第44話 何でもない日の、隣
月曜日の朝、教室に入る前に一度だけ足を止めた。
別に、教室の中にいる誰かが俺たちの土曜日を知っているわけじゃない。鞄にはいつもどおり教科書と弁当が入っているし、小テストの範囲も昨日確認した。何か忘れているとすれば、藤崎莉緒と顔を合わせる時の、普段の顔の作り方だった。
「三原、そこで止まると後ろ詰まる」
背後から拓海に肩を軽く押され、俺は慌てて教室に入った。後ろにいたのは拓海一人だったが、廊下で固まっている理由を説明するより、進んだ方が早い。
「おはよ、航平」
自分の席に鞄を置いたところで、右の方から声がした。莉緒は席を立ってこちらへ来る途中だったらしく、片手に英語のプリントを持っていた。
「おはよう」
「……うん」
返事をした俺を見て、莉緒が口元を押さえた。俺まで笑いそうになり、机の上の鞄を意味もなく少し奥へ動かす。
夜のメッセージで、顔を見たら笑ってしまうかもしれないと言っていたのは彼女だ。実際には、俺も人のことを言えなかった。
「それ、今日出すやつ?」
「そう。今朝、鞄入れたか不安になって、駅でも確認した」
「俺は昨日の夜に確認した」
「ちゃんとしてる。じゃ、ここだけ聞いていい? 自分ではこうしたんだけど」
差し出されたプリントの余白には、莉緒の字で小さく言葉が書き込まれていた。彼女が指した問題を俺も読み直す。英文を見ている間は、ちゃんといつもの朝に戻れる気がした。
「俺も同じ答え。こっちの文につながるからだと思う」
「あ、やっぱそこ見るんだ。ありがと」
莉緒が顔を上げた拍子に、視線が合った。
二人とも答え合わせは済んでいるのに、そのまま一秒ほど黙ってしまった。彼女の目が少し細くなり、俺は危うく机に置いた筆箱を落としかけた。
「何やってんだ、三原」
前の席に座った拓海が振り返る。
「筆箱の位置を調整してた」
「ずいぶん際どい調整だな」
「本人もそう思ってる」
莉緒がとうとう小さく吹き出した。俺も笑うと、彼女はプリントを胸の前に持ち直した。
「じゃ、またあとで」
「ああ」
席へ戻る後ろ姿を、いつもより長く追ってしまう。拓海に何か言われるかと身構えたが、彼はもう自分のプリントを鞄から探していた。
「なあ、その提出、朝だっけ。一時間目だっけ」
「朝。今出した方がいい」
「危な。お前らの答え合わせより重要な情報をもらった」
拓海は立ち上がり、教卓に向かった。俺も自分の分を出しに行く。教室には椅子を引く音や、週末の話をする声が重なっていた。俺の中では大きな出来事があったのに、月曜日は何も困らず始まっていた。
二時間目が終わる頃には、少なくとも黒板を見ている時まで土曜日を思い出すことはなくなっていた。代わりに、ノートを取ったはずの場所に一行だけ空白があることに気づく。
先生が説明を足した時、板書を先に写して安心したのがよくなかった。休み時間、前の席の拓海にノートを見せてもらうと、俺が空けた場所には同じくらいの空白があった。
「協力して一冊にならないな」
「そもそも俺を最初の確認先にするなよ」
「その言い方は信用を失うぞ」
「信用に応えようとして適当に埋める方が危ないだろ」
もっともだったので、二人で教卓に残っていた先生に聞きに行った。説明を聞くと、前に書いた式の条件が抜けていたことが分かった。席へ戻って書き足しながら、拓海が俺のノートをのぞく。
「俺もそれ書いとく」
「自分で聞いてたろ」
「聞いたことを短くするのに失敗した」
見せると、彼は俺の文章をそのまま写さず、自分の言葉で少し長く書いた。短さの好みまで揃える必要はないらしい。
「そういや、金曜の相談どうだった?」
ノートを閉じる前に聞くと、拓海が「ああ」と顔を上げた。
「行った。まだ決まってないって、普通に言ってきた」
「俺も言った」
「先生、決める話より、何調べたかの話になったわ。案内を持っていったのは正解だった」
相談へ行く前に資料のことを聞かれていたので、役に立ったならよかった。ただ、同じ資料を持っていったわけでも、同じ進路を考えているわけでもない。
「で、帰ってから見てみたら、俺、授業の名前だけで分かった気になってたやつ結構あった」
「あるな、それ」
「名前が面白そうでも、何するか読まないと分かんねえのな。今さらだけど」
拓海は笑いながら、机の横の鞄にノートをしまった。次の授業の教科書を出す手は、普段と変わらない。
「一個、見学の日を調べてる。まだ申し込んでないけど」
「行けそうなら、行ってみたらいいと思う」
「うん。その前に家で相談する。交通費もあるし」
そこで次の先生が来て、会話は終わった。
拓海にも、俺が知らないところで考えたり、家で相談したりすることがある。当たり前のことだが、前よりちゃんと、その当たり前を思い浮かべられるようになっていた。
昼休み、弁当箱を出すと、洗った巾着の口が少しだけ前より開きやすく感じた。気のせいかもしれない。ひもを引く手つきに、俺の方が慣れたのかもしれなかった。
莉緒は高瀬さんと来て、いつものように机を寄せるのを手伝った。彼女にひもを見せて洗濯の報告をし直す必要はなかった。乾いた写真を送り、もう返事ももらっている。今日は袋を畳んで鞄へ入れ、そのまま弁当のふたを開けた。
「今日、妹に朝起こされたんだけどさ」
高瀬さんが箸を取る前に話し始めた。
「日曜と間違えてた。学校に着いてもまだ眠い」
「日曜でも起こされることあるじゃん」
莉緒が言うと、高瀬さんは少し考えた。
「ある。でも起こされたあと、もう一回寝ていいかどうかが違う」
「そこは大きいな」
俺が同意すると、拓海が真面目な顔で頷いた。
「起きたことより、起きなきゃいけなかったことがつらい」
「大野くん、それ今すごい分かる」
「二人とも、ご飯食べて目を覚まして」
莉緒に言われ、高瀬さんが弁当の小さなおかずを一つ持ち上げた。眠いと言っていた割に、箸の動きは危なげなかった。
日曜日は誰と何をしたか、という話になっても、俺たちの土曜日を詳しく話す流れにはならなかった。拓海は家で案内を見ていたことを話し、高瀬さんは妹と買い物に行った話をした。莉緒は午前中に勉強をしたと言い、俺も昨日引っかかった問題が残ったことを話した。
「解けた?」
莉緒に聞かれ、俺は頷いた。
「昨日の昼に。式を増やす前に、条件を一個使ってなかった」
「今日のノートと似たことしてるな、お前」
「傾向を見つけなくていい」
「対策は立てやすいじゃん」
拓海の言い方がおかしくて、莉緒も高瀬さんも笑った。
俺は一瞬だけ莉緒を見た。彼女もこちらを見ていて、でも今度は、朝のように目が合うだけで固まらなかった。
話していないことがあるからといって、目の前の友達との会話まで不自然にする必要はない。俺たちだけで大切にしておきたいことは、俺たちのところに置いておけばいい。
「その条件のとこ、あとで教えて。私、似た問題もう一回やりたい」
「いいよ。俺の間違ったやり方から聞く?」
「それは途中で分かんなくなりそうだから、正しい方からお願いします」
「俺もそっちがいい」
拓海が便乗し、高瀬さんまで「説明会になった」と笑った。先生に聞いた方が確実なところはそうしようと先に言っておくと、莉緒は「そこも込みで」と頷いた。
食べ終わってから問題を見直すのに使った時間は、長くはなかった。莉緒が自分で途中まで解き、拓海が違うところで引っかかり、俺も説明しかけて手を止める。三人で確かめ直している横で、高瀬さんは次の授業の予習を進めていた。
最後の答えが揃う頃には、片付けの時間になっていた。
放課後、俺は図書室へ行くために鞄を持った。
借りていた本で、もう一度見たい箇所がある。書き留めた言葉を確認するなら、家へ持ち帰ってからでもいいのだが、他の本ではどんな説明になっているか、棚も少し見たかった。
莉緒は高瀬さんと話していた。俺に気づくと、鞄を持ち上げかけたので、先に伝える。
「今日、図書室寄る。少し本を探したくて」
「うん。私もここで紗季と話してから帰る。どのくらい?」
「二十分くらい。延びそうなら連絡する」
「じゃあ、出る時教えて。まだ学校にいたら一緒に帰ろ」
金曜日までの俺なら、待たせるかもしれないと考え、先に帰っていいよと言っていたかもしれない。今日は、彼女が自分の予定を確かめて答えるのを待てた。
「分かった」
「本、見つかるといいね」
莉緒が笑う。高瀬さんにも挨拶をして、俺は教室を出た。
図書室は、窓際の席から先に埋まっていた。いつもここにいる先輩がいるわけではないし、誰かに会う用事でもない。受付を通り、鞄から借りた本を出して、確かめたかったページを開く。
木のしおりを机に置いて、持ってきたメモと照らし合わせた。俺が面白いと思ったのは、同じ道でも時間によって使う人が変わるという話だった。ただ、その一文だけを抜き出すと、前後に書いてあった条件が消えていた。
今日一日で何度条件を見落とすのかと思い、メモの端に一言足す。短く書くこと自体は便利だが、短くすれば全部覚えられるわけじゃない。
近くの棚でもう一冊、似た題材の本を見つけた。見出しは近くても、取り上げている場所も、書き方も違う。全部読もうとすると時間がかかりそうなので、目次と数ページだけを見て、棚の位置を覚えた。
借りるかどうかは、今の本を読み終わってから考えてもいい。元の場所へ戻し、しおりを挟み直して鞄へしまった。
片付けかけたところで、消しゴムが机の脚の近くに落ちているのに気づいた。自分のものを筆箱に入れ忘れたのかと見比べたが、俺のはちゃんと中にあった。
近くで立ち上がった生徒に声をかけると、その人がポケットを確かめてから振り向いた。
「それ、俺のです。ありがとうございます」
「いえ。ここに落ちてました」
拾って渡すと、小さく頭を下げて受け取ってくれた。俺も筆箱の口を閉める。誰のものか分からないまま机に置いて帰るより、聞けてよかった。そういう小さい用事なら迷わずできるのに、親しい人にほど先回りしてしまうことがある。
借りた本とメモをもう一度確かめ、鞄を肩に掛けた。
スマホを見ると、二十分を少し過ぎていた。
『今、図書室出る。そっちは?』
廊下へ出てから送ると、少しして返事が来た。
『今から私たちも出る。昇降口で!』
ちょうどよかったことが嬉しくて、歩く速さが少し上がった。待つ人も待たせる人もいない日だった、というだけなのに、前より気楽に合流できた気がする。
昇降口では、莉緒と高瀬さんが靴を履き替えていた。
「お待たせ」
「今来たとこ。紗季、じゃあまた明日ね」
「うん。また明日。三原くんも」
「また明日」
校門を出て少し進んだところで、高瀬さんは俺たちとは違う方へ曲がった。莉緒は手を振ってから、俺の隣に戻ってくる。
「本、あった?」
「気になるのはあった。今日は借りなかったけど」
「読む本の順番待ちができてる」
「俺の読む方が遅い」
「私も。案内は読んでるつもりなのに、あとで見ると初めてみたいなページあるもん」
莉緒は笑って、自分の肩の鞄を掛け直した。俺は自然に彼女の右側を歩きながら、空いている手が少し近づくのを感じた。
大通りへ出る前の、歩道が広くなるところで手をつないだ。触れる前に一度だけ顔を見たら、莉緒が小さく頷いた。
「朝、ちょっと変だったよね、私たち」
彼女から言われ、俺は前を見たまま頷いた。
「筆箱を落とすところだった」
「見た。調整って言ってた」
「あれ、採用しなくていいから」
「でも私も、プリントの答え合ってた時より、そのあと目が合った時の方が緊張した」
莉緒の声が少し小さくなった。つないだ手の指が動き、俺も握り直す。
「俺も」
「普通に話せるかなって思って来たんだけど、顔見たら、土曜のこと思い出しちゃって」
「俺、教室入る前に止まった」
「え、そうなの?」
「拓海に押された」
莉緒は驚いたあと、笑いをこらえきれずに肩を揺らした。
「三原くん、登校してきてくださいって?」
「それより雑だった」
「想像できる」
彼女が笑うので、俺まで可笑しくなった。朝の失敗を二人で話してみると、緊張していたことまで恥ずかしいだけではなくなる。
「嫌だったとかじゃないからね」
莉緒が付け足した。
「分かってる。俺も、そうじゃない」
「うん。それは、土曜に言ってくれたもんね」
信号が赤になり、二人で止まった。莉緒は前を向いていたが、耳にかかった髪を左手で直した時、頬が少し赤いのが見えた。
あの時嬉しかったことは、もう伝えている。今日また一緒に歩きたいことも、合流する前に伝わっている。何かしたあとに、毎回同じことをしないと気持ちが減るわけではない。
「今日、こうして帰れるのも嬉しい」
俺が言うと、莉緒が顔を上げた。
「……私も。今日、ちゃんと話せてよかった」
「朝も英語の話はした」
「あれもちゃんとした話だけど。今のも、したかった」
「うん」
青に変わって、二人で横断歩道を渡った。つないだ手を大きく振ることはない。ただ、歩く速さが揃っていることを、普段よりはっきり感じていた。
駅へ続く道で、莉緒がスマホを出して時間を確かめた。
「今日、家帰ってから、紗季と出した案をまとめるんだ。学校の資料見る時の、聞きたいこと」
「高瀬さんも調べてるの?」
「紗季のは紗季のであるけど、今日は私の文章が長いって話。声に出してみたら、自分で途中何聞いてるか分かんなくなった」
「一回に全部聞こうとした?」
「そう。聞く方の私が息切れした」
莉緒は笑いながら、空いている手で小さな丸を作った。
「使う人の話をどのくらい聞くかと、作ったあとに直す授業あるか。それ、別に聞けばいいんだって」
「二つとも聞きたいのはそのままでいいしな」
「うん。なくすんじゃなくて、分ける。今夜、自分でもう一回書いてみる」
彼女の見学は、まだ申し込んだわけではない。行く前に確かめることも、家で相談することも残っている。それでも、前に見た学校の話だけで終わらず、次に自分が知りたいことが増えていた。
俺も、比較の紙に空欄を残している。隣で同じ紙を書いているわけではないのに、途中の話を聞けるのは心強かった。
「じゃあ、今日はまっすぐ帰ろう」
「うん。航平は?」
「俺も勉強。あと、読んだところのメモを直す」
「二人とも文章と戦ってる」
「俺は自分で短くしすぎた文章と」
「私は自分で長くしすぎた文章と」
どちらが有利か考えて、たぶんどちらも自分の癖を相手にしているだけだということになった。
駅前に近づき、人が増えたところで手を離した。莉緒はその手をすぐにポケットへしまわず、鞄の持ち手に添えた。
「あのさ、ちょっと先の話なんだけど」
「うん」
「十一月、航平の誕生日あるじゃん。近くなったらって話してたけど、私、会えたらいいなって、今も思ってる」
覚えていてくれるのは知っていた。俺のスマホにも、二月六日が入っている。
けれど、覚えていることと、その日に会いたいと思ってくれていることは、やっぱり別々に嬉しかった。
「俺も、莉緒と過ごしたい」
返事をすると、彼女がほっとしたように笑った。
「よかった。何したいか、また考えよ。今すぐ決めなくていいんだけど」
「食べたいものは、あるかも」
「もうあるの?」
「ケーキ」
「それは、私もちょっと予想してた」
普通すぎる答えだったらしい。俺は笑って、少し考え直した。
「でも、種類までは決めてない。一緒に選びたい。自分で選んでいいなら、そうしたい」
「うん。私も一緒に選びたい。じゃあ、それ候補ね」
予約が必要な店を決めたわけでも、家に呼ぶ約束をしたわけでもない。当日の学校や家の予定も確かめてからになる。それでも、何が嬉しいかを一つ伝えられるだけで、先の話が自分のものになる感じがした。
「高いのじゃなくていいから」
つい言い足しかけて、俺は途中で止まった。莉緒が首をかしげる。
「どうした?」
「いや、まだ何も決めてないのに、先に心配した」
「あはは。予算は相談しよ。私も、できる範囲でお祝いしたいから」
「うん。ありがとう」
気を遣わなくていいと言って、彼女の楽しみまで小さくしなくていい。俺にも希望があり、莉緒にもしてみたいことがある。これから決める時に、両方聞けばよかった。
帰り際、莉緒は「今日、学校で会ったのに、またねって言うの変な感じ」と笑った。
「明日も学校で会う」
「分かってるよ。だから、また明日」
「また明日」
いつもの挨拶をして、別々の方へ歩き出した。今日は写真を一枚も撮っていないし、新しい場所にも行っていない。けれど、帰ってから莉緒に話そうと思うことは、もういくつかあった。
その夜、勉強の区切りにスマホを見ると、莉緒から短いメッセージが来ていた。
『質問、二つに分けた。声に出しても息が続いた』
机に向かって実際に読んでいる姿が浮かび、俺は笑った。
『よかった。俺もメモ直した。条件が戻った』
『おかえり、条件』
『二度と見失わないとは言えない』
『その時は探そう』
俺は返事を送ってから、机の端の弁当袋を見た。明日も箱を入れるために、口を開いて置いてある。いつかの特別な贈り物が、もう毎日の持ち物になっていた。
何もかもを特別な日に集めなくても、今日みたいに一緒に帰れる日がある。緊張して、少し失敗して、それをあとで笑って話せる日もある。
『今日、一緒に帰れてよかった』
送ると、すぐに画面が明るくなった。
『私も。明日、朝は筆箱落とさないでね』
『机の真ん中に置く』
『よし』
短い返事のあとに、笑っているスタンプが一つ届いた。俺はスマホを伏せ、残っていた問題集を開く。明日の朝は、教室の前で立ち止まらずに入れそうだった。




