第56話 今年、行ってみたいところ
新しい年の最初のメッセージは、零時から少したったところで届いた。莉緒の家でも家族で年越しをしていたらしく、挨拶のあとに、姉とみかんを食べていると書いてある。
『あけましておめでとう。今年もよろしく』
俺は同じ言葉を返し、こちらは弟がまだ眠くないと言っていると付け足した。自分も、いつもより少し遅くまで起きていた。居間からは、さっきまで元気にしゃべっていた本人の声が聞こえなくなっている。顔を上げると、ソファの端で目を閉じていた。
『と思ったら、寝そう』
『うちも、お母さんが同じこと言ってた』
莉緒から笑っているスタンプが届く。写真を送らなくても、それぞれの家の様子が少し浮かんだ。
冬休みに入ってから、毎日は会っていない。二十五日は父と弟との買い物を済ませ、午後は課題を進めた。莉緒は結局姉と出かけ、何を見たか夜に話してくれた。年末の数日は家の片付けが続き、連絡が短い日もあった。
それでも、次に会う日は決めていた。一月四日の十三時、いつもの時計の下。彼女の父親に教えてもらった古い道を、二人で歩いてみる。お互い家の用事を確かめ、昼食を済ませてから会うことにした。
年が変わったからといって、急に違う二人になるわけではない。俺はスマホへ登録した待ち合わせを一度見て、おやすみと送った。莉緒も同じ言葉を返し、会話はそこで終わる。家族のいる居間へ戻ると、弟はもう眠っていた。
一日の午後、家族と近くへ出かけた。特別遠い場所へ行くのではなく、近所で用事を済ませてから少し歩く。いつも開いている店が閉まっているだけで、同じ道も静かに感じた。
父が来年は受験の年になるなと言ったのは、帰宅してお茶を飲んでいる時だった。正確には今年、三年生になる。父は言い直し、俺もカレンダーを見て頷いた。
「年が変わると、急に近くなるね」
「うん。今のうちに、調べたいところをちゃんと調べておきたい」
俺は大学の紙を全部その場へ出すことはしなかった。ただ、二つ見たところで興味がある部分と、今後確かめたい部分が分かれてきたと話した。
まだ学部も進学先も決めていない。でも、何となく大学へ行くとだけ言っていた頃より、聞きたいことがある。三学期に先生と話せる時に、もう一度相談したかった。
「困ったら聞いて。お父さんが分かることとは限らないけど」
父はそう言ってカップを置いた。俺も、分かる人に聞くところから探すと答える。全部父に決めてもらうのでも、全部一人で抱えるのでもなかった。
弟は横で、俺が大学へ行く頃には自分も受験だと言った。学年を頭の中で数えてから、俺はそうかと顔を上げる。いつも同じ家にいても、それぞれの予定は先で変わっていく。
「お前も、見たい学校できたら言えよ」
「まず自分の決めてよ」
「それはそうだけど」
俺が笑うと、父も笑った。兄だから先のことを全部知っているわけではない。そのことは弟にも、随分前から知られている。
二日の午前中、俺は部屋の本を一度整理した。借りていた街の本は年末までに読み終え、学校の図書室が開いてから返すため、鞄とは別にまとめて置いてある。木のしおりを抜くと、厚みのなくなった本が少し違って見えた。
気になって写した言葉を読み直し、そのまま使うと意味が違ってしまいそうなところへ印をつける。自分で歩いて見たことと、本に書かれた話が似ているからといって、全部同じ条件ではない。
そのあと課題を進めていると、拓海から短い挨拶の続きが来た。家で年始の用事を済ませ、昨日はほとんど本を読めなかったという。俺も似たようなものだと返すと、彼は今日少し読むつもりだと送ってきた。
『今年、またどっか歩こう』
俺から送ると、返事はすぐだった。
『行こう。今度は飯の候補、俺も出す』
俺は笑って、頼むと返した。相手が楽しめるか心配する癖はまだ残る。けれど、全部俺が用意して相手に評価してもらう外出にしなくてもよいと、今は少し分かっていた。
昼、弟が俺の部屋へ顔を出し、借りたい本があると言った。俺の本棚の一冊で、前にどんな話か尋ねられたことがある。借りた街の本とは別の文庫だ。
「そこにある。読み終わったら、戻しといて」
「しおり、入ってる?」
「紙のやつなら。そのまま使っていい」
弟は頷き、本を持って部屋へ戻った。木のしおりを別に置いていたので、取り違えなくて済んだ。俺もまた何か読み始めたくなったが、まずは課題を一区切りつけることにした。
三日の夕方、莉緒から明日の確認が届いた。父親に道を見てくると話せたこと、歩けなければ無理に通らないでほしいと言われたことが書かれている。俺も同じつもりだと返し、駅に戻る時間は遅くとも十六時ごろにしようと提案した。
『うん。寒かったら、早めでもいいね』
『そうしよう。店が開いてれば休みたい』
『私も。歩いた話、その時したい』
先に全部の休憩場所を決めていなくても、寒くなったら言える相手となら出かけられる。俺は営業していそうな店の候補を二つだけ見ておき、正月の予定は変わるかもしれないことも伝えた。
その夜、彼女が紙の星を一つ折ってみたという写真を送ってきた。クリスマス前の窓飾りを見て、やってみたくなったものだ。形は少し歪んでいるが、机の上へ置いた影がきれいだった。
『窓には、まだ貼ってない。大きさ、もう少し変えてみたい』
『影、いいな。大きいのも小さいのも見たい』
『作れたらね。今日は一個』
俺はその一個を見せてくれてありがとうと返した。うまくできるまで隠さなければいけないものでも、失敗を全部見せなければいけないものでもない。彼女が今日見せたいと思った形を、俺は今日見られた。
写真を保存してよいか尋ねると、いいよと返ってきた。俺は星の一枚を残し、外出の地図へ戻る。明日は画面の上だけでは分からない道を、二人で歩く。
四日、駅前の時計の下には、莉緒が早めに着いていた。濃い上着に白っぽいマフラー、手袋はいつもの灰色だ。俺に気づくと手を振り、最初に顔を見て笑った。
「あけましておめでとう」
「おめでとう。今年もよろしく」
「メッセージでも言ったけど、顔見て言いたかった」
俺も同じだった。年末に会ってから何か月もたったわけではないのに、今日の挨拶だけは少し改まる。
莉緒は俺の鞄を見て、水は持ってきたか確かめた。俺も頷き、今日は少し歩いたら温かい店へ入ってもよいと話す。冬の道をずっと外だけで歩くつもりはなかった。
駅前を出て、彼女の家へ向かう方へ進む。今日は家へ上がる用事ではないが、父親にも道を見てくると伝えてあるらしい。まだ歩ける道か、最近の様子までは分からないので、無理に通らないよう言われたという。
「つながってなくても、それはそれで今の道だしな」
俺が言うと、莉緒は頷いた。
「うん。行き止まりだったら、ちゃんと戻ろ」
「今日、先に言っておくことになった」
「航平、迷路でも言ってたし」
彼女が笑い、俺も笑う。父に昔の話を聞いた時から、確かめたい場所が一つ増えていた。それを一緒に見られるだけで、もう十分楽しみだった。
大きな通りから一つ曲がると、道幅が少し狭くなった。住宅の塀や庭が近くなるので、スマホを出す前に周りを見る。人の暮らしている家を見物するようには歩きたくなかった。
教わった角の辺りでは、舗装の色が変わっていた。俺は道の端へ寄り、地図と見比べる。
「この辺だと思う」
「今は、あっち通る人が多いよ。私もそっちばっかりだった」
莉緒が示したのは、車の通る広い道の方だった。俺たちは歩ける範囲を見ながら、細い道をゆっくり進んだ。
先へ行くと、建物の間から小さい水路が見えた。道自体は曲がって続いているが、昔は直進できたという場所は、今は通れない。立ち入らずに分かるところから眺め、俺は地図を閉じた。
「ここまでが分かって、よかった」
「写真、撮る?」
「道の曲がり方だけ、家が大きく入らない角度なら」
人が通るのを待ち、俺は足元から先の道を一枚撮った。昔の姿と比較できる資料を持っているわけではないので、これが昔の名残だと言い切るつもりはない。ただ、今日ここを歩いた時の記録だった。
莉緒は画面をのぞき、いつもと違う道に見えると言った。彼女にとっては、家の近くなのに来たことのなかった道だ。
「今度、お父さんにも見せていい? この曲がるところ」
「いいよ。聞いた場所が合ってるかも、確かめたい」
俺は道だけの写真を送り、彼女も保存した。自分の記録を、教えてくれた人と話すために使えるのは嬉しかった。
歩きながら、莉緒は子どもの頃によく行った公園の方向を教えてくれた。今日の道とは少し離れているので、無理に寄らず、今度と話す。知っている場所が違えば、一緒に歩いても教えてもらうことは尽きなかった。
「私、航平が来なかったら、ここ歩かなかったと思う」
「俺も、お父さんに聞かなかったら知らなかった」
「じゃあ、三人分だね」
莉緒がそう言って笑う。父親がいなくても、教えてくれた話が今日の道につながっていた。
通りへ戻ったところで、彼女がパン屋の前へ目を向けた。店の看板に惹かれたらしいが、今日は休みの札が出ている。俺たちは入口へ近づきすぎず、外から案内を見た。
「開いてたら、ちょっと見たかった」
「正月だからな。また来る?」
「うん。覚えておく。今日は違うところでもいい」
彼女は自分のスマホへ短くメモをした。俺が先回りして全部保存するのではなく、彼女も自分の見たい場所を残している。それを隣で見ているのが、何となく嬉しかった。
しばらく歩き、営業している小さい喫茶店を見つけた。入口の案内と空席を確かめ、二人で入る。暖房のあるところへ入ると、肩に力が入っていたことに気づいた。
俺は紅茶、莉緒はミルクティーを頼んだ。それぞれ五百円で、今日は食べ物は注文しない。上着を脱ぎ、鞄を足元へ寄せると、彼女が手袋を丁寧に揃えた。
「この手袋、まだ使ってるねって思ってる?」
俺が見ていたのに気づいて尋ねられ、少し笑った。
「うん。俺、その色好きだなって」
「私も。前に家にあったの見直して、よかった」
彼女は手袋を鞄へ入れ、俺の上着の袖を見た。俺も、着る物や持ち物が新しいものだけに変わるわけではない。ただ、選ぶ時に自分の好きな方を言うことは、少しずつ増えている。
席へ着いてから、俺は鞄の中に入れてきた地図のメモを出した。父親に教わった角を忘れないよう書いた小さい紙で、今日歩いたところへ印を足してある。
「これ、航平の字?」
「うん。急いで書いたから読みにくいな」
「角って書いてるの、魚かと思った」
莉緒が指した文字を見て、俺も少し黙った。自分で書いたのに、言われると魚に見える。
「道の魚は、ちょっと困る」
「泳いで行かないと」
俺たちは笑い、俺はその場で文字を書き直した。きれいにまとめることより、後から読んで分かることが先だった。
莉緒は自分のスマホに残したパン屋のメモを見せた。こちらは入口の場所と、今日は休みだったことが書かれている。次に来た時、同じ場所でまた閉まっていると困るので、営業日も後で確かめたいらしい。
「見たいところ、自分でも残すようになったね」
「うん。航平に言えば覚えててくれるかなって思う時もあるけど、私も忘れたくないし」
彼女はそう答え、スマホをしまった。俺が全部記録しておく役にならなくても、二人で相談する材料は増えていく。それが頼もしくて、俺は笑った。
飲み物が届くまで、俺たちは地図をもう一度見た。歩いてきた道を指でなぞり、どこで曲がったか確かめる。莉緒は父親が聞いたら話が増えそうと言い、俺もまた会えたら聞きたいと答えた。
「今年、したいことある?」
莉緒が尋ねたのは、カップを持って一口飲んだあとだった。俺は少し考え、大学のことをもう少し自分で調べて決めたいと答える。
「すぐには分からなくても、見たことある言葉だけで選ばないようにしたい」
「うん」
「莉緒は?」
「私も、学校のこと。二つ見たから、今度は自分がそこで何してみたいか、ちゃんと考えたい。何となく雰囲気が好き、だけじゃなくて」
彼女は言ってから、雰囲気が好きなのも本当だけどと付け加えた。俺も頷く。最初に好きだと思うところを消して、全部難しい理由へ置き換える必要はないのだろう。
「楽しそう、から始まってもいいと思う。俺、大学のことも、先に街歩きが面白かったからだし」
「じゃあ、その先を調べる感じかな」
「うん。俺もそうしたい」
彼女はカップを見て、少しだけ黙った。俺は急がず自分の紅茶を飲む。話が途切れたからと、代わりの目標を用意する必要はなかった。
「あと、航平に言いたいことあるんだけど」
莉緒が顔を上げた。
「うん」
「今年は、会いたいって言ったあと、無理なら無理でちゃんと聞きたい。言っただけで、相手に絶対そうしてって押しつけることになる気がして、まだ迷う時あるから」
俺は頷いた。土曜の午後に勉強をしたかった自分と、会いたいと思っていた彼女の話を思い出す。
「俺も、自分ができるかどうか言う。聞かれて嬉しいのと、今回は無理なの、両方あるかもしれないし」
「うん。そう言ってもらえると助かる」
「俺が誘った時も、そうしてほしい」
莉緒は笑って頷いた。毎回理想どおりに言えるとは思わない。けれど、言い方を間違えた時に、もう一度話すところから始められたらよかった。
彼女がカップを置き、今度は少し明るい声になった。
「真面目な話ばっかりになった。遊びたいところもあるよ」
「俺もある」
「どこ?」
「春になってから、まだ行ってない駅の方。前に調べて、坂の上に道があるの見つけた」
「私、雑貨のイベント見たい。日にちはまだ調べてるところ」
季節も場所も同じではない。俺はどちらかへ合わせる前に、両方の話を聞きたいと伝えた。彼女も頷き、日が決まったら相談しようと答える。
今年の予定を今から全部完成させなくてもよかった。今年、行ってみたいところがあると口にできただけで、休みの先が少し楽しみになった。
店を出たあと、近くの広い道を少し歩いた。風は冷たかったが、店で温まったので、二人ともまだ少し外にいたいと思っていた。時間を確かめ、十六時前には駅へ戻ることにする。
莉緒が手を差し出し、俺も握った。手袋越しなので、いつもとは指の感触が違う。それでも、隣で同じ速さで歩いているのは分かった。
「今年の最初の外出、知らない近所だったね」
「近所なのに知らないところ、まだ多そう」
「また一緒に見つけたい」
彼女が言い、俺もそうしたいと返した。予定を増やすために新しい場所を必死で探すのではなく、気になった時に話せる相手がいる。それが俺には嬉しかった。
駅の少し手前、人が少なくなった場所で、莉緒が立ち止まった。俺も隣へ寄り、どうしたのか顔を見る。
「ちょっとだけ、くっつきたい」
彼女は言ってから、周りの通行を確かめた。俺も頷き、端の広いところへ移る。
「俺も」
手を離して、鞄が間に当たらないよう肩を直した。彼女が近づき、上着越しに短く抱きしめ合う。マフラーが頬へ少し当たり、莉緒がくすぐったいと笑った。
俺は腕の力を少し緩め、彼女の顔を見た。近い位置にいても、何でも同じようにしたいと決めているわけではない。キスしたいかと聞くと、莉緒は頷き、したいと返した。
短く唇が触れて離れる。冷たい空気の中で、そこだけ暖かかった。彼女は俺の袖を軽くつかんだまま笑い、今年も好きだよと言った。
「俺も、好き」
俺が返すと、彼女が少し照れたように目を細める。年が変わる前から好きだった。それでも、今の声で伝えることは、また別に嬉しかった。
しばらくして腕を離し、二人とも鞄とマフラーを直した。駅へ向かう間は、また手をつないだ。別れ際、始業してから学校で会えるのも楽しみだと莉緒が言い、俺も頷く。
休みの外出だけが二人の時間ではない。教室で挨拶して、昼に友達と話し、帰り道で今日のことを聞く。その日々へ戻ることを、去年より少し楽しみにしていた。
帰宅してから、莉緒は父親へ道の写真を見せたと連絡してきた。場所は合っていたが、曲がり角の先に前は小さい店があったらしいという。俺はまた知らない話が増えたと思い、教えてくれてありがとうと返した。
俺の家でも、父へ歩いた道の話をした。地図の線だけで何でも分かった気になれないと話すと、父は、実際に行ったら聞きたくなることも増えるねと頷いた。
夜、冬休みの課題を見直した。終わった範囲と、まだ残っている範囲を分ける。休みがもう少し続くからと、全部最後へ寄せるのは避けたかった。
机の端に置いた木のしおりを、次に読む自分の本へ挟んだ。借りた本は返すまで別に置いてあるので、持ち出す時に忘れ物をしなくて済む。小さい道具の場所を決めるだけでも、明日の支度は少し楽になった。
新しい筆箱からペンを取り、明日進めるところへ印をつける。莉緒と話した今年の希望も、今日の散歩も、それだけで大学を決める答えにはならない。それでも、自分で行って確かめたい気持ちは、前よりはっきりしていた。
寝る前、莉緒へ明日は課題を進めると送った。彼女も同じだと返し、終わったらまた話そうと言った。今すぐ会う日を決めるのではなく、話したくなった時に声をかける。それも、今年の二人にできる約束だった。




