第26話 今日は、これを着ていきたい
夏休み初日の朝、制服を着なくていいことに気づいたのは、クローゼットを開けてからだった。昨日までと同じ場所にあるブラウスへ手を伸ばして、途中で止める。今朝は誰かに急かされて家を出る必要がなかった。
それでも、時計は見てしまう。待ち合わせの十六時四十分までは、まだずいぶんあった。
私は部屋着のまま居間へ下り、朝ご飯の後で母にもう一度帰る時間を伝えた。二十時半までに帰宅、夕飯は向こうで食べる。母は覚えてるよ、と笑い、冷蔵庫に入っている水筒を忘れないように言った。
「今日、浴衣着ようかなって思ってるんだけど」
口に出すと、母は食器を重ねていた手を止めた。
「去年の、出してみる? しまってある場所は同じよ」
「うん。まだ決めてないけど、一回合わせたい」
母についていって、しまってあった浴衣を出した。紺の地に白い小さな花が散っている、去年も着たものだった。帯は淡い黄色で、畳まれているときには少し地味かと思ったのに、紺の上へ置くと明るく見える。
去年は、お姉ちゃんと出かける前に鏡の前で写真を撮った。今年も同じ布なのに、袖を自分の肩へ当てたとたん、駅の時計が浮かんだ。
三原は、明日楽しみにしてると言ってくれた。何を着るか知らないのに、変えても見る、とも言っていた。
浴衣だったら喜んでくれるかな、と考えてから、鏡の中の自分を見る。喜ばせるためなら何でもいいわけではなく、私はこれを着て彼の隣を歩いてみたかった。
「やっぱり、着たい」
「じゃあ、出る前に手伝うね。支度の時間、余裕を見ておいて」
母にうなずき、畳み直した浴衣を部屋へ持っていった。着る物が決まると、待っているだけだった午前中に、ちゃんとすることができた。
机の上には、昨日持って帰ってきた夏休みの課題が置いてあった。最初の一ページだけ開き、分かるところへ鉛筆を入れる。全部終わらせようとすると夕方まで気になりそうなので、今日はどこで迷うかを見るだけと決めた。
途中の式で手が止まったので、小さく印をつける。三原に聞こうかと思ったが、その前の説明を読んでみると、一つ前の問題でやった変形を忘れていただけだった。
消しゴムをかけて書き直し、解けたところで冊子を閉じた。できたよ、と報告するほど大きなことではない。それでも今夜、宿題どうだったと聞かれたら、何もしてない以外の返事ができる。
代わりに黄色い手帳を開いた。最後に書き足した、三原とボウリングに行く、の横はまだ空いていた。
ペンギンのついたボールペンで、そこへチェックを入れる。二ゲームとも勝ちたかったはずなのに、思い出すのは合計の点より、二回目に彼の方から差し出された手だった。私が先にやってみたことを、三原も覚えていてくれた。
すぐ下へ次の項目を増やすか少し迷い、今日は日付の欄へ移った。今夜のことは、帰ってから書けばいい。何があるか分からない一日に、先に全部の名前をつけなくてもよかった。
透明なカバーの内側には、袋に入れた写真が二枚ある。川の方を見ている三原と、葉の向こうに見える空。今日は何枚撮るだろうと考えてから、手帳を閉じた。
小さい鞄に手帳まで詰め込むと重くなるので、今日は置いていくことにした。持っていくのは財布とスマホとハンカチ、それから水筒。夕方でもまだ暑いし、両手いっぱいに物を持ったら屋台を見るのに困る。
使う鞄を選んでいると、出かける前のお姉ちゃんが部屋をのぞいた。今日は仕事だと言っていたので、浴衣を着たところを見せる時間はなさそうだった。
「それ、着ることにしたんだ」
「うん。お母さんに手伝ってもらう」
「座ったとき苦しくないかも見ておきなよ。ずっと立ってるわけじゃないでしょ」
「分かった。帯、ぎゅうぎゅうにしない」
お姉ちゃんは笑って、ぎゅうぎゅうにしなければいいってだけでもないけど、と言った。去年歩いたときのことを思い出し、私は履く物も先に出す。今日は歩き慣れた平たいサンダルにするつもりだった。
「これ、変じゃないかな」
「莉緒が歩きやすいなら、いいんじゃない。全体で見てみたら?」
答えを任せるつもりで聞いたのに、鏡の方へ返された。私は浴衣の裾を当て、足元まで見る。サンダルは飾りの少ない白で、着ている物より前へ出すぎない気がした。
「私、これがいい」
「じゃあ、それで。帰ったら写真見せてね」
お姉ちゃんはそう言って、玄関へ下りていった。私は見送ってから、サンダルの底を確かめる。履き慣れているからと何も見ずに出るより、今、見ておけてよかった。
昼前、紗季から課題の提出についてメッセージが来た。昨日聞いた説明で合っていると思ったけれど、配られた紙をもう一度見て、書いてあるところを撮って送る。
『ありがとう。妹と相談してたら、自分の分も分からなくなった』
妹の宿題まで見ていたらしい。昨日のお昼は何を作ったのか聞くと、冷たい麺に、切った具をそれぞれのせたと返ってきた。妹の盛りつけの方がきれいだった、と続いて、完成した皿の写真が一枚送られてくる。
大きな皿には、麺が見えなくなるくらい細く切った具が並んでいた。食べる前にどこから箸を入れるか迷いそうで、きれいだけど大変そう、と返す。
『食べ始めたら一瞬だった』
『それは、おいしかったってことでしょ』
紗季が笑っている顔を想像した。今日は何をするのと聞かれ、夕方から三原と夕涼み会へ行くと答える。浴衣を着ることにしたと付け足したら、写真あったら見たい、と返ってきた。
見せられるのが撮れたら送るね、と約束する。三原も写っていたら、今度も本人に聞いてからにするつもりだった。自分が気に入った写真でも、相手にとってはそうとは限らない。
やり取りを終える頃、少し落ち着かなくなってスマホを持ったまま立ち上がった。三原へ今から浴衣にする、と送ることもできた。でも、会ったとき最初に見てもらいたかった。
代わりに天気を確かめ、時間に間に合うよう支度を始める。母に手伝ってもらい、帯ができたところで椅子に座ってみた。立っていると平気でも、座ると少しお腹の前が気になり、母に伝えて結び方を調整してもらう。
「これなら大丈夫。ありがとう」
「苦しかったら我慢しないでね。暑くなったら涼しいところへ入って」
母は袖の折れを直し、鏡を少し傾けた。自分で後ろも確かめてから、髪をまとめる。茶色い髪を低めで一つにして、顔の横に残した分だけ指で整えた。
大きな髪飾りを出しかけ、今日は小さいピンだけにする。どれも使いたくなっていたけれど、鏡の中では帯の黄色が一番見えていた。そのままにした方が、今の気分に合っていた。
母に一枚撮ってもらい、写真をお姉ちゃんへ送る。返事は仕事が終わってからでいいと添えて、スマホを鞄へしまった。水筒と財布も入れ、家の鍵を確かめる。
家を出る前に、もう一度だけ全身を見た。三原がどんな顔をするか気になったけれど、急に普段の服へ戻したくはならなかった。
駅へ向かう道は、まだ日なたが多かった。日陰を選んで歩き、普段より少し余裕を持って駅前へ着く。時計の下には、三原がもう立っていた。
白い半袖のシャツに、濃い色のパンツ。片方の肩に掛けた鞄の持ち手を直した彼が、こちらを見つけて手を上げる。私も手を上げかけ、袖が下がるのに気づいて肘のあたりを押さえた。
「お待たせ」
「まだ時間前だよ」
三原はそう言ってから、私の方へ向き直った。上から下まで一度見て、また顔へ戻ってくる。昨日、自分で見ると言ったことを、思い出したようだった。
黙ったまま待っていると、私の方が先に笑いそうになる。
「どう?」
「似合ってる。帯、黄色なんだな」
「うん。そこ、気に入ってる」
「暗い方に黄色があるから、よく見える」
彼の言い方はいつも、何を見たのか分かる。浴衣だから、と一つにまとめるのではなく、自分が鏡で最後に見ていたところを見てくれたのが嬉しかった。
「今日、着たかったんだ。三原と行くから」
言ってから、鞄の持ち手を握り直した。浴衣を着る理由はそれだけではないけれど、誰と行くかが違えば、着たい服も違ったと思う。
三原は一度口を開き、少し遅れて、うん、と言った。
「見られてよかった」
「着替えてこなくてよかった?」
「うん。まだ、全然見てないし」
自分で言って、彼の方が少し困った顔をした。私は笑って、じゃあ歩きながらも見て、と返す。
「前も見ないと、曲がれないけど」
「それは見て。私も見る」
二人とも笑ってから、広場の端へ寄った。通行の邪魔にならないところで、一枚撮ってほしいと頼む。鞄からスマホを出すと、三原は持ち方を確かめてから受け取った。
時計は全部入らなくてもいいと言い、私は少し横を向いた。袖と帯が見えるように手の位置を変えていると、三原が、今の方がいいかも、と言う。
「どっち?」
「持ち手を、少し下げた方」
言われた通りにすると、帯を隠していた鞄が下がった。三原が撮ってから画面を見せてくれる。自分が思っていたより顔が笑っていて、もう一枚より先に、これ好き、と口に出た。
「ありがとう。三原も撮らせて」
「俺? 普通の服だけど」
「今日の三原でいいの」
彼がさっき私の立った位置へ行く。真面目な顔を作ろうとしたので、そんなに動かなくていいと言うと、笑って少し肩が落ちた。そこで一枚撮った。
彼へ画面を向けると、今のいつ撮った、と聞かれた。
「動かなくていいって言ったとき」
「それ、一番油断してるだろ」
「うん。そこがよかった」
残していいか聞くと、うなずいてくれた。私は二人それぞれの写真を送って、スマホをしまう。二人で写る写真は、向こうに撮れそうなところがあったらお願いすることにした。
「今日、白にしたんだね」
歩き出す前にシャツのことを言うと、三原は自分の肩を見た。
「薄い色の方が、少し涼しそうかと思って」
「うん。いいと思う。私の浴衣、紺だから、並ぶと違って見えるし」
「合わせたわけじゃないけど、それはよかった」
彼が笑って、私も笑った。二人で服を決めて出かけるのも楽しかったけれど、知らなかった今日の格好を見るのも好きだった。
私が袖の端を直している間、三原は待ち合わせの時計を見上げていた。まだ約束の時刻を少し過ぎただけで、出かける前に慌てなくて済んだ。浴衣を着る時間を多めに取ったのは、鏡を長く見るためだけではなかったと思う。
「じゃあ、行こっか」
私から言うと、三原は鞄を掛け直して、うん、と答えた。撮ってもらった画面をもう一度見たかったけれど、スマホは出さずに彼の隣へ歩いた。写真は後でも見られるし、今の返事は、今しか聞けなかった。
商店街へ向かう途中で、三原が歩く速さを確かめてくれた。普段より裾が狭いから少しゆっくりだと答えると、彼も速さを落とす。心配そうに足元ばかり見られなかったので、私もその後は普通に話せた。
「靴、いつものと違うけど平気?」
「うん。何回も履いてるやつ。私、今日これで歩きたかったから」
「じゃあ、店見るときも急がなくてよさそう」
「三原が食べたいの、売り切れちゃうかもよ」
「それは、一緒に残念がってくれるんだろ」
あの夜に送った言葉を言われ、私はうなずいた。覚えていてもらえると、冗談で言ったことまで少し嬉しくなる。
会場に近づくと、道の先に屋台の屋根が見えた。まだ始まる前で、店の人が値札を貼ったり、折り畳みの机を拭いたりしている。道の端に立てられた案内には、飲食のほかに、小物を並べる店や簡単な遊びの場所も載っていた。
開催は十七時からなので、私たちは先に端まで歩いてみることにした。食べる場所は通りの脇に椅子と長机が置かれている。空いた皿をどこへ返すかも確認し、三原がスマホの時刻を見た。
「先に見るの、食べ物の方でいい?」
「うん。でも、あっちの小物もちょっと見たい」
私が指したのは、布の袋や小さな飾りが並んでいる店だった。買うと決めたわけではなく、並べているところを見たかった。
「じゃあ、食べるの決めたら、そっちも」
「ありがとう。三原も寄りたいのあったら言ってね」
「向こうの端、街灯の下に旗が続いてるとこ。暗くなったら、写真撮ってみたい」
それなら今すぐ行かなくてもいい。私たちは後でそちらへ戻ることにして、手前の店から見た。全体を見終わっても、慌てて走るほどの広さではなかった。
十七時になり、店の人たちが声を掛け始める。周りにいた人も少しずつ動き出し、私たちは焼きそばを売る店の前で立ち止まった。
「弟が、絶対あるって言ってた」
「当たったね。帰ったら報告しないと」
「うん。たぶん、あるって言ったじゃん、で終わるけど」
弟くんの言い方を真似する彼がおかしくて笑った。私は焼きそばを一つ買うことにし、三原はもう少し見てからにする。値段は五百円で、量も夕飯の一つとしてよさそうだった。
受け取った容器は熱かったので、袋を持つ手を変えた。彼は勝手に取らず、持つ、と聞いてくれる。自分で持てると答えて、邪魔にならない場所へ寄った。
「先に食べる?」
「三原の決まってから、一緒に座りたい」
「分かった。じゃあ、俺、あっちのご飯のにする」
彼が見ていた店では、小さな容器に入ったカレーを売っていた。四百円と書かれた札の下に、辛さは控えめ、とある。
「そっちもいいなあ」
「もう焼きそば持ってるのに」
「見たら思うでしょ。今のは、思っただけ」
三原は笑い、買ってくると言った。私は彼の荷物を預からず、少し離れたところで待つ。財布を出す彼の横顔を見ていたら、名前を呼んでこちらへ向いてほしい気持ちになった。
三原、でも、もちろん振り向いてくれる。ずっとそう呼んでいる。それでも、目の前でお金を払う人の横顔に、学校で出席を取るときより近い呼び方があることを、急に意識してしまった。
口に出す前に彼が戻ってきて、席が空いているかと聞く。私はうなずき、一緒に机の方へ歩いた。
長机の端に並んで座り、袋を膝の上でまとめてから、焼きそばの蓋を開けた。隣の三原も容器を置き、鞄から水筒を出す。私も自分の水筒を出して一口飲んだ。
「座って、苦しくない?」
「大丈夫。家でも座ってみたから」
「そんな確認するんだな」
「する。立ってるだけだと分かんないことあるし。さっき写真撮ったとき、後ろも大丈夫だった?」
三原はうなずき、帯の後ろもちゃんとなってたと答えた。少し曖昧な言い方で、細かい結び方までは知らないのが分かる。それでも見ていなかったわけではない。
私は袖が食べ物に触れないように押さえてから、最初の一口を食べた。熱すぎて急いで飲み込まないよう、少しずつにする。三原は自分のスプーンを止め、そっちどう、と聞いた。
「おいしい。ちょっと濃いけど、外で食べるとちょうどいい感じ」
「こっちは、ほとんど辛くない」
「ほんと? でも、今日は自分の食べきる。私、後で冷たいのも食べたい」
「じゃあ、そっち見てからにしよう」
何もかも一口ずつ交換しなくても、食べた感想は教え合える。三原が少し甘いと言うので、辛さ控えめってそういうことかと笑った。
食べている間に、近くの椅子へ親子が座った。子どもが持っていた紙の飾りを大事そうに机へ置く。作る場所があるらしく、向こうでのりを乾かしてから持ってきたと話している声が聞こえた。
私はそちらへ目を向けたが、列は子どもたちでいっぱいだった。三原が興味あるのか聞いてくれたので、作る方も楽しそうだけど、今日は小物を売るところを見たいと答えた。
「この前の体験、帰ってからも考えた?」
「うん。家の棚で、ちょっとだけやった。前に出すだけで全然違った」
「何を前にしたの」
「小さい箱。中の物、見たいから置いてたのに、開けると後ろの物隠れてて。まず箱を動かせばよかったんだよね」
話すと、三原は自分の机もだと言った。案内を開いて置くと、その下に残したメモが見えなくなるらしい。
「全部を一番見えるとこに置けないんだな」
「そう。私、それ、この前初めてちゃんとやった」
できるようになったことはまだ少しだけだったが、話していて恥ずかしくならなかった。すごいねで終わらせず、彼が自分の机を思い浮かべてくれたからかもしれない。
食べ終わった容器を所定の場所へ片づけ、机に落とした物がないか確かめる。立ち上がるとき、私は帯の前を軽く直した。母に調整してもらったおかげで、苦しくはなかった。
「次、小物のとこでいい?」
三原が聞くので、私はうなずいた。
「うん。まだあったら、丸い留め具のついた袋、近くで見たい」
「さっきから決めてたんだ」
「ちょっとだけ。遠くから見ても、そこが気になった」
通りにはさっきより人が増えていた。三原が先に歩き出してから、私の方を一度振り返る。私はすぐ隣へ並び、彼のシャツの袖の少し下を見る。
手をつなぎたいと言うには、まだ自分の中で言葉がまとまらない。でも、呼んでみたい名前は、もう分かっていた。
「どうした?」
私が黙ったからか、三原が顔を向けた。彼の声に、私は顔を上げる。
「その店、見たらさ。ちょっと、話したいことある」
「今じゃなくて、いいの?」
「うん。歩きながらだと、ちゃんと顔見られないから」
彼は少し不思議そうにしたけれど、分かった、と答えてくれた。私はもう一度うなずき、浴衣の袖を押さえる。
店先に下がった小さな布袋が風で揺れていた。私は三原に、あれ、と教えて、気になっていた丸い留め具の方へ一緒に近づいた。




