第52話 莉緒の家で、三原です
莉緒の家へ挨拶に行く話が具体的になったのは、十一月の最後の週だった。昼休みの片付けが終わったあと、彼女が鞄を持ち直しながら、今度の日曜なら両親が家にいると言った。
「前に、会うことあったらって言ってたじゃん。私も、一回ちゃんと紹介したいなって」
俺は弁当袋をしまう手を止めた。以前、母に声を大きくと言われた時から随分たつ。会いたいとは思っていたが、日曜と具体的に言われると、急に玄関に立つ自分が浮かんだ。
「俺も挨拶したい。日曜の午後なら空いてる」
「よかった。じゃあ、お母さんにも話してみる。長くなくていいから」
「何時くらい?」
「二時ごろはどうかな。三時半くらいまで。うちでお茶飲んで話すだけ」
夕食まで一緒にという話ではなかった。俺はその時間ならと答え、家にも伝えてから返事すると付け足した。彼女は頷き、口元を少しだけ緩める。
「そんな面接みたいな顔しなくても大丈夫だよ」
「まだ会ってない人へ、普段の顔が難しい」
「普段の航平で来てほしいんだけど」
笑った彼女に俺も笑い返したが、気が抜けたわけではなかった。俺の名前を知っている人がいる家へ、今度はこちらから行く。写真の中で笑っているだけでは済まないと思うと、背中が伸びた。
その夜、家で話すと、母は最初に時間を確かめ、長居しないようにと言った。俺が三時半までと伝えると、それなら大丈夫そうねと頷く。
「何か持っていった方がいいかな」
「お茶を出してもらうなら、小さいお菓子くらいあってもいいんじゃない。高い物にしなくていいよ」
「自分で買う」
「うん。食べられない物がないか、莉緒さんに聞いてみたら」
それは思いついていなかったので、その場でメモに残した。父は横から、名前を言ったあと一度息をつけばいいと付け加える。緊張して全部一息で言わなくてよいらしい。
「自己紹介、三秒で終わらせようとしなくていいから」
「そんなに急いでる?」
「今、説明してる時は少し」
弟が顔を上げ、俺が玄関で何を言うか試してみてと頼んできた。断ろうと思ったが、母まで笑って見ているので、一度だけ言った。
「三原航平です。今日はお邪魔します」
「ちゃんと聞こえる」
弟の評価はそれだけだった。俺はやらせた方がもっと何か言うのかと思い、拍子抜けして笑う。母も、そのくらいで十分と言って台所へ戻った。
部屋へ戻って莉緒へ返事を送り、お菓子のことを尋ねた。彼女からは、わざわざ気を遣わなくていいけれど、両親とも甘い物は食べると返ってきた。特に食べられない物はないと本人が確かめてくれたので、小さい焼き菓子の詰め合わせを買うことにした。
『うち、そんなに人数多くないからね』
『分かってる。箱を両腕で抱えて行ったりしない』
『それなら安心』
冗談で返し合うと、少し落ち着いた。礼儀を忘れないことと、勝手に大きな行事へしてしまわないことの両方を考えればよかった。
金曜の昼、拓海に日曜のことを聞かれた。莉緒が家へ来る話をしていたのが聞こえていたらしい。俺は挨拶してお茶をいただく予定だと説明し、弁当のふたを閉めた。
「何話すか、考えてる?」
「最初の挨拶は。でも、そのあとまで全部考えたら、逆に変になる気がする」
「面接じゃないしな」
「莉緒にも言われた」
拓海は笑い、自分が友達の家へ行く時は、まず玄関で靴を間違えないようにしていると話した。同じ色の靴が並んでいて、帰りに履きかけたことがあるらしい。
「それ、気づいた?」
「足入れようとして、サイズ違って。履く前には気づいた」
「じゃあ、よかったな」
俺が笑って答えると、彼は、礼儀の話に役立たなかったなと首をかしげた。でも、ちょっとした失敗をしても全部が終わるわけではないと分かるだけで、俺には助かった。
高瀬さんは、家族の好みが分からない時、食べ物を選ぶのは難しいねと言った。莉緒が、先に聞いてくれたから大丈夫と答える。俺が聞くまで、母に言われなければそこまで考えていなかったことは、正直に話した。
「じゃあ、聞いてよかった。お母さんにもありがとだね」
莉緒は俺へではなく、その確認の仕方へ笑った。完璧に準備しているふりをしなくていい。気づかなかったことを教わって、今から確かめれば済むこともある。
土曜の午前、駅の近くの菓子店で小さい詰め合わせを買った。家の人数を考え、個包装の焼き菓子が入った箱を選ぶ。八百八十円で、俺が持っていく物として無理のない額だった。
紙袋へ入れてもらい、家へまっすぐ戻った。今日選んだのは駅の近くで買える、食べたことのある菓子だった。店の前を通る時には自分の一個だけを買うことが多いので、箱になった姿が少し違って見える。袋の持ち手を握り直し、ぶつけないように歩いた。
部屋で紙袋を机の横へ置き、課題へ戻った。明日のことをずっと考えていても、玄関で言う言葉が無限に上手くなるわけではない。まだ分からない相手と実際に会ってから、聞けばよいこともある。
夜、莉緒から両親も楽しみにしていると届いた。俺はありがとうと返し、緊張はしていると正直に伝えた。
『私もちょっと。航平がうちに来るの、初めてだから』
その返事を見て、俺は一人で試されるつもりになっていたことに気づいた。彼女も初めての時間を迎える。全部慣れた顔で俺を案内するわけではない。
『じゃあ、お互い少し緊張してるままで』
『うん。困ったら目、合わせよ』
それだけで、明日立つ場所が少し想像しやすくなった。
日曜は、十三時四十五分に自宅側の駅で莉緒と会った。彼女の家まで一緒に歩き、十四時ごろ着く予定だ。俺は紺の上着に落ち着いた色の服を合わせ、靴を出る前に拭いた。紙袋は片手で持てる大きさにしてある。
「こんにちは」
「こんにちは。……まだちょっと早かった?」
俺が尋ねると、莉緒は笑って時計を見た。
「ちゃんと約束の時間。来てくれてありがと」
「こっちこそ。今日、変じゃない?」
「服? 大丈夫。航平っぽい」
彼女が上着の襟元を見て頷いたので、俺もそれ以上触るのをやめた。紙袋を持つ手に力が入っているのに気づき、少しだけ握りを緩める。
莉緒の家へ近づく道は、普段の別れ道からもう少し先だった。ここを毎朝歩いているのかと思うと、いつもの街なのに少し違って見える。
「この角、朝は自転車多いんだよ」
彼女が指した道で一度立ち止まり、左右を見てから渡る。俺はそのあとを歩きながら、今日まで知らなかった彼女の通学の残りを知っていった。
「お母さんが、飲み物何がいいか聞いてた」
「何でも、って言いそうになった。お茶、お願いしてもいい?」
「うん。伝えとく」
莉緒は歩道の端で一度止まり、短く連絡した。俺が返事を変えたことを大げさに褒めず、そのまま受け取ってくれる。
家の前へ着くと、彼女は俺を見て頷いた。俺も頷き返し、玄関が開くのを待った。
「ただいま。航平、来てくれた」
家の中へ向けた彼女の声は、教室で聞くより少し伸びていた。すぐに母親が出てきて、俺へ笑顔を向ける。
「こんにちは。三原航平です。今日はお邪魔します」
名前を言い、一度息をついた。声が玄関中へ響くほどではなく、相手に届くくらいには出せたと思う。
「こんにちは。どうぞ。寒かったでしょう」
「ありがとうございます。これ、皆さんで召し上がってください」
紙袋を差し出すと、母親は気を遣わせてしまったねと言いながら受け取った。俺は礼を重ねすぎず、靴を脱いで向きを揃える。莉緒が横で待ち、こちらと手で示した。
居間には父親もいた。立ち上がって挨拶を返してくれたので、俺ももう一度名乗る。会ったことのない人の前で、莉緒という名前を普通に呼んでよいか一瞬迷ったが、彼女が先に「航平、ここ座って」と言ったので、座る方へ意識が移った。
俺と莉緒は隣に座り、両親は向かいと少し横に座った。鞄を置く場所を聞いてから足元へ寄せ、背中を丸めすぎないようにする。そうしている間に、莉緒の母親がお茶を運んでくれた。
「写真は見せてもらったよ。文化祭の時の」
父親が最初に話したのは、その写真だった。俺ははいと頷き、二人が担当した教室のことを短く説明した。通路と看板を作り、写真を撮れる場所と小さい遊びを置いた、と話すと、父親は莉緒から聞いた話と重ねるように頷いた。
「三原くんは、どの辺をやったの?」
「通るところの配置とか、箱を置く場所です。みんなで歩いて確かめて、止まるところを直しました」
「航平、最初に図にしてくれたんだよ。私、それ見て色とか置く場所考えた」
莉緒が横から付け加えた。全部俺が作ったようにならないよう、拓海や高瀬さん、ほかの人の担当も話す。彼女は俺の説明を遮らず、言葉が止まったところだけ補ってくれた。
母親は、帰ってくると毎日いろいろ話していたと言った。莉緒が、そんなに全部話してないと少し照れる。
「でも、看板できた日は嬉しそうだったよ」
「嬉しかったけど」
家族とのやり取りに、俺まで笑った。教室で友達と話す彼女とは少し違うが、知らない人になったわけではない。褒められると照れるところも、嬉しいと言い直せるところも、俺の知っている莉緒だった。
「航平が使ってくれてる袋の話も、した」
莉緒が言い、俺は鞄を一度見た。今日は弁当を持ってきていないので、その袋は家だ。
「毎日、弁当を入れてます。口が開くので、出しやすいです」
「ちゃんと使ってもらえるの、本人も嬉しいと思うよ」
母親が笑い、莉緒も頷いた。俺はそこで袋を褒める言葉を延々と並べず、はい、俺も嬉しいですと答えた。
父親は俺の趣味について尋ねた。予算を決めて知らない街を歩き、気になったものをスマホで撮ると説明すると、どんなところを撮るのかと聞かれる。
「道とか、建物の壁とか。光の当たり方が違うと、同じ場所でも気になる時があって」
話しながら、少し細かすぎたかと思った。でも父親は、壁、と繰り返したあと、家の近くにも古い道があると教えてくれた。
「子どもの頃は、今の道がなくてね」
俺が顔を上げると、莉緒も知らなかったらしく父親を見た。父親は場所を説明するため、机の上に指で角を描く。俺は地図を出していいか聞き、スマホでその辺りを開いた。
「あ、ここですか」
「そう。その道が、前はもっと先まで続いていた」
今の地図だけを見ても分からないことだった。俺は話を聞きながら、教科書に載る大きな変化ではなく、近所に住んでいた人が覚えている変化もあるのだと思った。
「今度、歩いてみたいです」
自然に口から出た。父親は、今ならこっちから回れると思うと教えてくれた。俺はその道を覚えるため地図へ短く保存し、礼を言ってスマホをしまう。
「航平、今ちょっと楽しそうだった」
莉緒に言われ、俺は返事をする前に笑ってしまった。最初からずっと緊張していたつもりだが、話を聞いている間は確かに、それを少し忘れていた。
母親が出してくれた菓子を一ついただき、俺はお茶を飲んだ。カップを持つ指の力が、来た時より抜けている。莉緒は自分の分の菓子を選び、包みを開ける前に俺の方を見た。
「レモンの方、好き?」
「うん。でも、莉緒も食べたかったら取って」
「私、今日はこっちにする」
彼女が別の味を選ぶと、母親が、二人ともそんな相談するんだねと笑った。俺は少し照れ、どちらも食べたいことがあるのでと答えた。
父親はお茶を足す前に、俺に今日の帰る予定を聞いた。三時半くらいまでお邪魔して帰ると答えると、分かったと頷く。
「帰りが遅くなる時は、二人とも家に連絡してね」
「はい」
「もちろん」
莉緒が俺の横で返した。俺だけに何かを約束させる話ではなく、彼女にも同じように伝えていた。以前電話で聞いた言葉が、今は目の前から届く。
俺も、家に伝えてある時間が変わる時は連絡すると答えた。緊張のあまり全部任せてくださいと言うより、自分が実際にしていきたいことを話せたと思う。
「二人でどんなところへ行くのか、莉緒が結構話すんだよ」
母親が言うと、莉緒がまた少し照れた。
「全部じゃないってば」
「分かってるよ。嬉しそうだから聞いてるだけ」
俺はお茶の方へ一度目を落とした。二人で選んだ予定が、彼女の家の会話にもなっている。俺がいないところで俺の話をしてくれることが、改めて嬉しかった。
そのあと学校の話になり、俺が進路を調べていることも尋ねられた。大学へ進みたいと考えていて、街や地域を学ぶことに興味があるが、まだ比べている途中だと答える。
父親は、さっき道の話を聞いていたのもそれでかと頷いた。俺は勉強のこともあるが、歩くの自体が好きなのだと付け加えた。何でも進路のためにしていると思われると、少し違う。
「好きで見ていたことが、勉強でも気になるようになった感じです」
言ってから、自分で少し納得した。上手く説明できたかと思って莉緒を見ると、彼女は静かに頷いていた。
時計が三時を少し回ったところで、莉緒の姉が帰ってきた。今日は用事があって出かけていたらしく、玄関から挨拶する声が聞こえた。俺が立ち上がりかけると、莉緒が、今呼んでくるからそのままでいいよと言った。
姉が居間へ顔を出した時、俺は改めて立って挨拶した。名前を言うと、向こうも挨拶を返し、写真で見たより背があるねと笑う。比較されているのが文化祭の写真だと分かり、俺はあの時は隣に並んでいたのでと、よく分からない返事をしてしまった。
「何それ、私が小さく見せてた?」
莉緒が笑い、俺も笑った。姉はからかい続けず、会えてよかったと答えて、持っていた荷物を自分の部屋へ置きに行った。
戻ってからは、袋を作った時の話が少し出た。莉緒が相談していたので、姉も何を作ったか知っている。俺は使いやすいことを伝え、姉は、それなら本人に言ってあげてと言った。
「言ってもらってるよ」
莉緒がすぐ答えたので、俺は横を見て笑った。彼女が自分で嬉しいことを受け取れているなら、俺がさらに証明する必要はない。
姉は用事の続きがあるようで、長くは同席しなかった。俺に会うために家族全員の一日が止まっているわけではない。その感じに、少し気持ちが楽になった。
そろそろ三時半だった。俺はカップを置き、今日はありがとうございましたと伝えて立ち上がる。片付けを手伝おうとすると、母親がそのままでいいと言ったので、重ねて押しつけず礼を返した。
玄関では上着を着直し、靴を履いてから両親へ頭を下げた。父親がまた道の話もできるといいねと言い、俺はぜひ、と答えた。次に会う日をその場で決めることはなかった。
「駅まで送ってくる」
莉緒が家族へ言い、俺は外で彼女を待った。扉が閉まってから、思わず長く息を吐く。彼女がすぐにこちらを見て笑った。
「お疲れさま」
「変なこと言わなかった?」
「写真より背がある理由、ちょっと変だった」
「そこ、自分でも分からなかった」
俺が認めると、莉緒は声を立てて笑った。家の前で長く話すのも落ち着かないので、二人で駅の方へ歩き出す。
「来てくれて、ありがと」
少し進んだところで、莉緒が言った。俺は隣を見て、呼んでくれてありがとうと返す。
「お父さん、道の話してた時、楽しそうだった」
「俺も面白かった。知らない話だったし」
「私も知らなかったんだよ。航平が聞いたから、今日初めて聞いた」
彼女がそう言うので、俺は驚いた。自分の家にいる人にも、まだ聞いていない話がある。それを俺が来た日に聞けたというのは、何となく嬉しかった。
莉緒は少しだけ歩く速さを緩め、俺の空いた手へ触れた。人の少ない道に出たところでつなぐと、彼女は上着の袖を引いて手元を隠すようにした。
「家だと、航平のこと何て呼べばいいか、一瞬分かんなくなった」
「いつもどおり呼んでたと思う」
「うん。そうした。でも、親の前で呼ぶの、思ったより照れた」
俺も彼女の名前を口にする時、同じように迷ったことを伝えた。何か間違った呼び方をしたわけではない。ただ、二人だけの時とは少し違う場所へ、今の名前が届いたのだ。
「でも、航平って呼んでよかった」
「俺も、聞けてよかった」
彼女が笑い、指を握り直した。今日一度も、写真を撮ろうとはしなかった。それでも、玄関で聞いた声やお茶の暖かさは、しばらく覚えていそうだった。
駅の近くで別れる前に、俺の家へも機会が合えば来てほしいと伝えた。莉緒は驚いたあと、行きたいと答える。
「うちにも、聞いてからでいい?」
「もちろん。俺も家で話してみる。急に今日ってことじゃない」
「分かってる。私も、声の調整練習しよっかな」
「それは俺の家でやったやつだろ」
二人で笑って、次の予定は確認してからにした。訪ねたから同じ日数で訪ね返さなければいけない、ということではない。会いたいと言えたところで、今日は十分だった。
帰宅後、母にどんな話をしたか伝え、無事挨拶できたことを報告した。父が近所の昔の道の話に興味を示し、俺は覚えているところだけ説明する。聞いた人の話を、勝手に全部知ったことにはしたくなかった。
夜、莉緒から家族も会えてよかったと言っていたと届いた。俺はまた礼を返し、教えてもらった道を今度歩いてみたいと送る。
『私も一緒に歩きたい。うちの近くなのに、知らなかったから』
返事を読んで、俺は地図を開いた。知っている街の中に、一緒に見てみたい場所がまだ増えていく。保存した線の先を確かめてから、俺は明日の支度へ戻った。




