第64話 先に進む日の、待ち合わせ
六月の終わり、莉緒から昼休みに会いたいと連絡が来た。俺は三組の教室で食べるつもりだったが、まだ誰とも約束をしていない。弁当を持って移動すると返すと、四組の扉から彼女が顔を出した。
昼食を取れる場所には空いた席があり、二人で並んで座った。俺が巾着を開ける間、莉緒は鞄から一枚の紙を出しかけ、先にご飯だねと笑ってしまう。
「そんなに話したいことある?」
「うん。でも、今日は食べる時間、なくしたくない」
前に急いだことを二人とも覚えていて、俺も笑った。俺は弁当のふたを開き、一口食べてから、聞くよと答えた。
彼女が話したかったのは、志望している学校のことだった。夏に進められる選考の手続きについて、家でも学校でも確認し、自分が準備することがはっきりしてきたという。
「まず、書く物をちゃんと揃える。それから面談。詳しい日は、これから案内の通りに進めるんだけど」
莉緒は紙を机の端へ置いた。俺に今すぐ全部読ませるのではなく、自分で印をつけたところを見て話す。
「私、夏の間にそこまで進めたい。見に行ってからずっと、ここで勉強したいの変わってないから」
「うん。家でも話せた?」
「話した。必要な費用とか、申し込む時のことも。お母さんと一緒に確かめた」
俺は頷いた。彼女が先へ進むと聞くと、自分の紙も早く何か埋めなければいけないような気持ちになる。だが、俺の受験の時期とは違う。自分も夏に何かの結果を出さなければ、という話ではなかった。
「俺は、夏は勉強と、また大学のことで聞きたいことを確かめる方だな」
「うん。航平の予定も聞きたい」
莉緒は答え、俺の方へ顔を向けた。俺は学校の講習と、自分で見直す範囲を今考えていると話す。自分の計画が彼女より地味に聞こえるかもしれないと思ったが、言い換えて立派にする必要はなかった。
彼女は自分が何をするか話し終えると、夏も会いたい、と続けた。
「私、面談とか準備があっても、全部終わるまで会わないってしたくない」
「俺も。空く日、ちゃんと相談したい」
返すと、彼女は嬉しそうに笑った。会いたいと言うことが、自分の準備を諦める意味にならず、その言葉を受け取れたのがよかった。
その日の夜、俺は父と母へ夏の予定を話した。学校の講習の案内を置き、自分が受けたい内容を伝える。火曜と木曜の放課後に通ってきた分とは別に、夏休みの時間をどう使うかも考える必要があった。
父は俺の書いた予定を見て、毎日同じくらい進めるつもりかと聞いた。俺は頷きかけ、午前から家の用事がある日もあるので、全部同じにはできないと答える。
「空いてるところを先に全部勉強で埋めると、できなかった日に崩れそうだから。少し残しておきたい」
言うと、母は家で出かける予定も早めに話すと言った。弟にも自分の予定があり、家族全員が夏の間ずっと家にいるわけではない。
俺は大学の案内も一緒に出し、今の第一志望のまま考えていると話した。必要な条件を改めて見て、曖昧にしていたところは先生に確認する。父は、前に見た時から気になっている内容は変わったかと尋ねた。
「街のことは同じ。でも、どうやって調べるかも、もっと知りたくなった」
俺は授業の説明に書かれた演習のところを示した。歩いて写真を撮るだけではなく、話を聞いたり、比べたりして、見たことを考える勉強にも興味がある。
母は、それなら何を聞いてみたいか書いておいたらと返した。俺は頷き、自分がまだ分からないところを短く並べる。親に説明している途中で、自分へ質問が戻ってくるような時間だった。
話を終えて部屋へ戻ると、莉緒から今日の続きが来ていた。書く物の下書きを少し始めたが、最初の一行で止まったという。俺は、今日は聞いてほしいのかと尋ねる。
『ちょっとだけ、声で聞いてもらっていい?』
彼女が言うので、俺も大丈夫だと返した。互いの用事が済んだ時間を選び、十五分ほど電話をする。
莉緒は、自分がその学校へ行きたい理由を話し始めた。説明を聞いて分かったこと、作品を見て作ってみたいと思ったこと。途中で言葉が重なると止まり、何を先に言えばいいんだろうと笑う。
「俺、順番が正しいかは分からないけど。今の、作ってみたいって思った話は、ちゃんと分かった」
そう返すと、彼女は少し息を吐いた。俺に採点を頼んだわけではないと、先に自分でも言う。
「うん。航平がどう聞こえたか知りたかった。直すのは、先生にも聞いて自分でやる」
「分かった。今の話なら、何が楽しそうだったかも聞きたくなった」
俺が続けると、彼女は作品の裏側を見た時のことを話した。昼に紙を見ながら話していた時より、その声は楽しそうだった。
俺はそれをそのまま伝えた。彼女は、じゃあそこからもう一回書いてみる、と答える。俺の言葉をそのまま文章へ写すのではなく、自分が話したところへ戻ってくれるのが嬉しかった。
数日後、学校で進路の相談をした時にも、俺は今の第一志望を伝えた。先生に、そこで何を学びたいかと聞かれ、街を歩く時に気になることから説明する。
人の集まる場所が時間で変わることや、同じ道を見ていても選ぶ理由が違うこと。以前はそれを面白いと思うだけだったが、今はどう確かめるのかも知りたい。話していると、案内に載っている言葉を借りるより、自分の見たものを先に言う方が続けやすかった。
先生は、ではその興味を持って授業の説明をもう一度見てみよう、と答えた。今の成績から考える準備も必要で、好きだからと苦手な部分を置いていくわけにはいかない。俺は頷き、夏に見直したいところを話した。
「全部を同じ日にやるつもりではないんだね」
予定を見て言われ、俺は、そうです、と答える。家で決めたことを学校でも自分の言葉で言うと、少しずつ本当の予定になっていく気がした。
教室へ戻ると、拓海が廊下で待っていた。四組で配られた物の締切を確認したあと、俺も相談していたのかと聞く。俺が頷くと、自分も家で話す日を決めたと言った。
「一回話したら、全部決めなきゃいけない気になるけどさ」
「途中の話でも、聞いてくれるんじゃない?」
「だな。俺、まだ分からないところもそのまま言ってみる」
彼はそう返して自分の教室へ戻った。俺も自分の紙をしまい、次の授業の用意をする。誰かが先に進むのを、全員が同じ速さになる合図にしなくてよかった。
週の終わりの帰り道には、雨が降った。俺も莉緒も自分の傘を持っていて、昇降口の屋根の下で少し間を空けて開く。並んで歩くと端が触れそうになるので、細い道では彼女が少し前へ出た。
「話、聞こえる?」
振り向きかけた彼女へ、大丈夫と答える。雨の音の方が近い時にはもう一度聞き返し、同じ話を二回言ってもらった。
「今の、大事なところじゃなかったからいいけど」
「何が大事だったんだ?」
「次に言うとこ。新しい消しゴム、すごい使いやすかったって話」
俺は笑い、それは聞きたいと返した。進路のことを話した日にも、気に入った文房具の話はある。傘の柄を持ち直しながら聞いていると、莉緒は消しやすいけど角を使うのを迷うと言い、俺も分かると頷いた。
道の低い所に水が溜まっていて、彼女が避けるために少し横へ動く。俺も速度を落としたが、傘の端から落ちた水が自分の靴にかかった。莉緒がそれを見て、そっちも雨だ、と笑う。
「傘の下にいるつもりだったんだけどな」
「足は、ちょっと外」
彼女は答え、今度は広い道へ出てから俺の横へ戻ってきた。二人分の傘があるので手はつながず、顔の見える距離で歩く。途中で雨宿りの店へ入らなくても、駅までの短い道は十分楽しかった。
改札へ入る前、傘を閉じた彼女の手が空いた。俺も自分の傘を片手へまとめると、莉緒が一度だけ俺の指へ触れた。
「今日は、これだけ」
「うん。足りた」
俺が笑うと、彼女も笑った。雨の日も、会いたい気持ちを大きな予定に変える必要はなかった。
七月に入る頃には、二人の予定は少しずつ別の形で埋まっていった。俺は学校の試験の見直しと講習、莉緒は自分の準備と家での相談がある。昼に一緒に食べられる日もあれば、帰り道だけになる日もあった。
ある水曜、俺たちは一緒に帰るつもりだったが、彼女から、放課後に先生へ見てもらえることになったと連絡が来た。俺は終わる時間を尋ね、分からないという返事を読んだ。
以前なら、待つべきか、先に帰った方が彼女の負担にならないかと、一人で長く考えただろう。今日は自分も家で進めたいことがあったので、そのまま伝えた。
『今日は先に帰って、家でやる。明日の昼、少し会いたい』
彼女から、分かった、という返事と、明日は会いたい、と続けて届く。俺は予定を書き換えたが、断られた日が一つ増えたとは思わなかった。
帰宅して机へ向かうと、最初の二十分はよく進んだ。そのあとで何となくスマホを見たくなり、まだ連絡が来ていないことを確かめる。俺は自分でおかしくなって、画面を伏せた。
平気な顔をしていれば全部平気になるわけではない。少し会いたかったことは残っている。それでも、今日できなかった分を彼女のせいにせず、自分の机で続きを選ぶことはできた。
夕食の前に連絡が来た。聞きたかったところを聞けて、書き直す場所も分かったらしい。俺はよかったと返し、明日の昼にその話を聞きたいと送った。
『うん。今日は急に変えてごめんね』
『大丈夫。俺も家で進められた。明日会えるの楽しみ』
返してから、俺は明日の教科書を揃えた。会えなかったことを全部帳消しにしなくても、次に楽しみなことを言ってよかった。
翌日の昼、莉緒は少し早めに来た。俺が席へ着くと、鞄から弁当を出しながら昨日のお礼を言う。
「待たせてるって思うと、話を急ぎそうだったから。先に帰るって言ってくれて、ちょっと助かった」
「うん。俺も、今日は家に帰りたいって自分で決めたから」
俺が答えると、彼女は頷いた。それでも、昨日会いたかったのは同じ、と付け足す。
「俺も。ちょっと、連絡まだかなって見た」
「見たんだ」
「一回。いや、二回かもしれない」
正直に言うと、莉緒は笑った。自分も終わったらすぐ送ろうと思っていたらしい。相手の時間を邪魔しないことと、気にならなくなることは同じではなかった。
昨日見てもらった紙は持ってきていたが、彼女は食べながら全部読ませようとはしなかった。言いたかったところを一つだけ話し、俺も今日の授業で気になったことを返す。
弁当を片付ける頃、莉緒が、今度の土曜、少しだけ会えないかと尋ねた。午前に家で準備をしてから、午後の途中に一時間くらい外へ出たいという。
「遠くまでじゃなくて、近くで。航平は、どう?」
俺はその日の予定を思い出した。午前に進めたい分があり、午後も見直しを少しするつもりだった。全部を終えてから出ると、終わらないかもしれない。
「二時から三時なら、俺も会いたい。前後は家でやる」
「うん。私も、そのくらいがいい」
彼女が笑い、家の予定も確認してから決めようと続けた。俺は頷き、教室へ戻る前にスマホへ候補の時間を入れる。短くても、二人で会いたいと決めた予定だった。
土曜は二時に時計の下で会った。二人とも家で昼を済ませていて、遠くへ出るつもりもない。駅の近くの屋根のある休憩場所へ行くと、風が通る端の席が空いていた。
それぞれ買ってきた冷たい飲み物を置き、俺たちは隣に座った。今日は自分の好きな物を選び、俺は冷たい茶、莉緒は果物の入った炭酸の飲み物だった。
「ちょっと、夏っぽい」
彼女が言い、カップを持ち上げた。俺は氷が多いなと返し、彼女はそこじゃないと笑う。
空の色も、風の温度も、去年の同じ頃とは違うはずなのに、何となく覚えている。二人で出かけるようになって一年以上が経ったことを思い、俺は、去年の今頃よりよく喋るようになったなと言った。
「私が?」
「俺が。莉緒は、前から喋ってた」
「それ、そうだけど。航平、前も全然喋らなかったわけじゃないよ」
莉緒は去年の水族館の道を間違えた時のことを話し、俺も笑った。今なら最初から上手に回れるとは思わない。たぶん、また違うところで迷って、違うことを話すのだろう。
それでも今日は、その時の予定をやり直しに行く話にはしなかった。今ここで一時間会うのを、二人で楽しみにしてきたからだ。
彼女は鞄からスマホを出し、完成した壁掛けの写真を見せてくれた。自分の机の横につけ、細長いポケットへ、よく使う小さな物を入れている。最初に見せてもらった絵より少し幅が広くなっていた。
「できたんだ」
「うん。使ってみてる。ここ、最初、入れたら下がったから、直した」
彼女は写真の端を指した。俺にはどの縫い方がよいか分からないが、入れた物の重さで変わるのは分かった。
「今は、前より取りやすくなった?」
「うん。自分の手が届くところにしたから。机の上、少し空いた」
莉緒は嬉しそうに言い、これなら写真を残してもらっていいと続けた。俺はいいのかと確かめ、彼女が頷いたので送ってもらう。途中の絵を無断で保存しなかったことと、完成した今の写真をもらえることは、ちゃんと別の出来事だった。
俺は画面を見てから、できてよかったと伝えた。彼女はありがとうと答え、何かを受け取った俺の物ではなくても、見てほしかったと言う。
「自分で使うやつだから、学校へ持っていかないし」
「見せてくれて嬉しい。今度、使って変わったら、それも聞きたい」
返すと、莉緒は頷いた。完成したから全部終わりではなく、使う自分が次を考えてよい。それを面白いと思えるのが、彼女の好きなところだった。
飲み物が半分ほどになった頃、彼女は面談のことを少し話した。自分が言いたいことは前より分かったが、相手の前で話す時に、ちゃんと声が出るか気になるという。
「学校の見学では、質問できたんだけどね」
「聞くのと、自分のこと話すのは、また違うのかもな」
俺はそう返し、でも全部を一人で練習しなければいけないわけではないと続けた。俺にもできる聞き方はあるかと尋ねる。
「もし頼むなら、時間決めて聞いてほしい。何時間もじゃなくて、少しだけ」
「うん。それなら、家で予定見て返す」
俺が答えると、彼女は、今すぐじゃないよ、と笑った。今日はただ一緒に飲み物を飲みたかったらしい。俺も、それなら今はこっち、とカップを持った。
彼女が面談で何を話すかは本人が考えることで、俺が合格させる役になるわけではない。そう分かると、隣で応援したい気持ちまで遠慮せずに済んだ。
「聞くの頼まれたら、俺、緊張しそうだな」
「私より?」
「どっちが先かは分かんない」
「航平が固まったら、私まで笑っちゃう」
二人で笑い、彼女は、笑ってからでも練習になるならいいか、と続けた。俺はそのくらいなら自分にもできそうだと答える。
通りを行く人が増えてきたので、席を立つ前にごみをまとめた。俺はカップを持ち、莉緒は鞄の持ち手が引っかかっていないか確かめる。座っていたのは四十分ほどなのに、話したいことを全部一度に詰め込もうとは思わなかった。
駅まで少し歩き、三時より前に戻ることにした。彼女は午後の続きを家でやると話し、俺も同じだと答える。
「今からまた、別々に机だね」
莉緒が言うので、俺は頷いた。
「でも、今日会ったのは、ちゃんと残る」
「うん。私も」
彼女は俺の手へ指を寄せ、短い間だけつないだ。家へ戻る方へ足を向ける時、俺は、会えてよかった、と伝える。彼女は同じ言葉を返し、また連絡すると手を振った。
帰宅後の机では、最初の一問を解くまで少し時間がかかった。会ったからすぐ全部できるようになるわけではなく、さっきの話を思い出して笑いかけたのもある。
それでも、今日一日を勉強できなかった日にしてしまう必要はない。俺は午前に進めたところへ戻り、午後にやると決めた分を一つずつ見た。
夕方、休憩のために階下へ下りると、弟が冷蔵庫の前にいた。俺が今日どこへ行っていたか聞かれ、駅の近くで莉緒と会ったと答える。
「もう帰ってきたんだ」
「二時から三時までだったからな」
「短くても、出かけるんだね」
弟は少し意外そうに言った。俺はうんと返し、自分でも前なら一日空いていないと誘わなかったかもしれないと考える。
「会いたかったから」
そのまま答えると、弟は、そっか、と笑って自分の飲み物を持っていった。変に茶化されなかったので、俺も普通に水を飲み、部屋へ戻る。
夜、莉緒から、今日やりたかったところまでは書けたと連絡が来た。俺もできた分と残った分を短く話す。点数を競うのでも、相手の作業を見張るのでもなく、今日の話の続きをしていた。
そのあと、彼女が面談の準備で話を聞いてほしい日を一つ挙げた。俺は自分の講習のない日で、夕食の前なら二十分ほど取れると返す。彼女もその時間で大丈夫だと答え、電話で聞く約束になった。
俺は予定を入れてから、送ってもらった壁掛けの写真をもう一度開いた。自分の机の横ではないのに、そこに彼女が手を伸ばすところが浮かんだ。
同じ場所へ進まなくても、何をしているか聞きたい。俺は写真を閉じ、明日の用意を始める前に、今日も好きだよ、と送った。彼女から、私も、と返事が来る。
それだけで受験の日が変わるわけではないが、明日会ったらまた笑って声をかけたいと思えた。




