第二章 宰相と門番の仕事 14話:【綻びの予兆】
検問所の塔へと戻ったエルサの表情から、いつもの事務的な冷静さが消えていた。
天使族が撒き散らす「精神汚染」――その宗教洗脳の術式は、単なる暗示ではない。人間の根源的な記憶を塗り替え、女王への愛すらも「王を倒すための口実」へと反転させる悪質なものだ。
エルサの千里眼を以てしても、その兆候を見抜くのが難しくなっている。彼が映し出す難民たちの心の奥底には、以前にはなかった「偽りの記憶」が、あたかも最初からそこにあったかのように深く根を下ろしていた。
(……見抜けない。これでは、私の千里眼が『選別』の機能を果たせなくなる)
エルサの冷徹な瞳に、初めて「焦り」の色が混じる。彼は机を力強く叩き、傍らに立つレヴォルテに向き直った。
「レヴォルテ、城の警備を倍にしろ。……あのあどけない少女たちも例外ではない、厳重に監視するんだ」
その言葉は、彼が平穏の綻びを誰よりも重く受け止めている証左であった。これまで女王の慈愛の象徴として守ってきた存在すらも、今は「毒」を秘めた刃になり得るのだ。エルサは、己が最も大切に守ろうとしていた楽園の礎が、音を立てて崩れ始めていることを痛感していた。
レヴォルテは、エルサの異変を鋭く察した。彼は普段、自身の力以外を信用しないが、エルサの千里眼の危うさは誰よりも知っている。
「お前が言うのだから、そうなのだろう」
巨漢は短く返すと、即座に守りを固める兵士たちへ向けて重々しい号令を下した。
古城の周囲に張り巡らされた結界の網目が、一段と密度を増す。しかし、その強化された防備の中でさえ、エルサの心には得体の知れない不安が渦巻いていた。
王の愛という箱庭の境界線が、今、見えない侵食によって静かに蝕まれている。




