第38話 欲しい色を、君に言う
家へ帰って弁当箱を洗うと、文化祭が終わったことより、明日はこれを持って学校へ行かないのだということの方が先に実感できた。水を切って伏せ、空になった袋を食卓へ広げる。底の端には、莉緒が見つけた糸が確かに出ていた。
「これ、切っていいの?」
夕飯の支度をしていた母へ聞くと、母は手を拭いてから近づいてきた。袋を裏返し、縫い目の少し先をつまむ。
「引っ張らないでね。ここ、縫い直せば使えると思う。急ぐ?」
「明日は使わない。あと、ちょっと大きさ測りたい」
俺が答えると、母は引き出しから巻尺を出してくれた。普段、袋の大きさなど気にしたことがない。広げて置いた横幅と、底の幅が違うということに、測り始めてから気づく。
「どこを測ればいいんだ」
「何のために?」
「莉緒が、俺に何か作りたいって。袋が候補になってて」
母は巻尺を押さえる手を止め、俺を見た。それから、そう、とだけ答え、弁当箱も一緒に置いた方がいいと教えてくれる。笑われるかと思って身構えていた俺は、拍子抜けした分、余計に照れた。
弁当箱はまだ乾いていないので、先にふたの外側だけ測った。横十八センチ、奥行き十一センチ。重ねたときの高さは八センチほどで、箸箱はそれより長い。数字をスマホへ打つと、持ち歩いている物が急に見慣れない形になった。
「母さん、これ作るのって難しい?」
「形によるんじゃない。私はその子がどのくらい縫えるか知らないし。本人と相談したら」
言われて、俺はうなずいた。作ってもらうのが嬉しくて、難しいかどうかを先に誰かへ決めてもらおうとしていた。莉緒は、できそうか姉へ聞いてから連絡すると言っていたのだから、それを待てばよかった。
袋を開けたところと閉じたところを撮り、弁当箱と箸箱の寸法も添えて送る。背景に夕飯の支度が入らないよう端へ寄せたせいで、一枚目は袋の端が切れた。撮り直した写真を選び直し、今度こそ送信を押した。
『ありがとう。袋、思ってたより大きかった』
しばらくして返事が来たので、俺は弁当箱の数字をもう一度見た。
『俺も。測るまで知らなかった』
『私、今、姉に相談してる。あとで話してもいい?』
もちろん、と返してから、母へ巻尺を返した。母は袋を縫い直すために預かり、俺は弁当箱をもう一度拭く。新しく作ってもらうかもしれないからといって、今ある袋をそのまま捨てる気にはならなかった。
夕飯を終えて自分の部屋へ戻ると、莉緒から写真が届いていた。紙に描かれた、口の広い袋の簡単な絵だった。横には丸が二つあり、ひもの通る場所なのか飾りなのか、俺にはまだ分からない。
『今、電話できる?』
彼女へ返事をすると、少しして着信があった。今日は映像ではなく声だけだ。俺が出るなり、莉緒が先に笑った。
「写真、何か分かった?」
「袋。丸のところが分からない」
「あ、そこ、ひも通すところのつもり。姉にも、何この目って言われた」
「顔ではないのは分かった」
俺が答えると、向こうで紙を動かす音がした。莉緒は姉から借りた本の作り方を見ているらしい。今の自分なら、裏地もつけた複雑な物より、一枚の布で作る巾着の方が挑戦しやすいと言っていた。
「でも、今の袋、ちょっと変わった閉じ方なんだね。同じにはできないかも」
「同じじゃなくていいよ。弁当と箸が入れば。ひもなら、ちゃんと閉められそうだし」
「そっか。じゃあ、巾着にしてみたい。航平の袋」
その言い方を聞くと、さっきの数字が急に、自分のための物へ戻った。俺は机の上へ肘をつきかけ、スマホが擦れる音を立てないよう腕を引く。
「うん。お願いしたい」
「まだ布も決めてないけどね。あと、出来上がるまで、今の使ってて」
「母さんが縫い直してくれるって。だから、急がなくて大丈夫」
よかった、と彼女が言った。日にちを決めていないことが、待たされているという感じにはならなかった。先に直せるところを直して、こちらはこちらで使いながら待てばいい。
莉緒は少し黙ってから、色を何色にするか聞いた。俺は、莉緒の好きな色でいい、と答えそうになる。せっかく作ってくれるのだから、選ぶのも任せた方が楽しいのではないかと思った。
けれど、昼の展示で彼女が見ていたのは、使う人のことを考えて作った袋だった。俺が欲しい物を言わなければ、彼女はまた、俺の顔を見ながら当てることになる。
「紺が好き。あと、緑も。あんまり明るすぎないのがいい」
「うん。紺か緑。柄は?」
「小さいのなら。大きい柄だと、どうなるかちょっと想像つかない」
「分かった。候補見つけたら、一緒に見てほしい」
俺は承諾してから、布代のことも聞いた。莉緒は少し戸惑った声で、渡したいのは自分だから自分で買いたい、と答える。
「高いのじゃないよ。必要な分だけ買うつもりだし」
「うん。じゃあ、お願いする。でも、無理な金額になりそうだったら言って」
「それは言う。私のお小遣いも、なくなったら困る」
彼女がはっきり答えたので、俺は笑った。俺に使ってほしい気持ちと、自分の財布を気にする気持ちが、一緒にあっていいのだと分かる。
「俺も何かしたくなるけど、それは別の日に考える」
「そうして。今からお返し決まってたら、交換会みたいになるじゃん」
「弁当袋と何かの交換会」
「何かって言ってる時点で、航平、すごい不利」
言い返せずに笑うと、彼女もつられて笑った。何をもらうかも決まらないうちに、返す物を決めなくてもよかった。今は作ってもらうのを楽しみにしていると、もう一度伝えた。
電話の終わりに、莉緒は明日母と買い物へ行くと言った。俺も家の用事を頼まれているので、外へ会いには行かない。明日の夜までに返事をしなければいけない話でもないから、布の候補が決まったら送ってもらうことになった。
「今日、帰ってからも話せてよかった」
彼女が言ったので、俺は机に置いた文化祭の案内を見た。折り目が増え、片づけのときについたのか、端に白い跡がある。
「俺も。まだ今日の続きみたいだった」
「続きだよ。袋、これからだし」
そうだなと答え、二人でおやすみを言った。電話を切ってから、俺は案内を捨てずに引き出しへ入れた。明日は休みでも、終わった物を全部急いでしまわなくてよかった。
振替休業日の午前中、俺は母に頼まれた買い物を済ませた。必要な物をメモで確認し、帰りに弟の好きな菓子を一つ買う。自分の分も選ぼうとして、同じ棚の前で少し迷った。
莉緒が好きそうな物を見つけても、今買って渡す予定はない。写真を送ろうとスマホを出しかけたが、買い物中に毎回話し掛けなくてもいいと思い、そのまま自分の菓子を取った。
家へ帰ると、弟が居間でゲームの画面を見ていた。袋から菓子を出すと、顔を上げて礼を言う。俺が冷蔵庫へ買ってきた物を入れている間に、弟は包みを開けた。
「兄ちゃん、文化祭って彼女と回ったの?」
急に聞かれ、俺は牛乳の向きを直す手を止めた。
「うん。どこで聞いた?」
「お母さんたち話してた。違ったら困るから、聞いただけ」
弟は悪びれずに答え、菓子を一口食べた。俺は冷蔵庫を閉め、食卓の椅子へ腰を下ろす。いつか言うつもりだったことを、先に家の会話から知られたのは少し落ち着かなかったが、隠していたわけでもなかった。
「同じクラスの、藤崎莉緒って人」
「ふうん。写真ある?」
「あるけど、見せていいかまだ聞いてない」
答えると、弟はそうなんだとだけ言い、画面の方へ目を戻した。もっといろいろ聞かれると思っていた俺は、用意した返事の置き場がなくなった。
「何も聞かないんだな」
「今、聞いたじゃん。文化祭のこと」
「それはそうだけど」
「楽しかったならよかったんじゃないの」
弟はそう言ってから、自分のゲームの途中で分からなくなったところを俺へ聞いた。俺もその作品をやっていないので、分からないと答える。弟は攻略を見るか迷い、結局もう一度自分でやると言って、画面へ戻った。
俺は菓子を開け、隣で少しだけその様子を見た。彼女ができたと知ったからといって、家の中で全部の話がそれになるわけではない。弟の動かすキャラクターが同じ角でまた止まり、俺がそこさっきも通ったと言うと、知ってる、と即座に返ってきた。
昼の片づけを終えた後、母が縫い直した袋を渡してくれた。底の端は糸が収まり、いつもと同じように弁当箱を入れられる。礼を言って自分の部屋へ持っていき、翌日の教科書を鞄へ戻した。
文化祭のために動かした荷物を元へ戻すだけで、机の上が急に狭くなる。夏に見学した大学の案内が、ノートの下から出てきた。写真や地図のあるページを開きかけたところで、スマホが短く鳴った。
莉緒から届いたのは、布の候補二つについての文章だった。店内の写真ではなく、売られている布の色や模様を自分の言葉で説明している。紺地に細い白線が入った物と、深い緑に小さな点が並んだ物で迷っているらしい。
『今日はまだ買ってない。航平、どっち気になる?』
文章だけでは想像しきれず、俺は細い線が縦か横かを聞いた。返事は少ししてから来た。
『今、家帰った。線は縦にも横にもある。小さいチェックって言えばよかった』
俺はそれを見て、格子柄なのだとやっと分かった。昨日の丸が目に見えた絵を思い出し、彼女が説明を足す様子を想像すると笑ってしまう。
『紺のチェックが見たい。俺、そっちが好きそう』
『了解。今度、店で一緒に見よ。緑も見たら気が変わるかもしれないし』
それなら、と俺は土曜の予定を確認した。午後は空いているが、午前には家の用事がある。莉緒も午後なら空いていると返してくれたので、土曜十四時にいつもの駅前の時計の下で会い、手芸店へ行くことに決めた。
材料を買うだけで全部の時間を使うかは、まだ分からない。莉緒は買い物の後にお茶も飲みたいと言い、俺もうなずく代わりに、行きたいと打った。
『彼氏の買い物、付き合ってもらうの初めてかも』
彼女の文章を読んで、俺は少し考えた。服も一緒に選んだし、夏には手作りの袋の材料も買った。けれど、言いたいのはそういう回数の話ではないのだろう。
『俺も、自分に作ってもらう布を選ぶの初めて』
『じゃあ、二人とも初心者ね』
初心者という言葉を見て、少し安心した。付き合ったからといって、今まで知らなかったことまで分かるようになるわけではない。俺はまだ、布をどのくらい買えば袋になるかも知らなかった。
休み明けの教室は、机の位置だけ見れば、文化祭の前と同じだった。黒板には授業の予定が書かれ、紙の飾りがあった壁には何もない。俺が鞄を置くと、前の席の拓海が振り向いた。
「三原、昨日寝た?」
「寝た。お前は?」
「昼寝しすぎて、夜ちょっと失敗した」
拓海は欠伸をこらえ、机に出した教科書を一度閉じた。俺がそれは今日も眠いだろと言うと、本人も分かっているらしく、肩をすくめる。文化祭のクイズの一問をまだ覚えていたので話すと、彼は次に同じ問題が出たら分かると言った。
「次、あるのかな」
「ない方が悔しいだろ。知った意味なくなる」
「意味はあるだろ。俺も覚えたし」
答えると、拓海は笑って前を向いた。そこへ莉緒が来て、教室の中を一度見渡す。俺と目が合うと、小さく手を上げてから自分の席へ向かった。
授業前に話す時間は長くなかったが、彼女が机の横を通ったとき、土曜楽しみ、と言った。俺も楽しみと答えると、それだけで朝から続きをもらったような気がする。
昼休みには、高瀬さんも交えて文化祭の話になった。土曜に見た美術の展示のことを話しながら、莉緒は日曜に先の部屋も見たと言う。高瀬さんは自分も別の時間に行ったらしく、同じ袋の話で二人の声が重なった。
「おばあちゃんの、あったでしょ」
「そう、それ」
莉緒がうなずき、俺を見る。
「航平も見た。使う人が決まってるって、やっぱり違うねって話してたの」
「三原くん、ああいうの好き?」
高瀬さんに聞かれ、俺は少し考えてから答えた。
「詳しくないけど、作った理由が書いてあると、見方変わるなと思った」
高瀬さんはうなずき、自分は色の組み合わせが好きだったと言った。拓海は袋の話にはあまり詳しくないようだったが、展示の入口にあった絵は覚えていた。四人で同じ物を見ても、帰ってきて話すところが違う。
莉緒は俺の弁当袋を見て、直ったんだ、と言った。俺は底の端を少し見せ、母が縫ってくれたと答える。彼女は安心したように笑い、それから自分の弁当へ戻った。作ってくれる話を、みんなの前で大きく説明する必要はなかった。
放課後、俺は図書室へ寄ってから帰ることにした。調べたいのは大学の案内にあった言葉だったが、どの棚を見ればいいかもまだ曖昧だ。莉緒は高瀬さんと用事があるので、校門で待ち合わせはしない。
廊下へ出る前、彼女が俺のところへ来た。
「今日、すぐ帰らないんだよね」
「うん。ちょっと本探す。あんまり遅くならないと思う」
「じゃあ、帰ったら、見つかったか教えて」
俺はうなずき、今日探したい内容を短く話した。莉緒は地図のことかと聞き、俺はそれだけではなく、人がどんなふうに街を使うかを調べる話もあったと答える。説明しているうちに、自分でもまだよく分かっていないところが見えた。
「私に話すと、分かってないとこ出る?」
「出る。でも、聞いてもらうと、どこか分かる」
「じゃあ、分かんないって言っても怒らないでね」
「俺も分かってないから、怒れない」
彼女は笑い、あとで、と手を振った。俺も図書室へ向かい、入口で持ってきたメモを出す。高校の図書室に全部があるとは限らないが、まずはどんな本があるか見てみたかった。
棚の前で一冊手に取ると、予想していた写真の多い本ではなかった。最初の数ページに表があり、知らない言葉もいくつかある。閉じようとして、見学の日に学生が教えてくれたことを思い出し、目次へ戻った。
全部を一度に理解するのでなく、今気になっているところを探せばいい。俺は読めそうな章を確かめ、貸し出しの手続きをした。新しい目標を決めたような大げさな気分ではなかったが、家へ帰っても、もう少し読んでみようと思えた。
外へ出ると、風が朝より冷たく感じた。スマホを開き、莉緒へ本が一冊見つかったと送る。歩き始める前に返ってきたのは、よかったね、という言葉と、今日の授業で分からなかった問題があるという相談だった。
『帰ってから、俺も見てみる。解けるかは分からない』
『うん。一緒に分かんなくなったら、明日先生に聞こ』
俺は笑い、そうしようと返した。教えられるから話すのでも、何か作ってもらうから会うのでもない。分からない物を一つずつ机へ出すように、今日あったことを言えるのが嬉しかった。
家へ帰り、借りた本を机へ置いたところで、弟のことを思い出した。文化祭の写真を見せていいか、莉緒へ聞く。弟が交際を知り、本人からも話したことを添えると、彼女は少し驚いてから、見せて大丈夫と返してくれた。
『変な顔してないやつでお願い』
『文化祭の、看板の下の写真』
『あれならいい。私も、姉に見せていい?』
俺も大丈夫と答える。誰に見せるかを知っていれば、隠したいのではなく、二人の写真を二人で持っている感じがした。
弟へ画面を見せると、同じクラスなんだね、ともう知っていることを言い、俺はさっき言っただろと答えた。弟は笑って、仲よさそう、と付け足す。俺はスマホを自分へ戻し、うん、とだけ返した。
自分の部屋へ戻る前に、俺は台所の袋を手に取った。母が直したところは、外側から見るとほとんど分からない。ひっくり返すと、端に新しい糸の線があり、元の縫い目より少しだけ短かった。
「これ、自分でも直せるようになった方がいいかな」
聞くと、母はすぐにうなずいた。
「できると便利だね。今度、取れかかったボタンでもやってみる?」
「うん。袋をいきなり壊して練習するより、それがいい」
母は笑い、針をなくさないところでやろうねと言った。俺も承知して袋を元へ戻す。莉緒が何か作ってくれることと、自分が何もできなくていいことは、別だった。彼女みたいに布を選んで形を考えるところまでは分からなくても、ほつれた糸を見つけたら引っ張らない、くらいは覚えられる。
部屋で本を開く前に、借りた日の紙を確かめた。返す日をスマホへ入れると、土曜の買い物の予定が同じ画面に見える。どちらも忘れたくないが、片方のために片方をやめる必要はなかった。
まだ読み始めていないページに木のしおりを挟もうとして、一度手を止める。読みかけの文庫から移すなら、向こうのページも覚えておかないと分からなくなる。俺は文庫のところへ紙を一枚挟み、しおりを新しい本へ移した。莉緒と選んだ物が、知らない言葉のあるページにも使えるのが、少し嬉しかった。
その夜、莉緒から、姉に見せたら二人とも笑っていてよかったと言われた、と連絡が来た。俺は机の上の本を少しずらし、画面を置く場所を空ける。
『土曜、紺のチェック、実物も見よう』
送ると、彼女からすぐに返事が来た。
『うん。でも緑もちゃんと見てね。航平が選ぶんだから』
俺は二つの色を思い浮かべ、分かったと返す。まだ布の手触りも分からないのに、使う朝のことを少し想像した。弁当と箸を入れ、口を閉じる。そのたびに、今日俺が言った好きな色を、きっと思い出すのだろう。




