。彼は妻の背中を見つめ、低く穏やかな声で問いかける。
「そんなに気になるか?」
シンは玉座からゆっくりと立ち上がり、重厚な足音を響かせて彼女に近づいた。窓に張り付く彼女の細い背中を、大きな腕で優しく、しかし独占するように抱きしめる。
外から流れてくる『偽りの聖歌』は、時間とともに音量を増していた。境界の街に住まう領民たちにもその不穏な響きが伝わり、街のあちこちで小競り合いが始まっている。結界の内側にいる限り、彼らに直接の物理的な命の危険はない。だが、その精神までが汚染に侵食されるまで、時間は残されていなかった。
「……あれは、私がいたスラムでも流れていた詩。すべてを否定し、憎悪を巻き散らかす、呪いの詩だわ」
アリシアがその美しい顔を悲しげに歪める。彼女の脳裏に、かつて飢えと罵倒の中で聞いた、自分を否定する言葉の数々が蘇る。
シンは眉を寄せ、彼女の瞳をその大きな手でそっと覆い隠した。
「見なければいい。……お前が触れるべき世界じゃない」
彼は諭すように言った。自分にとって、アリシア以外のすべてなど灰になろうが知ったことではない。だが、彼女が過去の亡霊に心を痛める姿だけは、何としても避けさせたかった。
「それでも……私は知りたいの。私の愛するこの場所を、何が壊そうとしているのか。知りたいのよ」
アリシアの切実な懇願に、シンが言葉に詰まったその時、重厚な扉が開かれた。宰相エルサと、巨漢のレヴォルテが謁見の姿勢で現れる。
「王、境界外での報告を致したく参上しました」
エルサの冷徹な報告には、隠しきれない緊迫感が混じっていた。シンはアリシアの目を覆ったまま、わずかに首を巡らせる。
「……アリシア、お前は先に部屋へ戻っていろ」
その言葉は、拒絶というよりも、彼女を修羅場から遠ざけたいという不器用な愛の証明だった。
シンは女王としての威厳を保ったまま、彼女を玉座の間から促した。アリシアは一瞬だけエルサとレヴォルテの硬い表情を見つめ、それから静かに頷いた。
だが、扉が閉まり、背後の足音が遠ざかったとき、彼女の決意は固まっていた。
部屋へ戻ることはない。彼女は迷うことなく、人知れず古城の裏手にある隠し通路へと足を踏み入れた。
「知らなければ、守れないもの」
アリシアは禁断の境界へと、その白い足を一歩、また一歩と踏み出した。それが、シンの愛した静穏を塗り替える引き金になるとも知らずに。




