第65話 終わったら、声を聞かせて
約束した電話は、講習のない日の夕食前にかけた。俺が机の上の本を閉じて連絡すると、莉緒からすぐに返事が来る。二十分ほどという時間は決めてあるが、話す内容を俺が先に用意していたわけではなかった。
「今、大丈夫?」
「うん。こっちも、今終わった」
声を聞くと、普段の彼女より少し硬い気がした。俺はすぐ面談の練習を始めず、今日は何をしたいか確かめる。
「まず、学校へ行きたい理由を話すから、聞いてほしい。途中で止まっても、少し待ってて」
「分かった。最後まで聞いてから、どう聞こえたか言う」
俺が答えると、彼女はありがとうと言った。一度息を整え、見学へ行った時のことから話し始める。
最初は少し長い説明になり、途中で自分でも順番が分からなくなったらしい。電話の向こうで、違うな、と小さく言う声がした。俺は先回りして言葉を足さず、続きを待った。
少し経って、彼女が言い直した。作品を見てかわいいと思ったこと。そのあとで、作り方や、使った人のことを考えて直す時間にも興味が出たこと。実際に自分で作ると、思った形にするのも、使いやすくするのも簡単ではなかった。
そこまで話してから、莉緒は、今のところで一回どう、と尋ねた。
「最初にかわいいと思った話と、そのあとに知りたくなった話が、分かった」
「つながって聞こえた?」
「うん。全部同じだとは聞こえなかった。後から気になったことが増えたって分かった」
返すと、彼女が小さく息を吐いた。俺は、ただ、最後に自分が何をやりたいかはもう少し聞きたいと思った、と続ける。
彼女は頷くような声を出し、そこをもう一度考えると答えた。俺が言った通りに直す必要はないと付け足すと、それは分かってる、と笑う。
「航平が何で分からなかったか、聞きたかったから」
そう言われて、俺も少し楽になった。正しい答えを持つ人として話すより、知らずに聞いた人として返す方が、自分の言葉を選べる。
もう一度話してもらうと、さっきとは別の言い方になった。本人のしたいことが最後に出てきて、俺も聞き取りやすいと伝えた。彼女はありがとうと返し、あとは先生にも見てもらう、と言う。
時計を見ると、約束の終わりまであと少しだった。俺は今日話してもらって嬉しかったことを一つだけ伝え、彼女の今の声は最初より楽しそうだと話した。
「最初、緊張した。航平相手なのに」
「俺も、変に先生みたいにならないか気になってた」
「ちょっとだけ、なりかけてたかも」
彼女が笑い、俺はどこだと聞いた。答えを待つ間に自分も笑ってしまい、最後の数分は普段の電話になった。
通話を終える前、莉緒は、本番が終わったら声で話したい、と言った。俺も聞きたいと答える。終わる時間がまだ決まっていないので、当日に互いの都合を確かめてからという約束にした。
七月の学校の予定が終わり、夏休みに入った。俺は夏の講習のある日を先にカレンダーへ入れ、空いたところへ自分で進める分を書いた。毎日を同じ量に揃えず、家の予定がある日は前後を調整する。
莉緒も、必要な手続きを自分と家の人で確かめながら進めた。提出した分があると聞き、その日の夜に、やっと出せた、と短く連絡が来る。俺はお疲れさまと返したが、終わり全部のお祝いを先にするような言葉にはしなかった。
まだ面談があり、その先に確かめることも残っている。彼女が進めた一つ分を、一つ分として喜びたかった。
俺にも自分の準備があった。第一志望の大学の案内を改めて読み、先生に確認したいところを整理した。夏の間に何を積み直すか考えた時、五月の模試で止まった問題もまた出てくる。
前に分かったから、もう迷わないとは限らない。似たところで手が止まり、少し嫌になった日には、あの時書いた短いメモへ戻った。全部を最初から読まずに、今どこまで考えられたかを確かめる。うまくいった日と、そうでもない日が交互にあった。
拓海とは一度、昼だけ食べに行った。彼にも自分の予定があり、二人とも長く出かける日は作りにくかったが、家を出て食べる時間なら合わせられた。店の入口で会うと、彼はすぐに、暑い、と言い、俺も同じことを返す。
「久しぶりに会って、最初がそれか」
俺が笑うと、彼は、ほかに今言いたいことなかった、と答えた。勉強や進路の話をする前に冷たい水を飲み、昼食を選ぶ。そんな時間も、夏の予定の中にあってよかった。
莉緒は高瀬さんと会った日があり、帰ってからその話を聞いた。二人で何を見たか、何を笑ったか。俺がそこにいなくても、彼女に楽しい時間があったと聞くと嬉しかった。
八月に入り、莉緒の面談の日が決まった。朝に行き、終わったあとは家へ戻る予定だという。家の人と移動や持ち物を確かめ、自分でも一度鞄の中を見直したと話してくれた。
「航平、当日、何してる?」
「午前は家でやる。午後、講習の復習を少しするつもり」
答えると、彼女は分かったと頷いた。声で話すのは夕方以降にしようと相談し、終わったらまず連絡だけ送ることになった。
当日、俺はいつもの時間に起きた。朝食のあとに、行ってらっしゃい、とメッセージを送る。頑張れを何度も重ねるより、終わったら話を聞きたいと一度だけ伝えた。
彼女から、行ってきます、と返ってきた。俺はその文字を見てから、机へ向かう。ここから会場まで一緒に歩く約束はしていないし、俺が代わりに話すこともできない。
それでも気になって、途中で何度かスマホへ目が向いた。時間を見て、自分の休憩の時に確認しようと決める。見たい気持ちをなくそうとするより、今やる問題を区切る方が俺にはできた。
昼前、弟が部屋の入口へ顔を出し、昼は何を食べるのかと聞いた。俺はまだ分からないと答え、家にある物を一緒に確かめに下りる。
母が出しておいた分を温め、二人で食卓へ座った。弟は今日の午後に友達と会う予定があり、暑いから駅の中で待ち合わせるという。俺は水を持っていけと口にしかけたが、本人の鞄にはもう入っていた。
「持ってる。朝、入れた」
先に言われて笑い、分かったと答える。俺の気にしていることだけで家の一日が進んでいるわけではない。食べ終えた皿を片付け、部屋へ戻ると、スマホに連絡が届いていた。
『終わった。帰ってから、また連絡するね』
俺は読んだあと、お疲れさま、と返した。どうだったかをすぐにいくつも聞くより、まず彼女が帰るのを待ちたかった。
夕方に声を聞くと、莉緒は最初に、終わった、ともう一度言った。文字で読んだ時よりも、それが本人の身体から出てきた言葉だと分かる。
「お疲れさま。話、聞かせて」
俺が返すと、彼女は会場へ着いてからのことを話し始めた。順番を待つ間は持ってきた物を何度も確かめたこと。最初に声を出した時、自分で思っていたより小さくなってしまい、次の言葉から少し意識したこと。
「全部、思ってた通りじゃなかった。聞かれて、一回考えたのもある」
「うん」
「でも、分からないところは、分からないまま違うこと言わないで、聞き直せた」
その声に、俺はよかったなと答えた。何が評価されるか俺には分からないが、彼女が自分で話したいことを話し、自分で聞き直したことは、ちゃんと聞けた。
結果については、案内された時期を待って確かめるという。俺はそこを先回りして、大丈夫だったと思う、と決めつけなかった。
「自分で、ここは言えたって思うところはあった?」
尋ねると、彼女は少し考え、あった、と答えた。見学のあとに自分で物を作って使ってみたことを、自分の言葉で話せたらしい。
壁掛けを作って、実際に入れたら少し下がり、直したこと。作り終えるだけではなく、そのあとも考えたくなったこと。俺に見せてくれた写真とは別に、その経験が彼女の話す言葉になっていた。
「それ、話せてよかった」
俺が伝えると、莉緒は、うん、と答えた。俺に練習を聞いてもらった時と同じ文章を、暗記してそのまま言ったわけではないらしい。聞かれたことに合わせ、自分で考えて言えたと話す。
俺はそれを聞きながら、彼女が選んだ学校へ進みたい理由が、自分のいない時間にも増えているのだと思った。寂しいのではなく、また話を聞きたくなった。
電話の終わり頃、彼女は会いたいと言った。俺も同じだと答え、互いの予定を開く。翌日はどちらも用事があり、その次の日の午後なら二時間ほど合わせられそうだった。
暑いので、外を長く歩くより屋内がいい。俺が前から少し気になっていた市の科学館の話をすると、莉緒は、あの星を見るところ、と尋ねた。
「うん。プラネタリウムの上映、空いてる時間があるか調べてみる」
「行きたい。暗いところで、ちょっと休めそう」
彼女はそう言ってから、寝るって意味じゃないよ、と笑った。俺も分かっていると返し、翌日までに時間と料金を確かめて送ることにした。
上映の案内を確認すると、午後の回なら二人の予定に合った。高校生の料金は五百円で、当日、席があれば券を買える。俺は上映前に少し余裕を持って着くようにし、もし入れなかったら館内の展示を見ようと提案した。
莉緒はそれでいいと答え、家の予定も確認する。二日後の午後一時に時計の下で会い、四時までには自宅側の駅へ戻ることにした。
当日は日差しが強く、駅へ着いた時には首の後ろが暑かった。俺は日陰へ寄り、水を一口飲む。莉緒が来ると、彼女もまず鞄の飲み物を出し、暑い、と言った。
「拓海と同じこと言ってる」
「みんな、言うと思う。今日、暑いもん」
彼女は笑い、俺も頷いた。面談の日の服ではなく、動きやすい普段の服を着ている。俺が見ていると、どうしたと聞かれたので、会えて嬉しいとそのまま答えた。
「私も。声だけだったから」
彼女は返し、二人で駅へ向かう。電車で二駅移動し、科学館へ歩く間は、急がず日陰を選んだ。長く歩く予定ではなくても、実際に暑ければ速さを変えてよかった。
館内へ入ると、空気がひんやりしていた。俺たちはまず受付へ行き、午後二時の上映の席があることを確かめ、それぞれ五百円を払って券を買う。まだ時間があるので、入口近くの展示を見て待つことにした。
大きな地球の模型を前に、莉緒が、これ、どっちが今こっちなんだろう、と言った。俺もすぐには分からず、横の説明へ回る。二人で見ていると、最初に立った場所から少しずれるだけで、違うところが目に入った。
「俺、今、説明読まずに知ってるふりしそうだった」
「私、してくれたら信じちゃうかも」
彼女が笑い、俺はそれは困ると返した。よく分からない所は一緒に読み、分かったつもりにならないまま先へ進む。全部を覚えようとすると上映前に疲れそうで、気になった物をいくつか見るだけにした。
入場が始まり、二人で指定された席へ向かった。並んで腰を下ろすと、椅子が思っていたより深く、俺は少し姿勢を直す。莉緒は上を見上げ、首を動かさなくても全部見えそうだと小さく言った。
上映が始まる前にスマホをしまい、館内の案内を聞く。明かりが落ちると、隣の彼女の表情も分からなくなった。暗くなった天井へ星が浮かび、俺は思っていたより遠く見えることに少し驚く。
語りが始まり、今の季節に見える星の話が続いた。俺たちは途中で感想を言わず、それぞれ上を見ていた。同じ物を見ていても、どこへ目を向けているかは分からない。その静かな時間が、今日は心地よかった。
途中で明るい線が星をつなぎ、説明されて初めて形が見える。俺はさっきまで違うものを目印にしていたと気づいたが、そこで答えを急いで探す必要もない。次に外を見た時、少し気になればそれでよさそうだった。
上映の後半、隣で莉緒がわずかに姿勢を変えた。俺も肩の力を抜き、上を見続ける。手をつなぐために探るのではなく、ただ隣に座っているだけで嬉しい時間もあった。
明かりが戻ると、俺たちは一度眩しさに目を細めた。莉緒がこちらを見て、起きてた、と小声で聞く。
「起きてた。今、首がちょっと楽」
「私も。途中、何にも考えないで見てるところあった」
彼女はそう言って笑った。ちゃんと全部を覚えて帰らなければいけない時間ではない。俺も、一つだけ外で探してみたい星があったと答え、彼女はあとで名前を見ようと言った。
出口で案内の紙を一枚取り、二人で確認した。記憶だけで説明しようとすると違いそうで、俺は指で示して、さっきのこれかな、と聞く。莉緒も自分が気になった場所を指し、二人で全然違うところを見ていたと分かって笑った。
館内の休憩できる場所へ移動し、持ってきた飲み物を飲んだ。上映は三十分ほどで、駅へ戻るまでにはまだ余裕がある。俺たちは涼しい場所で少しだけ座り、何がよかったかを話した。
「隣にいるのに、ずっと喋らないの、久しぶりだったかも」
莉緒が言うので、俺は図書館で勉強した時もそうだったと返した。
「あの時は、違う問題見てたね」
「今日は同じ天井」
「言い方、急に普通」
彼女が笑い、俺も笑った。星空だと言えばよかったが、本当に同じ場所へ目を向けていたので、ついそう言ってしまった。
少しして、莉緒が面談の日の話へ戻った。終わった時には一度力が抜けて、そのあとから、あれも言えたらよかったかと思ったらしい。
「今さら、やり直せないんだけどね」
「うん。思い出すのは、あるよな」
俺は自分の模試を思い出したが、同じだとまとめるのはやめた。彼女がどこを気にしているか聞くと、莉緒は一つだけ話し、それでも言いたかったところは言えたと続ける。
「だから、今日はもう、ちょっと休みたい」
「うん。俺も、今日は莉緒と遊びに来た」
返事をすると、彼女は嬉しそうに笑った。終わった話を聞いてくれる相手と、終わったあとの時間を一緒に楽しむ相手が、同じ俺でいてよかった。
帰る前に館内をもう少し見たいか聞くと、彼女は入口の模型を一つ見直したいと言った。俺も気になる展示があったので、時間を確かめてから二人で戻る。
最初は素通りした小さな説明を読み、俺は自分が見えていると思っていたことの少なさに笑った。彼女も、さっきと全然違う所見てる、と頷く。もう一度来なければいけない義務ではなく、見たくなったらまた来られる場所が一つできた。
帰りの電車では、空いた席へ二人で並んで座れた。館内で涼んでから歩いたので、外の日差しが余計強く感じたが、今は少し落ち着いている。
莉緒は鞄から今日の案内の紙を出し、折り目を揃えてしまった。俺は自分の分も持っていて、同じ紙が二人の鞄に入ったことを何となく嬉しく思う。
「結果、分かったら、私から言うね」
彼女が声を落として言った。俺は頷き、聞かせてと答える。毎日どうだったかと確かめなくても、本人が話したい時に待っていられそうだった。
「航平の方も。今度、何をやったか聞かせて」
「うん。できたことばっかりじゃないと思うけど」
「知ってる。私も、そうだから」
莉緒は笑い、俺も笑った。選考の時期が違うことを、同じ速さで終わらせる理由にしなくてよい。俺にはこれから積み重ねる時間があり、彼女にも今の続きを進める時間がある。
四時より前に自宅側の駅へ着き、二人で改札を出た。手をつないで少しだけ歩き、分かれる場所へ向かう。外が暑いので長く立ち止まらず、俺は、今日会えてよかった、と伝えた。
「私も。終わったら声聞かせてって、約束できてよかった」
彼女は答え、俺の手を一度握った。俺は同じくらいの力で返し、次も会いたい時は言おうと話す。
「言う。今度は私から、何したいか考える」
「楽しみにしてる」
返すと、彼女は笑った。予定を全部先に決めなくても、次を考えたい相手でいることは分かっていた。
家へ戻り、机へ今日の案内を置いた。夜に外へ出た時、星が見えるか一度見てみたい。問題集を開く前にそう思い、俺は夕食のあとにやる分の付箋を確かめた。
スマホには莉緒から、帰ったよ、という連絡が届いていた。俺も返し、今日は楽しかった、ともう一度送る。彼女から来た短いありがとうを読んでから、机の上へ画面を伏せた。
夕食のあと、家の外へ出る用事があったので、俺は一度だけ空を見上げた。雲があり、館内で見たような星の並びは分からない。明るい道の端でいつまでも探すより、今日はそういう空だと家へ戻った。
弟へその話をすると、自分も昼に出た時は空なんか見ていなかったと笑う。俺も普段ずっと見ているわけではないと答え、今日の案内を見せた。彼は紙を眺め、館内の椅子なら寝そうだと言った。
「俺も、ちょっと心配した」
「寝なかった?」
「うん。上見る方が面白かった」
俺が答えると、弟はへえ、ともう一度紙へ目を向けた。今日の時間を話す相手が家にもいることが嬉しく、俺は彼が指したところだけ一緒に読んだ。
部屋へ戻った時、莉緒から新しい連絡が来ていた。紙の星を窓へ並べてみたという。年明けに初めて折った一つに、大きさの違う二つを足して、今日は三つにしたらしい。
『最初のやつ、歪んでるけど、真ん中にした』
写真には三つの星があり、真ん中の星に、あの少し不揃いな折り目が見えた。俺は、最初のも一緒にしたんだな、と返す。彼女から、これも私が作ったから、と笑う返事が届いた。
俺は窓全体が分かる写真を誰かへ見せようとは思わず、最初の星も見せてもらったことを思い出していた。彼女が自分の部屋で気に入って並べたところを、今夜、俺にも話してくれた。そのことが嬉しかった。
今日はこっちの空は雲だったと送ると、莉緒は、私のとこには三つあるよ、と返した。俺は笑い、今度会った時にもその話を聞きたいと送り、問題集を手もとへ引き寄せた。




