第49話 似合う色と、好きな色
十一月に入ると、朝の教室で窓を開ける係が、前より少しだけ申し訳なさそうな顔をするようになった。換気が必要なのは分かっていても、窓際の席に冷たい風が届くと、俺も首を縮めてしまう。
「三原、その顔、分かりやすい」
前の席から拓海が振り返った。俺は机の上の紙が飛ばないよう筆箱を置き、窓から少し身を離す。
「寒いものは寒い」
「俺も。今日、出る時だけ厚いのにしてよかったと思った」
彼は上着を椅子へ掛け直し、週末の見学で使った案内を鞄の奥へしまった。申し込んでいた学校へ一人で行き、昨日、いろいろ見てきたと話してくれたところだった。
「思ってたのと、結構違うところあった」
「悪い方に?」
「いや、両方。案内でよさそうだったの、俺が想像してたのと違うなってのもあったし。逆に気にしてなかったのが面白かったり」
拓海はそこで言葉を切り、教科書を出した。見学へ行ったからすべて決まった、とはならなかったらしい。それでも、一人で行ってきたことを話す声には、行く前とは違う確かさがあった。
「俺、帰りに道一本間違えた」
「大丈夫だった?」
「駅には着いた。反対側の入口だっただけ」
「じゃあ、別の道を覚えたな」
「それ、お前なら喜びそうだなと思った」
笑いながら答えると、莉緒がこちらへ来た。二人へ挨拶をして、窓を見たあと俺の机の紙を押さえてくれる。
「飛びそう」
「ありがとう。閉めるまで、これ置いとく」
俺は筆箱を少し広い面で置き直した。莉緒はその形を見てから、今度の土曜は十四時で変わりないかと確かめた。
「うん。家にも話した。十七時半までに帰る」
「私も。じゃあ、遅くても五時には駅で分かれるくらいにしよ」
互いにスマホへ残す前に、声で確認した。誕生日そのものは十八日でまだ少し先だが、休みの日にゆっくり会う約束は、もう今週末まで来ていた。
「ケーキの店、あそこなら席もあるって」
莉緒が候補に挙げていたのは、駅の近くの喫茶店だった。初めて水族館へ行った帰りに地図へ保存した店とは別で、二人とも前を通ったことはある。俺も夜に案内を見て、好きそうなケーキがあると返していた。
「筆箱の店からも近いしな」
「混んでたら、その時相談しよ。無理に両方急がなくていいし」
「分かった。でもケーキは食べたい」
俺が言うと、莉緒が満足そうに笑った。拓海は会話を聞きながら自分の筆箱を持ち上げ、「俺は軽くなったまま使ってる」と報告した。予備を一本戻したらしいが、それでも以前より軽いという。
高瀬さんが通りかかり、うちの筆箱は結局付箋が多かったと話した。誰か一人の買い物の話が、教室ではみんなの持ち物へ広がっていく。俺はそれを聞きながら、土曜の予定をカレンダーへ入れ直した。
土曜日、十四時の時計の下で、莉緒が手袋を外しながら笑っていた。まだ両手を覆うほど寒い日ばかりではないが、家を出る時に使ってきたのだという。
「前に見てたやつ、買った?」
「これは家にあった方。買う前に見てみるって言ってたじゃん」
「そっか。色、いいな」
薄い灰色の手袋を鞄へしまう指先に、俺は目を留めた。今日は少し落ち着いた赤の上着に、黒いスカートを合わせている。莉緒はこちらの上着を見て、俺も暖かそうだと言った。
「今日は、朝に迷わなかった」
「分かる。外出たら決まる日」
二人で駅前を歩き出し、人が少なくなったところで手をつないだ。彼女の指は少し冷たかったが、手袋を戻したいと言うほどではないらしい。寒くなったら言ってと伝えると、莉緒は頷いた。
店へ着く前に、予算の話をもう一度した。先にメッセージで相談していたので、急に財布の中身を見せ合う必要はない。筆箱は二千円くらいまでを目安にし、俺もその範囲で探すつもりだった。
「ぴったりまで使うものじゃないからね」
莉緒が言い、俺は頷いた。
「分かってる。使いやすそうなのが安かったら、それがいい」
「うん。好きなの見つけて」
文房具の店へ入り、ペンの売り場を抜けて筆箱の棚を探した。立てて使えるもの、平たく開くもの、口が大きく開くもの。画面で見た時より、実物は形の違いがはっきりしていた。
俺は最初、よく知っている細長い形へ手を伸ばした。今の物と似ていて、鞄へ入れた時の様子を想像しやすい。その隣には少し幅が広く、ふたが大きく開くものがあった。
「これ、写真で見てたやつに近いね」
莉緒が棚を指す。手に取ってよい見本を確かめ、俺はファスナーを開いた。中には取り外せない仕切りがあり、よく使うペンをまとめて入れられそうだった。
「家のペン、一本持ってくればよかったかな」
「長さ、こっちに書いてあるよ。今のと比べられる?」
莉緒に言われて、俺はスマホへ残していた寸法を見た。長さは足りる。底の幅は少し広いが、使うペンの本数を考えれば大きすぎることもなさそうだった。
見本へ勝手に自分の物を入れない方がいいと思い、店員へ確かめると、試すためのペンがあると教えてくれた。礼を言い、用意されたものを数本入れてみる。
「あ、見やすい」
開いた時の中が、俺が思っていたより浅く見えた。底に物が沈みにくいので、消しゴムを探す回数も減りそうだった。
「出す時は?」
莉緒の問いに、俺は一本取って戻した。片手で全部できるほど器用ではないが、机に置いて使うなら困らない。
「いいと思う。鞄へ入れる時は、閉めてみたい」
見本のペンを戻し、空の状態で形を確かめた。莉緒は俺の横で、色違いを並べずに持っていた。俺が見終わるまで待ってから、どの色が気になるか聞く。
「紺かな。あと、こっちの緑」
「緑、私もいいと思った」
そう言われた瞬間、俺はそちらをもう一度見た。濃い緑で、縁の色は本体より少し明るい。確かに、好きな色ではある。
「航平、こっちも似合いそう。落ち着いてるし」
莉緒が言ってから、すぐに俺の顔を見た。俺も何となく頷きかけていたので、二人とも一拍遅れて黙った。
「……今、私、先に言いすぎた?」
「いや。感想は聞きたい」
「でも、こっちにしてって意味じゃないからね」
「分かってる。俺、ちょっと迷っただけ」
俺は紺と緑を見比べた。莉緒が好きそうだから緑へ変えるのか、もともと自分でも気になっていたから迷うのか。言葉にする前に、少し考える時間がほしかった。
彼女は棚へ一度視線を戻し、「ゆっくり見て」と言った。その声がいつもより少し控えめで、俺は顔を上げた。
「莉緒、何も言わなくならなくていいよ」
「え?」
「俺に選ばせようとして、黙っちゃうのも寂しい。好きだと思った色は教えてほしい。その上で、俺も好きなの選びたい」
説明が長くなった気がして、俺は言葉を止めた。莉緒は二つの見本を見て、それから笑った。
「そっか。私、口出すか、全部黙るかになってた」
「俺も、いいって言われたらそのまま頷きそうになったし」
「じゃあ、二人とも途中で止まれたから、よし?」
「よし、でいいと思う」
俺が答えると、彼女はいつもの顔へ戻った。
「私は緑が好き。航平にも合うと思う。でも、紺を使ってる航平も想像できる」
「俺は、机の上で毎日見るなら紺がいいかも。前の袋とは、また別で」
自分で言ってから、もう一度二つを見た。色をひとつ選ぶだけでも、相手がいると考えることは増える。それが面倒だとは思わなかった。
最終的に紺を選ぶと、莉緒は「じゃ、それ」と嬉しそうに頷いた。緑を棚へ戻し、未開封の商品を確かめる。値札は千六百五十円で、相談した範囲に収まっていた。
「これ、お願いします」
俺が言うと、莉緒は商品を受け取り、会計へ向かった。俺も少し離れて待つ。支払う彼女の手元を見張るようにはしたくなくて、レジの横の小さいカードを眺めていた。
会計を待つ間、俺は棚の端にある付箋を見た。細いものと幅の広いものが並んでいて、今使っている本のメモに、もう少し大きいのがあってもいいかと考えた。手に取って枚数を確かめ、結局戻す。家に残っている分を先に見てからでも遅くない。
戻ってきた莉緒は俺の手元を見て、何か気になる物があったのか尋ねた。
「付箋。家の残り見てからにしようと思って」
「そっか。本、今どのくらい読んだ?」
「半分くらい。読んでると、途中で別のところ確かめたくなるから、進むの遅い」
「それ、ちゃんと読んでるからじゃない?」
「そうだといいけど。調べ始めると本から離れすぎる時もある」
俺が言うと、莉緒は分かると頷いた。学校の案内から作品を見て、気づくと別の人の作ったものまで見ていることがあるらしい。
「どこまで見たら終わりなのか、分かんなくなる」
「俺も。だから、今日はここまでって止める時ある」
「私、それ言っても、もう一個だけってなる」
彼女は自分の話に笑い、紙袋を持っていない方の手で髪を耳へかけた。俺はその動きを見ながら、ふと思いついたことを聞いた。
「見学のあと、学校のこと、家でまた話した?」
「話したよ。お母さんと紙見て。前に見た学校も、もう一回調べたいところできた」
「すぐ決めなくていい感じ?」
「うん。今日ここがよかったから全部こっち、じゃなくて。どこが好きなのか、私もちゃんと説明したい」
彼女は店の出口へ向かいながら、母親が聞いていた費用のことは、家族でも確認するつもりだと話した。俺は細かい額まで尋ねず、自分も大学の比較が少しずつ増えていると伝える。
「俺、通う時間、全部同じ数字にしようとしてた。朝の待ち時間とか入れると、見学の日と変わる」
「住むところまで考えると、もっと違うもんね」
「うん。今は、家から通う条件で見てる」
俺がそう言うと、莉緒は頷き、手元の紙袋を一度見た。今日買った物はもう決まっているが、その先にある毎日のことはまだ途中だ。
「でも、今日の筆箱みたいに、触ってから分かることもあるね」
「俺、写真の時は仕切りの位置まで見てなかった」
「開けた時、顔変わったよ。あ、これいい、って」
「そんなに分かる?」
「分かる。窓開いた時の寒い顔ほどじゃないけど」
教室の話を持ち出され、俺は笑った。どちらも同じ顔をしている自覚はなかったが、彼女には見えているらしい。
出口のそばで、俺たちと同じように上着を着直している人がいた。邪魔にならない場所で待ち、外へ出る。莉緒が鞄のひもを直す間、俺は紙袋を持とうかと聞いた。
「大丈夫。今日のは私が持ちたい」
「分かった」
重い袋ではない。断られても残念ではなかった。彼女が持っていたいと言った理由も、少し分かる気がした。
店の前で手をつなぎ直すと、莉緒が俺の手のひらを指で軽くなぞった。
「航平、自分の選んだやつなのに、レジ行く時ちょっと寂しそうだった」
「そんな顔はしてないと思う」
「じゃあ、私の想像」
「でも、早く使いたいとは思った」
素直に認めると、莉緒は嬉しそうに笑った。
「十八日まで、もうちょっと」
「うん。その間に今の中、もう一回見とく」
「整理しすぎて、全部なくさないでね」
「ペンは残す」
俺たちはそんなことを言いながら、喫茶店のある方へ歩いた。紙袋は彼女の外側の手にあり、俺の手とは反対側で小さく揺れていた。
店を出てから、莉緒は持っていた紙袋をすぐには渡さなかった。俺も当日まで預かってもらうつもりだったので、特に急いで手を出さない。駅へ向かう道の途中で、彼女の方から確かめた。
「これ、十八日に渡すのでいい?」
「うん。楽しみにしてる」
「中身知ってても?」
「知ってるから楽しみ。俺が選んだやつだし、莉緒にもらうんだし」
彼女が目を細め、紙袋を少し持ち上げた。
「じゃあ、ちゃんとその日まで持ってる」
「俺、今のやつにあと少し頑張ってもらう」
「中身はちゃんと移してね。予備の予備も確認して」
「拓海に言われそうだな」
二人で笑い、今度は喫茶店へ向かった。店の前には待っている人が一組いた。時間を確かめると、まだ余裕はある。中の店員に尋ねて、およその待ち時間を聞いてから並ぶことにした。
「他の店でもいいけど、俺、ここの食べたい」
「私も。待とう」
迷う前に自分の希望を言うと、莉緒もすぐ返してくれた。空腹で限界というわけではないし、外で待つ間は上着もある。彼女は手袋を片方だけ取り出し、すぐに笑ってしまった。
「両方出すつもりだった」
「俺とつないでる方は、そのままでいい?」
「うん。こっちは暖かい」
つないだ手を持ち上げず、彼女は鞄の持ち手の陰へ少し寄せた。俺も握り直す。誰かに見せるためではないのに、その手がそこにあるだけで、待つ時間まで嬉しかった。
十分ほどで中へ案内された。二人用の席へ座り、上着と鞄の置き場所を決めてからメニューを見る。俺は案内で見て気になっていたチーズケーキを探し、莉緒は写真を見ながらいちごのケーキと迷っていた。
「俺、チーズにする」
「私、チョコも気になる。今日はこっちかな」
莉緒がチョコのケーキを指し、二人で飲み物も選んだ。俺は紅茶、彼女は温かいミルクティー。ケーキと合わせてそれぞれ九百円だった。
注文を終えると、莉緒は椅子の横の紙袋を一度見た。
「今日、緑って言ったあと、航平が紺やめたらどうしようって思った」
「俺もちょっと考えた。でも、莉緒に何か言われたら全部変えちゃうなら、それも困るだろ」
「うん。困る。私の好きが正解になるわけじゃないし」
「だから、言ってもらってから選ぶ練習でよかった」
練習という言い方に彼女が笑った。筆箱の売り場で難しい話をしすぎた気もするが、どちらも黙って帰るよりずっとよかった。
「私、今の返事好き」
莉緒が急に言ったので、俺はメニューを端へ寄せる手を止めた。
「どれ?」
「私が何も言わないのは寂しいってやつ」
思い返すと、たしかに口にしていた。相手の気持ちを尊重するために黙るのと、相手の好きなものを聞きたいのは、矛盾するわけではない。それを上手く説明できたかは分からなかったが、彼女には伝わっていた。
「莉緒が選んでくれるの、嫌なわけじゃないから」
「うん。私も、航平が好きな物を知るの楽しい。だから教えてね」
俺は頷いた。彼女が俺に合わせるばかりでなく、俺の希望を面白がってくれる。その感じは、水族館で順路を相談していた頃から少しずつ増えていた。
ケーキが来ると、二人とも一度会話を止めた。俺の皿には小さめのチーズケーキが載り、莉緒の方にはチョコの層が見える。飲み物の湯気が上がり、彼女は紙ナプキンを膝へ置いてからフォークを取った。
「先に、おめでとうって言っていい?」
「当日も聞きたい」
「もちろん。じゃあ、少し早いけど、おめでとう」
「ありがとう」
それだけで、普通に注文したケーキが誕生日のお祝いになる。店へ飾り付けを頼んでいなくても、声を合わせて歌わなくても、俺には十分嬉しかった。
一口食べると、思ったよりさっぱりしていた。俺がそう言うと、莉緒は自分のケーキも少し苦いところがあって好きだと話す。交換しなければ二人で食べたことにならないわけではないので、今日はそれぞれ自分の皿を楽しんだ。
「家のご飯、何にするの?」
「母に聞かれて、唐揚げって言った。弟が一番喜んでた」
「分かりやすい」
「俺が言わなくても、弟が言いそうだった」
莉緒が笑ったあと、自分の家ではケーキを選ぶ時に姉と違う味になりやすいと話した。本人の誕生日には本人が先に選べるらしいが、結局ほかの人の皿まで気になるのだという。
「二月も、莉緒が選びたいの選んで」
「うん。その時は私、ちゃんと欲張るから」
「楽しみにしてる」
彼女は照れたように笑い、紅茶のカップを持った。俺も紅茶を飲み、ケーキの残りを少しずつ食べた。急いで片付けなければいけない時間ではない。それでも、食べ終わってからいつまでも席にいるのは避け、そろそろ出ようかと声をかけた。
席を立つ前に、俺はテーブルの端に置いた伝票を見てから、鞄の口を閉めた。莉緒も紙袋を椅子の横から取り、忘れ物がないか座面を確かめる。
「これ置いて帰ったら、今日一番の失敗になる」
彼女が袋を持ち上げて言ったので、俺は、忘れる前に気づけたら大丈夫と返した。
「航平も、鞄持ってる?」
「持ってる。筆箱も、古い方が入ってる」
確認が妙に細かくなって、二人で笑った。レジへ向かう時には、どちらも忘れ物を心配する顔ではなくなっていた。
会計は飲食の分をそれぞれ払い、俺は筆箱の礼をもう一度伝えた。莉緒は当日にも言ってと笑ったので、そのつもりだと答えた。
莉緒は鞄のひもを肩に掛け直し、俺が隣へ来るのを待った。目が合うと、どちらからともなく笑ってしまった。
外へ出ると、さっきより空の色が薄くなっていた。駅まで少し歩き、十七時には余裕を持って着く。別れ際、莉緒は紙袋を胸の前へ寄せた。
「じゃあ、十八日に。これはまだ私が持って帰る」
「うん。楽しみにしてる」
「それ、二回目」
「本当に楽しみだから」
彼女が笑い、俺の空いた手に一度だけ触れた。その手をつなぐ時間はもう長く取れなかったが、離す前にありがとうと言えた。
帰り道、自分の鞄の中にまだ今の筆箱があることを思い出した。新しい物は莉緒の手元にある。見えない場所で彼女が持っていてくれる数日まで、少し嬉しい。
家に着いて、母に帰宅を知らせてから部屋へ戻った。莉緒へ無事帰ったと送り、今日のケーキが好きだったと付け足す。彼女からは、私も、と返ってきた。
俺は机の上へ筆箱を置いた。ファスナーを開け、月曜に必要な物を確かめる。まだ新しくなっていないいつもの道具が、その夜は少しだけ違って見えた。




