第66話 嬉しいことは、先に言って
八月の終わり、講習を終えてスマホを見た時、莉緒から連絡が届いていた。いつもより少し長い文の最初に、結果が来た、とある。
俺は鞄を持ち直し、昇降口を出てから続きを読んだ。夏に受けた面談を経て、次の出願へ進めるという案内だった。入学が今決まったわけではなく、これから必要な書類を揃え、決められた期間に出すことになるという。
『家でも、これからのこと確かめた。今、ちょっとほっとしてる』
最後の一文を読んで、俺も息が緩んだ。会った時に聞かせてと言いたくなったが、その前におめでとうと返す。次へ進めるのは嬉しいことだし、今日の分を今、喜びたかった。
そのあとで、声を聞ける時間があるか尋ねた。俺は帰宅してから夕食の前、彼女は家の用事を済ませてからなら少し話せる。互いの時間を確かめ、短い電話の約束をした。
電車では案内の内容を勝手に考え直さず、彼女の文をもう一度だけ読んだ。面談へ行く朝に送った行ってらっしゃいの言葉も、同じやり取りの中に残っている。俺が送り出したから次へ進めたわけではないが、終わったあとに聞かせてもらえる相手でよかった。
帰宅すると、母からおかえりと声をかけられた。俺は返事をし、莉緒が次の出願へ進めることになったと短く話す。まだ最終の合格ではないと付け加えると、母は、でもよかったね、と答えた。
「うん。本人も、ほっとしたって」
そう返し、俺は部屋へ戻った。自分の受験の紙はまだ机の上にある。それを見ても、彼女の嬉しい知らせが小さくなるわけではなかった。
電話に出た莉緒は、最初に、ありがとうと言った。俺はもう一度おめでとうと伝え、今どんな気持ちか聞く。
「ほっとした。書類とか、まだあるけど。面談、ちゃんと話せたのかなって、待ってる間ちょっと考えてたから」
「うん。次に進めるって分かって、よかった」
俺が返すと、彼女は頷くような声を出した。家では母と案内を読み、必要な日を確かめたという。これから用意する物も自分で見直したので、全部終わった気持ちになって放っておくつもりはないらしい。
「でも、今日は嬉しいって言いたかった」
「うん。聞けて嬉しい」
答えると、電話の向こうで少し間があいた。俺がどうしたと尋ねると、彼女は小さく笑う。
「航平、まだ頑張ってるから、あんまり喜んだ話ばっかりしてもって、一瞬思った」
俺は机の上を見た。開いたままの問題集の横に、彼女からもらった紺の筆箱がある。夏の間に思うように進まなかった部分も残っているが、そのことを理由に彼女が嬉しいと言うのをやめてほしくはなかった。
「俺がまだ途中なのは、そう。でも、莉緒が嬉しい時は言ってほしい」
「うん」
「俺の方がうまくいかない日は、それも話すから。今日の話を聞きたくないって、勝手に決めないでほしい」
少し言葉を探しながら続けると、莉緒は分かったと答えた。俺も、何も気にせずずっと同じようにできると言い切ったわけではない。自分がどう受け止めるかを、先に彼女一人へ決めさせたくなかった。
「じゃあ、今日は、嬉しい」
彼女が言い直したので、俺は笑った。
「うん。よかったな」
「ありがとう。航平にも、先に言いたかったんだ」
それを聞いて、俺は嬉しくなった。家族と一緒に確かめたあと、自分へ話したいと思ってもらえたことが、点数や日程とは別に胸へ残る。
電話を終える前、今度会った時に少しお祝いをしたいと話した。高い物を買う話ではなく、二人で食べたい物を選んで昼を食べるくらいならどうか。莉緒はすぐ、行きたい、と返した。
「私、カレーがいい」
「早いな」
「だって、今、食べたいって思った」
彼女が笑い、俺も笑った。まだ日を決めていないが、次の外出で何を食べたいかは、もう本人の言葉になっていた。
夏休みが終わる前、弟が自分で買った文庫を読み終えたと教えてくれた。春に一緒に本屋へ行った時、俺の勧めた物とは別に選んだ一冊だ。話を聞いているうちに読んでみたくなり、貸してもらえるか尋ねる。
「いいよ。今、次の読んでるし」
「ありがとう。しおり、そのまま?」
「紙のやつ、抜いた。兄ちゃん、自分の使って」
弟はそう言って本を渡した。俺は自分の本に挟んでいた木のしおりを移す前に、読みかけの場所を別の紙で残す。借りた一冊は問題集と混ぜず、机の端へ置いた。
寝る前に少しだけ開くと、弟が好きだと言っていた人が、まだ出てこなかった。先を聞きたくなったが、そこまで自分で読んでみようと閉じる。勉強の合間に読むものまで、全部何かの準備にしなくてよかった。
翌朝、弟へ最初の感想を言うと、もっと先で気になる所あると思う、と返ってきた。俺がどこだと聞くと、読んでからと言われる。いつも自分が言っていたような返事をもらい、お互いに笑った。
九月に入り、学校でまた毎日顔を見られるようになった。朝の教室は夏休み前より少し賑やかで、三組の廊下側の席へ座ると、すぐに提出する物を確かめることになる。
高瀬さんは窓側から俺を見つけ、休み中に会った時の話を少し続けた。拓海も四組の前で声をかけてきて、今年も暑いなと言う。俺は、久しぶりの挨拶みたいに毎回それだな、と返した。
「夏休みが終わっても暑いからな」
彼はそう答え、自分の教室へ入っていく。俺は笑い、莉緒を見つけて手を上げた。
昼は四人で予定を合わせられた日があり、夏の間に何をしていたか話した。莉緒が面談のあと次へ進めることを伝えると、高瀬さんも拓海もよかったねと返す。それぞれの受験や準備が同じ形ではないので、そこから全員一斉に同じ話へ進むわけではなかった。
拓海は自分も必要な相談を進めていると言い、高瀬さんは今週家で話すことがあると続ける。俺も夏にできた分と残った分を話した。
「じゃあ、みんな、まだいろいろあるね」
莉緒が言い、俺は頷く。先へ進んだ人だけが話してよくて、残っている人は黙る、という昼にはならなかった。
食べ終えて教室へ戻る途中、彼女が俺の袖へ軽く触れた。振り向くと、今度の金曜、覚えてる、と尋ねる。
「覚えてる。付き合い始めた日」
俺が答えると、莉緒は嬉しそうに笑った。去年の九月の初め、ちゃんと今の気持ちを話して恋人になった日だ。何日も前から何度も確認するのは少し恥ずかしかったが、忘れていたわけではない。
「その日、放課後少し会いたい。カレーは日曜でもいい?」
「うん。金曜も、日曜も会いたい」
返すと、彼女は二つ言ってくれたねと笑った。俺は曜日を自分の予定と照らし、家でも確かめて返事をすると伝える。
昼休みの終わりが近かったので、話はそこで切り上げた。扉の前でまたねと言って別れる。今は別の教室にいるが、あの日と同じように、俺は自分から彼女へ会いに来たかった。
その日の夜、俺も莉緒へ小さな報告をした。夏の終わりに迷っていた問題を、時間を空けてもう一度解いたら、今日は途中の式まで自分で説明できた。大きく点が伸びた話ではないが、彼女に聞いてほしかった。
送ると、よかったね、という返事が届いた。どこが分かったのかと聞かれ、短く返す。全部の答えを写して見せなくても、自分が嬉しいと思ったところは伝えられた。
彼女が喜ぶ話を聞きたいと伝えたあと、自分の嬉しかったことも言うと、今夜のやり取りが少し近く感じた。
金曜は放課後、昇降口で待ち合わせた。去年と同じ時間にする約束はしていないし、同じ場所で同じ言葉を繰り返すつもりもない。俺は片付けを終えて先に出て、彼女が来るのを待った。
莉緒は同じクラスの女子へ手を振ってから、俺のところへ歩いてきた。会った途端に少し笑うので、俺もつられて笑ってしまう。
「何?」
「一年だねって、先に言おうと思ってた」
「俺も、それ言おうと思ってた」
二人で言い合ってから、靴を履き替える。校門を出て駅へ向かう途中、俺は、一緒にいてくれてありがとう、と伝えた。
彼女はすぐに返さず、一度俺の方を見た。嬉しそうに目を細め、それから自分もありがとうと言う。
「一年ずっと、同じ感じじゃなかったね」
「うん。今、教室も違うし」
「それもあるけど。前より、言いやすくなったこと、いっぱいある」
莉緒はそう答えた。俺は、会いたいとか、と聞き、彼女は、それも、と頷く。食べたい物も、今は聞くだけがいいことも、今日は先に帰るということもある。
付き合っていると分かったら全部できるようになったのではなく、うまく言えないまま一度止まった日がいくつもあった。それでも今日、彼女が隣でその話をしていることが嬉しかった。
駅へ着く前に、広場の端のベンチへ少し座った。長く寄り道する予定ではなく、家へ帰る時刻までの二十分ほどだ。それぞれ持っていた飲み物を飲み、鞄を足もとへ置く。
俺は話したかったことを考えながら、彼女の横顔を見た。莉緒が気づいて、どうした、と笑う。
「今も、好きだなって思った」
「一年経って、確認?」
「確認っていうか、今思ったから」
そのまま答えると、彼女は少し照れたように視線を落とした。それから俺の手へ指を寄せ、私も好き、と返す。
手をつなぐと、去年から何回もしてきたことなのに、その日によって触れた時の嬉しさが違う。俺はもう少し近くへ座り直し、彼女も肩を寄せた。
大きな記念品を渡す約束はしていなかった。だから何も足りないのではなく、今日はここへ来て一緒に座りたいと、二人とも言えた日だった。
ベンチから立つ前に、莉緒が俺を名前で呼んだ。返事をすると、もう一度呼びたくなっただけだと言う。俺は少し笑い、自分も彼女の名前を呼んだ。
「今、何回呼んでもいい日みたいになってる」
「毎日呼んでるだろ」
「うん。でも、最初に呼びたいって言う時、すごい考えたから」
彼女が言うので、俺は頷いた。呼ばれたいかを聞かれて嬉しかったことも、自分から同じことを尋ねた時の気恥ずかしさも覚えている。今の呼び方が当たり前になっても、その前に言葉を交わしたことまでなくならなかった。
彼女は、今日は記念だから少しくっついてもいい、と肩を寄せ直す。俺は頷き、背中に腕を回すほどではなく、つないだ手をそのままにした。広場を通る人がいて、互いの家へ帰る時間もある。ここでできるくらいの近さが、今はちょうどよかった。
時計を見てそろそろだと伝えると、莉緒は、まだ名残惜しいけど帰ろう、と答えた。俺も同じだと返し、二人で立ち上がる。待ち遠しい日曜がもう一つあるので、帰る足も少し軽かった。
日曜は、昼前に駅で会ってカレーを食べに行った。莉緒が気になっていた店は駅から歩いて少しの場所にあり、店先で見たメニューから、それぞれ食べたい物を選ぶ。
俺は野菜のカレー、彼女はチキンのカレーにした。辛さを聞かれ、俺は普段食べられるくらいの方、莉緒も自分がよいと思う方を頼む。相手に合わせて同じにする必要はなかった。
店へ入る前、メニューの前で俺が足を止めると、莉緒も隣へ戻ってきた。水族館の帰りにカレーへ興味を示していた彼女を思い出したが、今は俺が何を選ぶか迷っている。
「野菜、結構大きいね」
「そう。私、写真見て、こっちもおいしそうって思った」
彼女が言い、俺は辛さの案内をもう一度見た。よく分からないところは入口で聞いてから決め、彼女も自分の分を確かめる。以前より話しやすくなっても、何も聞かずに分かるようになったわけではなかった。
案内された席へ向かう途中、彼女が、私の好きなお店が増えそう、と笑った。俺はまだ食べていないと返し、莉緒は、だから増えそう、だよ、と言い直す。俺も笑い、椅子を引いた。
まず本人が来たいと思い、俺も食べてみたいと思って来た。その二つだけで、一周年の日曜の昼には十分だった。
席に座って水を飲むと、彼女が俺の服の胸もとを見た。青灰色の花をつけてきたのに気づき、今日、それだ、と笑う。
「うん。朝、見て、つけたくなった」
「いいね。私、今日は家に置いてきたけど」
「毎回揃える約束じゃないだろ」
俺が前に言われた言葉を返すと、莉緒は笑った。彼女は花のついていない服を着ているが、それも好きだった。俺がそう言うと、何でも褒めようとしてる、と少し目を細める。
「何でもじゃない。今、見て思った」
「じゃあ、受け取る。ありがとう」
彼女は頷き、届いた皿へ目を向けた。カレーの香りがして、俺も空腹をはっきり意識する。
最初の一口を食べると、思っていたより熱かった。俺が少し待つのを見て、莉緒もスプーンを止める。彼女は自分の分も熱いと笑い、水のグラスへ手を伸ばした。
「食べたいって思って来たのに、今、ちょっと待つ」
「慌てて食べるより、いいだろ」
「うん。なくならないし」
二人で笑い、今度はゆっくり食べた。店の席は向かい合わせで、顔がよく見える。夏の間、電話で聞いたことを思い出すより、今彼女が目の前で食べているところを見ていたかった。
莉緒は次の書類を揃える日を話し、俺も今週の講習の話をした。だが、食べる間ずっと進路の話を続けるのではなく、昨日家で何をしたか、最近読んだ物は何かと、話は別のところへ移っていく。
俺が弟に借りた本の話をすると、彼女は、弟くんにも勧めてもらったんだ、と笑った。こちらから勧めるだけではなくなったことを話し、俺も知らない好みがあると答える。
食べ終わった時、莉緒が、ちゃんとおいしかった、と言った。俺も頷き、来てよかったと返す。二人とも自分の分を払い、俺の野菜カレーは九百五十円だった。
店を出ると、まだ昼の光が強かった。今日は遠くへ行かず、駅まで戻る途中で少しだけ店を見ることにする。長い散歩をしてからではなく、涼しい場所で休みながら歩きたかった。
雑貨の売場で莉緒が立ち止まると、俺も隣から眺めた。今度は買いたい物があるというより、色の組み合わせが気になるらしい。俺には似て見える二つでも、彼女は並べると違うと言う。
「こっちは、明るいとこで見た方が好きかも」
「俺、最初、同じ色だと思った」
「似てる。でも、こっち、少し違う」
彼女は見本の位置を動かしすぎず、身体の方をずらして見た。俺も同じように見て、確かに違う気がすると答える。知らない言葉で説明されなくても、彼女が何を見ているか少し分かる時間が好きだった。
そのあと本屋へ寄り、俺は自分の気になった棚を見た。莉緒は少し離れた本を眺め、戻ってきて俺の手もとをのぞく。
「買う?」
「今日はまだ。家に読んでる途中のあるから」
「私も、今は見るだけ。見るだけで来ても、結構楽しいね」
彼女が言い、俺も頷いた。何かを持ち帰らなければ一緒に来た意味がなくなるわけではない。二人で並んで棚を見たあと、さっき気になった物の話をしながら店を出た。
駅の近くで短く座れる場所を見つけ、少し休んだ。午後三時には戻るつもりだったので、もうすぐ帰る時間になる。莉緒は鞄から手帳を出し、次の家の予定を確かめた。
淡い黄色の表紙は、何度も見ているうちに俺にも馴染みのある物になった。彼女は必要なページだけを開き、時間を見直してから、思いついたようにペンを出す。
「今、書きたいの、できた」
「何?」
俺が尋ねると、彼女は少し考え、書いてから見せるねと笑った。俺は勝手にのぞかず、彼女が数行分だけ手を動かすのを待った。
差し出されたページには、新しい一項目があった。
航平と、卒業の日に写真を撮る。
俺はその言葉を読んで、顔を上げた。莉緒は少し照れたように笑い、同じクラスじゃないけど、制服で一緒に撮りたいと言う。
「もちろん。俺も撮りたい」
「よかった。まだ先だけど」
「うん。でも、撮ろうって言っておけるの、嬉しい」
答えると、彼女は頷いた。未来の全部を一度に約束したわけではなく、卒業の日に彼女と並びたいという、自分にもはっきり分かる希望だった。
彼女は書き終えた一項目の横へ小さく日付を足し、もう一度読んでから手帳を閉じた。俺は自分のスマホにも、忘れないよう短く書いていいかと聞く。莉緒が笑って頷いたので、卒業の日、二人で写真、と残した。
帰りの道で、俺は、今日の写真も一枚撮りたいと伝えた。莉緒は今の服でと確認し、俺が頷くと、私もと答える。人の通りを外れ、店の壁の前で、二人で画面へ収まる位置を探した。
俺がスマホを持つと、最初は肩の片方が切れた。莉緒がもう少しこっちと寄り、俺も腕の角度を変える。
「去年から、ここ、あんまり変わってないな」
「でも、前より笑ってる」
彼女に言われ、俺は画面の自分を見た。確かに、顔をどうすればいいか考えて固まる時間は減っている。莉緒が隣で笑い、俺も笑ったところを一枚撮った。
撮ったあと二人で見て、これがいいと決める。胸もとの青灰色の花も少し写っていた。俺は写真を彼女へ送り、二人だけで持っておくことにした。誰かへ見せるかは、その時また聞けばよかった。
改札へ近づく前、莉緒が、今日はお祝い二つだったね、と言った。俺は、次へ進めたことと、一年のこと、と返す。
「うん。別々に喜べてよかった」
「俺も。これからも、嬉しいことは言ってほしい」
伝えると、彼女は頷き、航平もね、と返した。俺は自分の受験がまだ続くことを思いながら、それでも次に小さくできたことを彼女へ話したくなった。
手をつなぎ、歩けるところまで一緒に歩く。帰る時間が来て手を離す時、俺は好きだよと言った。莉緒は私もと返し、また明日、学校でね、と笑う。
来年の春の写真を約束したあとでも、明日顔を見たいことは同じだった。




