第33話 今の俺から、伝えたい
夏休みが終わる前、俺は課題の最後のページを確かめた。途中で止まって印をつけた問題は、全部分かったわけではない。それでも、解けたところと、休み明けに聞きたいところは分けてあった。
提出する紙をファイルへ入れ、文庫本の間から木のしおりを少し出す。机の写真立ての手前には、莉緒と撮ったシールの紙を置いていた。折れないよう薄い袋へ移したが、まだ貼る場所は決めていない。
九月に入っても、朝の空気は涼しいとまでは言えなかった。久しぶりの制服で家を出ると、肩へ掛けた鞄がいつもより重い。
教室へ入ったところで、前の方にいた拓海が手を上げた。俺も挨拶を返し、窓際の、後ろから二番目の席へ向かう。
中央寄りの席にいた莉緒が振り返った。二列右の、一つ前。休みに入る前と同じ距離なのに、彼女がこちらを見るだけで、教室の中が少し違って見える。
「おはよう、航平」
「おはよう。莉緒」
普通に返したつもりだったが、近くにいた男子が一度顔を上げた。俺は鞄を机へ置き、莉緒が来るのを待つ。彼女はノートを一冊持って歩いてきた。
「これ、提出の順番、今日まとめてじゃないよね」
「うん。教科ごとだったと思う」
俺も連絡の紙を出して、そこを一緒に見た。顔を寄せると、休みの間にはなかった、制服の襟が近くにある。
彼女は説明を読んでうなずき、ありがと、と言った。そこで戻るのかと思ったら、声を少し落とす。
「学校でも呼べたね」
「うん。戻さないって言ったし」
「私も。ちょっと、周りの人見たけど」
莉緒が笑い、俺も笑った。見られたからと、呼びたかった名前を元へ戻すつもりはなかった。
高瀬さんが来て、二人とも課題持ってきた、と聞く。俺と莉緒がそれぞれうなずくと、彼女も自分の分を見て安心したように笑った。
「私、何か忘れてる気がして、朝、鞄二回開けた」
「私も。はさみの日より、持ち物多い」
莉緒の言葉に、高瀬さんが、袋、今も使ってる、と聞いた。彼女はうんと答え、ヘアゴムが机から消えたから、逆に最初探したと話す。
自分でしまう場所を作ったのに、その場所へ慣れていないらしい。俺が笑うと、でも今はちゃんと覚えた、と言い返された。
予鈴が鳴って、皆が席へ戻る。莉緒は戻り際、あとでね、と言った。休日ならそこで別れていた言葉の後に、今日は授業が続く。
久しぶりに四人で昼を食べると、休みの間の話が少しずつ増えた。高瀬さんは学校を見に行ったとき、説明の部屋より先に食堂を覚えたと教えてくれる。
「莉緒にも話したんだけど、思ってたより離れてて。次の場所に間に合うか、何回も図見た」
「俺も、大学の建物で一回分かんなくなった。番号、家で見てたのに」
俺が答えると、彼女はうなずいた。拓海は、学校が今より広かったら、教室を移るだけで疲れそうだと言う。
「でも、毎日同じところ行くなら、覚えるだろ」
「三原、この学校来た最初のとき、理科室、逆行ってたじゃん」
「覚えてるなら、早く言ってくれよ」
俺が言い返すと、拓海が、俺も一緒に逆行ったから、と笑った。高瀬さんと莉緒も笑い、弁当を持つ手を一度止める。
莉緒が俺の名前を呼んで、そっちに置いた紙を渡してほしいと言った。俺が手を伸ばすと、高瀬さんが、名前で呼ぶようになったんだね、と顔を上げた。
「うん。私が、そう呼びたくなって」
莉緒は答え、俺の方を一度見た。俺もうなずいてから、受け取った紙を彼女へ渡す。
高瀬さんは、そっか、と笑い、紙に何が書いてあるかを一緒に見た。話す方が少し照れているのに、周りはもう、次の話を始めていた。
そのあと拓海が、自分の弁当に入っていた卵焼きを一つ落としそうになった。ぎりぎり蓋の上で止め、全員の視線を受けてから、今のは大丈夫、と宣言する。
「誰も、何も言ってないだろ」
俺が答えると、また笑いが起こった。休みの間に変わったことがあっても、この昼休みの声は変わらなかった。
二学期が始まってすぐ、文化祭の企画を決める時間があった。開催は九月末の土日で、クラスでも一つ、教室を使って出し物をする。
いくつか出ていた案から、写真を撮ったり、小さな遊びをしたりできる商店街のような空間を作ることになった。本物の食べ物を売るのではなく、店先を模した背景や案内を並べるものだった。
決まった瞬間、すぐに教室がその形になるわけではない。どの机を使い、入口からどちらへ歩くのかを考えるだけで、紙の上には何本も線が増えた。
俺は、入口から向こうの壁までを一本の道にして、両側へ店先を並べる案を見ていた。奥に行った人が同じ道を戻るなら、行きと帰りでぶつからない幅がいる。
「一周して出口戻る形の方が、分かりやすいかな」
俺が言うと、拓海が紙を見る。
「真ん中、もっと空けるってこと?」
「うん。ここに箱置くと、向こう行けなくなりそう」
指した場所で、拓海も首をかしげた。自分たちの席へ座るときは何も考えずに通っているのに、机の向きを変えると、同じ部屋でも通りにくくなる。
莉緒は少し離れたところで、店先の見本を描いていた。大きな看板へ小さい飾りを足そうとしていたが、一度ペンを止める。
「近くで見るとかわいいけど、入口から見えるのかな、これ」
高瀬さんが紙を持ち、教室の入口の方へ歩いてみた。見本の紙を実物より小さく描いているので、これだけでは決められない。それでも、何を大きくするかを考えるきっかけにはなった。
別の女子が、布があったら店っぽくなるねと言った。莉緒も賛成したが、縫うなら藤崎に頼もう、という声へはすぐに手を上げる。
「待って。私、一個作ったけど、そんな大きいの全部は縫えないよ」
言われた方も笑い、ごめん、そうだったと答えた。莉緒は、自分が作った巾着の話を短くして、布を使うなら縫わないで留める方法も考えたいと言う。
「でも、ここに掛ける色、選ぶのはやりたい」
彼女が付け足すと、近くの女子もうなずいた。できないことを先に言っても、やりたいことまでなくなるわけではなかった。
俺も、図を作る方ならやってみたいと伝えた。大きな物を一人で作れるわけではないが、通れる幅を紙へ描いて、実際に机を動かしてみることならできる。
拓海は遊びを置くところを考えると言った。的へ軽い物を投げる案を出していたので、ほかの人が通る道へ飛ばない向きにした方がいいと話す。高瀬さんは、入口の説明を短く書く方に加わった。
四人が同じ仕事をするわけではなく、近くの別の人たちとも相談する。莉緒が俺のところへ来るのを待つばかりでなく、俺から彼女へ図を持っていくことも増えた。
「ここ、看板あったら、邪魔になりそう?」
「この高さなら、持つ人の顔に当たりそう。もう少し上ならどう?」
答えを聞いて、俺は図の線を直す。描いたところで終わりではなく、立って持ったらまた違うことが分かる。
窓の外はまだ明るかった。机を戻してから帰ろうと声が掛かり、俺たちは今日決められたところへ印をつけた。
その週の金曜、放課後の教室では、実物に近い大きさの紙を使って、入口から何が見えるか確かめていた。莉緒が持つ看板の紙を、俺と別の男子で少し離れて見る。
「その位置だと、文字の下、隠れる」
俺が言うと、莉緒が腕を上げた。
「こっち?」
「うん。でも、ずっと持ってたら疲れるから、いったん下ろして」
彼女は紙を机へ置き、肩を回した。手伝っていた女子が引き継いでくれたので、莉緒は図の方へ戻る。
そこへ、教室の入口から声がした。文化祭の実行委員だという三年生が、クラスの担当者を探している。
「三年の瀬尾悠真です。廊下の掲示と、使う場所の確認に来ました」
近くの生徒が担当の男子を呼び、先輩は机の上へ紙を広げた。廊下へ出す物があるなら、確認用の図に書き足してほしいらしい。
莉緒が顔を上げ、その人を見る。
「瀬尾先輩、お久しぶりです」
先輩は彼女へ顔を向け、すぐに笑った。
「藤崎さん。久しぶり。ここのクラスなんだ」
「はい。私たち、教室、商店街みたいにするんです」
「へえ。だから、看板作ってるんだね」
先輩は紙へ目を向け、何をしているかが分かったようにうなずいた。俺は二人の少し横にいて、図を押さえたまま話を聞いていた。
莉緒は、一年のとき同じ図書委員だったと、近くにいた俺たちへ説明した。先輩が当時いろいろ教えてくれたらしい。
「藤崎さん、掲示の紙、よく一緒に作ってくれたよね」
「先輩に、文字、遠くから見えるかって何回も聞かれました」
「ああ、あったね。今もやってる?」
「今、ちょうど。私、近くでばっかり見ちゃうので」
彼女は笑い、それから、余っている大きな紙をもらえる場所があるか尋ねた。先輩は、自分の判断で全部渡せるわけではないけれど、担当へ確認すると教えてくれる。
「使う大きさ、分かったら担当の人に伝えてもらえる?」
「はい。みんなに聞いて、まとめます」
用事を終えた先輩は、また分からないことがあれば担当を通して聞いてね、と言い、次の教室へ向かった。
俺が知っていたのは、莉緒が一年のとき世話になった先輩へ片想いしていたことだった。名前も顔も、まだ知らなかった。
先輩が出ていった後、彼女は図をしまう俺の方へ来た。
「今の先輩、前に話した人だよ。水族館の帰りに」
俺は、そうだったんだ、と答えた。想像していたより普通に、笑って話せる人だった。俺を敵のように見たり、彼女へ特別な態度を取ったりもしない。
莉緒は俺の顔を見てから、少し声を落とした。
「今は、ちゃんとお願いできた。前なら、紙欲しいって言うだけでも、何回も考えたかも」
さっきの話を聞いていたので、言っていることは分かった。彼女は先輩の返事を一つずつ気にしているようには見えず、必要なことを話していた。
俺はうなずき、今の紙の大きさ、確認しようかと聞く。莉緒も、うん、と答えて、皆がいる方へ戻った。
片づけが終わり、俺たちは教室を出た。拓海は別の男子と材料の候補を見て帰るらしく、昇降口で手を上げる。高瀬さんは妹との用事があり、今日は早く戻ると言って先に歩いた。
莉緒と並んで校門を出ると、風がさっきまでより涼しかった。日なたはまだ暑いが、通学路の影に入ると、夏の夕方と少し違う。
「手、紙で乾いてる感じする」
彼女が自分の指を見て言った。
「俺も。大きい紙、持つだけでも、結構触ってるから」
「うん。あと、まだ、腕、紙持ってる感じ」
彼女が肩を回して笑い、俺も笑った。机や紙を片づけた後は手を洗ってきたが、作業をしていた感じはすぐには消えない。
学校でまた一日を一緒に過ごした。周りに友達がいて、話しかける時間を待ったり、別の人と相談したりもした。
休みの間、二人で会って手をつないだことは、今日になってもなくならなかった。俺は隣の彼女を見て、それをもっとはっきりした言葉で伝えたいと思った。
「莉緒。少し、座って話してもいい?」
川へ向かう道の手前に、歩道から外れた小さな休憩場所がある。空いているベンチを指すと、彼女はうなずいた。
「うん。今日は、まだ大丈夫」
時間があると答えてくれたので、俺も一緒にそちらへ入る。鞄を膝へ置いてから、俺は彼女へ向き直った。
先輩を見たから、急に好きになったわけではない。比べて、負けたくないと思ったわけでもなかった。
彼女が今、自分のやりたいことを言えるようになったと、嬉しそうに話してくれた。俺も、自分がどうしたいかを、彼女へ言いたかった。
「俺、莉緒のことが好き」
口に出すと、彼女が動きを止めた。俺はその目を見たまま、続ける。
「一緒に出かけるのも、学校で話すのも楽しい。でも、今は、友達としてだけじゃなくて、好きだから会いたいと思ってる」
用意した台詞ではなかったので、息を継ぐ場所が少し変になった。莉緒は顔をそらさず、聞いてくれている。
「前に、手帳、見せてくれただろ。彼氏としたいことって書いてあるの」
彼女が小さくうなずく。
「俺、今、一緒にいることを、彼氏の代わりだとは思いたくない。莉緒が自分から誘ってくれたことも、手をつないでくれたことも、ちゃんと嬉しかったから」
彼女のしてくれたことを、なかったことにしたいのではない。だからこそ、俺も曖昧にしたままではいたくなかった。
「その代わりの役じゃなくて、俺が、莉緒の彼氏になりたい」
言ってから、膝へ置いた鞄を握り直した。
「俺と、付き合ってほしい」
莉緒は一度唇を結び、少し下を向いた。返事を急いでほしくはなくて、俺は黙ったまま待つ。
顔を上げた彼女は笑っていた。目の端を指で押さえ、それから、俺へ向き直る。
「うん。付き合いたい」
声が聞こえたのに、俺はすぐに返事ができなかった。彼女はそんな俺を見て、少し笑いながら言葉を足す。
「私も、航平が好き。会いたいのも、手つなぎたいのも、航平だから。彼女になりたいって、思ってた」
俺はようやく息を吐いて、うん、と答えた。嬉しいと先に言うつもりだったのに、それだけで精いっぱいだった。
莉緒が鞄の持ち手から手を離し、自分の膝の上で指を重ねる。
「手帳の最初のは、あの先輩と行けたらって思って書いてた。でも、水族館も、他のも、一緒に行って楽しかったのは航平だよ。帰ってきて、また会いたくなったのも」
「うん」
「映画の後には、航平とやりたいことも書き足してる。ボウリングも、私が一緒に行きたくて誘って、後から書いた」
俺はそこで初めて、あの六つの下に、続きがあると知った。全部を終えたときのページを、そのまま覚えていたけれど、彼女は自分で増やしていたらしい。
「知らなかった」
「うん。自分で書いてただけだから。でも、会ってるの、前に書いたことを終わらせたいからじゃないよ」
彼女は俺を見て言った。俺も、そう聞きたかったのだと分かった。
誘ってくれた理由は今までも聞いていたし、一緒にいたいとも言ってもらっていた。それを全部疑うつもりはなかった。でも、同じ好きという言葉で返してもらえると、やっと自分の気持ちを置く場所が決まった。
「俺も、今日、そう言えてよかった」
答えると、莉緒が少しだけ肩を寄せる。制服の袖が触れ、俺は彼女の方へ手を出した。
彼女の左手が、俺の右手に重なる。いつもより特別なつなぎ方になったわけではないのに、俺はその手を取るとき、彼女になってくれた人の手だと思った。
「今、私、変な顔してない?」
莉緒が聞くので、俺は首を振った。
「笑ってる」
「うん。航平も」
「それは、嬉しいから」
答えると、彼女がもう一度笑った。俺も同じように笑い、つないだ手を少し持ち直す。
教室で看板を持っていたときより、隣にいる理由はずっと簡単だった。
しばらく座ってから、俺たちは立ち上がった。帰り道へ出ると、莉緒が一度俺を見て、航平、と呼ぶ。
「うん?」
「呼びたくなっただけ」
彼女が笑い、俺も笑った。名字から変えた日にも、同じように名前を呼び合った。それでも、今日は彼女が何を考えて呼んでくれたのか、前より少し分かる。
「紗季に、言ってもいい?」
莉緒が聞くので、俺はうなずいた。
「うん。拓海には、俺から話す」
「私、お姉ちゃんにも。好きってことは、もう話してあるんだけど」
そう言われて、俺は彼女を見る。莉緒が少し照れた顔で、袋を見せたかったときに話した、と教えてくれた。
俺も拓海へは好きだと話していたと伝えると、彼女は、そうなんだ、と驚いてから笑った。
「じゃあ、二人だけ、まだ、お互いに言ってなかったんだね」
「うん。今日、言った」
「私も。ちゃんと言えた」
彼女が隣へ寄り直し、俺は歩く速さを少し緩めた。勝手に誰かへ言いふらしてほしいわけではないが、聞いてくれる人へ、自分で伝えるのは嬉しかった。
通学路の分かれ目が近くなったところで、俺は今週の土曜の都合を聞いた。莉緒は午後なら今のところ空いているらしい。
「家の予定、帰ってからもう一回確かめる。何か、行きたいとこある?」
「駅前のクレープの店。まだ、一緒に食べてないなと思って」
以前、教室で彼女が菓子の写真を見せていたところを思い出した。今も同じ店へ行くのでなくても、一緒に選んで食べてみたかった。
「うん。行きたい。じゃあ、今度は、航平、デートって誘って」
莉緒が言う。俺は一度彼女の顔を見て、うなずいた。
「土曜、俺とデートしてほしい」
「はい。私も、デートしたいです」
わざと少しだけ丁寧に返してから、彼女は笑った。俺も笑い、家の確認をしてから時刻を決めようと話す。
そこで手を離すと、彼女は鞄を持ち直した。別れる前、もう一度、付き合えて嬉しいと言ってくれる。
「俺も。ありがとう、莉緒」
名前を呼ぶと、彼女が笑って手を振った。俺も手を上げ、彼女が角を曲がるまで見ていた。
家へ着いてから、俺はいつものように帰着の連絡をした。莉緒からも、着いたよ、と返ってくる。
手を洗い、制服を着替えて、部屋の椅子へ座る。机の写真立ては朝と同じだったが、その中の人はもう、俺の彼女だった。
拓海へ、今日、告白して、付き合うことになったと送る。しばらくして、よかったな、と返ってきた。その後に、明日学校で聞く、と続く。
『明日、土曜だろ』
俺が返すと、間を置いて、月曜だった、と来た。俺も今日、何度も頭の中がいっぱいになったので笑ってしまう。
莉緒からは、家の予定を確かめたと連絡があった。土曜の午後は大丈夫で、俺も母へ伝えてから、十四時にいつもの時計の下で会うと決める。
お昼は家で食べ、夕方までに帰るつもりで、詳しい帰宅時刻は出る前に確かめる。今夜はそれ以上、店を回る順番まで決めたくはなかった。
『私たち、付き合ってるんだね』
莉緒から届き、俺は画面を見て笑った。
『うん。まだ、ちょっと、顔見たくなる』
『明日、ちゃんと会えるよ。私も、見たい』
その返事を読んでから、カレンダーを開いた。土曜の十四時へ、待ち合わせを入れる。
予定の名前は「莉緒とデート」にした。一度書いて見直しても、もう別の言い方へ直したくはならなかった。




