第29話 隣で見つけた、好きなもの
時計の下で莉緒を見つけたとき、俺は先に顔を見た。彼女もこちらに気づいて、手を上げる。白いTシャツに薄い水色のスカートで、まとめた髪の青い飾りは、正面からだとほとんど見えなかった。
「お待たせ。暑いね」
「うん。ここ、屋根の影まで動く?」
声を掛けると、彼女がうなずいた。俺たちは広場の端へ寄り、通る人の邪魔にならないところで向き合う。十二時五十分にはまだ少し前だった。
目を合わせると、莉緒が少し笑った。俺もつられて笑いそうになり、先に口を開く。
「ちゃんと、見た」
「うん。見てた。……でも、それ、言われると私も困るね」
彼女は自分で言ったことを覚えていたらしい。俺も同じ気分で、どこを見るかまで決めて来たことがおかしくなった。
「髪のやつ、後ろ?」
「そう。ほら」
莉緒が少し横を向く。茶色い髪をまとめたところに、青い丸が見えた。写真では顔や肩の方が大きく写っていたが、実物では揺れる髪の真ん中にある。
「写真のより、色分かる」
「ほんと? やっぱり、会って見てもらえてよかった」
俺がうなずくと、彼女は俺の鞄へ目を向けた。今日は自作の窓の袋ではなく、水筒が横へ倒れにくい鞄を選んだ。莉緒も肩に掛ける別の鞄で、丸と葉のミニトートではなかった。
「今日は、紙も持って帰るかもしれないもんね」
「うん。案内があったら、一枚欲しい」
「私も。袋、どんなのあったか後で思い出したいし」
学生証はそれぞれ財布に入れてきたと確かめ、一緒に広場を出る。道は俺が地図で見た通りだったが、実際に歩くと建物の影が続く方が分かった。莉緒が、こっち涼しい、と言ったので、信号を渡った後はそちらを歩いた。
資料館の入口には、古い店先の写真を大きくした案内が置かれていた。ガラス戸の向こうに階段と受付があり、外から入ると汗をかいた腕が少し冷える。
俺たちは券を買う窓口へ行き、学生証を見せて、一人二百円をそれぞれ払った。受け取った券は自分の財布へしまい、無料の案内を一枚ずつ取る。
展示は二階で、順路の途中に腰掛けられる場所もあるらしい。撮影について聞くと、入口と各展示の表示を見てほしいと言われた。俺はうなずき、スマホをまだ出さずに階段を上がる。
「上から、声よく聞こえるね」
莉緒が言った。階段に音が響くので、俺も声を少し落とす。上から下りてきた人を先に通し、二人で展示室の入口へ向かった。
最初の部屋には、商店街を撮った昔の写真がいくつも並んでいた。大きな看板、低いひさし、店先に積まれた箱。写真の横には、今の道を示す図がついている。
俺は見覚えのある曲がり角を探した。昨日地図で調べた館の位置に近く、普段通る駅前の道も一部入っているらしい。
「これ、今もある道かな」
小さく聞くと、莉緒が隣から図を見る。
「この角、パン屋のとこに似てない?」
「うん。でも、反対に曲がってる気がする」
二人で写真を見比べた後、図の向きが普段使う地図と違うことに気づいた。俺たちが北だと思っていた方が、そうではなかった。
頭の中で回していると、莉緒が案内の紙を少し傾ける。展示そのものは動かせないが、手元の小さい図なら向きを変えられた。
「こっちにすると、駅がこっちだから」
「あ、そっちか。じゃあ、この道、そのままなんだ」
ようやく分かり、二人とも図から顔を上げた。別の街かと思っていたところが、普段の道につながる。まだ知らないのは遠い場所だけではないらしかった。
写真の店は今と違っていた。道の形が残っていても、建物の高さや、入口の数は同じではない。俺がそれを見ていると、莉緒は写真の下の方へ顔を寄せた。
「この店、袋持って出てくる人、いる」
言われて見ると、店先の端に、小さな包みを提げた人が写っていた。看板を読もうとしていた俺は、そこまで見ていなかった。
「ほんとだ。何買ったんだろ」
「分かんない。でも、けっこう大事そうに持ってる」
両手で持っているので、箱のようにも見える。写真の説明にはその人が何を買ったかまでは書かれていなかった。
莉緒は、それは分からないままか、と笑った。俺も、当時買った本人ならすぐ分かるんだろうな、と答える。詳しく写っている写真でも、何でも分かるわけではなかった。
次の部屋には、店の名前が入った包装紙や、紙の袋が展示されていた。ケースの中に平らに広げた物と、袋の形に立ててある物がある。
莉緒は先に値札のような小さな説明を読んでから、一つの袋の前で足を止めた。白っぽい紙に濃い色の文字があって、持ち手はついていない。
「これ、折って閉じてたのかな」
「上、少し跡あるな」
俺が答えると、彼女はケースへ触れずに目を近づけた。横の説明には、紙に店の名前を印刷し、商品を包んで渡していたことが書いてある。畳み方を全部図で教える展示ではないので、俺たちは見えるところだけを確かめた。
「名前、正面にどーんってあるの、好きだな」
莉緒が言った。
「持ったら、そこが見えるから?」
「うん。模様がいっぱいあるのもいいけど、これ、何のお店かすぐ分かる。私、勝手に食べ物入ってる気になる」
「食べ物の店だから、合ってるんじゃない?」
「そうだけど。説明読む前から、そう思ったの」
彼女は少し笑い、別の包装紙を見る。細かい絵が繰り返し並んだ紙は、大きく広げてあると、一つの柄に見えた。
小さく包んだ物の写真も隣にある。広い紙で見たときより、絵の数が減って、同じ柄だと気づくのに少し時間がかかった。
「紙のときと、包んだとき、違うね」
「うん。さっきの文字の袋とは、また違う」
莉緒は手元の案内を見たが、今見ている包装紙の写真は載っていなかった。スマホを出しかけ、ケースの脇の表示を確かめてから、そのまま鞄へ戻す。この部屋は撮影できないと入口にも書いてあった。
「後で忘れそう。色、覚えてるかな」
「メモなら、していいってあったよ」
俺が入口で見た説明を指すと、彼女も見直した。筆記具は鉛筆なら使えると書かれていた。俺は持ってきた短い鉛筆と小さいメモ帳を出す。進路の見学で質問を残せるようにと、家で鞄へ入れた物だった。
「これ、使う?」
「借りていい? 私、ペンだけだ」
俺はメモ帳を一枚切って渡した。莉緒はケースから少し離れ、壁際の記入台で紙を押さえる。俺も隣へ寄ったが、書き終える前にのぞき込むのはやめた。
文字だけだと分からなくなるのか、彼女は小さな四角を描き、その中に丸い形をいくつか足した。ちゃんとした絵というより、後で本人が思い出すための形だった。
「上手じゃなくて、いいんだよね」
紙へ目を落としたまま、莉緒が言う。
「自分が、思い出せるなら。俺の道のメモも、曲がる印ばっかりだし」
「じゃあ、これでいい。見て。丸、ちょっとずつ違うけど」
見せられた紙には、色の名前と、折ると見えるところが変わる、と書かれていた。俺は、本物の紙全部を同じに描くより、気になったところが分かる、と答える。
「うん。そこだけ、後で見たかった」
彼女は鉛筆を返し、紙を折らずに案内の間へ挟んだ。俺もメモ帳をしまってから、さっき見逃した包装紙の端の模様をもう一度見た。
彼女が止まったから待っていたつもりだったのに、今は自分も、箱へ包んだらどこに絵が出るのか気になっていた。
展示室の外の腰掛けで、少し休むことにした。飲み物はこの場所なら飲んでもいいと表示があり、俺たちは鞄から自分の水筒を出す。
近くにいた人も静かに案内を見ていて、俺たちも自然と声が小さくなった。莉緒は一口飲んでから、髪をまとめたところへ軽く手を当てる。
「後ろ、変になってない?」
「大丈夫。青いの、ちゃんとある」
「よかった。さっき、見ようとして結構下向いたから」
彼女は笑い、もう一口飲んだ。俺も水筒を戻し、案内を膝の上へ広げる。次の部屋では、古い地図と、新しく作り直した地図を見られるらしかった。
「航平、次、ゆっくり見たいんでしょ」
「うん。でも、さっきの袋、もう一回見たいなら、戻ってもいいよ」
「今は大丈夫。後で思い出して、戻りたくなったら言う」
そう答えてくれたので、俺も先に全部の時間を割り振らずに済んだ。何分見たら次へ行く、とは決めていなかった。
莉緒が案内を畳み、俺の方へ顔を向ける。
「ここ、誘ってくれてよかった」
「袋、見られたから?」
「それも。でも、航平が何見てるのか分かるの、面白い」
俺は言い返そうとして、さっき彼女が紙を描いていたところを思い出した。自分が案内で見たいと思った物以外にも、彼女となら足を止める理由があった。
「俺も。紙、広げたときしか考えてなかった」
「包む方も、見ちゃった?」
「うん。さっきの、文字の真ん中、折ったらどうなるのかって」
莉緒が笑い、私は、きれいに出る方で折りたくなると答えた。そこまで決めて展示してあるわけではないので、試すことはできない。帰ったら、いらない紙を一枚使ってみようかな、と彼女は言った。
俺も、地図を見た後で今の道を確かめたいと思っていた。けれど、今日は暑いので、展示にある道を全部歩くつもりはない。そう伝えると、彼女も、私も全部は無理、と笑う。
「涼しくなったら、一つくらい」
「うん。そのときは、どの道がいいか聞いて」
まだ日付を決めなくてもいい先の話だった。俺は、聞く、と答え、彼女が水筒をしまうのを待って立ち上がった。
次の部屋の地図には、俺たちが来た駅前の通りがあった。昔は違う道幅だったところや、今とつながり方の違う道も、横の図で見られる。
俺は今の地図で分かる場所から、古い方へ目を移した。川や橋を目印にすればすぐ分かると思ったが、細い線がいくつも重なり、一度場所を見失う。
「さっき、そこ見てなかった?」
隣の莉緒が小声で聞いた。
「見てた。たぶん、同じとこに戻ってる」
「一周したね」
静かに笑われ、俺も笑った。上の方だけを追っていたので、まず目印にした橋へ戻る。そこから道を一本ずつたどると、さっき見つからなかった曲がり角に行けた。
莉緒は俺が見ている先を確かめてから、別の端にある広場を見つけた。今は建物になっているが、図の横には昔の写真がある。
「道から中へ入ると、ここに人集まってたんだ」
「うん。今は、通りから見えないな」
「看板が道に出てるだけじゃ、分かんないことあるね」
俺はうなずいた。普段、気になる入口を見つけると写真を撮るけれど、どこから入る場所なのかは、別の位置から見ないと分からないこともある。
足元まで写った写真と道の図を交互に見ていると、案内の説明より、確かめたいことの方が増えてきた。大学の説明を聞きに行くときにも、こういう気になり方を話していいのだろうか。
口に出すと、莉緒は俺の顔を見た。
「いいと思う。私も、体験で、ちゃんと作れるようになってから行くんじゃなかったし」
「うん。でも、歩くの好きってだけで、授業まで面白いか分かんないから」
「それ、聞きに行くんでしょ?」
彼女はそう言ってから、私も、見て回るの好きと作るの好きが同じかは、まだ分かんないと言った。
「だから、次は作る方もやってみたい。今、日程見てる」
「前と、同じ学校の?」
「うん。まずそっち。違う学校の案内も、紗季が見てるの聞いたら気になったから、あとで比べる」
すぐに一つへ決めたわけではなかった。けれど、何を確かめたいかは、前に会ったときより具体的になっている。
俺も、自分の疑問をそのまま聞くつもりだと答えた。彼女はうなずき、それから展示の方へ顔を戻す。
「でも、今は、この道の続き」
「うん。忘れそうになってた」
俺が答えると、莉緒は笑い、目印にしていた橋を指さした。今度は、その先を二人で一緒にたどった。
見終わってから、俺も記入台でメモを一つ残した。入口の写真だけでは中へ入る道が分からなかったことと、地図に戻ったら場所がつながったことを書く。
何が面白かったのか、帰ってから聞かれると、道が残っていた、だけで終わりそうだった。今、二人で迷った順番まで書いておけば、もう少し具体的に話せる。
「私の袋と、航平の道、違うメモになったね」
見せた紙へ莉緒が言うので、俺もうなずいた。同じ展示を見ているのに、書きたいところが違う。その方が、帰った後にも聞けることが残る。
俺は今日のメモを、大学で聞きたいことを書いたページと離しておいた。見て面白かったことと、まだ分からないことは、後で比べるつもりだった。
すべての部屋を出た後、俺は最初の写真をもう一度見たいと言った。莉緒も、袋のメモに書いた色を確かめたいらしく、一緒に少しだけ戻る。
先に道の図を見たからか、最初に分からなかった写真の向きがすぐに分かった。莉緒は、自分が描いた紙をケースの手前で見直して、色の言葉を一つだけ小さく書き足した。鉛筆は俺がもう一度貸し、その場で返してもらう。
最後に撮影できる区画で、俺は説明と一緒に置かれた道の写真を一枚撮った。他の来館者がいないところを待ち、表示で可否を確かめてからにする。
莉緒にも撮るかと聞いたが、今日はさっきの紙でいいと答えた。
「写真にしたら安心して、忘れちゃいそうだから」
「俺は、写真ないと忘れそう」
「じゃあ、今度分かんなくなったら見せて。見ていいやつだけ」
俺はもちろんと答え、案内の間に券をしまった。莉緒も案内とメモを鞄へ入れ、水筒の下へ落ちない位置を確かめる。
階段を下りると、一階の時計で十五時を少し過ぎているのが分かった。思っていたより長く見ていたが、俺たちはどちらも昼を済ませてきたので、急いで食べる物を探す必要はない。
外へ出る前に、涼しい場所でもう少し座るかと聞く。莉緒は、足は平気だけど、水飲んでから出たい、と答えた。俺も同じだったので、入口脇の休憩場所へ移る。
隣に座り、俺は鞄の口を閉じた。彼女がハンカチで額を押さえる。汗をかくほど動いたわけではないが、外へ出ると思うだけで暑さを思い出すらしかった。
「最初に涼しいとこがいいって言って、正解だったね」
「うん。今日、坂の公園だったら、途中で戻ってたと思う」
俺が言うと、彼女も、それは戻ろう、と笑った。
会いたいからと伝えた後、場所が面白くなかったらどうしようと少し考えたことを、今さら思い出す。けれど、隣の彼女は案内の角を見て、帰ったらこの紙をちゃんとしまおうと言っている。
「今日、俺も楽しかった」
先にそう言うと、莉緒が俺を見る。
「私も。ねえ、また誘ってね。航平が、行きたいとこ」
「うん。莉緒も、今日みたいに、見たいの教えて」
彼女はうなずいた。俺は自分の方へ案内を引き寄せるだけでなく、彼女の好きな紙の袋を、また一緒に見たいと思っていた。
館を出ると、まだ日は高かった。少し待っても涼しくなる時刻ではないので、日陰の多かった道へ戻ることにする。
歩き始めてすぐ、莉緒が俺の名前を呼んだ。振り向くと、彼女は自分の鞄を肩へ掛け直したところだった。
「今、そっちの手、空いてる?」
俺が右手を見ると、何も持っていない。うなずいたところで、彼女が左手を少し前へ出す。
「手、つないで歩いてもいい?」
車が来たわけでも、人が押し寄せたわけでもなかった。道の端で立ち止まった彼女は、俺を見て返事を待っている。
出された指の先を見てから、俺は顔を上げた。
「うん。俺も、つなぎたい」
自分で言うと、彼女が笑った。その手を取る直前、互いの指が少し違う方へ動いて、うまく合わない。
「こっち?」
「うん。たぶん」
莉緒が左手をこちらへ向け直したので、俺も右手をゆっくり重ねた。指を全部きれいに並べる必要はなく、軽く握ると、彼女も握り返してくれる。
ボウリングで手のひらを合わせたときとは違った。すぐ離す動きが続かず、そのまま隣に立っている。彼女の手は、自分と同じくらい温かかった。
「歩く?」
俺が聞くと、莉緒は笑いながらうなずいた。
「うん。ずっとここには、いないよ」
俺も笑って、日陰の方へ一歩進む。手をつないだら、歩く速さまで勝手にそろうわけではなく、最初は俺の方が少し先へ出た。肩の位置を見て、半歩戻す。
彼女は引っ張らずに待ってくれた。俺が並び直すと、今くらい、と小さく言う。その声が近く聞こえて、横を向くのに少し勇気がいった。
横断歩道の手前で止まり、俺たちは同じ信号を見る。赤い灯りが変わるまで、何かを話さなければとは思わなかった。
青になって歩き出したとき、莉緒の指が一度握り直された。俺もそれに合わせて、少しだけ力を変える。
彼女と手をつないで歩いている。それを考えると、信号の先の何でもない道まで、いつもの帰り道より長く見ていたくなった。
駅前が近づいたところで、彼女が鞄のひもを直したいと言った。俺たちは道の端へ寄り、一度手を離す。
空いた手をどこへ置けばいいか分からず、俺は自分の鞄の持ち手を触った。莉緒はひもを肩へ戻してから、笑ってこちらを見る。
「ありがと。さっき、つないでくれて」
「俺も、つなぎたかったから」
もう一度同じ意味を言ったのに、今度は先ほどよりちゃんと顔を見られた。莉緒はうなずき、そっか、と言った。
「じゃあ、また、つないでもいい?」
「うん。俺からでも?」
「うん」
彼女が答え、俺も笑った。どちらかだけが毎回聞く役にならなくてよかった。
駅の広場を横切った後は、それぞれの帰る道が分かれるところまで並んで歩いた。今度は手をつないでいなかったが、さっきまで触れていた方の手を、何となく意識してしまう。
別れ際、莉緒は、大学の見学終わったら話聞かせてね、と言った。俺も、作る方の日程決まったら教えて、と答える。
次に会う日をまだ決めなくても、聞きたいことがあった。俺は彼女の顔を見て、今日来てくれてありがとう、と伝えた。
「私も、会いたかったから来たんだよ」
莉緒はそう答え、笑って手を上げる。俺も同じように手を上げた。彼女が歩き出してから、自分の掌へ視線を落としかけ、やめる。
温かかったことは、見なくても覚えていた。




