第40話 使ってほしくて、作ったから
月曜の昼、莉緒は俺の弁当袋を見てから、自分の弁当を開けた。何か聞きたいことがあるのかと思って待ったが、彼女は隣の高瀬さんへ、今日の小テストの範囲はどこだったかと尋ねる。
「午後あるのに、今?」
高瀬さんが笑うと、莉緒もつられて笑った。
「確認。知ってるつもりで違ってたら困るじゃん」
俺は教科書の端に挟んだ紙を出し、範囲を示した。莉緒はすぐに分かったと言ったので、覚えていなかったわけではなさそうだった。拓海が俺の方を見て、自分にもその紙を見せてと言う。
「お前も確認?」
「俺は普通に忘れた」
はっきり言われて、俺も笑った。文化祭が終わると、授業の小さい予定がまた増えてくる。次の日曜に見学へ行くつもりでも、その前の午後には小テストがあった。
袋のことは、莉緒から言うまでこちらから毎回聞かないつもりだった。どこまでできたか知りたい気持ちはあったが、俺が楽しみにしていることが、早く終わらせる催促になったら困る。
それでも、彼女が弁当袋へもう一度目をやったので、俺は口を開いた。
「何か、測るところ足りなかった?」
「あ、違う。今日も同じの使ってるなって。作ってるけど、まだ途中」
「うん。急がなくていいよ」
答えると、莉緒は箸を置いた。
「それは分かってる。聞いてくれても大丈夫だよ。私も話したいし」
俺は少し驚き、そうなのか、と返した。聞かない方が気楽だろうと勝手に決めていたが、それも俺の想像だったらしい。
「じゃあ、どこまでできた?」
「布、洗って乾かした。あと、切るところに印つけた。切るの、一番緊張する」
「戻せないから?」
「そう。縫ったところはほどけるけど、短く切ったら伸びない」
彼女の言い方が真剣で、俺もそれは確かにと思った。高瀬さんが、大きめに切るのは駄目なの、と聞く。莉緒は本を見て決めた分の余裕はあるけれど、大きければ何でもいいわけではないと言い、途中で自分も昨日姉へ同じことを聞いたと笑った。
拓海は話を聞きながら弁当を食べ、最後に、縫うところまで行ったら教えて、と莉緒へ言った。彼女が理由を尋ねると、切るところの緊張が終わったか気になるから、と答える。
「大野くんまで進捗聞く人になってる」
「完成したら三原の弁当のところで見えるだろ。そこまで知ってたら、もう途中も気になる」
莉緒は笑い、じゃあ失敗したら失敗したって言う、と返した。俺だけのために作る物でも、彼女が友達へ話して楽しむことがあってよかった。
その週は、彼女から時々短い連絡が来た。布を切ったという報告に、俺はおめでとうと返す。少し大げさかと思ったが、返ってきたのは、ありがとう、今すごくそれが嬉しい、という文章だった。
水曜には、縫う向きを一度間違えたと聞いた。俺が返事に迷っている間に、もうほどいたから大丈夫、と続いて届く。出来上がった物しか知らなければ見えなかった手間を、今は少しずつ教えてもらっていた。
俺もその晩、母に頼んで取れかかったボタンを縫い直した。家で着るシャツのボタンを一つだけ。針を持つところから説明してもらい、玉を作るのに予想以上に時間が掛かる。
「穴が向こう見えないんだけど」
「布ごと持ち上げすぎ。指、そこだと刺すよ」
母に言われ、俺は持つ位置を変えた。すぐそばで見てもらっているので、安心して雑に動かすわけにもいかない。縫い終わって糸を切ると、ボタンはちゃんとついていたが、裏側の糸は少し固まって見えた。
「初めてなら、これでいいんじゃない」
母はそう言い、針の本数を確かめてから道具をしまった。俺も机の上に糸の切れ端が残っていないか見て、シャツを持って部屋へ戻る。
莉緒へそのことを伝えると、少しして電話が掛かってきた。俺が出ると、彼女は開口一番、何のボタン、と聞く。
「家で着るやつ。学校のじゃない」
「そっか。ちょっと安心した。明日、取れてないか見そうだった」
「そんなに信用ない?」
「ないっていうか、自分で縫ったら、私も気にする」
俺は笑い、裏の糸が丸まったと話した。彼女も最初の巾着で糸が変なところへ固まったと言い、二人で、どんなふうに失敗したかを説明し合う。どちらも人へ教えられるほど詳しくないので、最後はそれぞれ教わった人に聞こうという話になった。
「でも、自分で直したんだね」
「うん。俺もできた方が便利だし。袋も、ほつれたらそのままにしないようにしたい」
言ってから、新しい袋がすぐほつれると言っているように聞こえたかと思った。俺が言い直す前に、莉緒は明るい声で、何かあったら私にも見せて、と答えた。
「使ってたら、何も起きないとは言えないし。私が直せるか分かんないけど、見たい」
「うん。分かった」
俺はシャツのボタンを指で押した。何も起きないように、引き出しの中へしまっておくだけでは、使う物ではなくなる。莉緒は作って終わりにしたいわけではないのだと、その声から分かった。
金曜の夜、彼女から明日は持っていけそうという連絡が来た。俺はすぐに、楽しみ、と返し、土曜の行き先をまだ決めていなかったことを思い出す。
布を選んだ日にお茶を飲んだので、また同じようにカフェだけで終わるのも少し違う気がした。前に資料館で見た道を涼しくなったら歩きたいと話していたが、明日の午後に無理なく行けるところはあるだろうか。
地図を開くと、駅から少し離れた川沿いに、短く歩けそうな遊歩道があった。以前一人で通ったことはあるが、橋の向こうまで歩いたことはない。時間を区切って戻れると分かり、莉緒へ候補として送った。
『川のところ、少し歩かない? ベンチのある辺りまで。雨なら建物の中にしよう』
返事は、いいね、歩きたい、だった。彼女は途中で温かい物も飲みたいと言い、俺はそれもいいと答える。橋を全部見ないといけないわけではなく、歩いて疲れたら引き返せばいい。二人で会う約束を、何か一つ達成する時間にしなくてもよかった。
明日の持ち物を出した後、俺は日曜の見学案内も確かめた。受付は十時、分野の説明と課題展示を見る枠で予約してある。電車の乗り換えは一回、最後の駅から少し歩く。帰りが昼を過ぎることも父へ伝えておいた。
前に父と行った大学のメモをそのまま持っていくだけでは、比べたいことを聞き忘れそうだった。俺は新しい紙に二つだけ質問を書き、分からない言葉を増やしすぎないようにした。莉緒へ話すためではなく、自分が知りたいことを持っていく。その後で、どんなだったか彼女にも話したかった。
土曜、時計の下で会った莉緒は、鞄のほかに小さい紙袋を持っていた。見つけた途端、俺の目がそちらへ行く。彼女も気づき、隠す代わりに少し持ち上げた。
「これ。あとで渡す。今、ここだと広げるとこないから」
「うん。楽しみにしてる」
「それ、もう三回くらい聞いた。でも嬉しいから、まだ言っていい」
俺が笑うと、彼女も笑った。今日は淡い青の上着を着て、髪を片側だけ耳の後ろへ寄せていた。風があると顔の近くへ戻ってくるらしく、歩きながら指で押さえる。
遊歩道へ向かう途中、俺は紙袋を持とうかと聞いた。莉緒は大丈夫と答え、その代わりこちらの手は空いていると言って、左手を出す。俺は右手で握り、二人で川の方へ歩き始めた。
大きな通りを曲がると、店の看板より先に空が広くなった。川の水は思ったよりゆっくり流れていて、向こう岸の草が風に揺れている。遊歩道には散歩中の人がいて、俺たちは端へ寄りすぎないよう並んで進んだ。
「ここ、一人で来たことあるんだよね」
「うん。でも、この先はまだ。前は時間なくて橋の手前で戻った」
「じゃあ、今日はちょっと先まで行ける」
彼女がそう言い、遠くの橋を指した。俺は時刻を確かめ、今日はあそこを渡らずに手前で折り返すくらいがよさそうと答える。莉緒もそれでいいと言った。
進んでいくと、道の脇に小さい花壇があった。夏の頃より花の色が少なく、その代わり葉の形がよく見える。莉緒は一つの葉を見て、布の柄にありそう、と言った。俺は川の方ばかり見ていたので、そこで初めて足元に近い花壇へ目を向ける。
「俺、さっき通り過ぎるところだった」
「私は逆。水、全然見てなかった」
二人で笑い、彼女が川へ顔を上げた。俺も花壇の端に残った黄色い花を見た。同じ道でも一緒に歩くと、見ていなかった物を教えてもらえる。それが楽しいから、俺はまた誘いたくなるのだと思った。
ベンチに空きがあるのを見つけ、莉緒が一度座ろうと言った。俺は同意し、二人で鞄を膝の上へ置く。彼女は紙袋を自分の横へ置かず、両手で持ったまま、俺の方へ体を向けた。
「じゃあ、渡します」
少し改まった声だったので、俺も背筋を伸ばした。彼女がそれを見て笑いかけるが、最後まで言おうとしているのが分かり、俺は黙って待つ。
「航平が使うの考えて作った。もらってください」
「ありがとう。大事に使う」
受け取った紙袋は軽かった。中から紺のチェックの巾着を出すと、選んだときより布が柔らかく見える。灰色のひもが二つの口から出て、結び目の先がきれいに切ってあった。
俺は手の上で向きを変え、口を少し開いた。底に幅があり、弁当箱を入れたときの形が想像できる。内側を引っ張ったり裏返したりはせず、まず、これを彼女が作ったのかと見ていた。
「ここ、ちょっと斜め。あと、反対の方、ほどいて縫い直したから」
莉緒が先に指を伸ばしかけた。俺は彼女の顔を見てから、そちらの縫い目を見る。
「うん。でも、俺、最初そこ見てなかった」
「そっか。言わなかったら分かんなかったかな」
「たぶん。けど、どこ作ったか教えてくれるのは嬉しい」
彼女は指を下ろし、少し照れた顔で笑った。俺がきれいだから嬉しいと言い切るのを待っていたのではないのかもしれない。作った本人の気になるところも聞いて、それでも使いたいと言えればよかった。
「ひも、引いてみていい?」
「うん。ちょっと固いかも。何回かやってみたけど」
俺は両側をゆっくり引いた。口がまとまり、ひもの色が布の上で見やすくなる。開くときも、口の両側を持てば大丈夫だった。
「使いやすそう。俺の箸も入りそうだな」
「家の似た大きさの箱で一回見た。でも、航平の、実際入れてみてほしい」
「帰ったら入れる。写真も送る」
約束すると、彼女はほっと息を吐いた。それを見て、俺もようやく自分の膝へ巾着を置けた。渡すまでの彼女が思っていたより緊張していたことに、今になって気づく。
しばらく座り、持ってきた水を飲んだ。俺は巾着を元の紙袋へ戻そうとして、もう一度だけ柄を見た。
「何回も見てる」
莉緒に言われ、俺はうなずいた。
「今、しまうの惜しい」
「それは嬉しい。でも、落とす前にしまって」
彼女が笑うので、俺も笑って、今度こそ鞄へ入れた。紙袋も畳まずそのまま入る大きさだったので、無理に折らずにしまう。
「使って、汚れたら洗っていいんだよね」
「うん。洗い方も姉に聞いた。あとで送る。乾くまで、前の袋使って」
「分かった。飾っておくより、使う」
「そうして。弁当入れるために作ったから」
莉緒の声が、さっきより明るくなった。もらった物を大事にするのと、きれいなまま触らずにおくのは、同じではない。俺は空になった弁当箱を洗う朝ではなく、これから何度も使う昼休みを思い浮かべた。
川から風が来て、莉緒の髪が頬へ掛かった。彼女が耳の後ろへ戻す間、俺はありがとうともう一度言った。
「もう、何回でも言ってくれる」
「言いたくなる。俺に作りたいって言ってくれたのも、嬉しかったから」
彼女は俺の方へ顔を向け、今度は笑わずにうなずいた。
「私も、作りたかった。航平が使うの、ちゃんと考えられたから」
その言葉を聞くと、ひもを何色にするか迷った時間まで一緒にもらった気がした。俺は手を膝の横へ出し、彼女の指を握る。莉緒も握り返し、少しだけ肩の距離が近くなった。
今日はここで抱きしめるかを、俺は一瞬考えた。けれど、隣に座って手をつないでいるだけでも十分に嬉しい。何か一つ増やさないと昨日より仲がよくない、ということではなかった。彼女も急いで立とうとせず、川の向こうを見ていた。
「あと少し歩く?」
俺が聞くと、莉緒はもう少しここがいいと答える。俺もそれがよくて、彼女の鞄が落ちないよう膝の上にあるのを確かめてから、背もたれへ軽く体を預けた。
彼女は自分の鞄から手帳を出した。淡い黄色の表紙を開き、見せてもいいかと俺へ聞く。俺がうなずくと、彼女は新しく書かれた一行のところだけをこちらへ向けた。
「航平に、私が作ったものを渡す」
彼女が声に出して読む。小さな四角には、まだ印がなかった。
「これ、文化祭の一日目の夜に書いた。何作るかも決めてなかったけど、作りたいなって」
「それで、次の日に聞いてくれたんだ」
「うん。聞けてよかった」
莉緒はペンを取り、四角の中へ印をつけた。俺に渡したから終わりではなく、俺がこれから使うことが始まるのだと分かっている顔だった。俺は手帳の他のページを勝手にのぞかず、その一行と、ペンをしまう指を見ていた。
折り返して駅へ戻る途中、俺たちは小さい店で温かいお茶を買った。ふたのある紙カップをそれぞれ持ち、飲める場所の脇へ寄る。彼女は熱いと言って一度カップを下げ、俺も真似するように息を吹いた。
明日の見学の話をすると、莉緒は何時に起きるのかと尋ねた。俺は受付が十時で、乗り換えがあるから朝食を早めにすると答える。彼女は自分も午前に家の用事があり、終わったら袋の写真を見られると嬉しいと言った。
「写真、今日送るよ。帰って弁当箱入れるだけだから」
「あ、そうだ。今日だった。明日のこと考えすぎた」
彼女が笑い、俺は当日忘れるよりいいと返した。彼女も見学に行く日を覚えていてくれる。そのことが嬉しかったが、ずっとスマホを見て待ってもらう必要はない。
「見学終わったら一回連絡する。でも、返事は莉緒の用事終わってからでいいから」
「うん。私も、時間が合ったら夜に聞きたい。無理なら次の日」
前なら、いつでも大丈夫と言ってしまったかもしれない。今は相手にも用事があると知ったまま、話したいと言える。俺はカップを両手で持ち、温まった指を見た。
帰り道では、莉緒が自分の次の学校比較の話をした。作品を作る授業だけでなく、使う人へ話を聞くような機会もあるか、案内で調べてみたいらしい。俺はその学校のことを知らないので、調べたら聞きたいと答える。
「私、袋作って、ちょっと分かった気がする。使う人が決まってると、考えるとこ増える」
「嫌にはならなかった?」
「大変だけど、嫌じゃなかった。だから、もうちょっとやってみたい」
彼女がそう言い、俺の鞄を見た。俺も袋を渡してもらっただけで、進路まで決まったことにはしない。ただ、本人が次に聞きたいことを見つけたのなら、それをまた教えてほしかった。
家へ帰ると、俺はまず手を洗い、机の上を空けた。弁当箱と箸箱を持ってきて、巾着の口を開く。箱を水平に入れると、底が落ち着き、箸箱も端に収まった。口を閉じても窮屈ではない。
写真を撮るために少し離れ、袋だけを写してから、開いたところも撮った。莉緒へ二枚送ると、しばらくして、入った、と短い返事が来る。
『うん。ちゃんと入った。ありがとう。休み明け、使う』
『よかった。私、写真見て変な声出た』
俺は笑って、どんな声、と返した。返ってきたのは、姉がびっくりするくらい、という答えだった。
洗い方の連絡を読んで保存した後、俺は袋から弁当箱を出した。今夜は空のまま鞄のそばへ置き、明日の見学に持っていく資料を出す。袋を使う日と、見学へ行く日は違う。それでも、今日もらった物が目に入ると、明日の知らない場所にも、自分で行ってみようと思えた。
袋の写真を見た母が、自分の弁当箱も入れてみたのかと聞いた。俺は実物を見せ、明後日から使うと答える。母は色がいいねと言い、布を買いに行った話を最後まで聞いてくれた。
「自分で選んだの?」
「紺がいいって言った。ひもは二人で見た」
「じゃあ、欲しかった物なんだね」
俺はうなずいた。欲しかった物だと言えるのが嬉しくて、彼女が俺の好みを全部当ててくれたという言い方にはしたくなかった。二人で選んで、莉緒が形にしてくれた。その順番を、ちゃんと覚えていたい。
部屋へ戻ると、シャツのボタンが目に入った。昨日まで少し緩んでいたところを指で確かめ、糸が取れていないのを見て安心する。自分で一つ縫っただけで、縫い目を見る時間が前より長くなっていた。けれど、巾着の粗を探そうとは思わない。底に弁当箱を置ける幅があり、ひもを引けば閉じられる。明後日の俺には、それがちゃんと役に立つ。
父へ出発する予定をもう一度伝え、乗り換えと受付の画面を確認した。質問の紙は二つ折りにして、鞄の取り出しやすいところへ入れる。莉緒へ明日は行ってくると送ると、彼女は気をつけて、と返してくれた。
その後に、もう一通届く。
『今日、受け取ってくれてありがとう』
俺は机の横の紺を見てから返事を打った。
『こちらこそ。次は、使ってるところ見て』
送信した後、ひもをもう一度だけ軽く引き、口が閉じるのを確かめた。次の昼休みに弁当を出すのが、今から少し楽しみだった。机に置くときは、紐を隣の弁当に引っ掛けないようにしようと思った。




