第32話 上手にできたら、じゃなくて
体験へ行く前日の夜、私は布を切るはさみを鞄へ入れた。家にあった物を使っていいと母に聞き、刃を閉じてケースへしまう。筆記具と案内も入れ、明日着るTシャツを椅子の背へ掛けた。
十三時から十五時まで、小さな巾着を作る回だった。前に同じ学校で参加したのは、用意された物をどう並べるか試す体験だ。今度は、布を選んだ後、自分でも針を持つ。
お姉ちゃんは、忘れ物を見ている私の横で、床へ置いた鞄を持ち上げた。
「はさみ、入れた?」
「入れた。ケースも閉めた」
「じゃあ、あとは向こうで聞けばいいね」
簡単に言われて、私は少し笑った。できるようになってから参加するわけではないと分かっていても、何もできずに座っていたらどうしようとは思ってしまう。
お姉ちゃんが出ていった後、スマホを開いた。航平から、明日、暑いから気をつけてと来ていたので、水は持っていくと返す。
『はさみも、準備できた』
『じゃあ、忘れる前に鞄へ』
『もう入れた。今日は私、先にできてる』
すぐに、負けた、と返ってきた。忘れ物の準備で勝ったところで何も変わらないのに、少し楽しくなって笑う。
机の上には、航平と撮ったプリクラがあった。あの日から、ポーチへしまったり、出して見たりしていた。今夜も、最後の一枚だけを見るつもりが、足の長さを間違えたペンギンまで見てしまう。
上手ではないと分かっていても、あれは残してよかった。そのことを思い出し、私は写真をしまってから、机の明かりを消した。
木曜、昼を家で済ませてから、予定より少し早く出た。電車は一本で着き、駅からの曲がり角も覚えている。前に来たときより気楽だったが、学校の入口が見えてくると、鞄の持ち手を握り直した。
受付で名前を伝え、案内された部屋へ進む。廊下には同じくらいの年の人もいたが、どの人が同じ回へ行くのかは分からなかった。
教室では、机の上に布の見本と道具が並んでいた。私は空いている席へ座り、持参したはさみと筆記具を出す。鞄は椅子の横へ置いた。
始まる前に、近くに来た学生の人が、縫うのは初めてかと聞いてくれた。学校の授業ではやったけれど、自分で袋を作ったことはないと答える。
「最初は、糸を通すところから一緒にやります。分からなくなったら、呼んでくださいね」
そう言ってもらい、私はうなずいた。できるか聞かれて、何となく大丈夫と答えずに済んだのがよかった。
十三時になり、担当の先生の説明が始まった。今日は初心者でも時間内に作れるよう、材料に必要な準備がしてある。全部の作業を一人で覚える回ではなく、まず形になるまでの流れを体験するものらしい。
私は見本の巾着を見た。口を閉じると、小さい布がくしゃっと寄る。袋に何を入れるか考えたとき、いつも家で一つずつ探すヘアゴムが浮かんだ。
布を選ぶ時間になり、机の端へ行く。黄色を見るつもりだったのに、薄い青緑に小さな白い点が入った布の前で、足が止まった。
同じ柄で、もう少し濃い色もある。二つを持って見比べ、私は薄い方を選んだ。自分の部屋へ置いたとき、机の上が暗くならなそうだった。
隣にいた参加者は、細かい赤い柄を選んでいた。その人と目が合い、そっちもかわいいですね、と話す。相手も私の布へうなずき、机へ持ち帰った。
何を入れる予定かと聞かれ、私はヘアゴムなどと答える。相手は小さい充電のコードを入れたいらしい。作る形が同じでも、持って帰ってから使う場所は別々だった。
私は席へ戻り、布の表と裏を確かめる。写真で見たときより、白い点の間隔が広く感じられた。
最初の説明に合わせ、糸を針へ通す。すぐに入るつもりでいたのに、端が少しずつずれた。
見えている穴へ手がちゃんと向かわない。何度かやり直し、通ったと思って引くと、今度は短い方が抜ける。
私は一度、針を机の道具置きへ戻した。隣はもう次へ進んでいて、急ぎたくなる。けれど、急ぐほど指に力が入っていた。
「すみません。ここ、もう一回見てもらっていいですか」
近くの学生の人へ声を掛けると、すぐに隣へ来てくれた。私が困っているところを言うと、端を持つ位置を見せてくれる。
その場で全部を代わってやってもらうのではなく、同じように持ち直して試す。今度は少し長く出してから、ゆっくり引けた。
「できた」
つい声へ出ると、相手が笑ってうなずいてくれた。針に糸が通っただけなのに、もう一つ終わった気分になって、私は礼を言う。
布には縫う場所の目印があった。先生の説明を見てから、少しずつ針を動かす。最初の数か所は、目印へ当てるだけで精いっぱいだった。
途中で手を止めると、今、どこから針が出ているのか、急に分からなくなる。表と裏を行ったり来たり見ていたら、糸が布の端へ引っかかった。
「あ、待って」
自分で言ってから、誰かに止まってもらう場面ではないと気づく。糸を引く手を戻し、引っかかったところをゆっくり外した。
向かいの席では、別の人が先生へ質問している。隣の人も布を持ち上げて、一度縫ったところを見直していた。私だけが一回でできていないわけではなかった。
手元へ目を戻し、私は続きを縫う。大きさはそろわず、少し進む度に、次を小さくしようとして、今度は近すぎる。
何となく見本に近い顔をしていたい気持ちは、最初の十分くらいでなくなった。今は、自分の布の続きがどこなのかを見たい。
しばらくして、糸を引いたところに小さな塊ができた。引っ張ればほどけるかと思ったが、かえって固くなったように見える。
私はそこで手を止め、今度は先生へ聞いた。糸が絡んだところを見てもらい、無理に引かず、やり直す場所を一緒に確かめる。
「全部、最初からですか」
「ここまでで大丈夫。縫ったところは残せるから、糸を替えて続きをやりましょう」
教えてもらい、私は息を吐いた。最初から全部をやり直すと思っていたので、残っている縫い目が急に頼もしく見える。
新しい糸を通すときは、さっきより少し早くできた。それでも、端を引くところで一度抜けて、私は笑ってしまった。覚えたつもりでも、指が毎回同じに動くわけではない。
作業の間に短い休憩があり、私は針を決められた置き場所へ戻した。席を離れる前に糸がぶら下がっていないか見て、持ってきた水を飲む。
机の上の布は、まだ袋らしい形には見えなかった。先生の見本より少し波打っていて、同じ大きさに切ったはずなのに、違う物のようだった。
鞄のポーチには、航平と撮った写真が入っている。取り出すことはしなかったけれど、帰ったら何を話すだろうと考えた。
最初の糸で止まったこと。絡まったところを切って直したこと。まだ袋になっていない布を、ずいぶん長く見ていること。
完成してからなら、そういう話も笑ってできるかもしれない。でも、間に合わなかったら、失敗したとだけ言ってしまいそうだった。
そんなことを考えていると、隣の人が、自分の縫い目を少し持ち上げて見ていた。私と目が合い、まっすぐ行っていると思ったのに、と笑う。
「私も。見てるときは、次こそって思うんですけど」
答えると、その人もうなずいた。二人で笑ってから、それぞれの席へ戻る。
今、手を動かしている人へなら、上手にできた後の話だけでなくても言えた。航平にも、できたら見せる、だけではなくていいと、先に言ってもらっている。
私はもう一度、目印の続きを見つけた。
袋の形にするところでは、先生が全体を見て回ってくれた。私の布を確かめた後で、ここはこのまま進める、ここは少し直すと教えてくれる。
良いところだけを言われるより、どこを直したらいいのか分かる方が助かった。私は言われたところへ戻り、自分の手でやり直す。
布を返し、袋の内側に入っていた部分が表へ出たとき、思っていた以上に形が変わった。さっきまで裏から見ていた線が隠れ、青緑の布が外側へ出てくる。
私は口を少し開けたまま見ていたらしく、近くの学生の人が、袋になりましたね、と言った。
「はい。さっき、全然、そう見えなくて」
答えながら、布の角を指で整える。片方はすっと出たが、反対側は少し丸い。見本と同じにはならなかった。
最後のひもを通す作業も、説明を聞いてから自分で試した。途中でどこまで来たか分からなくなり、布越しに位置を確かめる。
反対側から先が出てきたときは、糸を針へ通せたときより嬉しかった。二つの端を持って引くと、袋の口が寄って閉まる。
「閉まった」
私が言うと、隣の人も自分のを閉めて見せてくれた。そちらの赤い柄と、私の薄い青緑は、同じ形なのにずいぶん違う。
閉めたり、開けたりしてみて、私は袋の中へ指を入れた。小さいヘアゴムなら何個か入りそうだった。スマホまで全部入れる大きさではないけれど、それを入れようと思って選んだわけでもない。
時計を見ると、十五時近くになっていた。片づけの説明を聞き、貸してもらった針や道具を返す。自分のはさみはケースへしまい、筆記具と一緒に鞄へ戻した。
最後に、どこが気になったかを短く書く紙が配られた。私は縫い方の名前を上手に書こうとして止まり、糸が絡まったときにどう戻るか分かった、と自分の言葉で書いた。
次はもう少しそろえたい。けれど、今日、初めて自分の袋ができたのは嬉しい。二つとも書いてから、提出した。
完成品は持ち帰れるので、折らずに鞄の上の方へ置く。先生に礼を言い、教室を出た。もう一度ここへ来たいかは、帰ってから案内を見て考えたかった。
校舎を出てから、私は邪魔にならない場所へ寄り、航平へ連絡した。
『終わった。袋には、なった』
すぐに返事が来る。
『その言い方だと、何かあったな』
『糸、からまった。あと、一回戻した』
『おつかれさま。見たい』
私は鞄の口へ手を掛けたが、道の端で全部を出すより、家で落ち着いて撮りたいと思った。帰ったら写真を送る、と返す。
電車では空いた席に座り、布を選んでからの順番を思い出した。誰かが全部やってくれた物ではないが、私一人で何でもできたわけでもない。
分からないときに呼び、教えてもらったところは自分でやり直した。見本より丸い角を思い浮かべ、今度はそこをもう少しちゃんと出してみたくなる。
家では、まず母へただいまと言った。はさみを借りた礼を言って戻すと、何ができたのと聞かれたので、鞄から巾着を出す。
「あら、できたね。これ、自分で縫ったの?」
「うん。最初、いっぱい教えてもらったけど」
母は手へ取って、口を閉めたり開けたりした。私はそこで、まだきれいじゃないから、と言いかけて止まる。
ちゃんと使えるかは、試してからでいい。母が返してくれた袋を受け取り、私は部屋へ持っていった。
机へ白い紙を一枚敷き、その上へ置いて写真を撮る。口を閉めたところと、開けたところ。きれいに見える方だけを選ぼうか迷い、両方とも送った。
『色、写真だと白っぽいけど、もうちょっと青緑』
そう添えると、航平から、角のところ少し丸いの、と質問が来る。
隠したいと思っていたところへ真っすぐ聞かれ、私は画面を見た。褒めてもらえなかったとは思わない。ちゃんと見たから、気になったのだと分かった。
『そこ、私がうまく出せなかった方。もう片方は、もう少し出た』
『そっか。口は、ちゃんと閉まった?』
『うん。それ、すごい嬉しかった。最初、糸すら通せなくて』
返してから、私は自分の説明が増えているのに気づいた。できた物を見てもらうために送ったのに、彼へ話したいのは、作っている途中のことも同じくらいあった。
夕飯の前、紗季からも、今日はどうだった、と連絡があった。私は同じ二枚を送って、角は片方丸いけれど、袋になったと伝える。
紗季は、自分もこの間、学校を見に行ったと教えてくれた。今回は妹と別の日にして、一人で行けたらしい。説明を聞く建物と食堂が思ったより離れていて、案内を何度も開いたと笑う。
『妹と行ってたら、お腹空いたって先に言われてたと思う』
『それ、紗季もじゃない?』
『私も。だから、食堂の場所は覚えた』
読んで笑い、私は見学だけでは学校をまだ決めないのかと聞いた。紗季はもう少し比べたいと答え、妹と遊びに出かける日は別に作ったと付け足す。
彼女も私も、毎日同じことをしているわけではなかった。学校が始まったら、机を寄せたときに聞きたい話が増えている。私は袋を使ってみたらまた話すと送り、鞄のポケットへスマホをしまった。
夜、帰ってきたお姉ちゃんにも見せた。母から少し聞いていたらしく、早く見たいと言いながら部屋へ来る。
お姉ちゃんは袋を見て、青緑にしたんだ、と言った。黄色かと思ったらしい。私も最初はそのつもりだったが、実物でこっちがよくなったと答えた。
「じゃあ、見に行ってよかったね」
「うん。あと、作る方も、思ってたのと違った」
「嫌になった?」
「全部は、嫌じゃない。糸からまったときは、もうって思ったけど。袋になったとき、もう一個やったら、ここ直せるかなって」
私は角のところを見せた。お姉ちゃんは勝手に直そうとせず、今日はできたのを使ってみたら、と言う。
その言い方がよくて、私はうなずいた。学校を決める話と、初めて作った袋を今日使う話は、同時に全部答えなくてもいい。
机の上のヘアゴムを二つ入れ、口を閉める。紺と茶色の輪は一緒に入り、少し持ち上げても外へ落ちなかった。
「明日、航平にも実物見せたい」
口に出すと、お姉ちゃんがこちらを見る。私は布の方を見ていたつもりだったが、顔まで笑っていたらしい。
「じゃあ、言えばいいんじゃない。写真だけだと色違うんでしょ」
「うん。でも、それだけじゃなくて」
言いかけると、お姉ちゃんは待ってくれた。今さら、たまたま見せやすい相手だからとは言えなかった。
「好きな人だから、見てほしいんだと思う」
お姉ちゃんは一度うなずき、そっか、と答えた。驚いて大きな声を出したり、すぐに本人へ言いなよと押したりはしなかった。
「じゃあ、明日空いてるか、まず聞いてみたら?」
私はうなずいた。話した後で、袋の角が急に丸くなくなるわけではない。でも、自分が誰に見せたかったかを、別の言い方でごまかさずに済んだ。
お姉ちゃんが部屋を出てから、航平へ、明日、少し会えると送る。袋の実物を見てほしいし、顔を見て作ったときの話もしたい、と続けた。
彼は家の予定を確かめ、十七時なら会えると返してくれた。私は十八時半には戻ると母へ話し、航平にも同じように伝える。夕飯は家で食べるので、短い時間だけだった。
金曜、十七時の少し前、いつもの時計の下へ着いた。航平は「俺の方が早いと思った」と言いながら歩いてくる。二人で笑い、近くの木陰にあるベンチへ移った。
私は巾着を鞄から出した。持ってきた薄い袋から出すと、写真より少し濃い青緑が見える。
「昨日の。触って見てもらって、いい?」
「うん。手、今、何も持ってないし」
彼が少し広げた手へ、巾着を渡す。中にはヘアゴムを二つ入れたままだったので、入ってるよと先に言った。
航平は口を少し開け、見えるところだけを見てから閉める。強く引っ張ったり、中身を全部出したりはしなかった。
「ほんとだ。写真より青い」
「そう。白い点、あんまり写らなかったけど、ちゃんとあるでしょ」
「うん。何が一番大変だった?」
聞かれて、私は最初の糸、とすぐ答えた。縫う前に止まったと説明すると、彼が笑う。できなかったことを笑われた感じはせず、私も笑ってしまった。
「でも、二回目、最初より早かった。三回目は、また抜けたけど」
「それ、全部、順番に速くなるわけじゃないんだな」
「そう。私も、そう思ってた」
私は自分の指の動きをまねて、どこで糸が引っかかったか話した。航平は分かったようなふりをせず、ここで、もう縫ってたところは残せたの、と聞いてくれる。
全部を戻さなくてよかったことや、布を返すと袋に見えたことまで話すと、彼はもう一度形を見た。
「今度やるなら、こっちの角、同じくらい出したいんだな」
「うん。今日のは、まだ、こっちが丸い」
そう答えると、彼は、じゃあ次できたら違い分かるね、と言った。今日のが失敗だから捨てればいいとも、丸いからもっといいとも言わなかった。
私は返してもらった袋を手の上へ置く。直したいところがあっても、今、持っているのは、ちゃんと自分が作った物だった。
「今日、見せてよかった。写真送ったときより、話してる」
「俺も、聞けてよかった。作ってるところは、見てないから」
航平が答え、私はうなずいた。隣で一緒にやっていなくても、帰ってから話す時間を持てる。
袋をしまうと、航平は空いた手を自分の膝へ戻した。私はその手を見てから、顔を上げる。彼もこちらを見ていて、少しだけ笑った。
私が左手を差し出すと、彼の右手が重なった。歩くときのように速さを合わせる必要はなく、隣で座ったまま、指に触れている温かさを確かめる。
「今、私、ちょっと嬉しい」
言うと、航平が、うん、と答えた。
「俺も」
それだけの返事を聞いて、私は笑った。作った物を褒める言葉より先に、この顔を見たかったのだと分かる。
駅の時計を見て、帰るにはまだ早いと確かめた。それでも、一時間を全部使い切るつもりではなかった。今日は見せたかった物を見せ、聞いてほしかったことを話せた。
帰り道へ移る前に手を離し、私は鞄を持つ。航平が、また一緒に何か作るのも楽しそうだね、と言った。
「うん。でも、今日はまず、自分の使う」
「そうだな。俺も、窓の袋、使ってるし」
二人で笑いながら立ち上がった。十八時半になる前に帰るともう一度確かめ、道の分かれるところで手を振る。
帰宅後、巾着を机の上へ置いた。ヘアゴムを出し、またしまう。その横の手帳を開いて、私は今日会ったことを日付の欄へ書いた。
うまく作れたら見せるつもりだったのではなく、作って帰ってきた私の話を、航平に聞いてほしかった。書いている間に返事が届き、画面には、袋、また使ったところ教えて、とある。
私は、うん、と返し、青緑の口をひもで閉めた。




