第63話 うまくいかない日も、来てほしい
五月に入って、放課後の講習へ向かう道にも慣れた。火曜と木曜の四時が近づくと、俺は教室で使う物を確かめ、別の部屋へ移動する。終わったあとに自分の席へ戻る回数は減り、忘れ物がないかも先に見るようになった。
それでも、慣れたことと、問題が解けるようになることは同じではなかった。
学校で受けた模擬試験を見直した日、俺は自分が思っていたより時間を使いすぎたところを数えていた。最初に分からなかった一問を引きずり、後ろの問題まで急いでいる。解説を見れば分かるところがあっても、試験の間にできなかったことは変わらない。
紙を裏返してから、もう一度表に戻した。隠しても点は増えないし、見続けてもすぐ増えない。頭では分かるのに、どちらも落ち着かなかった。
「三原くん、次の紙、回していい?」
近くの生徒に聞かれて、俺は慌てて机を空けた。配られた物を受け取り、後ろへ渡す。それだけのことで気持ちが一度途切れ、少し助かった。
高瀬さんが帰る前に声をかけてきた。俺の顔を見て、疲れた、と短く聞く。俺は見直しで少し落ち込んだと答えた。
「私も、あんまり見たくないところある。今日は帰ってから、そこだけ見るつもり」
彼女は自分の紙を鞄へ入れた。俺にも同じようにしろとは言わず、また明日と手を振る。俺も返事をして、帰る支度を始めた。
四組へ寄ると、莉緒はまだ同じクラスの女子と話していた。俺を見つけ、もう少しだけと指で示す。俺は頷き、廊下の端へ寄った。
去年なら、彼女のところまで歩く前に、机へ座ったまま今日の顔を見てもらえたのかもしれない。今は自分から来たので、うまく隠して会話を始めることもできた。それでも、わざわざ会いに来た相手へ、何でもないふりをするのは少し違う気がした。
昇降口を出てから、俺は模試の話をした。莉緒は俺の歩く速さに合わせ、うん、と返事をして聞く。
「見直すと分かるのもあるから、余計に、何でできなかったんだろうってなる」
「時間、足りなかった?」
「うん。分からないところで止まって、あとが急いだ」
俺が答えると、彼女はそっかと頷いた。少し考えてから、でもまだこれからだよ、と言う。
その言葉が悪いとは思わなかった。実際、まだできることはある。けれど今の俺は、これからの話をされると、その前の今日できなかったところへ引っ張られてしまった。
「莉緒、ごめん。今、大丈夫って言われても、うまくそう思えないかもしれない」
言ってから、責めているように聞こえなかったかと彼女を見る。莉緒は足を止めず、分かったと答えた。
「じゃあ、今日はできなくて嫌だったって話、聞く?」
「うん。そうしてもらえると嬉しい」
返事をすると、彼女は俺へ顔を向けた。
「私、励ます方がいいのかなって思った。何か言いたくなっちゃって」
「ありがとう。そう思ってくれたのは嬉しい。ちょっと、聞いてもらいたいだけ」
俺は自分の言葉を確かめながら続けた。彼女は頷き、じゃあどこがいちばん嫌だった、と尋ねる。
俺は点数よりも、途中で焦ったことが嫌だったと話した。自分が何をしているか分からなくなったわけではないのに、同じ行を何度も読んでいた。その時間を思い出すと、机の上に戻ったような気持ちになる。
莉緒はそれを聞き、急ごうとすると余計進まない時あるよね、と言った。自分も縫い直す時に早く終わらせたくなって、別の所を引っ張ってしまうことがあるらしい。
「それと一緒かは分かんないけど」
「うん。でも、何か分かる」
二人で少し笑った。問題は解けたことにならないが、さっきより話を続けやすかった。
駅へ着く頃には、俺も明日先生へ聞きたいことを一つ言えた。莉緒は頷き、それが聞けたらまた教えて、と返す。できた報告だけを待っているのではないと分かり、俺はありがとうと言った。
翌日、聞きたいところへ付箋をつけて先生のところへ行った。俺は間違えた問題の答えだけでなく、その前で時間を使ったことも話した。先生は途中まで書いた式を見て、どこまでは自分で確かめられていたか尋ねる。
俺が説明すると、全部を最初から読み直さなくてもよかったところがあった。焦って不安になり、合っている部分まで何度も見直していたのだ。次に似たことが起きたら、いったん手を止める場所を決めておこうと言われた。
その場で次の試験がうまくいくと保証されたわけではない。それでも、自分はただ焦る人間だと決めつけるより、途中で何をしていたか見られる方がよかった。俺は紙へ短く書き込み、礼を言って教室へ戻った。
廊下で拓海に会うと、彼は俺の持つ紙を見て、聞いてきたのかと尋ねた。俺が頷くと、自分も別の科目で聞きたいところがあると話す。
「お前、すぐ行ったんだな」
「すぐってほどじゃない。昨日、ずっと見てたから」
「俺、見たくないまま鞄へ入れそうだった。今日持ってきたけど」
彼はそう言い、肩の鞄を持ち直した。俺はどっちが先にできるようになるかという話にしなくて済み、少し楽になった。
「飯食ってから行く。腹減ってると、余計分からない気がする」
「それは、俺も分かる」
俺が笑うと、彼は今日の弁当の話をした。いつもより大きいおかずが入っているらしく、朝にふたを閉める時に少し困ったという。紙を見ながら歩いていた俺も、そこで顔を上げた。
教室の扉の前まで来ると、彼は四組へ、俺は三組へ向かう。分からなかったところを抱えたままでも、昼食は楽しみでよかった。俺は自分の机へ戻り、鞄の中の巾着を確かめた。
昼には高瀬さんにも、聞きたかったことを一つ聞けたと伝えた。彼女はよかったねと返し、自分も見たくなかった所を昨日少し見たと話す。俺たちは全部を披露し合わず、それぞれの紙をしまってから弁当を広げた。
食べ始めると、拓海の話していたふたのことを思い出した。俺の弁当はきちんと収まっているが、端の野菜が少し寄っている。箸で戻してから一口食べると、いつもの味がした。昨日から同じ紙ばかり見ていたので、その普通さが少しありがたかった。
その週の日曜、莉緒に家へ来てほしいと誘った。母が午前中に昼食用の買い物をするというので、午後なら短くお茶をする時間を取れそうだった。両親にも彼女にも確認し、二時から四時前までという予定になる。
家へ来るのは初めてではないが、俺から連絡する時には少し迷った。模試の話をしたあとだから、勉強をしなくていいのかと思われるだろうか。だが、午前に見直す範囲を決め、会う時間も自分で作ったのに、相手へ会いたくないように振る舞う必要はない。
『うまくいかなかった話をしたばっかりだけど、会いたい』
送ると、莉緒から、そういう日にも会いたいって言っていいんだよ、と返ってきた。俺は画面を見て少し笑い、家の場所の確認ではなく、何時に駅へ迎えに行くかを相談した。
日曜の午前は予定どおり机へ向かった。先生に聞いたところは、解く順番より、途中でどこまで確かめるかを自分で決め直す必要があるらしい。俺は似た問題を一つ解き、時間を見てから解説を開く。
正解した部分と、まだ考え違いをしていた部分があった。全部を片付けてからでなければ彼女を迎えに行けないと思うと、今日も終われない。俺は残りに印をつけ、明日見る場所を書いて本を閉じた。
階下へ下りると、母が牛乳の入った袋を台所へ置いていた。何か作るのかと聞くと、午後に簡単なホットケーキを焼こうと思うという。
「莉緒さんも食べられるなら。嫌だったら、別のお菓子もあるけど」
「聞いてみる。俺も、手伝っていい?」
母はもちろんと答えた。俺は彼女へ連絡し、家で少し作って食べようかと誘う。すぐに、やりたい、という返事があり、食べられない材料がないことも確かめた。
小さな用事が一つ増えただけなのに、迎えに行くのがさらに楽しみになった。弟は昼を食べながら、俺の分もある、と聞き、母から、自分の時間に起きてきたらねと言われている。家で過ごす午後に、全員が同じことをするわけではなかった。
二時より少し前に駅へ迎えに行くと、莉緒は薄い上着に、あの赤い花をつけていた。俺が気づくと、彼女は指を添えて笑う。
「今日、これにした」
「似合ってる。俺、今日は家だからつけてないけど」
「毎回お揃いにする約束じゃないでしょ」
言われて、俺は笑った。自分で作った青灰色の花は、引き出しの小袋に入っている。次に外へ出る時、服を見てつけるか決めればよいと思えた。
家へ向かう途中、莉緒は壁掛けの入れ物の話をした。入れる物を並べたら、最初に描いた形より少し幅が必要だったという。姉と布を見た時に相談し、家で切る前の形を確かめているらしい。
「まだ完成してないけど、作ってる。今度、できたら使ってみるつもり」
「うん。自分の机の横?」
「そう。置きたい物、思ったより全部同じ高さじゃなかった」
彼女は笑い、実物を並べてみないと分からないことがあるねと言った。俺も頷いた。自分の見直しの話と無理につなげなくても、彼女が自分で試していることを聞くのは面白かった。
玄関で母へ挨拶をし、居間へ入る。父もいて、莉緒へ久しぶりと声をかけた。俺は彼女の持ってきた小さな菓子袋を母へ渡すのを見てから、手を洗う場所を案内した。
母は台所で材料を出し、何をするか簡単に説明してくれる。俺と莉緒が混ぜたり焼いたりする間、すぐそばで別の片付けをするつもりらしい。俺は火の加減を確かめ、彼女は袖を邪魔にならないよう整えた。
「今日の花、先に外しとく」
莉緒は赤い花を小袋へ入れ、鞄へしまった。俺も場所を空け、台所へ並ぶ。教室でも店でもないところで彼女と手を動かすのは、少し落ち着かないのに楽しかった。
最初の生地は俺が混ぜた。袋に書かれた分量を母と確かめ、量り終えた材料をボウルへ入れる。莉緒がボウルを押さえてくれたので、俺はゆっくり手を動かした。
「これ、どこまで?」
俺が尋ねると、母が見て、もうそのくらいでいいと答える。さらに混ぜればよくなるわけではないらしく、俺は道具を置いた。
焼く番になると、最初は大きく広げすぎた。丸くしたつもりが片側へ伸び、莉緒が隣から見て笑う。
「何か、今、逃げようとしてた」
「生地は逃げないだろ」
「だって、そっちだけ伸びてった」
俺もつられて笑ったが、母は普通に食べられるからと声をかける。形の悪さで失敗が全部決まったわけではないと思い、返す時にはもう少し慎重になった。
莉緒が次の一枚を作る時には、俺が生地の入ったボウルを持った。彼女は最初の俺より小さめに落としたが、こちらもぴったり丸にはならない。真ん中から少し離れたところに小さな丸ができ、二人で顔を見合わせた。
「これは、何?」
「おまけ。たぶん」
彼女が答えると、母まで笑った。俺はその小さい分を先に別の皿へ寄せ、焦げないよう見ておく。
自分たちで全部できるわけではないので、分からないところはその都度聞いた。けれど母が毎回先に手を出すこともなく、俺たちはゆっくり何枚か焼いた。焼けた分を皿に重ねると、形が違っていても、ちゃんと午後のおやつに見えてきた。
最後の生地を焼いている頃、弟が台所をのぞいた。俺の大きい一枚を見て、これ兄ちゃんの、とすぐ当てる。何で分かったと聞くと、気合が入りすぎてるから、と笑った。
「俺は小さいのでいい。あとで出るから」
「じゃあ、これとこれ。熱いから気をつけて」
俺が取り分けると、弟は礼を言い、莉緒にも軽く会釈した。彼女は笑って返し、弟が自分の用事へ戻るのを見送る。
誰かが来たから家族全員が集まり続けなければいけないわけではなく、母も自分の飲み物を用意してから別の用事へ移った。父は居間で本を閉じ、できたのかとこちらを見る。俺は少し持っていこうかと聞き、彼の分も取り分けた。
俺と莉緒は居間のテーブルへ座り、作った物を一枚ずつ自分の皿へ取った。紅茶は母が用意してくれたもので、食べる前に礼を言う。俺の皿には、最初の少し大きすぎる一枚が乗った。
「自分のを食べるんだ」
「一番気になるからな」
俺が答えると、彼女は自分の小さいおまけを指した。こちらは最後まできれいな丸で、狙っていなかったところがいちばん整っている。
切って食べると、ちゃんと温かく甘かった。莉緒も一口食べ、普通においしい、と笑う。俺は普通に、のところがおかしくなった。
「すごいのができると思って来たわけじゃないよ」
彼女が言い、俺もそれはそうだと頷いた。自分で作ったから必ず特別な味になるわけではなくても、一緒に返す時に笑ったことは残っている。皿を見ているだけで思い出せた。
父が自分の分を食べながら、焼けた形が違うのも面白いなと言う。莉緒は俺の一枚を見てから笑ったが、誰が焼いたかは本人から先に言わせてくれた。
「それ、俺の。大きくしすぎた」
「大きい分、食べ応えあるだろ」
父はそう返し、自分のカップを持って席を離れた。俺は残りを切りながら、うまくできなかったところを毎回隠さなくても、こんなふうに話が終わることもあると思った。
食べ終わってから皿を台所へ運ぶ。莉緒は洗う方を手伝いたいと言ったが、母が今日はここまででいいと答えたので、二人で道具を寄せるところまでにする。俺はあとで自分の分をやると母へ伝え、居間へ戻った。
時計を見ると、帰る予定までまだ少しあった。俺は莉緒へ何か話したいことがあるか聞き、彼女は、今日は航平に誘ってもらって嬉しかったと答えた。
「模試の話してたから、会わない方がいいかなって、ちょっと思ってた」
彼女が言うので、俺は頷いた。自分も似たことを考えていたと伝える。
「俺も、誘っていいのかなって思った。でも、会いたかった」
「うん。言ってくれてよかった」
彼女は膝の上の手を重ね直した。俺はもう一つ、今日来てもらって分かったことを話す。
「問題が解けるようになってから会うって決めたら、たぶん、ずっと次が残るんだよな」
「私も、全部できてからって言うと、ずっと何か作ってそう」
莉緒が笑い、俺も笑った。うまくできたことを報告するためだけに会っているのではない。今日のように、一緒に作って形が変だと笑う時間も欲しかった。
帰る前、母と父へ挨拶をし、俺は駅まで莉緒を送った。彼女は玄関で赤い花をつけ直し、これも自分で作ったんですと母へ少し話す。母はきれいな色だねと答え、彼女が嬉しそうに礼を言った。
外へ出ると、さっきより日が傾いていた。四時前には家を出る約束どおりで、俺は駅までの道をゆっくり歩く。莉緒が俺の手へ触れ、二人で指をつないだ。
「今日は、ちょっと元気になった?」
聞かれて、俺は正直に考えた。模試の紙を見れば、まだ嫌な気持ちになると思う。それでも、今はさっきと同じことしか考えられないわけではなかった。
「うん。できなかったのは残ってるけど、今日はそれだけじゃなくなった」
「そっか」
彼女は頷き、それならよかったと笑った。全部大丈夫になったと言わせようとしない返事が、今の俺には嬉しかった。
駅に近づいたところで、俺は手を少し握り直した。
「この前、聞いてくれてありがとう。すぐ励まさないでって、言い方、難しかった」
「私も、何も言わない方がいいのかなって迷った。でも、聞いてって言ってくれたから分かった」
莉緒は俺の方を見た。俺は次も今どうしてほしいか言うと伝え、彼女も自分の分を言うと答えた。
そこで、彼女が少し目をそらし、今日はもう一つ言いたい、と続ける。
「駅に着く前に、少しだけくっつきたい」
俺は頷き、広場の通り道を外れた場所へ寄った。人の流れが遠くなったところで、彼女がこちらへ向き直る。俺も近づき、上着の背中へ腕を回した。
花に当たらないよう少し身体の向きを変えると、莉緒が笑った。俺が気づいたからと答えると、彼女は、ありがとう、と腕の中で言う。
「今日、好きだなって思ったとこ、いっぱいあった」
「ホットケーキ、逃がしかけたとこも?」
「そこは、面白かったとこ」
俺も笑い、少し離れて彼女の顔を見た。キスしていいかと聞くと、彼女は頷いた。短く唇を合わせてから、好きだよと伝える。彼女も同じ言葉を返し、今度は自分から俺の手を取った。
うまくいかなかった日のあとでも、会いたいと誘って、こんなふうに帰れる。俺はそのことを、今日の予定を決める前より、ずっとはっきり知っていた。
帰宅すると、母が残りの道具を片付けていたので、俺も自分の分を洗った。弟の使った皿も戻っていて、小さかった分は全部なくなっている。食べられてよかったと考えていると、母が、また来てもらったら、と言った。
「うん。家の予定、また聞く」
俺が返すと、母は頷き、いつも同じお菓子じゃなくてもいいねと笑った。俺は、次はもう少し丸くできるかも、と答えてから、自分でまた笑ってしまう。
部屋へ戻ると、机には午前に閉じた問題集があった。明日見る場所を開き、付箋へ短く書き足す。今日はもう長く続けず、明日の自分がどこから始めるか分かればよかった。
莉緒から、帰ったよ、と連絡が来た。俺は礼を言い、今日の写真は一枚も撮らなかったと気づく。彼女も同じことを思ったらしく、形の違うホットケーキ、残してもよかったね、と笑う文が届いた。
『次にまた作ったら、その時に撮ろう』
俺が返すと、彼女から、うん、また作りたい、と来た。今日の形はもう皿の上にないが、彼女と笑ったところは覚えている。俺はスマホを置き、明日持っていく鞄へ紺の筆箱を入れた。




