第61話 廊下の向こうへ、会いに行く
春休みの午前、弟と約束していた本屋へ出かけた。家を出る時には俺の見つけた文庫の話をしていたのに、店へ着くと、彼は先に自分の見たかった棚へ向かう。
「俺もそっち見てていい?」
「うん。あとで文庫の方」
返事をして、俺は自分の気になる本を探した。少し経って合流すると、弟は手にした物の説明を始める。知らないことを聞く時間は、勧める本を考えている間より長くなった。
俺が見つけた文庫も一緒に見たが、本人は別の一冊を選んだ。家にまだ読んでいない物もあるので、今日は一冊だけにするらしい。
「そっちにしたんだ」
「うん。こっちは今度。兄ちゃんの話聞いたら、こっちも読みたくなったけど」
俺は笑い、先に自分の読みたい方にしろと返した。勧めた物がすぐ選ばれなくても、残念ではなかった。帰りには彼の選んだ本が気になり、読み終わったら話を聞かせてと頼む。
昼前に家へ戻ると、母が早かったねと言った。俺たちは予定どおりだと答え、それぞれ部屋へ向かう。出かける前に考えていた時間が、少し違う形でちゃんと楽しかった。
莉緒と坂の道へ出かけたのは、その二日後だった。家の予定を確かめて、午後一時に待ち合わせ、夕方前には戻ると決めた。風の弱い日で、駅を出た時には上着の前を開けたくなるくらいだった。
気になっていた道は、地図で見るよりずっとゆっくり曲がっていた。俺たちは途中で何度か立ち止まり、莉緒は、上から見たらまた違いそう、と先の方を見上げる。
上まで急いで行かず、途中の休める場所で持ってきた水を飲んだ。俺は坂の向こうに重なる屋根を撮り、彼女は手すりに落ちる木の影を見つけた。長い坂を二人で登ったことより、気になった場所で互いに足を止められるのが嬉しかった。
帰りは別の緩い道を選び、駅の近くへ戻ってから、また初めての駅へ行きたいと俺が言った。莉緒は頷き、今度は自分の見たい雑貨の催しにも付き合ってと返す。まだ日程を決めていないが、どちらかの希望だけで春が終わらないのが楽しみだった。
写真を送り合った夜、俺は新しい学年の準備をした。ノートや配られた紙を揃えるだけならすぐ終わるのに、机の上のカレンダーを見ている時間が長くなった。休みが終われば、また毎日同じ教室へ行く。そう考えかけ、その教室が同じとはまだ決まっていないと思い出した。
始業の日、掲示された名簿の前には人が集まっていた。俺は少し離れたところで流れが空くのを待ち、見える位置まで進む。
三年三組の欄に、自分の名前があった。その少し上に高瀬さんの名前を見つけ、次に藤崎の文字を探す。最後まで目を通したが、見つからない。
隣の四組の欄を見ると、莉緒はそちらだった。拓海も同じ四組にいる。四人が二人ずつ分かれたことを確かめた時、後ろから俺の名前を呼ぶ声がした。
「航平、見つかった?」
振り向くと、莉緒と高瀬さんが立っていた。俺が三組と答えると、高瀬さんは一緒だねと笑い、莉緒は自分の欄を指した。
「私、四組。大野くんもいた」
「うん。見た」
俺はそう返してから、もう一度だけ名簿へ目を向けた。隣の教室なのに、去年までのように顔を上げれば見えるわけではなくなる。寂しいと思ったが、彼女も少し名簿を見ているので、その場で無理に明るいことは言わなかった。
「あとで、教室の場所見よ」
莉緒が言い、俺も頷いた。高瀬さんは、まず自分の場所間違えないようにしよう、と笑う。新しい教室へ向かう途中で拓海と会い、俺が三年連続にはならなかったなと言うと、彼は俺の顔を見て肩をすくめた。
「隣まで来れば見れるぞ」
「そんな展示みたいに言うなよ」
俺たちが笑うと、莉緒も笑った。顔を見られる場所を失ったわけではない。毎朝、自分の机の前にいるのが別の人になるだけだった。
三組に入り、指定された席へ座った。俺は廊下側の列の前から三番目、高瀬さんは窓側の後ろから二番目だった。去年と違う場所から黒板を見ると、教室の幅が少し広く感じる。
前後には顔を知っている生徒も、ほとんど話したことのない生徒もいた。鞄を掛ける時に椅子が当たり、俺は後ろへごめんと声をかける。相手も大丈夫と返し、自分の荷物を少し寄せてくれた。
莉緒の席を確かめようと隣を見ても、そこには彼女はいない。分かっているのに一度見てしまい、俺は自分でおかしくなった。高瀬さんとは目が合い、向こうも似たことを考えたのか、少し笑っていた。
担任から説明を受け、式へ移動し、教室へ戻った。三年生と呼ばれるたび、自分のことだと意識する。進路のことを考えてきても、学年が変わる瞬間には、まだ実感が追いついていなかった。
配られた紙を後ろへ回す時、枚数が一枚足りなかった。前の生徒へ伝えると、隣の列に余りがあったらしい。俺は受け取った紙を後ろへ渡し、礼を言われて頷いた。普通の用事を一つ済ませるたび、この教室にも自分の動く場所ができていく。
高瀬さんが休み時間に来て、四組を見たかと尋ねた。俺はまだだと答える。彼女も莉緒に会いたいが、先に教室で聞かれたことへ返事をしてくるという。
「三原くん、行くなら先行ってて。あとで私も行く」
「うん。じゃあ、ちょっと見てくる」
答えて席を立ったところで、俺は廊下へ出るのが少し気恥ずかしくなった。恋人が隣のクラスにいるから会いに行く。それだけのことなのに、今までは二人とも同じ場所にいたので、改めて用事を作る必要がなかった。
教室の扉を出ると、四組の入口から莉緒が顔を出した。俺を見つけるなり笑ったので、足を止める。
「行こうと思ってた」
「俺も。今、出てきた」
言い合ってから、二人で笑った。廊下の真ん中に立つと邪魔になるので、掲示物のない壁際へ寄る。彼女は自分の教室の方を示し、中央あたりの列の前から四番目になったと教えてくれた。
「大野くんは窓側の前から二番目。今日、もうプリント回してもらった」
「俺も、こっちで一枚足りなくて回した」
「同じことしてるね」
莉緒が笑った。自分の教室を説明する会話が、こんなに新しく感じるとは思わなかった。
廊下では長く話さず、帰る時にまた声をかけようと決めた。彼女は高瀬さんのことを尋ね、俺が今は自分の用事をしていると答えると、あとで行くね、と頷く。
俺も教室へ戻った。席にはさっき話した生徒がいて、次に提出する物はどれだったかと聞かれる。俺もすぐ分からず、配られた紙を一緒に見た。
莉緒に会えたから、教室へ戻るのが嫌になるわけではない。彼女のいない場所で、新しく話す相手がいることも、普通に嬉しかった。前の席に拓海がいないことには慣れないが、空いた場所がそのまま穴になっているわけではなかった。
帰る前、俺は高瀬さんと一緒に廊下へ出た。四組の扉の外で待つつもりだったが、莉緒は同じクラスの女子と話している。向こうからこちらに気づいたので手を上げ、俺たちは少し離れた場所へ寄った。
彼女が話を終えるまで、高瀬さんと配られた予定の話をした。しばらくして拓海も出てきて、今日から廊下集合なのかと笑う。
「毎回かは分かんない」
俺が言うと、彼は自分も用事のある日は先に行くと答えた。毎日四人で帰る約束を、まだ誰もしていない。それでも、今日は帰ろうと誘えたので十分だった。
莉緒が来ると、高瀬さんが自分の教室の席を話し始めた。俺たちは昇降口へ向かい、同じ列にならずに歩く。四人で集まった春休みの帰りと少し似ていて、俺は思ったより早く笑っていた。
校門を出たところで拓海が、自分は今日は別の方へ寄ると言った。高瀬さんも駅までではなく途中で曲がる。莉緒は二人へ手を振り、俺と並んだ。
「同じクラスじゃなかったね」
彼女が言ったので、俺は頷いた。
「少し寂しかった」
「私も。でも、廊下で会ったら嬉しかった」
「うん。俺も、見つけたらすぐ嬉しくなった」
それを言うと、莉緒はこっちを見て笑った。会えない一日を想像していたのに、実際には隣の教室で、互いに歩いてきただけだった。
新しい教室で過ごす時間が増えると、分からないことを聞かれるだけではなく、俺から聞くことも出てきた。配布物を入れる場所を勘違いして、高瀬さんへ尋ねた日には、彼女も同じ所を見ていたと笑う。
「去年の置き方、身体が覚えてるよね」
「うん。窓の方まで行きかけた」
俺が答えると、彼女は自分も前の教室の扉へ向かいそうになったと言った。同じ学校の中で、一つ場所が変わるだけでも、すぐには慣れない。
その日の最後には、掲示物を留める手伝いをした。近くの生徒から端を持ってほしいと頼まれたので、曲がらないように押さえる。向こうの端を持つ人と高さを確かめ、少し上げた方がよさそうだと伝えた。
留め終えて離れて見ると、まだ僅かに傾いていた。俺たちは顔を見合わせて笑い、もう一度だけ直す。これでいいかと聞かれ、今度は大丈夫と答えた。
高瀬さんは別の紙を貼りながら、そっちの方が大変そうだね、と笑った。俺は大きい紙ほど端が遠いからと返し、自分で妙な説明だと思って笑ってしまう。誰かを楽しませようと特別なことを言わなくても、その場でおかしくなることはあった。
帰る前に掲示を見直すと、自分たちが手を添えた端がちゃんと留まっていた。莉緒に会いたい気持ちは変わらないが、この教室で過ごす時間を早く終わればいいとは思わなくなっている。
廊下へ出ると、彼女は高瀬さんと話していた。俺は割って入らず、聞こえた話の続きを待つ。二人は休み中に見た店のことを話していて、俺が知らない写真も一枚あるらしい。
「あとで航平にも見せる。今、紗季にこれの話してた」
莉緒が言い、俺は頷いた。彼女が友達と楽しんでいるところを見るのも好きだった。俺のいなかった時間を、全部俺へ先に報告しなければいけないようにはしたくなかった。
新しい時間割になって数日後、昼の過ごし方も変わってきた。莉緒から、一緒に食べたい日があると連絡が来る。俺もそうしたかったが、その日は三組で声をかけてもらっていた。
画面を見ながら一度迷い、先に約束したことを伝える。明日はどうかと聞くと、彼女はその日なら大丈夫だと返した。理由を長く説明しなくても、嫌で断ったのではないと分かってもらえる。
翌日の昼は、校内の昼食を取れる場所へ二人で行った。空いている端の席へ並んで座り、弁当を出す。教室から移動する分だけ、食べる時間は少し短くなった。
「移動あると、結構すぐだね」
「うん。片付ける時間も見た方がいいな」
俺は時計を確かめ、鞄から弁当を取り出した。莉緒が紺の巾着を見て笑うので、どうしたと聞く。
「教室違っても、使ってるとこ見れたなって」
「使ってるのは、毎日同じ」
「知ってる。でも、見れたら嬉しい」
俺は礼を言い、袋の口を開いた。彼女にもらった物が日常にあることは変わらない。その使っているところを、今度は待ち合わせて見せられた。
昼食の間に、彼女は隣の席の女子と話したことを教えてくれた。俺も三組で話したことを返す。知らない名前が増えたが、どの人なのか聞くと、彼女は席の位置で説明してくれた。
話を聞いていると、自分がそこにいなかった時間も、少し想像できる。全部を見ていなければ分からないから話せない、ということではなかった。
食べ終える前に予鈴までの残りを見て、俺たちは少し急いだ。莉緒は最後の一口を飲み込んでから、ちゃんと噛んだよ、と言った。俺が何か言ったわけでもないのに、先に説明されて笑ってしまう。
「何も言ってない」
「ちょっと急いでたから。心配されるかなって」
「俺も急いでた。でも、次は話す方を少し残そう」
俺が言うと、彼女は頷いた。昼休みに全部の話を持ってくる必要はなく、帰りや夜へ残してもよい。二人で弁当箱をしまい、教室へ戻る廊下を歩いた。
扉の前で分かれる時、莉緒が、またね、と言った。俺も返し、自分の教室へ入る。すぐ隣にいるのにわざわざ言うその言葉が、前より好きになっていた。
放課後の講習の案内が配られたのは、その週だった。俺は自分が必要だと思う内容を見て、火曜と木曜の講習に申し込むことを考えた。どちらも四時から五時までで、受けたい科目の説明を確かめてから、家へ持ち帰る。
夕食のあと、父と母へ話した。通う場所は学校なので新しい道を覚えるわけではないが、その日は帰宅が遅くなる。家の予定と、夕食までに戻れることを確認して、申し込むことにした。
莉緒へも、来週から火曜と木曜は講習を受けるつもりだと伝えた。彼女は分かったと返し、自分も学校の課題と進路に向けた準備を、少しずつ分けて進めたいと言う。
『その日は、一緒に帰れないこと多くなるね』
彼女の文を見て、俺は、待っていてもらう提案を打ちかけた。五時まで自分の用事がある日ならよいかもしれない。だが、毎回そこまで時間を空けてほしいのとは違う。
『うん。用事がある日は、先に帰ってて。別の日に一緒に帰りたい』
返すと、莉緒からすぐに、私もそうしたい、と届いた。続いて、待ちたい日なら自分から言う、とある。
俺は頷き、了解と送った。彼女が待っているかもしれないと毎回気にして早く切り上げたり、先に帰ったから寂しいと思わないよう振る舞ったりしなくてよかった。
翌日、直接その話をすると、莉緒は、じゃあ水曜は帰ろう、と言った。俺はその日の用事を確認し、大丈夫だと返す。
「何か、曜日決めると急にちゃんとした約束っぽい」
「今までも、ちゃんとしてたと思う」
「してた。でも、放課後会えたらって思ってた日も多かったから」
彼女が笑い、俺も頷いた。見つけたら声をかける楽しみと、待ち合わせをしておく楽しみは、どちらも残しておけそうだった。
最初の講習が終わった日、俺は思っていたより疲れていた。授業のあとにもう一時間考えると、鞄を持つ腕まで少し重く感じる。廊下にはまだ何人か残っていて、俺も帰る前に教室へ忘れ物がないか確かめた。
四組の扉は閉まっていた。莉緒は先に帰ったと連絡をくれている。分かっていても、そこへ目を向けた時には、いつもの帰りと違うと思った。
そのままスマホを出しかけ、昇降口まではしまっておく。靴を履き替え、外へ出てから、終わったと送った。彼女からすぐ返事が来るとは限らないので、俺は歩き始める。
途中で返事があり、お疲れさま、と短い言葉のあとに、自分も今課題を終えたところだと続いていた。俺は一つ分からなかった所があるが明日聞けそうだと返す。全部を説明し終える前に駅へ着いたので、続きは家でと送った。
夕食のあとに教科書を開くと、講習で止まった部分をもう一度見たくなった。彼女の連絡を待ちながらの時間ではなく、自分でやる続きを選べている。その途中で莉緒から今日の話が来ると、俺は区切りをつけてから読んだ。
彼女は自分が作ってみたい物を考え、描いた形を見直していたらしい。まだ見せるほどまとまっていないと言うので、できたら見たいと返す。見せる日を俺が先に決める必要はなかった。
寝る前には短く声を聞いた。明日、帰れるのを楽しみにしていると伝えると、彼女も同じだと言った。五分ほど話して通話を終えたが、長くなかったことより、声が聞けたことが残った。
水曜の放課後、俺は配られたプリントを鞄へしまい、廊下へ出た。莉緒はまだ教室で片付けていたので、終わったら外にいると伝える。彼女はすぐ頷き、机の中をもう一度確認した。
待っている間、拓海が出てきて、今日は二人で帰るのかと聞いた。俺は約束したと答え、彼にも講習の話をする。
「俺も、曜日によっては遅くなる。昼はまた声かけるから」
「うん。俺も声かける」
彼は分かったと返し、別の友達のところへ向かった。前の席にいなくても、こんなふうに話せるのが嬉しかった。
莉緒が出てくると、俺たちは昇降口へ向かう。階段を下りながら、彼女は昨日の作りたい物の話を少し続けた。俺も講習で分からなかった所を今日聞けたと伝える。
「昨日の分、続き聞けた」
彼女に言われ、俺は頷いた。同じ教室にいなくなったから増えた話もある。見ていなかったことを本人から聞けるのは、置いていかれる感じとは違っていた。
外へ出ると、制服の上着の中に入る風が柔らかかった。人通りの多い校門の前では並んで歩くだけにし、駅に近づいてから莉緒が俺の手へ触れる。
「今日、手つなぎたい」
「うん。俺も」
指を合わせると、彼女が一度俺の方を見た。俺はそのまま、会いに行くのが少し恥ずかしかったと初日の話をする。
「何て言おうかなって、扉の前で考えた」
「私も。会いたいだけだと、何の用って聞かれるかなって」
「聞かないだろ」
「航平も聞かないでしょ」
二人で笑った。自分が待っている側なら嬉しいと分かっているのに、自分から歩く時にはまだ少し勇気が要る。それでも、一度廊下で会ってからは、次に足を向けるのが楽になっていた。
「用事なくても、会いたいって言っていい?」
俺が聞くと、莉緒は、今さらだけど、もちろん、と笑った。
「私も言う。今日も会いたかった」
その言葉で手に力が入り、俺は、俺も、と答えた。新しい教室のことも、講習のことも、話したいことはいくつかあったが、その前に言ってよかった。
駅へ着くまでの道は去年と同じだった。隣を歩く彼女も同じなのに、待ち合わせてから歩くと、一日ぶん離れていたことがちゃんと嬉しさになる。
改札の前で手を離す時、俺は次も声をかけると伝えた。莉緒は頷き、私も行くからねと返す。教室が隣でも、その言葉を聞いてから帰る方が、俺はずっと嬉しかった。




