第30話 話したいことが増えた日
資料館から帰った木曜の夕方、俺は案内を机に置く前に、鞄から水筒を出した。外を歩いた時間は長くないのに、底には少ししか残っていない。流しへ持っていき、手を洗ってから部屋へ戻る。
何も考えずにこすった掌を、途中で一度だけ見た。さっきまで莉緒とつないでいた手だった。
形が残るわけではないので、見ても分からない。でも、彼女が握り直したときの動きは、歩いた道の曲がり角よりはっきり思い出せる。
スマホに、帰ったよ、と連絡が来た。俺も着いたと返し、案内とメモを机へ並べる。写真立ての中の莉緒は、川のそばでこちらを向いたときの顔のままだった。
『紙、折らずに持って帰れた?』
俺が送ると、彼女から、今、手帳のところにしまった、と返ってきた。俺も道のメモを残せたと伝える。
少しして、もう一つ届いた。
『今日、歩くとき、最初ちょっと緊張した』
どこを歩いたときかは、聞かなくても分かった。俺は、俺も、と打ってから、続ける。
『でも、つないでよかった』
『うん。私も』
画面を見て笑ってから、スマホを置いた。今すぐ同じ場面へ戻れなくても、同じように思ってくれたことが分かった。
金曜からは、家のことや課題を進める日が続いた。毎日誰かと会うわけではない夏休みは、机へ座る時刻を自分で決めないと、昼まで何もしないで終わりそうになる。
俺は午前中に一つは課題を進め、午後は読みかけの本や大学の案内を見ることにした。初日は思ったところまで終わらず、次の日へ少し残したが、予定を全部捨てるほどではなかった。
拓海からは、資料館どうだった、と連絡が来た。看板の話が長くなるかもしれないと言っていたので、実際の道と地図の向きで二人とも迷ったことを送る。
『地図見に行って、迷ったのか』
『部屋の中で。外では迷ってない』
『それはよかった』
彼はその後、自分が買った漫画を弟も読み始めたと教えてくれた。二巻を先に取られる前に読み終わったと言うので、今回は順番を守れたな、と返す。莉緒と手をつないだことは、そこでは話さなかった。
次の週の半ば、莉緒から、制作をする体験の申し込みができたと連絡があった。前に行った学校の別の回で、夏休み後半の平日の午後。今度は布の小物を作る方で、まず本人が家の予定を確かめ、参加に必要なことを問い合わせたらしい。
『持っていく物、今回は、ある。まだ家のが使えるか見てる』
何を作るか聞くと、最初に選べる布で小さい巾着を作ると言う。姉からもらった物とは別に、自分でも一つ作ってみたいのだと教えてくれた。
『きれいにできなかったら、どうしようってちょっと思う』
『最初にやる回なんだよね?』
『うん。初めてでもいいって聞いた』
俺は、それなら行ってから分かんないところ聞けばいい、と返した。自分が大学で聞こうとしていることも、授業を受けてみなければ分からないところが残っている。
彼女は、そうだよね、と答え、航平の見学は先にあるね、と送ってきた。
予定の日曜まで、もう長くなかった。俺は受付の案内を開き、父と出発の時刻を確かめた。
前日の土曜は、机に資料を並べて、聞きたいことを絞った。学校全体のことなら案内にも載っているが、街を歩いて調べる授業の中で、どこを自分で決めるのかは分からなかった。
メモには、前に父と書いた質問の下へ、資料館で気になったことも一つ足す。入口の写真だけでは、どこから入る場所なのか分からなかった。地図で確かめるとつながった。それを授業では、どう調べて、どう伝えるのか聞いてみたかった。
父は、それを全部一度に読むと長いから、先に一番聞きたいところからにしようと言った。
「じゃあ、歩いて見たことを、何にまとめるのか」
「うん。それを聞いてから、続きがあれば聞けばいいよ」
俺は質問の前へ小さく番号をつけた。上手な質問を作るためというより、緊張したとき、自分が聞きたかったことへ戻れるようにするためだった。
翌日は十時半から、気になっている学びの説明が始まる。受付を済ませ、教室へ移動できるよう、少し早く着く経路にした。乗り換えは一回で、最後は駅から徒歩になる。
鞄へ案内とメモ帳、鉛筆、財布、スマホ、水筒、ハンカチを入れた。会場の受付に出す画面も自分で開けると確かめる。父の端末へ全部任せず、自分の分は自分で持つことにした。
夜、莉緒から、明日、帰ったら話聞きたい、と連絡が来る。
『分かったことも、分かんなかったことも』
俺が、長くなるかもしれないと返すと、彼女は、途中で分かんなくなったら聞く、と答えた。
そう言ってもらえると、立派な感想を一つ用意しなくてもよかった。俺は、帰ったら連絡する、と送って、いつもより少し早く明かりを消した。
日曜、電車の中では、父も俺も途中まで外を見ていた。父の通勤経路と重なるところはあったが、乗り換えた先は、二人とも詳しくない。
俺が案内を開くと、父が横から見る。駅を出た後は大きい道をまっすぐ行く方と、一本手前で曲がる方があった。
「どっちにする?」
「案内にある方から、行ってみる。帰り、違う方でもいいし」
俺が答えると、父はうなずいた。今日は歩く道も確かめたいと思っていたので、最初から近道を選ぶ必要はなかった。
駅を出ると、大学へ向かうらしい人が何組か見えた。それでも人の後ろへただついていかず、俺は案内と道路の標識を見比べる。
家で見ていた図では近そうだった最後の道が、実際には少し長く感じた。信号で待つ時間もあるし、建物の影がないところでは歩く速さを落としたくなる。
「通うなら、雨の日もここ歩くんだな」
俺が言うと、父は、今日は晴れの日の分だけ分かればいい、と答えた。
「一回で全部は分からないよ。駅からの時間は、今見ておけばいいけど」
俺はスマホの時刻を確かめる。駅を出てから門までの時間をメモし、日曜だから平日と同じとは限らないとも書き足した。
受付のある建物へ入り、自分で予約の画面を見せた。名前を確かめてもらい、案内の袋を受け取る。父は保護者として一緒に入れると確認してあり、二人で次の教室へ向かった。
広い廊下で一度曲がる場所を迷い、近くの案内係へ聞く。教室の番号を言うと、向こうの階段から上がる方が近いと教えてくれた。
礼を言って進み、少し早めに席へ着く。俺は通路に出やすい端の席を選び、父がその隣へ座った。荷物を足元へ置くと、ようやく肩の力が抜けた。
説明が始まり、俺はメモ帳を開いた。最初から街へ出て写真を撮る話ばかりではなく、資料を読んだり、見つけた情報を整理したりする授業の紹介もある。
知らない言葉が出ると、その場で意味まで全部書こうとして、次の説明を聞き逃しそうになった。俺は途中から、後で確かめたい言葉に印をつけるだけにした。
画面には、学生が歩いて調べた地域を、図と短い文章でまとめた例が映った。どこから見た写真なのか、地図の上に印がある。ただきれいな写真を並べた物とは違っていた。
俺はメモの一番目へ線を引く。歩いて見たことを何にまとめるのかは、今、その一つを見られた。
説明の後半では、人の話を聞く場合や、資料の数字を比べる場合もあると聞いた。外へ出るのが好きでも、見たものについて文章を書く時間や、同じ資料を見直す時間は必要になる。
そこが全部好きかどうかは、まだ分からない。でも、見てきた写真の場所を、別の人にも分かる形へ直すのは、少しやってみたかった。
隣の父は俺のメモをのぞかず、自分でも案内を見ていた。分からないところで代わりに手を上げてくれるわけではない。俺も、聞くなら自分で聞こうと思い直す。
説明が終わった後、展示した学生の課題を見られる場所を案内された。さっきの画面より近くで見られると聞き、俺はそちらへ行きたいと父に話した。
「うん。先にそこへ行こう」
父は答え、袋を持って立ち上がる。俺も忘れ物がないか机を見てから、案内に書かれた部屋へ向かった。
そこでは、何人かの学生が、自分たちの課題のそばに立っていた。入口のところで足を止めた俺へ、一人が、気になる物があれば聞いてください、と声を掛けてくれる。
俺は、地図に写真の位置を示した作品の前へ行った。小さい写真が多く、一枚を大きく見せるより、歩いた道が先に分かるようになっている。
「これ、行く場所は、自分で決めるんですか」
聞くと、相手はこの課題の場合から説明してくれた。先生が決めた範囲の中で、自分たちが気になった道を選んだらしい。好きなところへ何となく歩けば、それで終わりというわけではなかった。
「最初は、何を見てくるかも分からなくて。行ってから、また資料を見ました」
学生が言い、二枚の図を指す。最初の案と、調べた後のまとめでは、写真を置いている場所が少し違った。
俺は資料館で地図を一周して、同じところへ戻ってきたのを思い出した。分からないからやり直すのは、授業でもあるらしい。
「写真、きれいに撮れなくても、使えるんですか」
続けて聞くと、相手はうなずいた。
「何を見せたいかによりますけど。ここは段差があるって伝えたかったので、全体がきれいでも、そこが見えない写真だと困るんです」
俺は、その写真を見る。確かに足元まで写っていて、どこに段があるか分かった。空や店の看板を入れようとしたら、自分ならそこを切っていたかもしれない。
知らなかった見方を一つ聞けたので、俺はメモを取ってもいいか確かめた。いいですよと言われ、今の説明を短く書く。課題や人の顔を無断で撮ることはせず、手元の紙へ残した。
礼を言って離れた後、父が、聞きたかったことは聞けた、と尋ねた。
「うん。場所を自分で選ぶ前に、範囲があるのは分かった。あと、写真、何を残すかで変わるんだなって」
「それは、来てみてよかったね」
父はそう答え、俺が次に見たい物を選ぶのを待ってくれた。
別の机には、調べたことを文章にした冊子があった。手に取っていいと言われたので、一冊開いてみる。
写真が多いページの後に、文字と表が続いた。数字を何度か見比べないと、何が違うのか分からない。俺はすぐに読み終えられるつもりでいたが、途中で一度、最初の図へ戻った。
「難しそう?」
父が聞いた。
「うん。写真のところだけで終わらないんだな」
俺が答えると、近くの学生が、まとめる方で時間がかかったと言った。最初から全部できたのではなく、同じ班で見ても分かりにくいところがあって、直したらしい。
それを聞いて安心したから、難しくなくなるわけではなかった。ただ、できるようになってから来る場所ではなく、教わって何度も直す場所なのだと分かった。
冊子を元へ戻し、俺は案内の授業一覧へ付箋をつけた。今度は名前だけで気になった印ではない。写真を地図へ置き直す課題と、数字を比べて文章へする課題を、自分が面白そうと思ったか、少し考えておきたかった。
展示の部屋を出ると、昼を過ぎていた。食堂が今日も使えると受付の案内にあり、父とそこへ行くことにする。
俺は鶏の塩焼きの定食を選び、父は煮魚の方にした。それぞれ六百円と六百五十円で、今日は父が払うと言ってくれたので礼を言う。遊びに出かけたときと違って、家で相談して来た見学の昼ご飯だった。
空いた席で向かい合い、受け取った袋を足元へ置いた。食堂も教室から離れているので、毎日通うなら移動の時間もある。俺は盆を机へ寄せてから、そのことを父へ話す。
「一つの建物だけ、見てたときと違うね」
父が言った。
「うん。時間割で教室変わるなら、どっちに行くか覚えないと」
「最初は迷うだろうけど、それは、他の人も同じだと思うよ」
俺はうなずき、先にご飯を食べた。説明を聞いている間は気づかなかった空腹が、箸を持つと分かった。
父から、ここへ行きたくなったか、と聞かれたのは、半分ほど食べた頃だった。
すぐには答えず、俺は鶏肉を飲み込んでから顔を上げた。
「もっと知りたいとは思った。通ってるところ全部は、まだ分かんないけど」
「うん」
「別の学校でも、似てることやるのか、見てみたい。今日のと違いが分かったら、考えやすそう」
言うと、父はそれがいいとうなずいた。せっかく一緒に来たのに、ここに決めると言わないことを、残念そうにはしなかった。
俺は、来る前より迷うところも増えた、と付け足した。父は笑い、何で迷っているか分かるなら、前より進んだんじゃない、と答える。
その言葉を全部正解だと決めなくても、自分で次に見たいところを言えたのはよかった。
食後は案内に沿って、図書館の入口や、教室のある建物を見た。見学できる範囲だけを歩き、入れないところには入らない。父も気になった掲示を読んだり、飲み物を飲んだりしていて、俺の後ろへずっとついているだけではなかった。
帰りは、駅まで別の道を選んだ。行きより日陰が少し多いが、曲がる場所が増える。どちらが必ずよいとは決めず、二つとも歩いたとメモへ残す。
電車に座ってから、俺は莉緒へ、見学終わった、と送った。帰り道の途中なので、長い感想はまだ書かなかった。
『おつかれさま。暑かった?』
『駅からは暑かった。中で、ちゃんと聞けた』
そう返すと、よかった、と届く。その後で、帰って落ち着いたら話せる、と聞かれた。
『うん。夜でもいい? 資料、出してから』
『もちろん。私も夕飯の前、ちょっと片づける』
俺はスマホをしまい、足元の袋へ目を落とした。紙は来る前より増えたが、見せたいのは全部ではなかった。彼女が途中で質問したくなるところを、俺も聞いてみたかった。
家に着いてから、父と母へ短く感想を話した。見てきた課題のことは俺から説明し、通学路の暑さの話は父も足してくれる。二人で同じところへ行っても、覚えている部分は少し違った。
夕食と片づけを終え、部屋で今日の資料を机に広げる。莉緒へ今なら話せると送ると、すぐに返事があった。
『今日、顔見ながら聞いてもいい?』
映像をつけて話すという意味だと分かり、俺は机の端を見る。写真立てはそのままあるが、家の紙や読みかけのメモは、画面に入れなくていい。
鞄を床へ寄せ、スマホを倒れない位置へ置いてから、いいよ、と返した。ほどなく通話がつながり、最初に彼女の天井が大きく映った。
「あ、違う。待って。こっち」
莉緒の声の後で画面が揺れ、顔が入る。家で着るらしい薄いTシャツで、髪は緩くまとめていた。俺も笑ってしまい、彼女が、そっちは最初からちゃんと置けたの、と聞く。
「先に、場所作った」
「ずるい。私、顔見たいって言った方なのに」
自分で言って笑った彼女へ、俺も、見えてるよ、と返した。会ったときと同じ返事をするだけなのに、部屋へ声が届くと少し違って感じる。
「おかえり、航平」
「ただいま。莉緒」
名前を呼ぶと、彼女がうなずいた。俺はカメラの下に置いた資料から、先に話すところを一つ選ぶ。
画面へ紙を近づけすぎて文字が読めなくなり、莉緒にもう少し離してと言われた。二人で笑って位置を直し、俺は、写真を地図に置いた課題を見たことから話した。
「きれいに撮るより、何を残すかが先なんだって。段差を見せたかったら、足元が切れてると困るって」
「ああ、そっか。袋の模様だけ見せても、どこが開くか分かんないのと、ちょっと似てる?」
莉緒が言い、俺はうなずいた。まったく同じではないかもしれないが、彼女が自分の見た物へ引き寄せてくれると、俺もどこに興味を持ったか説明しやすかった。
俺が課題は写真だけではなかったと話すと、彼女は、そっちはどうだった、と聞いた。難しそうと答えたところで、励ます言葉を急いで足さずに待ってくれる。
「でも、見ただけで終わるより、面白そうではあった。直すの、大変そうだけど」
「うん。私も、置き直すの、思ってたより迷った」
彼女はそう言い、今度の制作回では、まず手順からちゃんと聞きたいと続けた。
俺は、申し込みの案内、分かんないところなかった、と尋ねる。莉緒は家にある道具で使える物を確かめ、足りない物だけ準備するつもりだと教えてくれた。何もかも新しく買うわけではない。
「私さ、見る方も好きだけど、自分のが一つできると、また違うかなって」
「うん。窓の袋のときも、違ったし」
「あれ、今も使ってる?」
「使ってる。今日は資料多いから、大きい鞄だったけど」
俺が答えると、彼女も笑った。使う日と使わない日があっても、作った物がなくなったわけではない。
話が一段落したところで、莉緒は、聞きたかった質問はできた、と聞いた。俺は、一番聞きたかったものはできた、と答える。
「全部は、まだ分かんないけど。来る前より、次何見るかは分かった」
「うん。聞いてて、ちょっと分かった。航平、帰ってからも、まだ見たい感じなんだね」
俺は少し考え、それが近いと言った。学校を一つ見れば、迷いが全部なくなるとは思っていなかった。それでも、帰ってきてからまた案内を開きたくなるかどうかは、来る前には分からなかった。
莉緒がうなずき、画面のこちらを見た。俺も資料から顔を上げる。
「話してくれて、ありがと。今日、顔も見たかったから、嬉しい」
その言葉へ、うまい返事を探しかけて、やめた。
「俺も。会いたくなった」
莉緒が一度唇を結び、それから笑った。
「……それ、私、先に言おうと思ったのに」
俺も笑い、次はいつ空いているか聞いた。彼女は手元で予定を見て、火曜の夕方なら会えると言う。俺も家の予定がない日だった。
「じゃあ、十六時に時計の下は?」
「うん。少しだけでも、会いたい」
「俺も。帰る時間は、明日また確かめよう」
莉緒がうなずいた。会って何をするかはまだ決めていなかったが、どちらかが資料を届けなければならないわけでも、誰かに質問するためでもなかった。
話したいことができたから連絡して、顔を見たら会いたくなった。今度は、その順番を隠さずに言えた。
通話を終える前、莉緒が、机の写真、まだそこにあるんだね、と言った。俺の後ろではなく、画面の端に透明な立て物の一部が入っていたらしい。
「うん。橋と、莉緒」
「そっか。じゃあ、火曜は、今の私も見てね」
「見るよ」
俺が答えると、彼女は笑い、また明日連絡するねと言って手を振った。俺も手を上げてから、通話を切る。
画面が暗くなった後で、机の上の資料を整えた。分からない言葉につけた印は、まだいくつも残っている。
俺はその隣のカレンダーを開き、火曜の十六時へ予定を入れた。場所はいつもの時計の下で、メモには、会って話す、とだけ書いた。




