幕間 断絶の理(ことわり)――楽園の守護者と、慈悲の女王
この世界は、寿命の長さが絶対的な階級を生む、残酷な理によって支配されている。
数百年の寿命を持つ魔王たちが、数十年で灰となる短命種を「消耗品」と切り捨てる地獄のような世界。その均衡を、シンという名の「天災」と、その隣に立つアリシアという名の「光」が、境界の内側でかろうじて維持していた
この楽園には、王の法という名の極めてシンプルなルールがある。――「二人の邪魔をするな」「領民は穏やかに暮らせ」
シンとアリシアが街を歩けば、領民たちは二人のデートを察知し、息を潜めてその背中を見守る。内側には犯罪も飢餓も存在しない。
その平和の門番は、二人の忠臣だ。エルサのハイエルフとしての力『千里眼』が難民の魂の澱を暴き、レヴォルテの『巨大な拳』が不純物を物理的に粉砕する。この選別を通過した者だけが、永遠の安寧を許されるのだ。
結界を一歩出れば、そこは絶望に満ちた難民で溢れるスラムだ。
アリシアにとって、この風景はかつて魔王の国で「ハーフの忌み子」として虐げられていた自身の記憶と重なる。だからこそ彼女は、王の制止を振り切ってでもパンを配りに行く。だが、その慈悲こそが、今は最も恐ろしい「脆さ」となっていた。
この世界の戦場は、あまりに不条理な格差に支配されている。
魔王たちは 数千年の歴史に裏打ちされた魔導大要塞、絶対結界、空中急襲、呪詛。彼らは緻密な術式と圧倒的な「数と理屈」で世界を支配している。
対するシンにとって、魔王たちの研鑽は無意味だ。術式も呪文も介さず、ただの拳、ただの歩行の風圧だけで、数千年のシミュレーションを「物理的に」噛み砕き、都市ごと消滅させる。彼の力は、もはや天変地異に等しい。
アリシアが展開するのは『絶対同調結界』。王が放つ破壊的な衝撃波の波長を完璧に読み切り、自身の魔力でピンポイントに中和する。世界を滅ぼすシンを制御し、隣で寄り添い続けることができるのは、世界でただ彼女だけである。そして、彼女の魔法は魔王をも凌ぎ、特に遠距離の魔法が得意とされ前線で戦うシンとは調和が取れている
王の拳が振るわれるたび、魔王たちの国が地図から消える。
アリシアが慈悲を配れば配るほど、その恩恵は汚染され、シンの逆鱗を呼び寄せる導火線となっていく。エルサとレヴォルテは、血の雨が降るその日を予感しながら、今日も完璧な楽園の門を閉ざす。
――平和とは、かくも脆く、かくも残酷な均衡の上に成り立っているのだ。
アリシアにとって、シンが守るこの結界は、唯一無二の温かな場所。けれど、一歩外へ踏み出せば、そこには私のようなハーフが嘗て経験した、泥と血と飢えが渦巻いている。
シンはいつも眉をひそめ、私を止める。「行く必要はない」と。それでも私は、自分だけが幸せでいることに耐えられない。パンを配り、名前を呼び、彼らの短く儚い生に寄り添いたいと願う。
でも……。最近、彼らの瞳が変なの。私の差し出した白パンを、おぞましい汚物を見るように踏みつける。私の名前を呼ぶ唇が、呪詛を唱えるために震えている。
みんなが言うわ。「あの魔女を排除せよ」と。……天使様たちの聖歌のせいだなんて、考えたくもない。
もし、彼らが私を連れ去ろうとしたら、シンはどうなるかしら。世界中を敵に回して、七つの国を六つに変えてしまうのでしょうね。それでも私は、今日という一日を大切にしたいの。この平和が、いつまで続いてくれるのか不安でたまらないけれど。
エルサが宰相として整理しているのは、単なる帳簿ではない。七つの魔王という、腐りきった毒のリストだ。
かつてこの世界には「九つの国」が存在していた。しかし、過去の事件――王であるシンに逆らい、その逆鱗に触れた魔王の国が物理的に地図から消滅し、世界は現在の均衡へと塗り替えられた。
その時、現在私の隣で門番を務めるレヴォルテもまた、王シンに戦いを挑んだ魔王の一人だった。圧倒的な暴力の前に膝を折り、敗北した彼は、今や誰よりも王と女王に忠誠を誓う盾となっている。
結果として、王シンが治める領域を除けば、魔王たちが治める国は九から八へ、そして均衡の崩壊とともに七つへと減少していった。
思えば、私の人生は魔王への憎悪そのものだった。彼らが踏み躙る命、奪う尊厳。そのすべてが耐え難く、私は彼らへの復讐心だけを糧に生きてきた。その深い憎悪と、短命種たちの絶望を知る心こそが、私をこの場所へ導いたのだ。魔王を誰よりも憎むハイエルフであった私を、絶対なる王シンが見出し、傍らに置いたのは運命だったのかもしれない。
私が監視する、七つの魔王の国々の実態はこうだ。
悪魔族: 精神汚染と呪詛の権化。天使とは超犬猿の仲。かつてアリス様を「忌み子」と蔑んだ国であり、この世界で最も救いようのない傲慢な連中だ。
天使族: 「純血」を謳う選民思想の塊。難民を救済するフリをして精神を飼い慣らす。悪魔と手を組むという禁忌を犯してでも、アリス様を狙う偽善者たち。
エルフ族: 高位魔導と情報戦の国。私の劣化版である千里眼を操る。ドワーフを「鉄クズ」と見下すが、本質は隠密と謀略の集団だ。
ドワーフ族: 対結界兵器の開発に固執する技術国家。エルフを軟弱と嫌う。脳まで鋼鉄でできているような、どうしようもなく頑固な連中だ。
獣人族: 圧倒的な身体能力を持つ前衛国家。リザードマンと野生のライバル関係にあるが、王の拳によるトラウマが一番根深い。
リザードマン: 屈強な鱗と生命力を持つ武闘派。獣人とは反りが合わず、常に小競り合いを繰り返している。
ドラゴン族: 個体として最強の竜魔王。傲慢を絵に描いたような存在だが、彼らだけは知っている。王が「竜すら素手でねじ伏せる」という、物理法則を無視した事実を。
彼らは毎年、新年の会談で「王の結界をどう破るか」と怒号を飛ばし合う。だが、誰一人として「もしシンが本気で攻めてきたら」という問いには答えられない。その瞬間、あの傲慢な魔王たちが一様に黙り込み、目を泳がせる。あの静寂こそが、王の力の証明だ。
私が千里眼で難民の魂を焼き、レヴォルテが拳で不純物を物理的に排除する。私たちが汚れることで、あのアリス様の手を綺麗なままに保ち、シンの「箱庭」を守っている。
だが、毒は確実に回っている。アリス様の慈悲の心を利用した、天使族の陰湿なハメ手。彼女がパンを配るたび、その手は汚され、シンの逆鱗は静かに、しかし確実に煮えたぎっている。
……ああ、あの愚かな魔王どもは知らないのだ。自分たちが仕掛けた「爆弾」が、この世界の均衡を終わらせる合図になることを。
女王は祈り、宰相は排除する。
楽園の境界線で、愛と絶望の均衡が今、音を立てて崩れようとしていた。




