第58話 ほしいものは、言っておく
一月の終わり、放課後の教室で莉緒が俺の机に両手をついた。窓の外では、校庭の端に残った日なたが少しずつ狭くなっている。俺はノートを鞄へ入れ、彼女が話し始めるのを待った。
「誕生日のこと、今、話していい?」
「うん。聞きたい」
拓海は先に帰り、高瀬さんも用事で教室を出たところだった。莉緒は隣の椅子を借りて腰を下ろし、スマホに保存していた案内を見せる。駅ビルに入っている小さな展示室で、少し前の時代の服や、今の作り手が仕立てた服を一緒に見られるらしい。
「ここ、行きたい。誕生日の前の日曜、まだやってるから」
写真には、布が大きく膨らんだ袖と、丈の長い上着が写っていた。俺には名前の分からない形もあるが、いつも見ている服とは違うと分かる。
「俺も一緒に入っていいの?」
「そのつもりで誘ってる。航平に見てほしい服もあるし」
展示物の話だと思って頷くと、莉緒は自分の袖をつまんだ。
「私が着てく服。こういうところ行くなら、ちょっと考えて着たい」
「そっちか。うん、見たい」
「今、適当に言ってない?」
「言ってない。似合ってると思っても、言うのが遅れることはあるけど」
彼女は笑い、その場合は帰ってからでも受け付けると答えた。俺は当日言いたいと返す。頼まれたから採点するのではなく、楽しみにしてきた彼女をちゃんと見たかった。
入場料と開いている時間を案内で確かめた。高校生は六百円で、予約は要らない。家の予定をそれぞれ確かめ、翌日、日曜の午後なら大丈夫だと返事をした。
誕生日の当日も、学校が終わったあとに少し会いたいと彼女は言った。夕食は家族と食べるので、長くは出かけない。その希望は俺の誕生日の時と似ていても、同じ過ごし方にする約束ではなかった。
「プレゼント、何か欲しい物ある?」
尋ねると、彼女の指がスマホの縁で止まった。服を選ぶ時のようにすぐ答えるかと思ったが、一度俺の顔を見て、また視線を落とす。
「ある。けど、ちょっと恥ずかしい」
「そんなに高いもの?」
「ううん。値段のことじゃなくて」
莉緒は鞄を膝に引き寄せ、持ち手を直した。俺は急かさずに待つ。廊下から聞こえてきた笑い声が遠ざかった頃、彼女が顔を上げた。
「手紙、欲しい。航平が書いてくれたの」
俺は返事をする前に、机の角を見てしまった。自分の引き出しには、彼女にもらった誕生日のカードが入っている。読むたびに嬉しくて、けれど自分も同じように書くとなると、手が簡単には動かない気がした。
「嫌だったら、無理にじゃなくて」
「嫌じゃない。何を書こうか、一瞬考えた」
慌てて顔を戻すと、莉緒は口もとを緩めた。
「長くなくていいよ。上手な文章じゃなくてもいい。私にくれるのが嬉しいから」
「分かった。書く」
答えてから、当日まで中身は聞かないでくれと頼んだ。彼女は聞かないと頷き、それから、でも忘れないでねと笑った。俺は忘れないと返した。覚えているどころか、帰る途中からもう書き出しを考え始めていた。
日曜、時計の下で待っていると、莉緒が小走りにならない速さで近づいてきた。明るい色のコートの下から、深い青緑のスカートがのぞいている。髪は後ろへまとめ、耳の横に残った毛先が歩くたび揺れた。
「お待たせ。寒かった?」
「今来たとこ。服、それにしたんだ」
言ってから、俺は自分の言い方に少し困った。それにした、と言っても、俺が候補を知っていたわけではない。莉緒が続きを待っているので、スカートへ目を向けた。
「歩いた時、色が変わって見える。さっき遠くから来た時は、もっと青いと思った」
「そうなの。光でちょっと違うんだよね」
彼女は嬉しそうに裾をほんの少し広げた。風が入ったのか、すぐ手を戻して笑う。
「広げる場所、間違えた。続きはあったかいとこで」
「似合ってる。それ、先に言えばよかった」
「今、聞けたからいい」
莉緒は俺の横へ来て、手を差し出した。俺はその手を握り、一緒に駅へ向かう。服を見てほしいと言われた時は、何を言えるだろうと心配したが、彼女が嬉しそうにしていると、俺も次の言葉を探したくなった。
電車では二人で案内を見た。俺は展示物より先に、会場の写真に写った古い床の模様が気になった。莉緒へ話すと、そこを見るのかと笑われたが、その模様も好きだと指を寄せてくる。
「服のこと、分からないところ聞いてもいい?」
「私にも分からないの、いっぱいあるよ。一緒に説明読も」
彼女に全部を案内してもらうつもりで来たわけではないが、その言葉で肩の力が抜けた。知らないことを知らないまま口に出せる方が、二人で見に行く楽しみになる。
駅ビルへ着いて上の階へ移動すると、広い店内の賑わいが扉一枚で静かになった。それぞれ自分の入場料を払い、入口の注意を読む。展示品は触らず、室内の撮影もできない。俺はスマホを鞄へ入れた。
最初の服は、正面から見ると細く見えたのに、横へ回ると背中が大きく膨らんでいた。莉緒と並んで眺め、こんなに違うのかと声を落として言う。
「座る時、どうするんだろう」
彼女も横へ回り、説明文へ目を向けた。飾りとしての形や、その時代の着方について短く書かれている。全部を理解できたわけではないが、今の服と同じつもりで見ていたのは分かった。
「写真の正面だけ見てたら、分かんなかったね」
「うん。後ろ側、こんなになってると思わなかった」
俺が言うと、莉緒はもう一度、入口の方へ少し戻った。最初は素通りしかけた袖の後ろを見たいらしい。俺も一緒に戻り、さっきとは違う位置から眺めた。
奥には、普段にも着られそうな上着が展示されていた。前を留める部分が斜めに走り、裾の片側だけが長い。俺は着る時に迷いそうだと思ったが、莉緒はその形が好きだと言う。
「まっすぐじゃないところが、かわいい」
「俺、最初にどっちへ引っ張るか考えた」
小声で答えると、彼女は口を押さえて笑った。俺も説明を読んで、思ったほど複雑に着るわけではないらしいと知る。見た形だけで難しそうだと決めていた。
その隣の服では、俺の方が先に立ち止まった。薄い色の布が重なり、間から濃い色が少しだけ見える。動いたらどう見えるだろうと思ったのだ。
「これ、歩いてるところ見たい」
「私も思った。展示だと止まってるけど」
莉緒は俺の目線を追い、裾の重なりを見た。彼女と同じことを思えたのも嬉しかったが、次の服では全然違うところを好きだと言っていて、それも面白かった。
一周を終え、まだ時間があったので、好きだった物をもう一つずつ見直すことにした。莉緒は斜めの上着へ、俺は重なった布の服へ戻る。どちらかの好きな方だけで帰らなくてよかった。
展示室を出てから、同じ階の休憩用の椅子に並んで座った。彼女は鞄から小さな水筒を出し、俺も持ってきた飲み物を一口飲む。暖房の中を歩いていたので、冷たい外へ出る前にひと息つきたかった。
「どうだった?」
莉緒に聞かれ、俺は、服を後ろからこんなに見たのは初めてだったと答えた。彼女は笑い、自分も説明を読んで初めて分かったところがあったと話す。
「航平が、歩くところ見たいって言ったやつ。ああいうの、私、作れたらいいなって思った」
「動いた時の形も考えるんだよな」
「うん。まだ、どうしたらいいか分かんないけど。作るところも見たくなった」
その声は、将来を決めたという宣言より、今、見たいものが一つ増えたという調子だった。俺は、学校で聞くことがまた増えたなと返す。莉緒は頷き、今日は遊びに来たのに結局学校のことも考えてしまったと笑った。
「好きだから気になるんじゃない?」
「そうかも。今の、ちょっと嬉しい」
彼女は俺を見たあと、自分のスカートへ視線を落とした。俺も目を向け、入口で見た時と光が違うので、今は緑の方がはっきり見えると伝える。
「そんなに見てたんだ」
「見てって言っただろ」
「言った。言ったけど、嬉しい方のびっくり」
莉緒は笑い、膝の上で指を重ねた。展示の服には触れなかったが、俺の袖はつまめる。彼女がほんの少し引いたので、俺も身体を寄せた。肩が触れる距離で座っていると、周りの人の話し声もあまり気にならなかった。
そのあと、一階で焼き菓子を一つずつ選んだ。彼女は自分が食べたい物を自分で決め、俺も違う種類を買う。持ち帰りにして、それぞれの家で食べることにした。二人ともまだ見ていたかったが、家で食べる時の楽しみに残すことにした。
改札へ向かう途中、莉緒が手紙のことを言いかけ、やめた。
「聞かない約束だった」
「今のは、もう半分聞かれた気がする」
「何にも聞いてないよ。今、手紙、って思っただけ」
俺は笑い、ちゃんと覚えていると伝えた。彼女はありがとうと答えたが、そのあとの電車でも時々俺の顔を見ていた。楽しみにしているのが分かると、嬉しいのに、書き始める時の緊張が少し増した。
家で便箋を前に置いたのは、その夜だった。駅の近くで買った、小さな線だけが入った便箋と封筒の組だ。スマホなら書き直せるのに、紙に一文字目を書くと、続きまで決めなければいけない気がする。
最初は、今日の展示の感想を書きかけた。だが、それではさっき帰りに話したことを、もう一度長く説明してしまう。別の紙に考えを書いてみても、誕生日を祝うというより、一緒に出かけた場所の一覧になった。
もらったカードを引き出しから出そうとして、手を止めた。彼女の言葉をお手本にすると、自分が今言いたいことまで、似た形に直してしまいそうだった。大事にしまったまま、俺は新しい紙を一枚出した。
何をしてもらったかより、俺が何を嬉しいと思っているか。そこから書く方が、少し進んだ。
夕食に呼ばれて席を立つと、弟が俺の手を見て、どうしたのと尋ねた。ペンの跡が指についていたらしい。手を洗いながら、手紙を書いていると答えた。
「彼女に?」
「うん。誕生日」
「見せてくれないやつだ」
「分かってるなら、聞くなよ」
弟は笑い、分かってるともう一度言った。母はご飯をよそいながら、おめでとうは当日にも言うのかと聞く。俺はもちろんと答え、手紙で全部済ませるつもりはないと気づいた。
それなら、紙の上で今後の会話を全部先回りしなくてよい。考えがまとまってから話すだけではなく、彼女に聞かれたり、自分から聞きたくなったりする時間が、この先にもある。
部屋へ戻ると、さっきまで削りすぎていた言葉を少し戻した。きれいに言い換えるより、俺が口に出せそうな文にする。便箋は一枚で収まり、最後に名前を書くと、予想していたよりずっと照れくさくなった。
封筒に入れる前に読み直し、誕生日に渡す物だと分かるよう、最初の一行だけは真っすぐに書いた。
当日が近づいた放課後、俺は一人で駅の近くの菓子店に寄った。日曜に彼女が選んだ物と違う味を少し添えたくなったのだが、夕食にケーキもあると聞いている。大きな箱より、別の日にも食べられる小さな物にしたかった。
棚の前で迷っていると、店員に袋が必要か聞かれた。俺は欲しい物を決めてからお願いしてもいいかと答え、もう一度表示を見る。見た目の大きさではなく、彼女が日曜にどんな味を気にしていたかを思い出した。
二つ選んで包んでもらい、支払いを済ませる。帰ってから封筒と一緒に持ってみると、手紙の方がずっと軽かった。それでも、先に渡したいのはそちらだった。
鞄の教科書に挟んだら曲がりそうなので、家にあった薄いファイルへ封筒を入れた。何度も出し入れすると角を傷めそうで、最後の確認だけして閉じる。翌日の分のノートを揃えていると、いつもの学校へ持っていく物の中に、一つだけ普段と違う物があるのが不思議だった。
二月六日の朝、いつもの時間に莉緒へおめでとうと送った。すぐに返ってきたありがとうのあとに、今日も学校でねと続く。俺は鞄の中の封筒を確かめ、朝食を食べに階下へ下りた。
教室に着くと、高瀬さんが莉緒へ小さな包みを渡していた。俺は少し離れた自分の席へ行き、二人が話し終えるのを待つ。先に会ったからといって、今日の彼女の時間が全部俺のものになるわけではなかった。
莉緒はこちらを見つけると、席の間を通って来た。
「おはよう。十七歳になりました」
「おめでとう。ようこそ」
「航平、二か月ちょっと先なだけじゃん」
俺がそうだけどと笑うと、彼女も笑った。十七歳の彼女の声は、昨日までと同じだった。それでも今日の顔を覚えておきたくて、普段より少し長く見てしまう。
「何?」
「今日、放課後、楽しみだなと思って」
言うと、彼女はすぐに目をそらさず、私もと返した。そのあとで予鈴が鳴り、二人とも慌てて席へ戻る。特別な日にも、授業はいつもの時刻に始まった。
昼休み、拓海から、もう贈り物渡したのかと小声で聞かれた。俺は放課後と答えたが、中身までは話さなかった。彼はそれ以上聞かず、午後の移動教室の用意を始める。
ノートを持ち替える時に紺の筆箱が手に当たり、俺は少し笑った。贈り物は、渡す日が終わっても生活の中にある。俺が用意した紙も、そういう物になれば嬉しいと思った。
放課後は昇降口で待ち合わせ、駅前まで歩いた。日の当たる場所でも風は冷たく、長く外に座るより店に入ろうと二人で決めた。駅の近くの喫茶店に空いている席があり、俺は紅茶、莉緒は温かいミルクティーを頼む。それぞれ五百円で、自分の分を払った。
「今日、家で何食べるの?」
「お母さんに、クリームのパスタってお願いした。ケーキはお姉ちゃんが選ぶって」
「いいな。楽しみだな」
「うん。だから、お腹空けて帰る」
彼女が言い、二人でメニューを閉じた。目の前の人と会いたいから、家の楽しみを遠慮して隠す必要はなかった。俺は鞄から封筒を出し、テーブルの上を避けて両手で渡す。
「誕生日おめでとう。これ、手紙」
「ありがとう」
莉緒は受け取ると、封筒の表に書かれた自分の名前を見た。そのまま開けかけ、一度手を止めて俺を見上げる。
「今、読んでいい?」
「うん。声に出さなかったら」
「出さない。私が読むやつだから」
彼女は笑って封を開き、折った便箋を広げた。俺はそれを見ているのも落ち着かず、窓へ視線を移した。店の外を人が通り、隣の席ではスプーンの当たる音がしている。彼女だけが静かになったので、その時間が思ったより長く感じた。
書いたのは、誕生日を祝う言葉と、今の気持ちだった。
莉緒が好きなものを話す時、俺も知らなかったところを見たくなる。一緒に行く時に俺の希望も聞いてくれることが嬉しい。嬉しいと思ったことをすぐに言えない日もあるが、これからも会いたいし、俺からも誘いたい。十七歳の莉緒とも、また出かけたい。
最後の、好きだよ、は書いたあとに消さなかった。言い慣れてきたつもりでも、文字にすると別の恥ずかしさがあった。
彼女が便箋を下ろし、ありがとうと言った。顔を戻すと、笑っていたが、さっきより頬が赤い。
「頼んでよかった」
「そんなに、ちゃんと書けた?」
「ちゃんとっていうか、航平が書いてくれたって分かる」
莉緒は一度紙へ目を落とし、折り目に沿ってゆっくり畳んだ。それから、すぐにしまわず封筒ごと膝の上へ置く。
「長いと大変かなって、短くていいって言ったけど。これ、何回も読めるから嬉しい」
「何回も、は先に言わないでほしい」
「もう二回目、読みかけた」
俺が困ると、彼女は声を抑えて笑った。俺もつられて笑い、届いた紅茶を一口飲む。思っていたより熱く、ゆっくりカップを戻した。
物のプレゼントも考えたが、本人が欲しいと言った手紙を、別の品の添え物にしなくていいと思った。小さな焼き菓子の袋も鞄に入れてきたので、食べるのは後でと伝えて渡す。先日とは違う味を選んだと言うと、家で食べる楽しみが増えたと喜んでくれた。
「私、欲しいって言うの、まだちょっと迷うね」
莉緒は封筒の端を指でなぞった。
「手紙って、お願いしてもらうの違うかなって思った」
「俺は、言ってくれてよかった。書いてる時は、難しいなと思ったけど」
「うん」
「もらって嬉しかったから、俺も渡したいとは思ってた。でも、欲しいって聞けたのは、もっと嬉しかった」
自分で言いながら照れくさくなり、俺はカップへ手を戻した。莉緒は紙をしまい、今度は鞄の口をきちんと閉じる。
「じゃあ、またいつかお願いするかも」
「今日の帰りに、明日もって言われたら困る」
「毎日提出にはしないよ」
二人で笑ったあと、彼女は声を少し落とし、好きだよと返してくれた。俺はありがとうと答えたが、それだけでは足りず、目を見て同じ言葉を返した。
店を出る時には、外の明るさが少し変わっていた。夕食まで余裕を持って帰れる電車を確かめ、改札まで手をつなぐ。莉緒は途中で立ち止まり、握った手を引いた。
「今日、もう一個お願いしてもいい?」
「何?」
「来年も、誕生日、最初におめでとうって言って」
俺は少し考え、最初の人になれるかは分からないと答えた。家族の誰かが早く起きて声をかけるかもしれない。彼女はそれもそうだねと笑い、じゃあ航平が言いたくなった時間に、と言い直す。
「それなら、朝」
俺が言うと、莉緒は、じゃあ楽しみにしてる、と手を握り直した。まだ先の日の、難しくない約束だった。
帰宅した夜、彼女から届いたのは、家の夕食がおいしかったという話と、手紙を自分の引き出しへしまったという報告だった。写真は添えられていない。俺も見せてもらおうとは思わず、読んでくれてありがとうと送った。
『こちらこそ。十七歳の私とも、よろしくね』
画面の向こうの彼女に、よろしく、と返す。誕生日に欲しいものを聞いて、俺まで嬉しいものをもらった日だった。




