第10話 エンドロールの、そのあとで
日曜日、駅前の時計の下へ着いたとき、長い針はまだ十一時十分を指していた。
昨日はここで拓海が漫画の表紙を見せてきた。今日は俺一人で、買ったばかりの青いシャツの裾を直している。白いTシャツの上に前を開けて羽織ると、家の鏡で見たときよりも、袖の辺りが軽く感じられた。
もう一度スマホで時刻を確かめようとしたところで、広場の向こうから歩いてくる藤崎さんが見えた。
くすんだ桃色のブラウスに、青い長めのスカートを合わせていた。白いスニーカーの足元まで見てから、俺は手を上げる。彼女もこちらへ気づき、鞄の肩ひもを押さえながら近づいてきた。
「おはよ。早かったね」
「今、着いたとこ。そっちも早いけど」
「ちょっとだけ。まだ十五分じゃないよね」
藤崎さんは頭の上の時計を見て、それから俺のシャツへ目を戻した。
俺も、彼女のブラウスを見た。試着室の前では気にならなかった小さなボタンが、外の光の下だとよく見える。膨らんだ袖の下で、彼女の腕が少し動いた。
「その色、外で見ると、もっといいな」
思ったことが先に口から出た。藤崎さんは自分の袖へ目を落とし、指で布を軽くつまんだ。
「ほんと? スカート、結局これにした」
「うん。写真で見たときより、合ってるの分かる」
言い終えてから、肝心なところが抜けているのに気づいた。
「似合ってる。今日の」
藤崎さんが顔を上げた。口元が緩んで、返事をするまでに少し間があく。
「ありがとう。……三原のも、いい。白いの中に着るって、これだったんだね」
彼女は俺の胸元から袖へ順に目を向けた。
「この前の紺より、今日の方が明るい感じする。青、こっちにしてよかったね」
「うん。着てみると、こっちの方が好きかも」
「じゃあ、私もこれにしてよかった」
藤崎さんはブラウスの裾を一度整え、笑った。俺が好きだと言ったのは自分のシャツの方なのに、彼女の服を見ていたことまで伝わったようで、つられて笑ってしまう。
鞄から財布を出した彼女が、千円札を一枚取り出した。
「先に、映画の分。予約ありがとう」
「うん。ちょうど受け取った」
財布へしまってから、俺も学生証が入っているのを指で確かめた。藤崎さんがその動きを見て、自分の鞄をたたく。
「私も持ってきた。昨日から入ってる」
「昨日じゃなくて、金曜からじゃない?」
「あ、そうだった。準備、早すぎたね」
彼女が笑いながら歩き出したので、俺も隣へ並んだ。今日は雨の気配がなく、傘の分だけ間を空ける必要もなかった。
商業施設へ入ると、上の階へ向かう前に、昼に何を食べるか決めた。
映画まで一時間ほどある。ゆっくりしすぎなければ大丈夫だが、注文してから時間が掛かるものは避けたかった。
案内板に並んだ店を見ていると、藤崎さんがパンの写真を指した。
「ここ、どう? サンドイッチもある」
「いいよ。俺、それとスープにしようかな」
「私も。映画の前に食べすぎると、寝そうだし」
「楽しみにしてたのに?」
「楽しみなのと、眠くなるのは別なの」
言い切った後で、藤崎さんは自分でもおかしくなったように笑った。俺も分かる気がしたので、反論せず店へ向かった。
それぞれレジで注文し、俺は卵とハム、彼女は照り焼きチキンのサンドイッチを選んだ。小さなスープをつけると各七百二十円で、別々に会計を済ませて、空いている二人掛けの席へ座る。
藤崎さんは鞄を膝へ置き、紙の包みを開く前に手を拭いた。
「三原、昨日買った本、もう見た?」
「ちょっと。前に行った店も載ってた。あとは、知らないところの方が多かったけど」
「ああいうの、見てから行くのと、行ってから見るの、どっちが好き?」
俺はスープのふたを開けながら考えた。
「どっちもある。行くとこ決めてても、途中で違う店入ったりするし」
「昨日の定食屋みたいに?」
「あそこは前から気になってた方。逆に、拓海が知ってる店、教えてもらった」
「へえ。じゃあ、本の続き、実際に知れたんだ」
俺はうなずき、揚げ物の店の話をした。川の近くまで歩いたことはあったが、もう一本向こうの道には行っていなかったことを話すと、藤崎さんはサンドイッチの包みを見下ろした。
「私、同じ駅でも、大体同じ出口使っちゃう。反対側って、知らない店結構あるよね」
「アイスの店、教えてもらわなかったら、俺も知らなかったし」
「あそこは、写真見て食べたくなったから。三原みたいに、ちゃんと歩いて探してないよ」
「食べたいのがあるなら、それで行く理由になるだろ」
俺が言うと、彼女は、そっか、と答えてからサンドイッチを持ち上げた。
「じゃあ今日も、ちゃんとした理由だね。これ、写真おいしそうだった」
ひと口食べた途端、パンの端からソースが少し押し出された。藤崎さんは慌てて包みを持ち直し、俺は手元の紙ナプキンを中央へ寄せる。
「ありがと。照り焼き、難しい」
「おいしい方は?」
尋ねると、彼女は口の中のものを飲み込み、しっかりうなずいた。
「そっちは大丈夫。こぼさなければ、もっといい」
俺も自分の卵を落とさないように包み直しながら食べた。映画の話をしていても、食べ物の話へ戻ってしまう。二人とも、昼を先にしておいて正解だった。
映画館のロビーへ上がると、受付の向こうに大きなポスターが見えた。
踏切の両側にいる制服姿の男女は、買い物の日に見たときと同じ顔をしている。けれど、その前で足を止めた藤崎さんは、今日は片手に服の袋を持っていなかった。
「いよいよだね」
彼女が言い、俺もスマホの予約画面を開いた。まだ入場案内前だったので、売店へ行って、それぞれ小さいサイズのウーロン茶を買った。
ポップコーンの列を見て、藤崎さんが俺へ顔を寄せる。
「三原、食べる?」
「今はいいかな。思ったより腹いっぱいだし」
「私も。匂いすると欲しくなるけど、今日は飲み物だけにしよ」
無理に一つのものを買う必要はなく、俺たちはカップを一つずつ持った。入場口の案内が変わったところで、藤崎さんが鞄を持ち直す。
「二人分、そっちで大丈夫?」
「うん。一緒に見せる」
係の人へスマホを向け、学生証も手元へ出した。確認が済むと、二人で通路へ入る。
俺が先に画面でスクリーン番号を確かめている間、藤崎さんは壁の案内を見ていた。
「こっちだって。奥から二つ目」
「うん。席、Hの九と十」
「覚えてきた。八じゃないやつ」
彼女が言うので、俺は昨日の漫画を思い出して笑った。
「それ、拓海の方な」
「昨日ずっと八巻の話してたから、ちょっと残ってる」
スクリーンの入口をくぐると、壁の灯りが足元を照らしていた。まだ明るい場内で列の表示を確かめ、俺たちはH列へ入った。
俺が九番、藤崎さんが十番に座る。鞄を膝へ置いた彼女は、一度前を見てから背もたれへ体を預けた。
「この辺、見やすそう」
「近すぎないしな」
藤崎さんが隣へ顔を向け、少しだけ声を落とした。
「取ってくれてありがとう」
「うん。ここにしてよかった」
俺はウーロン茶を左側のホルダーへ入れた。彼女も自分の右側へ置いたので、間の肘掛けが空く。
手をどこへ置くか考えてから、俺は鞄の肩ひもを膝の上でまとめた。藤崎さんもブラウスの袖を直し、同じように手を重ねている。
教室でも隣なのに、今日の方が近い気がした。机一つ分の幅がないせいだと考えたところで、場内の照明が一段暗くなった。
予告が始まると、彼女がスクリーンへ向き直る。別の映画の映像を見て、あ、という形に口が開いたが、声は出さなかった。
俺は何に気づいたのか聞きたくなった。けれど、彼女も俺を見てから、後で、と言うように小さく口元を動かしたので、うなずいて前へ戻った。
映画は、古いレコード店のシャッターが持ち上がる場面から始まった。
開店前の店へ生徒が三人入っていき、一人がカメラを構える。奥から出てきた店主は、撮るなら先にそこ片づけてくれ、と床の段ボールを指した。
壮大な話が始まる感じではなく、俺は少し安心した。カメラを持った男子が箱へつまずきかけ、隣の女子が受け止める。助けた直後に、自分の足も同じ箱へ引っかかり、二人そろって店主に怒られていた。
横から、藤崎さんが息を漏らして笑うのが聞こえた。俺も同じところで笑っていたが、顔を向ける前に次の場面へ移った。
閉店する店の記録を残すために始めた撮影は、すぐにはうまく進まなかった。男子が建物の細かいところを撮っている間に、女子が話を聞きたかった常連客は帰ってしまう。女子が別の店で聞き込みをしていると、予定していた日の光がなくなる。
どちらも必要なのに、同じ時間にはできない。三人目の友達が二人の予定表を見て、まず店に入る時間を決めろと言うところで、場内からも笑いが起きた。
俺は古い棚の奥にある缶や、レジの横へ貼られた色あせた紙を見ていた。外からの景色だけでは、そこまで使われてきたことは分からない。
途中で、男子がカメラを置き、店主と二人でレコードを聴く場面があった。音楽の名前はよく分からない。でも、針を落とす前に店主が少し迷う指の動きが、妙に印象に残った。
隣で藤崎さんが身じろぎした。俺も鞄の位置を直すと、膝の横で、肘掛けに置きかけた手が彼女の袖へ触れた。
彼女がこちらを見て、俺は小さく手を引いた。謝るほどのことではなかったのか、藤崎さんはうなずくだけで、また前を向く。
それから少しの間、スクリーンの台詞が頭に入りにくくなった。俺は自分の指を鞄の上へ置き直し、店の入口に立つ二人へ意識を戻した。
予告で見た、女子が振り返る場面が来た。
カメラを構えた男子は、何かを頼むような顔をしていた。俺も続きを待つ。彼が口を開いたとき、劇場の音が少し近くなった気がした。
「今の、もう一回笑って」
彼の言葉に、女子は笑いかけた顔をやめた。
「何それ。言われたらできないでしょ」
あの予告で切れていた返事は、そういうものだったらしい。男子が慌てて、違う、撮れてなかったから、と説明するほど、彼女は笑わなくなる。
俺はおかしくなったが、その後、カメラを下ろした彼を見て笑った女子の顔は、もう撮れていなかった。
画面の端で待っていた友達も、今なら目に入った。撮影を見守っているのではなく、二人が預かった店の鍵を、早く返してほしそうに指で回している。
藤崎さんが言っていたのは、ここだっただろうか。聞けないまま、映画は先へ進んだ。
最後の日、シャッターへ絵を描くのは、店主から頼まれたことだった。次に入る店が決まるまで、閉まったままだと寂しいから、と。
完成した映像には、きれいに撮れた店の中だけでなく、片づけ中の失敗や、常連客が途中で別の話を始めたところまで残っていた。上映会の後、店主が一番長く見ていたのは、店を継ぐ前の自分の話をする場面だった。
男子と女子は帰り道で、互いが卒業後に行く街の話をした。これからは一緒に下校できなくなると分かっていても、どちらも進路を変えるとは言わない。
女子が、今度そっちの街も撮ってよ、と頼む。男子は少し考え、見るだけじゃなくて来れば、と答えた。
最後に踏切が開き、彼女が向こう側から渡ってくる。二人が同じ方へ歩き始めるところで画面が切り替わり、エンドロールが流れた。
俺は座ったまま、音楽を聴いていた。映画の中で行っていた街の名前を、もう一度確認したくなる。
藤崎さんはまだ前を向いていた。肘掛けの向こうにある桃色の袖が、スクリーンの光で少し白く見えた。
照明が戻っても、すぐに立つ人は少なかった。
俺は鞄を持ち、彼女が飲み物を取るのを待ってから、通路へ出た。ロビーの明るさに目が慣れる前に、藤崎さんがこちらへ顔を向ける。
「あの、笑ってって言うとこ」
「うん。俺も、今それ言おうとした」
「予告の切り方、ずるくない?」
言いながら彼女が笑う。俺も、映画を見ている間には言えなかった分、少し早口になった。
「でも、その後は撮れてないんだなって。下ろしてから笑ったとこ」
「そう。私も、今だったのに、って思った。あの子、いつもタイミング遅いんだよね」
「最後は、カメラ持ってなかったな」
「うん。あそこ、好きだった」
藤崎さんは言い終えてから、周りへ目を向けた。出口の近くで止まっていたので、俺たちは人の流れを避けて、通路の端へ移る。
空いたカップを所定の場所へ捨てた後、彼女が鞄を掛け直した。
「まだ話したいことある。三原は?」
「俺も。鍵持ってた友達のこと、聞こうと思ってた」
「あ、それ! 私、全然違うと思ってた」
彼女が楽しそうに言うので、俺も続きを聞きたくなった。
映画館のある階から一つ下りると、通路の外に小さな休憩用のテラスがあった。飲食店の席ではなく、壁際にベンチが並び、自動販売機が一台置かれている。
日差しの当たらないベンチが空いていたので、俺が指すと、藤崎さんも、そこにしよ、と答えた。
腰を下ろした彼女は、スカートを整えてから俺を見た。
「あの友達、二人のこと分かってて待ってるのかと思ってた。でも、鍵返してほしかったんだね」
「閉店までに戻れって言われてたしな」
「うん。なのに二人が全然撮り終わんないから」
俺たちは映画の中の待ちぼうけを思い出し、笑った。藤崎さんは続けて、最初に誰へ店の話を聞くかでもめたところがよかったと言った。
「女の子は、ちゃんと聞けばいいって思ってるんだけど、あんなふうに急にカメラ向けられたら、私でも困るなって」
「男の方も、勝手に棚ばっか撮ってたけど」
「そう。二人とも、撮る前に言えばよかったのに、って見てた」
俺は、自分も最初は建物の方にばかり目が行っていたと話した。棚の奥の缶や、レジの横の紙のことを言うと、彼女が少し考える。
「あの紙、何だったんだろ。私、気づいてなかった」
「古いお知らせみたいな。最後、片づけるときも残してたから、気になって」
「そっか。私は、店主のおじさんが最初は嫌そうなのに、最後の上映会で一番前座るのが好きだった」
「あれ、前すぎると思った」
「自分の顔、でっかく見たいんじゃない?」
彼女の言い方に、俺は笑った。確かに、あの店主ならそう言ってもおかしくなさそうだった。
同じ二時間ほどを隣で過ごしたのに、覚えている場所が違う。藤崎さんが話すたび、俺の中の映画に、見逃していた人の顔が足されていく。
「予告のときもさ、何か言いかけたよな。本編の前の」
俺が聞くと、彼女は、ああ、と声を出した。
「あの女優さん。紗季が前に見た映画にも出てたって言ってたの思い出して。私、名前しか知らなかったから」
「そうだったんだ。何か見つけたのかと思った」
「うん。聞いてほしかったけど、始まっちゃった」
藤崎さんは笑い、両手を膝へ置いた。
「でも、終わってから聞いてくれた」
そう言われて、俺は彼女の方を見た。映画の内容ではなく、始まる前のほんの数秒の話だった。覚えていたのは、何かを言いたそうな彼女を見て、俺も聞きたかったからだ。
「気になったから。途中じゃ聞けないし」
「うん。私も、ここ面白いねって言いそうになった。水族館じゃないのに」
「俺も。一回、そっち見そうになった」
「いつ?」
「最初の、箱につまずくとこ」
「あ、私も笑った。二人とも引っかかると思わなかったもん」
彼女はその場面を思い出したように、肩を揺らした。俺は映画の中の二人より、隣から聞こえた笑い声の方を、先にはっきり思い出していた。
ベンチの背へ体を預けると、少しだけ風が通った。青いシャツの袖が動き、藤崎さんが俺の腕の辺りを見る。
「その服、座っててもいいね」
「座ってると、何か変わる?」
「ううん。さっき、隣にいるとき、袖のとこ見えて、あ、一緒に選んだやつだって思った」
彼女は自分の袖も指でつまみ、少し照れたように笑った。
「私が選んだ色じゃないけど、何か、うれしかった」
俺も彼女の桃色の袖を見た。自分なら花柄が好みだと答えた日のことを思い出す。でも今日、待ち合わせへ来た彼女を見て、別の方がよかったとは思わなかった。
「俺も、今日見られてよかった。着てきてくれて」
言うと、藤崎さんは、うん、と答え、つまんでいた袖を離した。
彼女の鞄の肩ひもがベンチの端から落ちかけたので、俺は声を掛けて持ち上げた。受け取った彼女が自分の膝へ鞄を載せ、そのまま口を開ける。
「そうだ。これも、見終わってからにしようと思ってた」
出てきたのは、淡い黄色の手帳だった。
ページを開いた彼女は、映画の横に残っていた小さな星の辺りへ指を置いた。俺の方にも見えるように少し傾けてから、ペンギンのペンを取り出す。
「映画、付き合ってくれてありがとう」
「俺も見たかったから。面白かったし」
「うん。私も。……一緒に見て、よかった」
彼女は言い終えてから、最後の空いていた四角へチェックを入れた。
水族館、アイス、服選び、雨の寄り道。文字を目で追うと、それぞれ違う日の景色が浮かんだ。今日見た映画の名前は、この六つを書いたときには、まだ決まっていなかったはずだ。
「全部、ついたね」
藤崎さんがページを見て言い、俺もうなずいた。
「うん。最後、映画だったんだな」
「雨の方が後かなって、ちょっと思ってた」
「あの日、結構寒かったしな」
彼女はココアのことを思い出したのか、口元を緩めた。それからペンの先をしまい、手帳をゆっくり閉じる。
全部終わった、と言うと、今日までの寄り道まで終わるようで、俺はその言葉を使いたくなかった。映画の中なら、ここで音楽が流れてもおかしくないのかもしれない。
でも俺たちはまだ、家へ帰る途中にすらなっていなかった。
「この後、下の本屋、少し寄ってもいい?」
考えるより先に聞くと、藤崎さんが顔を上げた。
「いいよ。何か探すの?」
「さっきの映画、撮影した場所、どっかで見られるかなと思って。パンフレット、先に見てくればよかったけど」
「あ、私もそれ知りたい。あの商店街、実際にあるなら見てみたいし」
彼女は手帳を鞄へ入れ、立ち上がった。
「本屋になかったら、あとで調べよ。三原、棚の紙のことも、分かるかもしれないね」
「うん。藤崎さんが見てたとこも、もう一回確かめたい」
俺も隣へ立つと、彼女はベンチを振り返り、忘れ物がないか確かめた。俺も自分のスマホと財布の位置を触ってから、通路へ戻る。
手帳は鞄にしまわれたままだったが、本屋へ向かう途中でも、彼女の話は続いていた。
エスカレーターで一段前へ乗った藤崎さんが、横へ顔を向ける。
「あとさ、店主のおじさん、最後のとこ、泣いてたと思う?」
「俺は、笑ってたと思ったけど」
「え、私は泣くの我慢してたのかと思った」
下の階へ着いて並び直すと、彼女は、そこから話さなきゃ、と笑った。
俺もまだ言っていないことを思い出しながら、彼女と一緒に本屋の入口へ入った。




