第39話 隣にいる人のために
土曜の十四時に時計の下へ着くと、莉緒は手のひらより少し大きな紙を見ていた。俺に気づくなり紙を折り、鞄の外側のポケットへ入れる。隠したようにも見えたが、次に出てきたのはスマホだった。
「今、連絡しようとしてた。おはよう、じゃなくて、こんにちは」
「うん。俺も午前、家にいたから、朝会った気がする」
「それ、会ってないよ。私、ずっと洗濯物たたんでた」
笑いながら彼女が隣へ並んだ。今日は薄いベージュの上着に白い服、黒いスカートだった。髪は下ろし、歩くと肩のところで揺れている。俺がそちらを見たのに気づき、莉緒は髪の先をつまんだ。
「今日は、このまま。お店で邪魔だったら結ぶ」
「似合ってる」
「ありがとう。まだ何も聞いてないけど、嬉しい」
言われて、俺は早く言いすぎたのかと思った。けれど彼女は笑ったまま、俺の上着の袖を少し指した。
「航平も、その色好き。今日、ちょっと涼しいね」
紺の薄い上着を着てきていたので、俺はうなずいた。昼の間ならまだ薄着でも歩けるが、日が落ちると違う。二人で家へ帰る時刻を確認し、十七時半までにはそれぞれ戻ろうと決めてから、駅前の商業施設へ向かった。
手芸店へ行くのは初めてではない。それでも、莉緒が俺に作ってくれる布を選ぶのだと思うと、前に自分の材料を探したときとは少し違った。俺は鞄に入れた弁当箱の寸法のメモを確かめる。弁当箱そのものを持ってこなかったのは、彼女が数字が分かればまず相談できると言っていたからだ。
「紙、さっき何見てた?」
聞くと、莉緒は鞄をたたいた。
「作り方のメモ。姉に見てもらって、分かんないところに丸つけた。全部丸になるかと思った」
「全部ではなかった?」
「うん。名前と、完成図は分かった」
俺は一度うなずいてから、ほとんど全部じゃないかと言った。彼女も分かっているらしく笑い、でも巾着のときにやったのと似ているところもある、と付け足す。
「分かるところからやる。いきなり全部できるつもりには、なってないよ」
その言い方が落ち着いていて、俺も余計な励ましを探さずに済んだ。作ってくれる人が不安なら、その分を俺が嬉しいで埋めるのではなく、今何が分かっていて、何がまだかを聞けばよさそうだった。
店へ入ると、棚には色の順に布が並んでいた。広い面積で見る紺は、俺の上着よりずっと暗い物も明るい物もある。小さい柄なら何でも想像できると思っていたが、実物を前にすると、それも怪しくなった。
莉緒はまず、目当てのチェックのある棚へ進んだ。買い物の前に見つけておいた場所らしく、歩き方に迷いがない。それでも、同じ列に似た柄が二つあり、彼女は途中で足を止める。
「あれ、どっちだったっけ」
「名前と完成図以外のところだな」
「布は分かってたはずなんだけど」
言いながら、彼女は表示のところを見た。俺も隣からのぞき、一つの布の端を示す。紺地に細い線が重なり、小さい四角が並んでいた。
「これ、説明聞いて想像したのに近い」
「そう、こっち。もう一個は線が太いんだ」
彼女が両方を見比べて教えてくれたので、俺も違いが分かった。布を巻いたまま見ると、線の太さより折り返した端に目がいっていたらしい。
次に深い緑の小さい点の布も見た。写真でなく実物で見ると、俺の想像より柔らかい色だった。莉緒は表示の値段を見てから、俺へ顔を向ける。
「どっちも、予定の中で買えそう。航平、どう?」
俺は紺へ戻ろうとして、もう一度だけ緑を見た。彼女が持つ袋なら、緑も似合いそうだと思う。そう言うと、莉緒は自分の鞄を見下ろし、確かに私が使いたくなる、と笑った。
「でも、今日は航平の」
「うん。俺は、やっぱり紺がいい。毎日使うの考えると、そっち」
「了解。じゃあ、紺にしよう」
彼女はすぐに決めてくれた。緑を見せたのは俺にそちらを選ばせたいからではなく、両方を見てほしかったからなのだと分かる。俺も選んだ後に、やっぱり莉緒の好きな方でもいいと引っ込めず、紺の方へ一緒に戻った。
布に触ってよい場所を確かめてから、端を指で挟む。思っていたより軽く、二つ折りにすると柄が重なって見える。莉緒も隣から触り、これならひもを通すところも縫えそう、と小さく言った。
「触っても、俺にはまだ難しさ分からないな」
「私も、全部分かるわけじゃない。家の練習したのと、あんまり違わない方が安心」
俺はうなずいた。安心する理由が分かれば、布を選ぶときに彼女が何を見ているかも分かる。色を決めたからもう終わり、ではなかった。
必要な量を相談するために、莉緒は店員へ声を掛けた。手が空いたところを待ち、自分の紙と俺のメモを出す。俺もスマホで弁当箱の写真を開いたが、最初に見せたのは袋を閉じた方だった。
「中身、こっちです」
画面を送り直すと、莉緒が横で笑いをこらえた。俺も気づいて、すみません、と言う。店員は大丈夫ですよと答え、莉緒の作ろうとしている形を確かめてくれた。
縫うときの余裕や、洗ってから使いたいことも考え、作り方の寸法を確認する。俺には聞き慣れない言葉もあったが、莉緒は分からないところを分からないまま流さず、紙の丸を指して聞いていた。
「ここ、布の向きって、柄がこの向きならこっちでいいですか」
返事を聞き、彼女が紙の横へ小さい矢印を書く。俺は弁当と箸箱が別々にならず入るかを確認し、余裕があれば持ち上げやすそうだと話した。
店員が紙に示してくれた位置を見て、莉緒はありがとうと言った。教えてもらったからもう絶対に失敗しない、という顔ではない。それでも、質問する前より、紙を持つ手が落ち着いているように見えた。
布を切ってもらう間、二人で近くのひもを探した。最初に手に取った紺のひもは、布とほとんど同じ色だった。莉緒は見やすい方がいいか尋ね、俺は少し明るい方が分かりやすそうと答える。
「グレーとか、どう?」
「それがいい。白すぎないの」
「だんだん、航平の好きな感じ、分かってきた」
言われて照れたが、俺も彼女が気に入った物を見るときの顔を、少しずつ覚えている。今の莉緒は、布よりひもを探しているときの方が楽しそうだった。聞いてみると、同じ紺でも組み合わせで違って見えるから、と教えてくれる。
俺には全部似て見える色にも、彼女は違う名前をつけたくなるらしい。薄いグレーと、少し青みのあるグレーを並べ、どちらが好きか俺へ聞く。俺が指した方を選ぶと、彼女もそれが合うと思ったと答えた。
「今のは、同じ意見だったね」
「うん。さっきの緑は違ったけど」
「緑も見てくれたから、私、ちゃんと納得してる」
その返事を聞き、俺も嬉しくなった。全部同じでなくても、見た後に選んだことを分かってもらえれば、気まずくならなかった。
会計では莉緒が財布を出した。布とひもで八百六十円。彼女は自分で払うと決めたとおりに払い、受け取った袋を自分の鞄へしまう。俺ももう一度払おうとは言わず、選ばせてくれてありがとうと伝えた。
「こちらこそ。適当に任せるって言われなかったの、助かった」
「言いそうにはなった」
「分かる。でも、紺がいいって聞けてよかった」
店を出るとき、彼女が俺の手を握った。買った布はまだ彼女の鞄の中にあり、俺の手には何も増えていない。それなのに、自分の物を買った帰りみたいに、何度も袋のある方を見たくなった。
お茶を飲む店は、商業施設の中を歩いて選んだ。莉緒は温かい飲み物が欲しいと言い、俺もそれに賛成した。空いている席が見える小さいカフェに入り、俺は紅茶、彼女はミルクティーを頼む。それぞれ四百五十円を払い、壁側の二席へ並んで座った。
彼女が鞄の外側からメモを出し、今日教えてもらったところを見直す。俺も顔を寄せたが、ひとまずしまおう、と莉緒が笑った。
「今から縫い始めそうになる。家帰ってから」
「ここでやったら、お茶より道具置くところがなくなるな」
「しかも、まだ道具持ってない」
二人で笑い、俺は熱い紅茶を少しずつ飲んだ。莉緒はカップの取っ手へ指を掛け、文化祭が終わって一週間も経っていないのに、もう随分前に感じると言う。
「今週、普通に授業あったからかな。あの看板、もうないし」
「うん。でも、クイズの一問はまだ覚えてる」
「航平と大野くんの間で、ずっと大事な問題になってる」
彼女が笑った後で、声を少し落とした。
「土曜の写真、姉に見せたらね。付き合ってからも、ちゃんと楽しそうでよかったって」
「付き合う前、心配されてた?」
「心配っていうか。私、好きな人には、いいって言いすぎるって言われてた」
俺はカップを置いた。莉緒は取っ手を持ったまま、自分の指を見ている。
「お姉ちゃんには、結構ばれてる。これ着たら変じゃないかなとか、誘ったら困らないかなとか。自分で聞いたくせに、違う答えだと気にしたりして」
笑ってごまかそうとする声だったが、全部を冗談にしたいわけではなさそうだった。俺は、今も気になるかと尋ねる。
「なるよ。今日だって、緑がいいって言ってほしかったわけじゃないけど、紺ってすぐ決まったら、私の説明、ちゃんとできたかなって思った」
「できてた。緑も、見て好きだと思った。でも俺が持つなら紺だった」
「うん。今、分かってる」
彼女が顔を上げたので、俺もうなずいた。説明が上手だったから同じ物を好きになるわけではない。違う物を選んでも、相手が選んでくれた時間までいらなかったことにはならないと、今は言えた。
「俺も、莉緒が喜びそうな方を選びたくなることあるよ」
「今日も?」
「うん。でも、俺が使う物だから。後から違う方がよかったって思うより、今言おうと思った」
莉緒は少し笑い、ありがとうと言った。それからカップを持ち上げ、ミルクティーを一口飲む。
「じゃあ、私も言う。今日のひも、最初の紺よりグレーの方が好きだった」
「それは同じだったな」
「そう。同じのときも、ちゃんと言っとこうと思って」
俺は笑った。違う意見を言えるかばかり考えると、同じ意見まで試験みたいになる。好きだと思った物をそのまま言えるなら、それでよかった。
カップの中身が半分ほどになったところで、莉緒が俺の借りた本はどうだったか尋ねた。俺は鞄から本を出す代わりに、まだ一章の途中だと答える。今日の買い物に持ってきてはいない。
「全部分かるわけじゃないけど、普段通ってる道の話を考えるところは面白かった」
「道の話って、近道とか?」
「それも関係あると思う。でも、近いのに通らないのは何でか、とか。店が見える道だと寄りたくなるとか」
説明しながら、今、俺たちが歩いてきた道を思い出す。商業施設に来るのに、駅から一番短い通路を使ったわけではなかった。莉緒が入口の飾りを見たいと言ったので、外側を少し歩いたのだ。
「今日も、私があっち行こうって言った」
「うん。俺一人だったら、たぶん中から入ってた」
「遅くなったとは思わなかった?」
「待ち合わせに遅れるところでもなかったし。あの花の色、秋っぽかった」
莉緒は嬉しそうにうなずいた。彼女が見ていた物を覚えていると伝わったのならよかった。俺も全部を写真にしないで歩いた分、何を話していたかの方を覚えていた。
「私、店の入口に置いてある物、結構見ちゃう。入るつもりないのに、ちょっと気になって」
「袋の中身が見える置き方とか?」
「そう。全部並んでるより、誰かが使ってるみたいな方が、欲しくなったりする」
俺は、自分が本で読んだ話と、莉緒が普段見ていることが、思っていたより近いのかもしれないと思った。ただ、似ているから同じ学校へ行くとか、同じ勉強をするという話ではない。彼女は作ることに興味があり、俺は今、調べてまとめることをもう少し知りたかった。
「見学のとき、それも聞いてみようかな。実際の場所に行く課題、どのくらいあるか」
「うん。私も、次に学校調べるとき、作った後のこと聞いてみたい。展示したり、誰かに使ってもらったりするのかなって」
莉緒は自分のスマホへ短くメモをした。俺も同じように書き留め、画面を伏せる。二人でお茶を飲んでいる間に、別々の用事が一つずつ増えた。それを邪魔だとは思わなかった。
「何か、今日、布だけ買いに来たつもりだったのにね」
彼女が言うので、俺はカップの底をのぞいた。
「お茶も予定に入ってた」
「それは入ってた。進路の話までする予定ではなかった」
「俺も。でも、話せてよかった」
俺が答えると、莉緒は、私も、と笑った。彼女と会う日は、楽しい話だけを選び出して持ってこなくてもいいのかもしれない。分からないことを一つ言っても、デートが失敗するわけではなかった。
それから、学校で分からなかった数学の問題を先生へ聞いたときの話になった。俺たちが同じところでつまずいていたので、二人で質問し、途中の条件を読み落としていたと分かった。莉緒は、今度は問題の最後まで読む、と言い、俺は文化祭のクイズもそれだったと返す。
「航平、同じ反省をいろんなところでしてる」
「今、俺だけにしただろ」
彼女は声を上げて笑い、私もだった、と付け足した。紅茶が少し冷めていたので、俺は残りを飲み、空のカップを、白い皿の真ん中へゆっくり戻した。
カフェを出る前に、莉緒は翌週の日曜の予定を聞いた。俺はすぐに空いていると答えず、スマホのカレンダーを開く。家の予定はまだなかったが、机に置いた大学の案内を思い出した。
「別の大学の見学、調べてる。まだ予約してないけど、日曜にあれば行ってみたい」
「あ、そうなんだ。じゃあ、分かったら教えて」
彼女はすぐうなずいた。その返事が早かったので、俺は何をしたかったのか尋ねる。莉緒は一度鞄の持ち手を直し、少し笑った。
「できたら、袋渡せるかなって思った。でも、まだ縫ってないし、先に言いすぎた」
「渡してもらうだけなら、学校でもいいよ。俺、使う前にちゃんと見たいけど」
「ちゃんと見られるのは、それはそれで緊張する」
俺は笑い、縫い目の検査ではないと答えた。彼女も笑ったが、その後で、会う時間も欲しかった、と言い直した。
「渡す用事だけじゃなくて、二人でちょっと出かけたい。でも大学の日だったら別の日でいい」
俺はカレンダーをもう一度見る。まだ予約していない見学を、莉緒に会いたいからやめるというのも違うし、彼女に言われたから絶対に日曜は空けないと決める必要もない。
「案内、今日帰ったら確かめる。日程が違えば日曜でもいいし。同じだったら、土曜の午後はどう?」
「土曜、私、午前に姉と用事あるけど、午後は大丈夫そう」
「じゃあ、どっちかで。明日までに相談しよう」
莉緒がうなずいた。二人ともまだ決めていないことがあり、今すぐどちらかが全部譲らなくてもよかった。俺はスマホへ、見学日程確認、と入れた。会う約束を後回しにしたのではなく、一緒に決めるために調べることができた気がした。
店を出て歩くと、駅前には買い物帰りの人が増えていた。莉緒は肩の鞄を内側へ寄せ、俺の横へ近づく。俺も歩く速さを落とし、ぶつかりそうなところでは一度手を緩めて道を譲った。
「今日、航平と来てよかった。私一人だったら、たぶん緑も最後まで迷ってた」
「二つ買いそう?」
「そこまでしない。予算あるし。でも、また次にするって思えた」
俺はうなずいた。次が俺の袋なのか、莉緒の物なのかは分からない。でも、今日選ばなかった方の色を、嫌いにならずに帰れるのはよかった。
分かれ道では、彼女が自分から両手で俺の手を包んだ。何か言おうとしているのが分かり、俺も立ち止まる。
「出来上がったら、使ってるところ、見たい」
「学校で使うよ。弁当持ってくから」
「うん。でも最初に入れるとき、写真も欲しい。サイズ、合うか見たいのもある」
俺は了承した。使う姿を見たいという言葉が、飾っておいてほしいとは違っていて、嬉しかった。普段の鞄へ入れて、何度も出して、洗ってまた使う。そういう物を渡したいと思ってくれる人が、今、目の前にいた。
帰宅後、俺は大学の案内を出した。前に見学したところと、似た言葉のある別の学校だったが、紹介されている課題は違っていた。写真だけを見て同じと思いかけてから、説明を読み直す。
公開見学の案内には、翌週日曜の午前が載っていた。予約が必要で、申し込める人数にも限りがある。すぐに押す前に、父の都合を聞くことにした。今回は一人で見に行くことも考えていたが、行き方と家の予定は伝えておきたかった。
居間へ行くと、父は案内を見て、今度も一緒に行くかと聞いた。俺は少し考えてから、今回は自分で回ってみたいと答える。
「帰ってから話す。まだ分からないところ多いし」
「うん。それでいいと思う。場所と時間だけ教えて」
父はそのまま返してくれた。反対されなかったことより、俺がどうしたいかを先に言えたことにほっとする。
自分の部屋へ戻り、予約欄を埋めた。確認画面で日時をもう一度見てから申し込み、届いた案内を保存する。その後で莉緒へ、日曜午前の見学を予約したことと、会うなら土曜午後にしたいことを送った。
『うん。土曜にしよ。行ってきた話も、後で聞きたい』
彼女の返事を見て、俺は土曜の予定を開いた。翌週土曜十四時、いつもの時計の下。彼女が袋を間に合わせるかは決めず、二人で会う約束を先に入れる。何をして過ごすかは、また話して決めればよかった。




