第43話 もう少し、一緒にいたい
土曜の午前、俺は問題集の同じ行を三度読んでいた。意味が分からないからではなく、途中から別のことを考えてしまう。十五時に莉緒と会う約束をしているのに、時計を見ても、まだ十時にもなっていなかった。
スマホは机の向こう側へ伏せてある。返事を待っているわけでもないので、触る理由はない。俺は途中式を書き直し、一問終わるまで時計を見ないと決めた。
それが終わると、予定していた範囲の半分ほどだった。やればできるというほど順調ではないが、開いたまま時間だけ過ぎるよりは進んでいる。俺は一度立って水を飲み、洗って乾かした巾着を見に行った。
紺の布はもう乾いていた。口のところを軽く伸ばし、灰色のひもを確かめる。昨日までの形とほとんど変わらないのが、かえって嬉しかった。俺は自分の部屋へ持って戻り、月曜の弁当を入れる場所へ置く。
莉緒へ、ちゃんと乾いた、と送ってから机へ戻った。相手も午前は勉強すると言っていたので、返事がすぐに来なくても気にならない。次の一問を読み始めると、今度は最後まで考えられた。
昼になる前に、莉緒から連絡が来た。問題の写真ではなく、ノートを閉じた机の端だけが写っている。
『今日はここまで。残り、夜やる。十五時、行くね』
俺は自分も予定の範囲が終わったと返した。全部の課題を終えたわけではない。それでも午後に会うために、できていないことを黙っている必要はなかった。
昼食を食べ、出掛ける支度をすると、母が夕飯は家かと聞いた。十七時までには別れる予定だと答え、鞄へ水と財布を入れる。買い物の目的がないので、いつもより荷物は少なかった。
駅へ向かう道では、風が上着の隙間へ入ってきた。暑かった頃の同じ道を思い出すと、莉緒と出掛ける服を考え始めてから、季節が二つも進んだ気がする。俺は袖を直し、いつもの時計へ向かった。
莉緒は待ち合わせの三分前に来た。俺が時刻を見ていたので分かっただけで、彼女に早く来るよう頼んだわけではない。顔を上げると、彼女もこちらを見つけ、少し足を速めた。
「お待たせ。今日は、ちゃんと机に座れた」
「俺も。最初、同じ行何回も読んでたけど」
「分かる。私、教科書開いて、何見ようとしたか忘れた」
笑いながら隣へ並び、二人で歩き始めた。莉緒は茶色の薄い上着に明るい色のスカートを合わせ、髪を後ろでゆるくまとめていた。手をつなぐと、彼女の指がいつもより少し冷たい。
「寒かった?」
「歩いてたら平気。航平の手、あったかい」
言われると、つないだ手を意識してしまう。俺が何か返そうとしたら、莉緒が笑い、今ちょっと握る力変わった、と言った。
「変わった?」
「うん。でも、痛くない。大丈夫」
彼女はそう言って自分の指を少し動かした。俺も力を緩め、並んで歩く。相手が何も言わないうちは全部平気なのだと決めずに済むのは、こうして普通に教えてくれるからだった。
今日どこまで行くかは、二人で案内を見て決めた。駅の向こうの通りを少し歩き、小さい公園のある辺りから戻る。川沿いへはこの前行ったので、今日は店の並ぶ道を選んだ。
公園に目的の催しがあるわけではない。十五時から十七時まで、一緒に歩いて話せればよかった。莉緒は、目的ないのもいいね、と言い、俺もうなずいた。
「でも、気になる物あったら見たい」
「俺も。時間見て、入れそうだったら」
言うと、彼女はそれなら安心と笑った。どこにも寄らないと決めて歩くわけでも、見つけた物を全部見ようとするわけでもない。俺は初めて来る道の方へ目を向け、彼女は店の窓へ顔を寄せた。
通りには古い店と新しい店が並んでいた。俺が気になったのは、小さい階段の先に入口のある本屋だった。道路から見えるのは窓の一部だけで、棚に並んだ本の表紙がこちらを向いている。
莉緒も俺の目線を追い、見たい、と聞いた。俺がうなずくと、彼女は自分も少し見てみたいと答える。
「入っていい? 長く見ちゃいそうだったら、言って」
「うん。私も見たいから、今のところは大丈夫」
俺たちは手を離し、階段を上った。入口に営業時間の紙があり、中には数人のお客さんがいる。店内の通路は広くないので、鞄を体のそばへ寄せて進んだ。
俺は街の写真のある本のところで止まった。表紙の道は知っている場所ではなかったが、歩いたら何が見えるだろうと思う。隣にあった本の背を読んでいると、莉緒が少し離れた棚で何かを見つけていた。
近づくと、彼女は古い広告のデザインを集めた本を見ていた。手に取れる見本を開き、同じ物でも文字が違うと印象が変わるねと小声で言う。
「袋の展示、思い出した」
「うん。あれも文字の形違った」
俺は表紙だけしか見ていなかった本を、彼女が開いている横から見た。大きな文字に目がいく物と、小さい絵を見たくなる物がある。莉緒は気に入ったページを一つ示してから、棚へ戻した。
買うつもりがなかったのか聞くと、今日は見られたからいいと答える。俺も欲しいと思った本の値段を確かめ、すぐには買わず棚へ戻した。少し考えてからまた来るのでもよかった。
店を出ると、莉緒が、楽しかった、と言った。俺は時刻を見て、思っていたより長くいたことに気づく。十五分くらいのつもりが、二十五分ほど経っていた。
「ごめん。結構いたね」
「うん。でも私も見てた。謝るところじゃないよ」
彼女はそう答えたが、俺は店の前で少し黙った。一緒に入ったのだから、退屈していると決めつけるのは違う。それでも、自分が見たい物に夢中になっている間、隣の人が待っていたのではないかという心配は残っていた。
莉緒は俺の顔を見てから、自分の手をこちらへ差し出した。
「私、文字の本見つけたって、話したじゃん。あれ、面白かったよ」
「うん。分かってる。ちょっと、気になっただけ」
「じゃあ、もう一回言っとく。今日の本屋、私も入りたかった」
俺はうなずき、差し出された手を握った。心配が一度で全部なくなるわけではないが、彼女が自分で見つけた物を話してくれたことを、勝手になかったことにはしたくなかった。
ありがとうと答えると、莉緒は笑い、次は私が寄りたいところ探す、と言った。その声が楽しそうで、俺も前を向いて歩き始めた。
通りの途中で、俺たちは細い路地の入口へ少しだけ顔を向けた。奥に小さな看板があり、何の店か道路側からは読めない。俺が気にしていると、莉緒が、行ってみる、と聞く。
「いや、今日はこの通りでいい。あっちまで行くと、戻るの遠くなりそう」
答えると、彼女は、じゃあまた今度、と言って歩き始めた。行かないと決めた途端、もう気にしてはいけないわけでもなく、俺は一度だけ看板を振り返る。それを見て莉緒が笑った。
「覚えとく? 場所」
「うん。帰ってから地図で見る。今日は調べながら歩く日じゃなくていい」
「私も。航平、調べ始めると、すごい真面目な顔になるもん」
彼女に言われ、俺はそんな顔をしていたかと考えた。水族館の帰りも、夏に道を選んだときも、スマホを見ていたことは何度もある。全部が必要な確認だったとしても、隣の彼女が見ている顔まで、自分では分からなかった。
「嫌だった?」
「嫌じゃない。分かんないところ、分かるようにしようとしてる顔だなって。でも、今は私も見て」
最後の言葉を聞いて、俺は彼女へ顔を戻した。莉緒は自分の頬の辺りを空いた指で示し、ちゃんとここ、とふざける。俺が見てると答えると、彼女は一度照れたように目をそらした。
「自分で言うと、見られるんだね」
「見てって言っただろ」
「そう。言った私が、今、ちょっと困ってる」
二人で笑い、道の角を曲がる。俺はスマホを出さず、彼女が通りの先に見つけた色のついた旗を見た。地図へ残す場所は、後からでも探せる。今彼女が何を見ているかは、今聞かなければ分からないこともあった。
莉緒はその旗の文字を読み、週末だけ開く小さい売り場なのかもしれないと言った。今日は寄らずに先へ行くことにしたが、二人とも何があるか少し気になった。莉緒は次にこの辺りを歩くなら、もう少し早い時間もいいねと言った。俺も賛成し、昼を食べる前に来れば、見た後で店を選べそうだと答える。まだ日にちは決めず、旗の色だけ二人で覚えておくことにした。行きたいところが同じ日に全部収まらないくらいあるのは、困ることばかりではない。俺はそう思いながら、握った手を軽く動かした。
彼女が見つけたのは、日用品と小さい雑貨を扱う店だった。入口に手袋や靴下が並んでいる。莉緒は薄い手袋を手に取ったが、すぐにはめず、俺へ、もう必要かな、と聞いた。
「今日はまだ大丈夫じゃない?」
「そうなんだけど、朝、手冷たくなってきた」
俺はさっきつないだ手を思い出した。彼女は試着用と表示された物をはめてみて、指の先を少し動かす。俺も隣の棚を見たが、似た色がいくつもあり、違いはすぐに分からなかった。
莉緒は外した手袋を元の場所へ戻し、もう少し考えることにした。俺はその横にあったマグカップを見て、持ち手が大きいと使いやすそうだと思う。彼女へ話すと、自分は色を先に見ていたと笑った。
「航平、前より使うところ考えるようになった?」
「袋もらったからかも。前は入ればいいくらいだった」
「入るのも大事だけどね」
彼女はうなずき、自分も袋を作ってから道具の細かいところを見るようになったと言った。どのくらい使うかを考えると、高くても欲しい物もあるし、今日は買わなくていい物もある。
俺たちは結局何も買わずに店を出た。買い物に来たのに何も買わなかったわけではなく、散歩の途中で二人とも気になる物を見られた。俺は時刻を見て、公園まで行くと戻りが少し慌ただしくなると気づく。
「この先、今日はやめる? 駅の方へ戻りながら、どこかで少し座りたい」
俺が聞くと、莉緒は自分もそう思ったと答えた。最初に決めた折り返し場所まで行かなくても、引き返せる。彼女は公園に行けなかったことより、本屋と雑貨の店で見た物を話していた。
通りから一本戻ると、小さい広場の端にベンチがあった。買い物の休憩をしている人たちと少し離れた二席が空いている。俺たちは座り、持ってきた水を飲んだ。
莉緒が鞄からスマホを出して時刻を見た。十六時半になる少し前だった。駅へ戻って別れるまで、まだ余裕はあるが、長く座っているほどではない。
「もう帰る時間近いね」
彼女が言い、俺もうなずいた。二時間あれば短すぎることはないと思っていたのに、会うと案外すぐに過ぎる。本屋で時間を使ったのが悪かったのではなく、莉緒といる時間をもう少し欲しいと思った。
「もう少し、一緒にいたいな」
俺が口にすると、莉緒はこちらを見た。返事を待ちながら、俺はすぐに、だから遅くまでいようと言ったわけではないと付け足したくなる。けれど、彼女が口を開いたので、言わずに待った。
「私も。でも、今日は帰る。夜、残りやるって決めたから」
「うん。俺も帰る。言ってみただけ」
彼女は俺の返事を聞いて、膝の上の鞄を少し横へ寄せた。それから空いた手をベンチの上へ置き、俺の指に触れる。
「言ってくれて、嬉しかったよ。帰りたい気持ちだけになってたら、寂しいし」
「帰りたいというか、帰らないとだなと思ってた。でも、もっと話したいのもある」
「私もそれ。両方ある」
莉緒はそう言い、自分の指を俺の指へ重ねた。手をつなぐと、来たときより冷たくなくなっている。俺はその手を握り、彼女が少し肩を近づけた分だけ、こちらも寄った。
広場の向こうを人が歩いている。見つめ合ったままずっと黙るには気恥ずかしく、俺は一度目をそらした。莉緒も笑いそうな顔をして、水筒のふたを確かめている。
「何か、帰るって決めてからの方が、近いね」
彼女が小声で言った。俺はつないだ手を見てから、そうだなと答える。短い時間を埋めようとして近づいたのではなく、今日はあと少しで離れると分かったから、自分がこうしていたいと気づいたのかもしれない。
莉緒は鞄を肩へ掛ける前に、俺の方をもう一度見た。俺も顔を向けると、思ったより近くて、言葉がすぐには出ない。彼女が先に目をそらしかけ、俺は名前を呼んだ。
「莉緒」
「うん」
返事をしてくれたので、俺は少し息を吸った。何となく近づいて、相手がどう思うかを後で知るのは嫌だった。
「キス、したい。今、してもいい?」
声は自分で思っていたより小さかった。それでも彼女には聞こえたらしく、目が少し大きくなる。俺は手を強く握らず、その顔を見て返事を待った。
莉緒は一度唇を結び、俺の方へ向き直った。
「うん。私も、したい」
聞いてから、俺はもう少しだけ近づいた。彼女の手が俺の袖のところへ移り、軽くつかまれる。顔を傾ける方向が最初合わず、二人とも止まってしまった。
「あ、ごめん」
俺が言うと、莉緒は小さく笑った。
「大丈夫。私も、どっちか分かんなかった」
それを聞いて少しだけ力が抜け、俺は彼女の様子を確かめながら、今度はゆっくり顔を寄せた。唇が触れたのは短い間だった。離れた後、彼女は俺の袖をつかんだまま、目を上げる。
俺は何を言えばいいか考えたが、うまい言葉は見つからなかった。莉緒も同じように、笑ってから一度口を閉じる。
「今、顔、ちゃんと見られない」
彼女が言うので、俺も、俺もちょっと、と答えた。けれど二人とも本当に反対へ向くのは嫌で、少し目を落としただけで、手は離さなかった。
広場の端を子どもが走り、呼び止める声が聞こえた。俺たちは同時にそちらを見て、やっと普通に息を吐いた。莉緒が袖から指を離し、俺の手へ戻す。
「嬉しかった」
彼女が言い、俺もすぐにうなずいた。
「俺も。言ってよかった」
もう一度したいと思ったが、それを急いで続けなければいけないわけではなかった。俺は彼女の手を握ったまま時刻を見て、そろそろ歩こうかと聞く。莉緒は、うん、と答え、自分の鞄を持った。
駅へ戻る道では、さっきまで普通に話していた店のことを、うまく思い出せなくなっていた。何かを話そうとしても、莉緒の方を見ると、二人とも笑ってしまう。
「本屋の、文字の本」
俺が言いかけると、彼女は急に顔を上げた。
「うん。覚えてる。でも、今、内容聞かれたら困る」
「俺も。何か、話そうと思っただけ」
二人で笑い、それから少し黙って歩いた。沈黙の間にも、手がつながっているのを確かめられる。今日の待ち合わせを決めた金曜の自分は、こんな帰り道になるとは考えていなかった。
駅の時計が見えるところまで来ると、十七時にはまだ少しあった。約束を守れたことが、急に現実的な安心になる。莉緒も時刻を見て、ちゃんと帰れるねと言った。
「うん。夜の分、やれそう?」
「やる。今、すごい変な顔して問題解くかもしれないけど」
彼女がそう言うので、俺は笑った。俺も机へ座ってすぐに集中できるかは怪しかったが、帰ってやると決めた分はやりたかった。
分かれ道の手前で、莉緒が立ち止まり、つないだ手を少し持ち上げた。
「今日、会ってよかった」
「俺も。二時間、作ってよかった」
答えると、彼女はうなずき、今度はそのまま手を離した。さっきのことをもう一度話そうとしているのか、少し口を開いたが、言葉にする前に笑う。
「あとで、帰ったって送るね」
「うん。俺も」
彼女が歩き出した後、俺は一度だけ振り返った。莉緒も振り返っていたので、また二人とも笑って手を振る。そこでようやく、それぞれの家へ向かって歩き続けられた。
帰宅して連絡を送り、俺は上着を掛けた。机の上の問題集を開く前に、椅子へ座って少しだけ天井を見る。今日会えなかったらと思ったのではなく、会いたいと言ってよかったと、何度も思ってしまう。
莉緒からも帰ったと連絡が来ていた。続けて届いた文章は、短かった。
『さっきの、私も初めてだったから、すごい緊張した』
俺は画面へ顔を近づけ、返事を打った。
『俺も初めて。まだ緊張してる』
『よかった。私だけ、家で変になってるかと思った』
俺は笑い、何してる、と聞きかけてやめた。これから勉強すると言っていたから、長く連絡を続けるのはまた後でよかった。
『今日はありがとう。夜の分、先にやろう』
『うん。終わったら、おやすみだけ送っていい?』
俺はもちろんと返し、スマホを机の向こうへ置く。朝と同じ場所なのに、画面へ伸ばしたくなる理由が違った。俺はペンを持ち、最初の問題の条件に線を引いた。
解けなかったところを一つ残し、明日確認する印をつけた。全部できなかったことをごまかさず、今日やると決めた範囲の最後まで目を通す。終えたときには、会う前に想像していたより時間が掛かっていた。
それでも、今日は勉強もしたし、莉緒にも会えた。片方を選んだせいで、もう片方をしてはいけなくなったわけではない。俺は机を片づけ、彼女へ、終わった、と送った。
少しして、莉緒からも終わったと返る。俺はすぐに電話したくなったが、今日は声を聞き始めたら長くなりそうだった。代わりに、また月曜、と書いて送る。
『うん。月曜、顔見たら笑っちゃうかも』
『俺も笑うと思う』
返してから、しばらく画面を見ていた。彼女の返事が来たのを確かめ、今度こそおやすみを言う。唇に触れた感触を思い出していたことは、わざわざ文章にしなかった。月曜、本人に会ったら、それだけで分かってしまいそうだった。




