第54話 試験のあとで、うちにおいで
月曜日、俺は昼休みが終わる前に数学の先生をつかまえた。土曜に解けないまま残した一問を開き、答えの数字ではなく、途中のここから分からなくなったと指で示す。
先生は問題を読んでから、俺が書いた条件の横へ小さい丸をつけた。
「ここまでは使えてるね。次は、同じ場合を二回数えていないか見てみよう」
言われた箇所を見直すと、自分で分けたつもりの範囲が端で重なっていた。解説の一行が何を直しているのか、ようやく分かる。
礼を言って席へ戻り、忘れないうちに書き直した。すぐ近くに来た莉緒が、聞けた、と小声で尋ねる。俺は頷き、二回数えていたことを説明した。
「じゃあ、問題は一個なのに増やしてたんだ」
「仕事を自分で増やしてた」
「お疲れさまです」
彼女が真面目な顔で言うので、俺は笑った。分からなかったことを一つ直しただけで、数学全部が得意になるわけではない。それでも、聞きに行こうと思っていた用事が済むと、机の上が少し片付いたような気分になった。
そこから数日は、試験へ向けて授業と復習が続いた。莉緒とも毎晩電話をする約束は作らず、分からない問題や、今日見たことを短く送り合う。返信が翌朝になった日もあったが、教室でおはようと言えば、それで続きを話せた。
拓海も高瀬さんも自分の範囲を進めていて、昼に四人集まってもずっと勉強の話ばかりにはならなかった。だが、予鈴が鳴る少し前になると、それぞれ自然に紙を片付ける。誰かだけが一人で焦っている感じではないのが助かった。
試験最終日、最後の答案が集められると、教室の空気がまとめて緩んだ。拓海は椅子の背にもたれ、しばらく何も書かなくていいと言ったあと、鞄から提出用の紙が出てきたことに気づいて顔をしかめる。
「終わりじゃなかった」
「それ、今日出すやつだろ」
俺が言うと、彼は頷き、まだ教卓にいた先生へ持っていった。戻ってきた顔は、本当に一つ用事を終えた人のものだった。
「三原は、どうだった?」
「できたと思うのと、迷ったのがある」
「それ以外があったら逆に聞きたいな」
俺も笑い、教科書を鞄へしまった。試験が済んだから全部忘れて遊べる、とは思わない。けれど、返ってきてから見直すことと、今この時間にできることは別だった。
莉緒は高瀬さんと話してからこちらへ来た。筆箱を鞄へ入れる手つきが、いつもよりゆっくりに見える。
「お疲れさま。今日、帰りちょっと話せる?」
「うん。俺も話したかった」
日曜に俺の家へ来る候補のことを、試験前に一度伝えていた。家の予定が合う日に短く、という話から、今度の日曜の十四時なら両親とも家にいると分かったのだ。莉緒も家で確かめて、試験が済んだ今日、最後に相談しようとしていた。
校門を出てから尋ねると、彼女は行けると答えた。
「三時半くらいまででいい? 夕方から家で用事あるから」
「うん。うちもそのつもり。駅まで迎えに行く」
「ありがとう。お母さんとお父さん、両方いるんだよね」
俺が頷くと、彼女はマフラーの端を持ち直した。以前俺が同じ確認をした時のことを思い出す。
「緊張する?」
「する。航平の家、初めてだし」
「俺も、来てもらうの初めてで緊張する」
「何で航平まで」
「莉緒も、そうだったって言ってたろ」
彼女は少し驚き、それから、確かにそうだと笑った。招く方なら全部分かっているわけではない。そのことを知っているだけで、俺も落ち着けた。
帰り道、彼女は俺の弟が在宅か尋ねた。家にいる予定だが、友達との用事が入るかもしれないと答える。
「会わせるために予定、変えなくていいからね」
「うん。それは分かってる。本人がいたら紹介する」
「よし。私も、靴間違えないようにしよ」
拓海から聞いた失敗の話を、彼女も覚えていた。俺が笑うと、莉緒も笑い、手をつないできた。試験が終わった日の帰り道に、やっと指の力まで抜けた気がした。
試験が終わった翌日、返ってきた科目の答案を見直した。丸が増えたところは嬉しいし、前と同じ間違いが残っているところは悔しい。点数だけを見てしまうと、どちらも一度に押し寄せて落ち着かなかった。
拓海は自分の答案と問題を並べ、ここの読み方を間違えたと呟いていた。俺が横から見る前に、彼は問題文の一箇所へ線を引く。
「答え知ってから読むと分かるんだよな」
「試験の時にも同じところ見てたはずなんだけどな」
俺が言うと、拓海は頷き、次は最初に線を引くと自分の紙へ書いた。俺は自分の解き方を彼のものに重ねず、途中式のどこで急いだかを探した。
莉緒は高瀬さんと答案を見ていた。二人で話しても分からないところは、あとで先生へ聞きに行くらしい。俺も解けるふりをしてその場へ加わることはしなかった。
昼、彼女は前に止まったところが今回は解けたと話した。全部できたのではないが、自分で考えて進めた一問があったのだという。
「そこ、嬉しかった」
「うん。やった分、使えたんだな」
「でも、違うところで計算間違えた。悔しい」
莉緒はそう言って笑い、次に確かめる箇所へ印をつけた。喜ぶことと悔しがることは、片方だけにしなくてもよいらしい。俺も自分の答案を開き、直したいところをもう一度見た。
放課後は、友達と駅まで歩いた。拓海が試験後に本を読み始めた話をし、高瀬さんは妹と作る予定のおやつをどうするか考えていると話す。俺と莉緒の日曜の用事だけが、全員の話題にはならなかった。
「お邪魔するの、緊張するよね」
別れる前に高瀬さんが言い、莉緒は大きく頷いた。
「する。でも、行きたいから」
俺は隣でその返事を聞き、招く日を決めてよかったと思った。心配が全部なくなるまで待っていたら、いつまでも玄関の前へ進めない。
家へ帰って、母に莉緒の飲み物の好みを聞かれた。温かいお茶で大丈夫か本人へ確かめると、それが嬉しいと返ってきた。俺が代わりに何でもいいと答えなくて済んだ。
土曜の夕方、弟は翌日家にいる予定だと話した。俺が無理に居間へ来なくていいと言うと、本人も最初に挨拶はしたいと答える。
「写真だけ知ってるの、何か変だし」
「分かった。いたら紹介する」
「俺、何か変なこと言うかもしれないけど」
「それは俺もだと思う」
弟は少し笑い、自分の部屋へ戻った。俺は客を迎えるために家族の台詞まで用意しなくてよかった。本人が話したいことは、当日自分で話すだろう。
その夜、莉緒から菓子に食べられないものはないかと尋ねられた。俺が同じことを彼女へ聞いた時を思い出す。母に確かめてから返すと、ありがとうと届いた。
『大きい箱は持っていかないからね』
彼女が書き添えたので、俺は笑った。前に自分が送った冗談が、そのまま戻ってきた。
『片手で持てるくらいなら、大丈夫』
『よし。じゃあ、明日よろしくお願いします』
いつもより少し丁寧な文章に、俺もよろしくと返した。スマホを置いてから、自分の部屋の扉を見た。明日は居間で話すだけで、ここへ案内する予定ではない。それでも、机の上の紙は分けておこうと思った。
日曜の朝、俺は居間の机から自分の本をどけていた。読みかけの街の本と、授業の紙が混ざっていたので、鞄に入れる物と部屋へ戻す物を分ける。
母はカップを出し、父は読みかけの新聞を畳んでいた。弟は自分の雑誌を持ち上げながら、ここ全部片付けるのかと尋ねる。
「全部、何もなくすわけじゃない。座るところと机の上くらい」
「俺の物だけ残ってたら、俺が一番散らかしてるみたいじゃん」
「実際、今そこにあるのはお前のだろ」
弟は笑い、雑誌を持って部屋へ行った。俺は母へ、普段よりきれいにしすぎると帰ったあと戻すのが大変そうだと言った。
「お茶を飲める場所があればいいよ。家を見せる試験じゃないんだから」
母の言葉で、俺はまた試験というものを終えてから別の試験を作りかけていたことに気づいた。机を拭いて、本棚の背表紙が揃っていないのはそのままにした。
昼を食べたあと、莉緒から少し早めに家を出ると連絡が来た。俺も上着を着て駅へ向かう。十三時四十五分、いつもの時計の下へ行くと、彼女は両手で小さい紙袋を持っていた。
「こんにちは」
「こんにちは。寒くなかった?」
「大丈夫。手、温かい方」
彼女が笑い、手袋に包まれた指を少し動かした。今日は淡い色のニットに濃い上着、膝の下まであるスカートを合わせている。いつもより背筋が伸びている気がした。
「服、いいね。その色好き」
「ありがと。今日、何着るかちょっと迷った」
「俺も、行った時そうだった」
正直に言うと、彼女の表情が少し柔らかくなった。俺は紙袋を持とうかと聞いたが、これは自分で持ちたいと答えたので、そのまま歩き出す。
俺の家へ向かう道で、莉緒は何度か周りを見た。普段俺が帰っていく先を、自分の足で確かめているのだろう。
「航平、ここ曲がるんだ」
「うん。雨の日はこっちの方が水たまらなくて歩きやすい」
「そういう道の覚え方、あるね」
彼女が頷き、家の前へ来たところで一度息を吐いた。俺も隣で笑い、扉を開ける。
「ただいま。莉緒、来てくれた」
玄関へ顔を出した母に、彼女ははっきり名乗った。
「藤崎莉緒です。今日はお邪魔します」
俺は横で、自分が彼女の家で聞いた声と違うものを聞いていた。母は玄関の内側へ一歩下がり、彼女が上がりやすい場所を空けた。俺も鞄を持ったまま真ん中に立っていたことに気づき、横へ寄る。案内する側なのに、先に気を回したのは母だった。莉緒が小さく礼を言うのを聞き、俺も靴の置き場所を示した。緊張はしているが、自分の言葉で挨拶している。その姿が好きで、思わず見つめてしまった。
母が挨拶を返し、彼女は持ってきた焼き菓子を渡した。俺が選んだ店とは別のものらしいが、詳しく尋ねるのはあとにした。靴を揃えて上がる彼女を、居間へ案内する。
父も立って挨拶をした。俺と莉緒が隣に座ると、彼女は鞄を置く場所を確かめ、膝の上で指を揃えた。母がお茶を出し、温かいうちにどうぞと言う。
「ありがとうございます」
莉緒は礼を言い、カップを持った。母は、ようやく会えて嬉しいと笑う。俺が写真を見せたことは彼女も知っているので、何の話から始めるかで困ることはなかった。
「文化祭の写真、二人とも楽しそうだったね」
「はい。あの日、ちょっとだけ一緒に回れたんです」
莉緒が答え、迷路の話になった。俺が行き止まりを選んだことを彼女が笑って話すと、父も、道を調べるのが好きでも迷路は別かと笑う。
「地図、なかったから」
「それでも、もう一回行ったら出られたじゃん」
莉緒がこちらを見て言う。俺も頷き、彼女が先に細い道を見つけてくれたことを話した。初めて会う家族の前でも、俺だけを立派に見せようとはしない。あの時二人で笑ったことを、そのまま話してくれるのが嬉しかった。
母は弁当袋の話もした。朝、俺が使っているのを毎日見ているので、本人へ直接礼を言いたかったらしい。
「航平、洗う前にちゃんと確かめてたよ」
「聞いてました。写真も送ってくれて」
莉緒が答え、少し照れて俺を見る。俺は母にそこまで話すのかと言いかけたが、困る内容ではないので、お茶を飲んだ。
「自分で作ったもの、使ってもらえるの嬉しい?」
父が尋ねると、彼女は頷いた。
「はい。最初は、変なところあったらどうしようって思ってたんですけど。使いやすいって言ってくれて、嬉しかったです」
「実際、使いやすいから」
俺が言うと、莉緒が笑った。母も、毎朝見れば分かるねと答える。袋は今日ここにはないが、毎日の中で使っていることは伝わった。
弟が居間へ入ってきたのは、その話の途中だった。俺が紹介する前に、彼は軽く頭を下げて挨拶する。莉緒も笑顔を向けた。
「初めまして。お兄さんと同じクラスの、藤崎莉緒です」
「初めまして。写真、見たことあります」
弟はそれから俺を見て、筆箱のお姉さん、と言いかけて口を閉じた。遅かったので、全員に聞こえていた。
「名前で覚えてくれ」
俺が言うと、弟はごめんと笑った。莉緒も、筆箱ちゃんと使ってると聞いて嬉しいと答える。
「俺も、それ見て片付けました。消しゴム、二個あった」
「二個、便利な時もあるよ。忘れたら貸せるし」
莉緒が真面目に返し、弟は少し考えてから、そんなに貸す時ないと言った。彼女が笑い、俺も笑う。会う前に聞いていた話だけでは分からなかった会話が、その場で始まっていた。
弟は自分の飲み物を取り、少し話したあと部屋へ戻った。無理に座らせず、俺も用事があるなら行っていいと伝える。彼女は手を振り、またねと言った。
母が菓子を皿へ分けてくれる間、父は莉緒の興味について聞いた。服や雑貨を作ることを学びたいと彼女が答えると、俺はその言葉を隣で聞いた。
学校の見学へ行き、二つを比べている。まだ決めたわけではないけれど、使う人のことを考えながら形を変えるのが面白いと思った。彼女は一つずつ、自分の言葉で説明した。
俺は途中で補足したくなったが、急がなかった。父は彼女が話し終わるまで待ち、それなら実物を見た時に気づくことも多そうだねと言った。
「はい。写真で見た時と違ったものもあって」
「航平も、よくそう言って帰ってくるよ」
母が笑い、莉緒は俺を見た。俺は外でも家でも似た話をしているらしい。
「一緒に歩いてる時、私も初めて見るところが増えました」
彼女がそう言ってくれたので、俺はお茶を持つ手を止めた。母は嬉しそうに頷き、父は、うちの近くにもまだ見てない場所があるだろうなと窓の外へ目をやる。
相手の家族に好きな人のことを話す時、悪いところを全部隠す必要も、褒める言葉を無理に増やす必要もないのだと思った。俺の知らないところでも、彼女はこうして自分の選んだ時間を話してくれていたのだろう。
時計が三時を回ると、母はお茶をもう少し足すか尋ねた。莉緒は少しだけお願いし、三時半までに失礼する予定をもう一度伝える。
「夕方、おうちで用事あるんだよね」
「はい。今日はありがとうございました」
「まだ、もう少しいて大丈夫よ」
母が笑い、莉緒も笑った。先に帰る時刻を伝えておくと、そろそろと言い出す時に全部を急がなくて済む。俺もカップを空にし、片付けやすいところへ寄せた。
残りの時間は、家の近くの道の話になった。俺が莉緒の父親に教わった古い道をまだ歩けていないと伝えると、父は今度自分も少し見てみたいと言った。
「まず、俺と莉緒で行ってみようと思ってる」
「うん。そのあと聞かせて」
父はあっさり答えた。みんなで行かないといけない流れにはならず、俺も安心して頷く。莉緒も、自分の家の近くなのにまだ知らないところがあると笑った。
三時半が近づき、俺は莉緒と一緒に玄関へ向かった。彼女は両親へ礼を言い、弟にも声をかける。部屋から返事が聞こえたので、またねと伝えて靴を履いた。
母が寒いから気をつけてと送り出し、父もまた来てねと言った。俺は玄関を閉めてから、彼女の顔を見る。
「お疲れさま」
「ありがとう。ちょっと、肩、固まってた」
「俺もそうだった。帰る時、力抜けるよな」
莉緒は笑い、腕を少し動かした。俺が手を差し出すと、彼女はすぐつないでくれた。
「弟くん、面白いね」
「家だと、もう少しうるさいけど」
「今日、気を遣ってくれたのかな」
「少し緊張してたと思う。本人は言わないかも」
彼女は頷き、また会えたら今度はもう少し話したいと言った。俺は、その時はあいつにもそう伝えると返す。
「航平、私が進路の話してる時、待ってくれてありがと」
急に言われて、俺は彼女を見た。
「俺が説明することじゃないから」
「うん。でも、途中で言葉出なくなったら、いつもなら助けてって顔してたかも。今日は、自分で言いたかった」
「ちゃんと伝わってたと思う。父も聞いてたし」
「そっか。よかった」
莉緒が息を吐き、笑った。自分の家を見てもらうだけの日ではなかった。俺の家族の前で、彼女が自分のことを話す時間もあった。その隣にいられたことが、嬉しかった。
駅へ着く前、二十四日の約束は変わっていないか確かめ合った。試験は済んだが、学校の用事はまだ続く。昇降口で会い、駅の近くで過ごし、十七時には別れる。その短い予定が今は楽しみだった。
「今日、もう一回言っていい?」
莉緒が俺の手を握り直した。
「何?」
「呼んでくれて、ありがとう」
「来てくれてありがとう。俺も嬉しかった」
互いに言って笑い、分かれ道で手を離した。彼女が家へ戻る前に引き止めることはしなかった。残りの用事も、彼女の一日の中にある。
帰宅すると、母がカップを洗っていた。手伝おうと皿を受け取り、俺はどうだったか聞きかけてやめた。人柄の採点を頼みたいわけではない。
「話せてよかった?」
そう尋ねると、母はうんと答えた。
「自分で聞きたいことも話したいこともある子だね」
俺は頷いた。最初から何でも簡単に言えるわけではないことも知っている。それでも、今日話していた莉緒の姿は、確かにそうだった。
夜、彼女から無事帰って家の用事も済んだと連絡が来た。俺も家族がまた会いたいと言っていたと伝えた。返事には、私も、と短くあった。
読みかけの本を開き、木のしおりを脇へ置く。新しい筆箱も、弁当袋も、彼女が来ていた居間も、今はいつもの場所にある。その中に、今日の彼女の声が残っているのが、少しくすぐったかった。




