第9話 明日の待ち合わせ
水曜日の朝、昇降口で傘を閉じていると、後ろから藤崎さんに声を掛けられた。
「あ、おはよ。今日も持ってきたんだ」
「昼にはやむらしいけど、朝はまだ降ってたから」
昨日より細い雨だった。傘の骨に残ったしずくを落としてから留め具を掛けると、藤崎さんが俺の手元を見た。
「それ、目印?」
「うん。家にあったから」
持ち手の根元に、短い青いひもを結んでいた。昨夜、家の引き出しから見つけたもので、何に使っていたのかは分からない。長いと邪魔になりそうなので、輪にして結んである。
藤崎さんは自分の傘を畳み、俺の横へ並べた。薄いグレーの傘には黄色、黒い傘には青で、離れた場所からでも違いが分かる。
「いいじゃん。傷探さなくて済むね」
「どっちが見つけやすい?」
「そりゃ、ひも。でも、傷もあれば間違わないね」
彼女は持ち手を少し回し、例の傷を確かめた。俺が教える前に、ちゃんと同じ場所を見ている。
「これなら三原が置いてるの、すぐ分かる」
言いながら自分の傘を傘立てへ入れ、藤崎さんは上履きへ履き替えた。俺も隣へ傘を置いてから、靴箱を開ける。
自分が間違えないためにつけた目印を、彼女が見つけると言った。ひもを結んだだけなのに、帰りに傘立てを見るのが、少し楽しみになってしまった。
教室へ行くと、高瀬さんが藤崎さんに手を振った。
「莉緒、昨日ごめんね。今日は寄れる」
「うん。私も。お店、今日まだやってるよね」
「夕方まで大丈夫だった」
二人でスマホを確かめ、そのまま別の話を始める。俺は鞄を机へ下ろし、前の席へ来た拓海に朝の挨拶をした。
放課後、藤崎さんは高瀬さんと帰り、俺は拓海と駅まで歩いた。昼には雨がやみ、畳んだ傘を手に持っていても邪魔にならないくらい、道は乾き始めていた。
「土曜、十時半くらいでいい?」
拓海が言った。
「いいよ。先にお前の用事?」
「うん。水筒のふたの部品。母親のやつ、なくなったんだって。店で取り寄せてもらってるから、受け取るだけ」
「ふた、全部?」
「中のゴムだけ。外すとこ間違って捨てたらしい」
拓海は、自分なら多分気づかず使う、と続けた。俺も、飲み物が漏れてから気づくかもしれない。
「店が十時に開くから、そのくらいなら確実だし。先に寄ってから本屋で」
「分かった。駅の広場の時計のとこでいい?」
「そこで。昼、何か食う?」
俺は少し考え、古本屋の近くの道を思い浮かべた。
「食べるなら、見てみたい店ある。定食の。前、通ったとき、ちょっと気になってた」
「じゃ、そこでよくない?」
「混んでたら、別のとこでもいいけど」
「そうしよ。腹減ってたら何でもうまいし」
拓海はあっさり決め、信号の変わった横断歩道へ進んだ。俺も追いつきながら、その店が土曜日も開いているか、帰ったら確かめておこうと思った。
言ってみたら、行くことになった。まだ店も見ていないのに、断られたときの返事まで用意しかけていた自分が、少しおかしかった。
金曜日の昼休み、藤崎さんが映画館のページを開いた。
「日曜の、時間出てた」
四人で食べ終わった弁当を片づけていたところだった。高瀬さんが、決まったの、と聞き、俺もスマホを出した彼女の方を見る。
「十二時二十分からのがある。これなら、終わってからも時間あるよね」
画面には『放課後の遠回り』の題名が並んでいた。その日の昼の回は、終了が十四時二十五分になっている。
「そのくらいがいい。先に昼、食べてから入れるし」
俺が答えると、藤崎さんもうなずいた。
「ね。見てる途中でお腹鳴ったら、そっち気になっちゃう」
「映画の方じゃなくて?」
「自分の方。静かな場面で鳴ったら困るじゃん」
藤崎さんの横で、高瀬さんが弁当箱のふたを閉めた。
「飲み物の氷が急に落ちるのも、ちょっと気になる」
「分かる。自分だけ動いたみたいになるよね」
二人の話を聞いていた拓海が、空のペットボトルを軽く振った。
「俺、袋の音出さないようにしようとすると、余計出る」
「もう開けてから待ってたら?」
俺が言うと、拓海は首を横に振った。
「先に食い終わるだろ」
「本編始まる前に?」
「予告、思ってるよりあるんだって」
藤崎さんが笑い、画面をこちらへ向けた。
「じゃあ、食べるやつは後で考えよ。席は、さっき見たときはまだ空いてた」
座席表は、月曜日に送られてきた案内図と同じ形だった。十二列並ぶ席の真ん中より少し後ろに、二つ続いて空いているところがある。
俺が指で示そうとした場所へ、彼女の指先が先に来た。
「この辺、どう?」
「今、そこ言おうとした」
「ほんと? じゃあ、そこがいいな」
画面の上で、彼女の指が俺のすぐ隣に止まっている。俺は自分の手を引き、席の番号を覚えた。
「帰ってから、俺、予約しとく。二人分一緒の方がいいだろ」
「うん。お願いしていい? お金、先に渡す?」
「日曜でいいよ。高校生、千円って書いてある」
「じゃあ、ちょうど持ってくる。ありがとう」
藤崎さんは自分の手帳を開きかけ、机の上の弁当袋を見てやめた。食事のものを全部しまってから、日付の欄へ書き込んでいる。
高瀬さんはその間に席を戻し、拓海も椅子を前へ向けた。俺は机を元の位置へ押しながら、藤崎さんの手元の数字を見た。
「集合、十一時十五分でどう? 駅の時計のとこ」
「うん。そこから一緒に行って、先に何か食べよ」
彼女が書き足した時刻は、上映より一時間以上前だった。待ち合わせの時間は、それだけ早く彼女に会う時間でもある。
土曜日に服を選んでいたときから、次に着て会おうとは話していた。でも、その日が何時に始まるのかまで決まると、ただの日曜日とは違って感じられた。
藤崎さんがペンをしまい、こちらを見る。
「あ、三原。日曜、学生証忘れないでね」
「そっちもな」
「私、もう鞄に入れとこうかな」
「今日まだ学校だけど」
「違う、日曜の鞄の方。家帰ったら」
言い直した彼女が笑い、俺もつられた。自分も忘れそうなので、帰ったら財布の横へ置いておくことにする。
その日の夜、机で映画館の予約を進めた。
昼に見た二席はまだ空いていた。H列の九番と十番。選んだ席に色がつくと、もう一度、画面の上の上映日時を確かめる。
日曜日、十二時二十分。作品名も人数も間違っていない。
購入を終えると、二人分の席番号が同じ画面に表示された。俺は日時と席の分かる部分を藤崎さんへ送り、取れた、と短く書いた。
少ししてから返事が来た。
『ありがとう! 隣、取れたね』
『うん。昼に見たとこ、まだ空いてた』
『よかった。片方だけ先に埋まってたらどうしようって、ちょっと思ってた』
俺も、画面を開く前には同じことを考えた。別の列に空きはあったが、昼に二人で選んだ場所に座れるのは嬉しい。
『日曜、俺のスマホで二人分出せる。一緒に入ろう』
『了解。学生証も入れた』
続けて、鞄の口から学生証のケースだけが見える写真が来た。名前や顔は隠してあり、代わりにペンギンのペンが横へ置かれている。
『まだ日曜じゃないのに、準備したくなる』
俺は自分の椅子の背を見た。新しい青いシャツはまだクローゼットに入っているが、白いTシャツは洗濯を終えて、すぐ出せるところへ置いていた。
『俺も、着てく服は決まってる』
『青いの?』
『うん。約束したから』
送ってから、少しだけ画面を伏せた。服を着るだけなのに、約束という言葉にすると、妙に照れくさかった。
返事を知らせる振動が来て、またスマホを持つ。
『私も桃色。日曜、ちゃんと見てね』
俺は画面の文字を二度読んだ。買うところも試着した姿も見ているのに、日曜日に着てきた彼女を見るのは、まだ別のことらしい。
『見る。俺のも、見て』
書いてから、そのまま送信した。
すぐに既読になり、猫が大きくうなずくスタンプが返ってきた。俺はそれを見て笑い、椅子から立った。
クローゼットを開け、青いシャツを少し手前へ出す。明日ではなく明後日だと確かめてから、袖の折れたところを直した。
土曜日の十時半、拓海は時計の下で漫画の表紙をスマホに出していた。
「これの八巻。表紙、似てるから間違えそうなんだよ」
「同じ人、ずっと出てるな」
「主人公だからな」
俺は画面を拡大し、数字のところを見た。片手に棒のようなものを持った少年が立っている。題名だけでは棚のどこにあるか分からなかったが、表紙の色は覚えられそうだった。
拓海がスマホをしまい、駅の向こう側を指す。
「先、こっち。お前、本の場所もこれに記録してんの?」
「地図に店だけ。何があったかまでは、そんなに残してない」
「昨日、家で探したら、弟が九巻まで持ってたんだよ。七巻借りたのに、八だけない」
「二人で、同じとこ抜けてるのか」
「弟は先読んでる。そこが俺と違う」
ちょっと不満そうな言い方に笑いながら、俺たちは横断歩道を渡った。
拓海の用事は、言っていたとおり、受け取るだけで終わった。店員が小さな袋を出し、注文した品と合っているか二人で確認する。拓海は代金を払い、袋を鞄の内ポケットへ入れた。
「これ、なくすと本当に何しに来たか分かんなくなるからな」
「もう入れるとこ見た。もし忘れても聞いて」
「助かる。俺の鞄なのに」
店を出てから、俺が先に立って古本屋への道を歩いた。
商業施設の裏から一本横へ入ると、人通りが少なくなる。拓海は途中にあるゲームの店をのぞき、まだ開いていないのを見て、帰り寄ろうかなと言った。
俺が覚えていた古本屋の看板は、前に来たときと同じ場所に出ていた。扉の横には百円の文庫が並び、店の奥に漫画の棚が続いている。
「ここ。前来たとき、結構そろってた」
「お、思ってたより広い」
拓海は通路の奥を見てから、棚の上の表示へ目を移した。俺も鞄を体の前へ寄せ、並んだ背表紙を見ていく。
目当ての題名は、拓海が先に見つけた。
「あった。……え、七まで?」
「隣、別のやつか」
「しかも九はある」
七巻と九巻の間へ指一本分ほどの隙間があった。拓海はそこをもう一度見て、棚の奥も確かめた。
「この空き方、絶対さっきまであっただろ」
「抜けてるから、そう見えるだけじゃない?」
「でも、ちょうど八が入る幅なんだよ」
俺も少ししゃがんで見たが、後ろへ入り込んでいるわけではなかった。拓海が立ち上がり、店の人に聞いてくると言ってレジへ向かう。
待つ間、俺は通路の反対側を見た。写真や街歩きの本が数冊並んでいる。よく知っている駅から二つ先の商店街を紹介する本があり、手に取った。
表紙には、軒先へ布を張った細い道が写っていた。前に歩いた場所と似ているが、同じではない。ページを開くと、古い建物を使った店の写真が出てきた。
「何それ」
戻ってきた拓海が、俺の手元をのぞいた。
「この辺の、店の本。前に行ったとこも載ってるかと思って」
「俺、そこ行ったことある。母親と弟と」
拓海が指したのは、揚げ物を売る店の写真だった。俺はそこを知らなかったので、どの辺りか聞く。
「駅から結構歩く。熱いやつ、その場で食った。うまかったけど、俺らが行った日は風強くて、袋持ってくの大変だった」
「ここ、川の近くか。道、途中まで行ったことある」
「なら、分かると思う。その角の店から、もう一本向こう」
俺は写真の下にある地図を見た。そこまで行ったときは別の道へ曲がったので、あと少し歩けば通っていたらしい。
拓海は隣の写真も見て、こっちは知らないな、と言う。俺もページをめくり、気になった店の名前を覚えた。
「八巻、どうだった?」
「今ないって。奥の分も見てくれたけど。普通の本屋で頼むわ」
「そっか。残念だったな」
「まあ、聞けたからいい。七をもう一回読んで待つ」
拓海は隣の棚に目を向け、別の漫画を一冊取り出した。目当てのものがなかったからといって、すぐに帰るつもりではないらしい。
俺は持っている本を閉じ、値札を確かめた。三百円なら、今日の予算にも入る。
「俺、これ買ってくる。お前、もうちょっと見る?」
「見る。先会計しといて」
言われて、俺は本を持ってレジへ向かった。支払いを終え、店の中を振り返ると、拓海は今度は棚の下の方を見ていた。
彼の手元には、さっきの漫画が残っている。俺が見つけた店で、俺が知らない本を見ている。それでいいのだと思いながら、買った本を鞄へ入れた。
昼の定食屋は、入口に二組並んでいた。
店の前へ着いたとき、拓海のお腹が鳴った。本人が一番先に下を向いたので、俺は聞こえなかったふりをやめた。
「待てそう?」
「その聞き方、俺が今すぐ倒れるみたいだろ」
「いや、腹減ってるって言ってたから」
俺たちの後ろから、店の人が順番を確かめに来た。二人なら十分くらいと聞き、拓海が俺の方を見る。
「それくらいなら。三原、何食いたかったんだっけ」
「魚のフライ。写真で見たやつ」
「俺、肉かな。メニュー見よ」
拓海は入口の横へ寄り、張り出された献立を読み始めた。俺もその隣で、日替わりの欄を確かめる。
店へ入るまで、今日見た漫画の話を聞いた。拓海が結局買ったのは、試しに読んで気になった別の作品の一巻だった。八巻を買いに来て一巻になるのは戻りすぎだと言うと、読むものができたから問題ないと返ってくる。
席についてからも、その話は続いた。二人掛けの小さな机に水が来て、拓海が鞄を椅子の下へ置く。
「お前の本、あとでちょっと見せて。さっきの店、名前忘れた」
「いいよ。こっちも、漫画の裏だけ見せて」
「裏だけ?」
「あらすじ。表紙だと、どんな話か分かんなかった」
互いの買った本を机の端で交換した。俺が裏表紙を読んでいる間、拓海は街歩きの本を開き、揚げ物の店があるページを探す。
写真を見つけると、自分のスマホで店名を調べ、母親へ送っていた。
「また食いたくなったから。今度そっち来たら買ってって」
「自分で行くんじゃないのか」
「部品、取りに来た分」
「交換の条件、もう終わってから言うんだな」
拓海は笑い、でも近くに行く予定あるって言ってたから、と付け足した。
料理が来る前に本を返し合い、鞄へしまう。俺は魚のフライ定食、拓海はしょうが焼き定食を頼んでいた。どちらも八百五十円で、小さなみそ汁がついてくる。
フライは思ったより大きく、端を箸で切ると湯気が上がった。俺が一度吹いてから口へ入れると、拓海も自分の皿を見て、こっちも量あるなと言った。
「どう?」
俺が聞くと、彼は肉を飲み込んでからうなずいた。
「うまい。これ、ご飯もうちょい欲しくなる」
「食べ始めたばっかりだけど」
「配分、考えないと。そっち、魚でかくない?」
俺も皿を見た。写真で見ていたものを実際に食べると、衣の感じも、中の柔らかさも違う。
「でかい。来てよかった」
「な。ここ、覚えとこ」
拓海はそう言って、もう一枚の肉をご飯に載せた。
俺が気になった店へ、友達と来た。待ち時間もあったし、目当ての本もなかったけれど、彼は今、普通にご飯を食べている。
つまらなくないかと聞きそうになり、その代わりに、俺はフライの端をもう一度切った。
「次来たら、しょうが焼きもいいな」
「じゃあ、俺はそっち。入れ替えで」
「二人とも同じの頼んでもいいけど」
「それでもいい。今、そっちも気になっただけ」
拓海は俺の皿を指してから、自分のみそ汁を持ち上げた。
次があるという話を、それくらい普通にする。俺も、また来るならどの道を通ろうかと考えながら、残りのご飯を食べた。
食後、拓海はゲームの店へ寄り、俺は一緒に棚を見てから駅前で別れた。
帰り道、今日買った本を思い出し、揚げ物の店を地図へ保存した。古本屋と定食屋も、同じように印を確かめる。知らなかった道を、また歩く理由が増えていた。
家へ着いてから、藤崎さんへ昼の写真を送った。料理が来たとき、自分の皿だけ一枚撮っていた。
『拓海と行った店。魚、思ったより大きかった』
返事が来たのは、少し後だった。
『ほんとだ。これで一人分?』
『うん。八百五十円だった』
『いいね。私、今やっと帰った。家の用事終わった』
俺は、お疲れ、と返してから、今日のことを少しだけ書いた。拓海の漫画が一冊だけ見つからなかったこと、代わりに自分が本を買ったこと。
藤崎さんは、八巻って一番気になるとこかもしれないのに、と返してきた。実際にどんな場面かは知らないが、飛ばして読みたくない気持ちは分かるらしい。
『でも、楽しかった?』
届いた質問へ、俺はすぐに、楽しかった、と打った。
『また行こうって話した。店もよかったし』
『そっか。よかった。三原が選んだ店?』
『前から気になってたから、言ってみた』
『じゃあ、当たりだね』
俺は写真をもう一度開いた。おいしかったのは確かだが、それだけで、今日の全部を説明できる感じでもなかった。
返信を書こうとしていると、藤崎さんから新しいメッセージが来る。
『明日も、お昼一緒に食べるんだよね』
約束はもうしてある。それでも改めて文字で届くと、俺は明日の待ち合わせを確かめたくなった。
『うん。十一時十五分、時計の下』
『了解。私、今日は早めに寝る』
『まだ夕方だけど』
『今すぐじゃない! 夜更かししないってこと』
俺が笑っている間に、もう一つ、短いメッセージが続いた。
『明日、楽しみだから』
机の上には、今日買った本が置いてある。その横のスマホには、彼女との会話が開いていた。
俺は明日の映画の席を思い出した。実際の椅子にはまだ座っていないのに、どちらに彼女が座るか考えただけで、もう少し近いものになっている。
『俺も楽しみ。ちゃんと寝る』
送ると、藤崎さんから、よろしく、と猫が手を振るスタンプが届いた。
俺はスマホを置き、財布へ学生証が入っているのを確かめた。青いシャツも、白いTシャツも用意してある。
明日は、彼女の桃色のブラウスを見たら、最初に何と言おう。
少し考えた後、先に言葉を全部決めるのはやめた。待ち合わせで彼女に会って、そのとき見て思ったことを言えばいい。
ただ、気づいても黙ったままにはしないでおこうと思い、俺は机の本を開いた。




