第45話 見せたい人がいる
火曜日の昼、莉緒が俺の弁当の横に置いたのは、写真の入ったスマホだった。画面には文化祭で撮った二人が並んでいる。見慣れたはずの自分の笑顔が、教室の明るさの中では妙に照れくさかった。
「この写真、お父さんにも見せていい?」
声をひそめて尋ねられ、俺は箸を止めた。向かいでは高瀬さんが飲み物のふたを閉め、拓海はまだ弁当の最後のおかずを食べている。二人に聞こえて困る話ではないが、返事を急ぐと変な声が出そうだった。
「いいよ。前にお姉さんにも見せたやつだよな」
「うん。お母さんに話したあと、お父さんにも自分から言おうと思って。その時、写真あった方が話しやすいかなって」
莉緒は画面の端を指で押さえた。写真を見せることより、その前にある話の方が大きいのだと分かった。
「俺のこと、何て話す予定?」
「付き合ってる人。三原航平。二年の同じクラス」
「履歴書の最初みたいだな」
真面目に答えた彼女が一拍遅れて笑った。拓海も顔を上げ、「趣味は散歩と撮影です」と勝手に付け加える。
「それは俺が言うところだろ」
「ちゃんと自分の言葉にしてくれよ」
「面接の練習じゃないから」
高瀬さんの突っ込みに、莉緒が肩を揺らした。笑ったあと、彼女はスマホを自分の方へ向け直す。
「お父さん、そんな怖い人じゃないよ。何も言わずに見せたら、まず文化祭の話になると思うけど」
「それでも緊張する」
「写真の航平は、もう笑ってるから大丈夫」
「本人より頼もしいな」
俺は少し考えてから、見せてほしいと答えた。ただ許可するのとは違う言葉を選ぶと、莉緒は目を上げた。
「莉緒が家で俺の話をしてくれるの、嬉しいから」
「……うん。じゃあ、話せたら話すね」
今夜必ず、と約束したわけではない。家の人の帰る時間や、他の用事もあるだろう。俺も報告を待つために夜の予定を空けるようなことはしなかった。それでも、彼女がスマホをしまったあとまで、胸のあたりが落ち着かなかった。
放課後、俺は拓海と駅まで歩いた。莉緒は高瀬さんと買い物に行くと言っていたので、今日は昇降口で別れた。隣を歩く拓海は、俺が何も言わないうちから口元を緩めていた。
「何だよ」
「いや、お前、昼の時ちょっと背筋伸びてたから」
「写真見せる話で姿勢を直しても意味ないだろ」
「自分でもそう思ってたんだ」
否定できず、俺は歩道の先を見た。校門から続く道には同じ制服が何組も歩いていて、そのうちの一組でしかない俺たちを気にする人はいない。
「お前の家には、もう話してるんだっけ」
「うん。弟まで知ってる」
「じゃあ、向こうの家も知ったら、次は挨拶か」
「まだ何も決まってない。勝手に順番を作るな」
拓海は「それもそうか」とあっさり頷いた。からかいはするが、俺が決まっていないと言えば、その先を勝手に進めない。そういうところには助かっている。
「俺、見学のこと家で話した」
今度は拓海の方から、昨日の続きが出た。
「行ける日、あった?」
「来月なら。今週末は家の用事が先に入ってた。別の日を探す」
「申し込む前でよかったな」
「そうなんだよ。空いてると思ったら、普通に予定あった」
彼はスマホを取り出しかけ、歩いている途中だと気づいてまたしまった。家の予定を知らなかったことを笑っているが、別の日を探す声は残念そうではなかった。
「お前、行ったあとすぐ決まったりした?」
「全然。面白そうと思ったことは増えたけど」
「じゃあ、一回で決まんなくてもいいか」
「俺が決まってないことを基準にするのは、ちょっと危ない」
「分かった。先生にも聞く」
二人で笑い、駅前で別れた。拓海の見学に当然ついていく約束はしなかった。誘われたらその時考えるし、彼が一人で行きたいならそうすればいい。自分が大学を一人で歩いた時のことを思い出すと、それも前より想像しやすかった。
夕食のあと、台所へコップを取りに行くと、母が冷蔵庫に小さな紙を貼っていた。買い足す物の一覧らしく、洗剤と牛乳の間に、弟の字で菓子の名前が混ざっている。
「それ、買う物に入るの?」
「予算が余ったらね」
母は紙を指で押さえてから、俺の方を見た。
「明日の帰り、牛乳だけお願いできる? 重かったらいいけど」
「一本なら大丈夫」
「助かる。お金、あとで渡すね」
短いやり取りのあと、俺は何となく台所に残った。母が洗い物へ戻る前に声をかける。
「莉緒が、お父さんにも付き合ってるって話すかもしれない」
「そうなんだ」
「写真、見せていいかって聞かれた」
母は驚くというより、俺がその話をしに来たことを面白がっている顔だった。
「あなたは、いいって言ったんでしょ」
「言った。見せてほしいとも」
「じゃあ、あとは二人で話していけばいいんじゃない」
それだけ言って、母は水を出した。挨拶へ行く日を決めろとも、菓子を持っていけとも言わない。俺がまだ聞かれていないことまで考え始めていたのを見抜かれたようだった。
「何て言われるかなって、少し気になって」
「会ってない人の返事は、お母さんにも分からないよ」
「そうだよな」
「でも、挨拶する機会ができたら、いつもより大きい声で名前は言いなさい」
具体的な助言が来たので、俺は思わず笑った。母は食器の泡を流しながら、こちらを見ずに続ける。
「緊張すると、語尾が小さくなるから」
「そんなに?」
「今の『そんなに』も、半分くらい」
試しにもう一度言ってみると、今度は居間から弟が「聞こえた」と返してきた。そっちまで届かせる必要はなかった。
部屋に戻って問題集を開き、まず一ページ進めた。スマホを机の端に置いていたが、伏せた画面を何度もひっくり返すのはやめた。莉緒から連絡が来ても来なくても、今夜やることは変わらない。
実際に通知が鳴ったのは、答え合わせを終えて、間違えた問題の横に印をつけた時だった。
『今、少し話せる? 電話じゃなくてもいいんだけど』
俺は残りの範囲を確かめ、十分くらいならと返した。すぐに電話がかかってくるわけではなく、彼女から「電話でもいい?」と届き、こちらからかけることになった。
耳元で聞こえた最初の声は、思っていたより明るかった。
「話したよ。お父さんに」
「うん」
「ちょっと、うんしか言えなくなるのやめて。私まで緊張する」
「分かった。話せたんだな」
「それは、さっき言った」
二人で笑ってから、俺は椅子の背にもたれ直した。彼女の家の夕食の匂いまで分かるわけではないのに、話を聞く姿勢だけは自然と改まる。
「写真も見せた。文化祭のやつ。最初、航平のクラスが何やったか聞かれて、二人とも同じクラスだよって言った」
「最初にそこからだったのか」
「うん。で、付き合ってるって話して。お母さんがもう知ってるのも言った」
莉緒は途中で一度息をついた。すらすら説明しているようでも、さっき自分で口にする時は緊張したのだろう。
「何て?」
「『そうか』って。あと、帰るの遅くなる日は連絡しなさいって。今までも言われてたんだけど」
「うん」
「それから、会うことあったら挨拶したいって」
俺は机の上の問題集を見つめたまま、返事をするまで少しかかった。会ったことのない相手が、ただ写真の中にいる男子としてではなく、莉緒と付き合っている俺に会ってみたいと言ってくれた。それが嬉しくて、同じくらい緊張した。
「俺も、挨拶したい」
「今すぐ来てって話じゃないからね」
「それは分かってる。今から行ったら、たぶん全員困る」
「私もパジャマだし」
想像しかけて、俺は慌てて問題集の数字へ目を戻した。電話の向こうで莉緒が笑っている。
「何か、急に黙った」
「いや、挨拶の時の声の大きさを考えてた」
「何それ」
母に言われたことを話すと、莉緒は声を立てて笑った。今日二度目だが、弟に聞こえたところまで説明すると、彼女はしばらく返事ができなかった。
「航平、うちの玄関で叫ばないでね」
「適切な大きさに調整する」
「筆箱も声も調整してる」
その言い方に俺も笑った。父親への報告を聞く電話のはずなのに、気づけば昨日の教室の話までつながっていた。
残り時間が少なくなったところで、莉緒が「もう一つだけ」と言った。
「お父さんに説明してたら、自分でちょっと照れた。航平と出かけるの、私が誘ったこともあるって言ったから」
「水族館?」
「それも。私から会いたいって言ってること、隠さないで話したかった」
俺はスマホを持つ手に、少しだけ力を入れた。あの時誘ってくれたから今がある、という話だけではなかった。今も彼女が選んでくれていることを、家の人にも自分の言葉で伝えてくれたのだ。
「ありがとう。俺のこと話してくれて」
「うん。聞いてくれてありがと。じゃ、続きの勉強、頑張って」
「莉緒も。おやすみ」
電話を切ったあと、静かになった部屋で一度伸びをした。挨拶の日は決まっていない。服も言葉も、今日のうちに全部用意する必要はなかった。ただ、彼女の家で俺の名前が呼ばれたことを、今夜は素直に嬉しいと思っていた。
水曜日の朝、莉緒は教室へ入るなり、俺を見つけて軽く手を上げた。昨日の話をもう一度詳しく聞くつもりはなかったので、おはようと返す。それだけで彼女の表情が和らいだ。
「昨日、ちゃんと声出して話した?」
「俺の部屋では。壁の向こうから返事はなかった」
「よし。家族を起こしてない」
莉緒は満足そうに頷き、自分の席へ向かった。俺は筆箱を机の真ん中に置いたあと、彼女の背中を見て一度笑った。
昼休み、高瀬さんが、昨日二人で見た店の話をした。売り場に小さい手袋が並び始めていて、莉緒が色を迷っていたらしい。
「まだ買ってないけどね。家のも見てからって」
莉緒がそう付け加えると、拓海は自分の袖口を見た。
「もう手袋か。朝は寒いけど、昼は暑い日あるよな」
「だから鞄の中が増えるんだよ」
高瀬さんは薄い上着を椅子の背から取り、きれいに畳もうとして、袖を一度折り直した。莉緒はその手元を見ながら「私、朝ちょっと後悔した」と笑う。
「上着?」
俺が尋ねると、彼女は頷いた。
「もう少し厚いのにすればよかった。駅まで歩いたら平気になったけど」
「俺も出た時は思った。明日迷いそう」
「そういう時に限って、明日は暖かかったりする」
季節の話をしているうちに、週末の話になった。高瀬さんは妹の用事があり、拓海は家の予定があると言う。莉緒は土曜日なら午後が空いているが、日曜日は姉と出かけたいと思っているらしい。
「行く場所、決まってるの?」
「まだ途中。お姉ちゃんが見たい物あるって。私も家で相談したいし」
俺は頷き、土曜の午後なら自分も空いていると伝えた。莉緒が箸を置いてこちらを見る。
「じゃあ、少し会う?」
「うん。ただ、俺、今週は一回家の片付け手伝うことになってて。時間は今日帰って確認する」
「分かった。私も確認する」
先に全部空けていることにしなくても、会いたいとは言える。いつなら確実かを尋ねてからで遅くない。そんなやり取りをしている横で、拓海が「俺も片付け手伝わされる可能性あるな」と他人事ではない顔をした。
「家の予定って、それも入ってるの?」
「いや、片付いてない自分の部屋がある」
「それは手伝いじゃないよ、大野くん」
高瀬さんの指摘は正しかったので、全員で笑った。
放課後の帰り道、莉緒が昨日の買い物袋を見せようとして、すぐに「あ、今日持ってない」と気づいた。俺は彼女の手に何もないのを見ていたので、少し遅れて笑う。
「買ったの、紗季のだった」
「記憶の中に持ってきたのか」
「そう。私、選ぶのに参加しただけだった」
彼女は自分で可笑しくなったらしく、信号で止まってからもしばらく笑っていた。買ったのは高瀬さんの靴下で、妹と取り違えない柄を探していたのだという。そういう友達の買い物に付き合う時間も、莉緒の一日の中にちゃんとある。
「土曜、あの通り、明るいうちに歩きたいかも」
笑いがおさまってから、俺は言った。本屋へ寄ったあと、時間が足りずに引き返した日の通りだった。
「奥に旗が見えたとこ?」
「うん。まだ何の売り場か、ちゃんと見てないから。調べてからにするけど」
「私も気になってる。見るだけでもいいし、行こ」
彼女の返事を聞いてから、俺は駅前の端で立ち止まり、スマホに短く書き留めた。店の名前を知らないまま、知っていることにして話を進めたくなかった。
「それ、今調べる?」
「いや、牛乳買うのを忘れないように」
「そっち?」
莉緒が笑い、俺も画面を見せた。地図の前に、今日頼まれていた用事を済ませなければいけない。
「一緒に店の前まで行っていい? 私も買いたいのある」
「いいよ。俺、牛乳だけだから、先に終わったら外で待つ」
「私もそんな長くないよ。じゃ、寄ろ」
並んで食品店に入り、入口でかごを一つ取った。莉緒は別のかごを持つ。何でも二人分を一緒に買うわけではないし、支払いも自分の分だ。
乳製品の棚で頼まれた一本を選び、スマホのメモを消す前に容量を確かめた。莉緒は少し先で、小さい袋入りのパンを見ている。
「それ、好きなやつ?」
「明日の朝用。お母さんに聞かれたから、自分の分選んでる」
彼女は二種類を見比べ、結局片方をかごに入れた。俺が見ているのに気づくと、袋を少しだけ持ち上げる。
「今日はこっち。もう一個も好きだけど」
「俺、買い物って、一回で選ばなきゃいけない気になる時ある」
「売り切れてなければ、また買えるよ」
何でもない返事がおかしくて、俺は笑った。たしかに、明日の朝食ですべての好みを決める必要はない。
別々に会計を済ませ、店の外で合流した。俺の袋の底には牛乳が一本、莉緒の手にはパンが一袋。特別な買い物ではないのに、一緒に店を出る時だけ少し気分が浮いた。
「重くない?」
「一本だから大丈夫。途中で腕が伸びたら言う」
「それは言う前に分かるかも」
彼女が横から俺の腕をのぞき、二人で笑った。牛乳の袋を持つ手とは反対の方に莉緒が並ぶ。人の少ない道へ出てから、空いた手をつないだ。
「昨日、お父さんに話したあとさ」
莉緒は歩きながら、少しだけ声を落とした。
「誰かに説明してるのに、私が一番、嬉しくなってた」
「どのへんで?」
「この人と付き合ってるんだって、写真見せたところ」
俺は返事を探し、見つからないまま彼女を見た。莉緒はもう前を向いていて、つないだ手を一度だけ軽く引いた。
「今、また嬉しくなったから、言った」
「俺も、今の聞けて嬉しい」
「うん。知ってほしかった」
大きな声で何かを宣言したわけでもない。袋の中で牛乳が揺れ、彼女のパンの包みがかすかに鳴る。その隣で、俺は何度でも聞きたい言葉をもらっていた。
家へ帰ると、母に頼まれた物を渡した。冷蔵庫へ収まる一本を見届けてから部屋へ戻り、週末の用事を確認するため、もう一度居間へ顔を出す。
片付けは土曜の午前中でいいと決まり、その夜、莉緒と午後の時間を相談した。十三時半、いつもの時計の下。昼食はそれぞれ済ませて、暗くなる前に帰る。歩く道を調べるのは俺が引き受け、彼女は「気になる物を見つけたら寄りたい」と希望を添えた。
『もちろん。俺も寄りたいところ、言う』
送ったあとで地図を開いた。知らない通りを探す手つきが、以前と同じなのに、少し違う。一本奥へ入る道の先に何があるかだけでなく、どこで座って休めそうかにも目が留まった。
通りの角の写真を見つけると、記憶していた看板と同じ色だった。そこから先は、地図だけで何でも分かるわけではない。店の紹介に小さな催しの案内があり、週末に数店が並ぶと書かれていたが、俺たちが旗を見た日の出店まで同じとは限らなかった。
分かった部分だけを莉緒に送ると、彼女から「紙の物もあるんだ」と返事が来た。案内の写真には、小さいカードや封筒が写っている。俺が先に見ていたのは、店より、その奥の通路がどこへつながるかだった。
『俺、奥に抜けられるか見てた』
『そこ見るの、航平っぽい』
『莉緒は紙?』
『うん。文字とか、色とか。買うかは見てからだけど』
同じ画面を見ていても、先に気になるところは違う。彼女が指した写真を拡大すると、封筒のふたの形も、俺が知っている四角いものばかりではなかった。
『入れる物で形変わるのかな』
『それ、当日見てみたい。お店の人に聞けそうなら聞く』
俺は案内の日付と時間をもう一度見た。今度の土曜も昼から開いている。天気や都合で変わる場合があるとの注意もあったので、それも一緒に伝えた。やっていなければ通りを歩けばいいし、ほかの場所へ行ってもいい。どちらかが一方的に代わりを全部考える必要はない。
『雨だったら、金曜に相談しよ』
莉緒から届いた言葉に頷いて、そうしようと返した。外へ出られない日にまで、無理に歩く約束にしなくてよかった。
スマホを置いたところで、弟が開いた扉から顔をのぞかせた。
「牛乳、もう飲んでいい?」
「俺が許可するものじゃないだろ。冷蔵庫にある」
「お母さんが、お兄ちゃんにありがとうって言ってって」
「じゃあ、どういたしまして」
弟はそれだけ言いに来たらしく、すぐに廊下へ戻った。俺は笑いながら椅子に座り直す。買って帰った一本は、もう家の誰かの飲み物になっている。机の上の予定も、こうして日々の用事の間に入っていくのだと思った。
まだ土曜のことは全部決まっていない。旗の正体も、今から確かめるところだった。俺は画面を拡大し、まず入口の角にある店から探し始めた。




