第22話 会いに行く朝
月曜の朝、教室へ入ってすぐ、俺は窓際の自分の席へ向かった。鞄を下ろし、教科書を机へ入れるまでは金曜と同じだったが、今日はそれで座ってしまわないようにする。
二列右の、一つ前の席に藤崎がいた。隣の女子へプリントを見せ、何かを説明している。俺は鞄のファスナーを閉めながら、話が終わるのを待った。
遠くからでも声が聞こえる気がしたが、実際には廊下で笑う人の方が近かった。気にし始めると何でも彼女の方へ結びつくのは、少し困る。
藤崎が紙を返して顔を上げた。こちらに気づいて笑ったので、俺は机の列の間へ入った。
「おはよう」
「おはよう。ほんとに来た」
「来るって言っただろ」
「うん。待ってた」
あっさり返され、次に言うつもりだった言葉が一つ抜けた。土曜のトートの感想はもう送ったし、写真立ても見せた。だから、今日は何を話そうと考えて来たはずだった。
「棚、ちゃんと空いた?」
ようやく聞くと、藤崎は自分の鞄の方を見てから笑った。
「空いた。けど、お姉ちゃんに貸してたカーディガンが一枚戻ってきて、ちょっと埋まった」
「戻ってくる分まで考えてなかったのか」
「考えてませんでした。着てないなって思ってたやつ、お姉ちゃんが着てた」
声を聞いていると、土曜に自室で考えていたほど話しにくくはなかった。好きなのかもしれないと思った後でも、彼女は普通に服の話をするし、俺もその続きを聞きたい。
藤崎は足元から鞄を少し寄せ、ほかの生徒が通れるよう机との間を空けた。俺も一歩横へ移る。前は二人の机の間だけで済んだことを、今日は教室の通り道で話している。
「三原は、大学の冊子読んだ?」
「少し。土曜の夜、父さんとも見た」
「どうだった?」
「学校の説明より、何年のときに何やるか見ようって言われた。最初から外ばっか行くわけじゃなかった」
父と居間で見たとき、目立つ写真の後ろには講義や課題の説明が続いていた。知らない科目も多いので、その夜は全部分かったことにはせず、調べたいところへ付箋を増やした。
「私も写真から見ちゃう。部屋きれいだと、そこにいる自分がちょっといい感じに見える」
「まだ入ってないのにな」
「そう。机の上はきれいなまま想像する」
俺が笑うと、藤崎も笑った。彼女がこちらを見上げたままでいるので、何だろうと思う。少しして、ここだと三原、立ってる方なんだね、と言った。
前はどちらも椅子に座って話していた。今日は彼女の机へ来た俺だけが立っているので、自然と目の高さが違う。
「立たせてるみたいで変?」
「いや。俺が来たから」
「じゃあ、次は私がそっち行く」
予鈴が鳴り、俺はうなずいて自分の机へ戻った。後ろから二番目の椅子に座ると、藤崎はもう教科書を出している。数分前までと同じ背中なのに、待ってたと言われた後では、見え方が少し違った。
一時間目は、教科書の指定されたページを探すのに手間取った。指を挟んだところが前の授業のままで、黒板と本を見比べる。隣の生徒からページを教えられ、礼を言って開き直した。
特別な一日になるわけではなかった。問題が分からないところは分からないし、窓から風が入れば紙はめくれる。ただ、休み時間になって顔を上げたとき、藤崎の席の方へ目が向きやすくなった。
彼女は毎回こちらを見ているわけではない。友達と話したり、次の教室へ移る準備をしたりしている。俺も拓海に呼ばれれば前へ行く。好きだと考え始めたからといって、一日中彼女だけを見るようにはできなかった。
「三原、来週の球技大会、何出る?」
二時間目の後、拓海が配られた用紙を手に寄ってきた。夏休み前の行事として、来週木曜に行われる。種目の希望は今日の昼までで、男子はバスケットボールか卓球、女子はバレーボールか卓球から選ぶことになっていた。
「まだ考えてない。人数、足りてない方ある?」
「バスケ。俺そっち。試合に出る順番は、体育で決めるって」
俺は用紙を見た。どちらも得意とは言えないが、拓海と出られるならバスケットボールの方がやりたい。丸をつけていると、拓海が、全部の時間走るわけじゃないぞ、と笑う。
「分かってる。交代あるだろ」
「お前、すぐ足止まるからな」
「お前も外すだろ、結構」
「そこは、お互いだな」
用紙を一緒に前へ持っていき、係の生徒へ渡した。名前を確かめて種目ごとに紙を重ねてくれたので、俺も、よろしく、と声を掛けた。
窓際へ戻る途中で、藤崎が用紙の前に立っていた。俺の手が空なのを見て、もう出した、と聞く。
「うん。バスケ」
「大野くんと?」
「そう。藤崎は?」
「バレー。紗季は卓球だから分かれた」
隣にいた高瀬さんが、ボールが顔の近くに来る方は怖い、と言って笑った。藤崎も得意だから選んだわけではなく、前にやったときサーブが一度つながったので、またやってみたいのだと言う。
「一回でいいなら、何とかなりそうじゃない?」
拓海が言うと、藤崎は首を振った。
「いや、前に一回なの。今回、まだ一回もやってない」
「そっちか。じゃあ、まず一回」
皆で笑って用紙を戻す。俺は、見てたら緊張するか、と聞きかけたが、まだ何時にどの試合をするかも決まっていない。先回りして約束を取りつけるより、試合順が出てからでよかった。
昼は四人の席が離れたので、空いている机を借りてよいか近くの生徒へ確かめてから、いつものように集まった。以前と同じ場所ではなく、今回は教室の中央寄りだった。
藤崎が弁当箱を置き、高瀬さんが自分の椅子を運ぶ。俺と拓海も座り、いつもより一度多く机の間を確かめた。離れたから何かが終わるのではなく、集まるまでに少し手順が増えただけだった。
拓海は土曜に見たソフトを、今度新品と比べて買うか決めると話した。弟と同時に遊ぶ条件を確かめたが、結局、まず自分が一人で進めることになりそうだと言う。
「弟、待てるの?」
高瀬さんが聞くと、拓海は笑った。
「待てるって言ってる。でも、横から先言うなとは言っといた」
「見てる方が分かるときあるから、言いたくなるよね」
藤崎が答えた。ゲームの話なのに、思い出したのは、彼女が俺の数学の手が止まるのを待ってくれたときだった。待つのにも、分かったことをすぐ言わない工夫が要るのかもしれない。
俺がその話をすると、藤崎は、数学は間違ってる方を教えちゃうかもしれないから、と箸を止めて笑った。
「全部分かるから待ってたわけじゃないよ」
「うん。それも知ってる」
「それはそれで、もうちょっと悔しそうにして」
言い返す彼女へ、じゃあ今度英語は待ってて、と答えた。前の答案を見せ合ってから、できないところを隠すために冗談を言う必要はあまりなくなっていた。
食後、藤崎が冊子の体験へ行く日を決めたと話した。家の予定を確かめ、来週の土曜午後、作った物の並べ方を考える回へ一人で申し込んだらしい。
「お姉ちゃん、送っていこうかって言ってくれたけど、電車一本で近かったから、自分で行ってみる」
「申し込めたんだ」
「うん。分からないとこ、電話で聞いた。持ってく物も書いてあったのと同じだった」
俺は行ってみたい気持ちも少しあったが、彼女が自分で選んだ学校の体験だった。誰かと遊ぶ外出のように、いつの間にか二人の予定へ変えるものではない。
「終わったら、どうだったか聞きたい」
そう答えると、藤崎はうなずいた。
「聞いて。写真撮れたら、それも見せる。駄目なところは撮らないけど」
「うん。覚えてるやつだけでも」
「じゃあ、忘れないうちに送る」
高瀬さんも自分の見学候補を調べているので、駅からの道が簡単か気になると言った。学校名や職業を言うだけの話より、実際に入口まで行くところを考え始めたことが、少し新しかった。
放課後、俺は拓海と体育館へ向かった。球技大会に出る人が、空いた時間に短く動きを確かめてよい日だった。練習の担当の先生が来ている間だけ使い、ほかの種目の場所には入らないと説明を聞く。
体育館の端では、女子のバレーに出る人も集まっていた。藤崎はほかの女子とボールの受け方を相談している。高瀬さんはいない。今日は帰りに妹と用事があると言っていた。
俺は拓海に投げられたボールを受け、二度ついてから返した。頭では相手が動く方へと思っていても、手放したときには少し後ろへ行く。
「俺、そっち戻るつもりなかったぞ」
「分かってる。思ったより遅れた」
拓海が取りに戻り、今度はゆっくり走って見せた。同じ場所へ出すより、半歩前を狙う。二度目は取りやすいところへ届いたが、三度目は高くなった。
急に上手くはならない。それでも、誰が悪いかを言い合うより、どういう返しなら受けられるか話す方が進めやすかった。
何人かで入れ替わりながら、相手のいるところまで運ぶ練習もした。俺は前に人が立つと、ボールの方へ目が落ちやすい。空いた方を見るように言われても、その間に手から離れそうになる。
「三原、止まっていいから。無理に抜かなくていい」
同じ組の男子に言われ、一度足を止めた。正面を見てから横へ返すと、少なくとも誰もいないところへ投げずに済む。走りながら何でも決めようとするより、その方が今の俺にはできた。
拓海は受け取った先で投げたが、ボールは輪の手前へ当たり、外へ跳ねた。床を走る音が重なり、俺も端へ転がる前に拾いに行く。
「今の、入ればよかったな」
戻しながら言うと、拓海は肩で息をして笑った。
「それは、全部そう。三原、さっきの高さはよかった」
「俺は次も同じの出せるか分かんない」
「じゃあ、もう一回。今なら覚えてるだろ」
次は少し近すぎたが、受けた方が一歩下がって取ってくれた。こういう相手の動きもあるから続くのであって、俺が正確にできたところばかりではない。
失敗したときに笑えるのは、何も頑張っていないからではなかった。拓海もほかの男子も、自分ができることは続けようとしている。俺は次にボールを受ける位置を聞き、一つ前より早く顔を上げた。
少し走ってから息を整えていると、向こうで藤崎のサーブがネットに掛かった。彼女は肩を下ろした後、自分でボールを拾い、もう一度列へ戻る。
俺もボールを見ていたはずが、次に投げられたものを取り損ねた。指先へ当たって床を跳ね、拓海に、よそ見、と言われる。
「今のは、ごめん」
「見てから投げるから、こっち見て」
素直に謝って向き直った。好きになった相手が同じ体育館にいるだけで、手元が正確になるわけではない。むしろ邪魔になっているのだから、自分で気をつけるしかなかった。
練習は長くなく、片づけも全員で行った。ボールの数を確かめてかごへ戻すとき、藤崎が出口の方で俺に手を上げた。俺も最後の一つを渡してから近づく。
「見た? 一個も越えなかった」
彼女は悔しそうに言うが、もう笑ってもいた。
「最初のは見た。その後、俺、自分の方で取り損ねてた」
「そっか。じゃあ、入ったときだけ見てほしかったけど、それはまだ無理でした」
「本番は、越えるかも」
「うん。だから、もうちょっとやる」
藤崎は自分の手のひらを見て、打つときこっち向いてた気がする、と首を傾げた。俺はバレーを上手に教えられるほど知らないので、同じ組の人に聞いた方がいいかもと答える。
「だね。三原、何でもできる人じゃなくてよかった」
「そこ、喜ぶとこ?」
「だって、できなかったって言いやすい」
その返しで、言い返そうとした言葉が消えた。彼女は水筒を鞄へ入れて、こっちも見ていいか聞く。
「バスケの試合、時間重なってなかったら。応援、行きたい」
「うん。俺も、そっち行く」
「じゃあ、頑張る。まず一回、ネット越えるように」
できるところを選んで見てもらう約束ではなかった。今できないことも知っている相手に、見に来てほしいと言われた。それが嬉しくて、俺も、自分の方も練習すると答えた。
帰り道で、藤崎が俺の学校用の鞄を見た。今日は窓の袋ではないのを確かめたかったらしい。
「水筒、重かったんだよね。今度、二人のときは小さい方でもいいかも」
「うん。でも、水はちゃんと持つ」
「そこは、そう。暑くなってきたし」
彼女が笑ったので、俺も土曜の話を少しした。拓海と池の道を歩き、カメを見たこと。前に行ったときも同じように見たのに、忘れていたこと。
「思ってたより、前も楽しんでたらしくて」
「大野くんが?」
「うん。俺、勝手に退屈だったと思ってた。携帯見てたの、別の理由あったんだって」
イヤホンの細かい話まで、相手に言ってよいか聞いていないので話さなかった。自分の勘違いの方だけ伝えると、藤崎はゆっくりうなずいた。
「じゃあ、一緒にまた行けてよかったね」
「うん。今度は、普通にここ寄っていいって言えた」
「三原、それ、私にも言ってくれるもんね」
彼女は歩きながら答え、同じ道でも相手で見つけるもの違うよね、と続けた。俺が池の写真を送ったとき、花より影を見たのは彼女で、カメに先に気づいたのは拓海だった。
誰とでも楽しいところはある。それでも、次の外出を考えたとき、一緒にいる顔を先に思い浮かべるのは藤崎だった。その違いを、土曜よりは自分の中で受け止められた。
「写真、一緒に撮ろうって言ったやつさ」
駅へ向かう途中で俺から話すと、藤崎がすぐにこちらを向いた。
「うん。青と桃色でしょ」
「そう。球技大会の後の日曜、空いてる?」
「午後なら。午前は家の用事ある」
「じゃあ、午後。どっか行って、遊んでからでも」
どこへ行くかは、まだ決めていなかった。写真のために同じ橋へ戻ることも、店を何軒も回ることもできるが、彼女に行きたいところがあれば聞きたい。
そう伝えると、藤崎は少し考えてから、ほんとに何でもいい、と聞いた。
「値段によるけど。行ってみたいなら、聞きたい」
「ボウリングって、どう?」
思っていなかった行き先だった。俺が一度目を瞬くと、藤崎は慌てたように説明を足した。
「私、すごい上手いわけじゃないよ。でも、お姉ちゃんと行ったとき、楽しかったから。三原とも、やってみたいなって」
「いい。俺、最近やってないから、最初、転がんないかもしれない」
「それは転がると思う。前にさえ行けば」
二人で笑った。彼女に教えてもらう遊びがあることも、そこへ俺が行きたいと思えたことも、計画を一人で整えるより楽しかった。
その場では店や時刻までは決めず、帰ってから料金と混む時間を確かめることにした。日曜午後、昼はそれぞれ済ませてから。写真を撮るなら、遊んで汗をかいた後だけではなく、会ったときにも撮りたいと彼女が言った。
「せっかく着てくるんだから、最初に一枚」
「うん。会ったときから見てる」
答えてから、少し直接すぎたかと思った。藤崎はすぐには言い返さず、鞄の紐を持ち直した後で俺を見た。
「じゃあ、私も。三原がこっち来るとこから、ちゃんと見る」
今度は俺の方が目をそらした。彼女はそれを笑わず、日曜の天気を確かめなきゃね、と空へ目を向けた。屋内で遊ぶ予定でも、待ち合わせへ向かう道を二人とも思い浮かべていた。
その夜、藤崎から店の案内が届いた。駅の向こうから少し歩く屋内施設の上の階にあり、彼女が姉と行ったのもそこらしい。高校生は学生証を見せれば二ゲームと貸靴で一人千五百円。俺も自分で案内を開き、使える日曜の条件を確かめた。
『二ゲームで大丈夫?』
『うん。たぶん、腕疲れるからそのくらいがいい』
俺が返すと、彼女も、私も最初から三回は自信ない、と答えた。上手くないところを教室で話したばかりなので、見栄を張って多く申し込む必要もなかった。
時間を相談し、十四時から一レーン、二人分を予約できるか藤崎が店へ確かめることになった。俺の方はその間に場所を見て、広場から歩くなら二十分ほどかかりそうだと送る。写真を撮る時間もあれば、集合は十三時二十分がよさそうだった。
『時計の下、十三時二十分。昼は食べてくる』
『私も。写真、一枚で終わらなかったら言うから』
『俺も変な顔したら、もう一枚頼む』
『ちゃんと見てから保存します』
藤崎の返事を読んで笑い、俺は予定をスマホへ入れた。試合より先の日曜を約束したが、明日からは体育の時間もある。楽しい方だけ先に決めて、目の前の練習を忘れないようにしようと思った。
しばらくして、店から予約を受けてもらえた、と彼女から連絡が来た。当日は十四時より少し前に受付を済ませ、靴のサイズはその場で選ぶ。支払いは当日でよく、学生証と靴下を忘れないように、とある。
彼女は最後に、たくさん倒せたら格好つけるかもしれない、と付け加えた。
『じゃあ、ちゃんと見る』
『少ししか倒れなくても見ててよ』
画面へ向かって、うん、と声が出た。上手くいったところだけ見せる相手ではなくていいのなら、俺も今のままで彼女と遊べる。
明日の準備をしに机へ戻り、二枚の写真立ての前から問題集を取った。次にここへ置く写真には、自分も一緒に写っていたい。勉強の紙を広げた後も、その希望だけは消さずに残っていた。
ノートの間には、球技大会の予定の紙も挟まっていた。木曜の試合順はまだこれからで、誰の応援へ行けるか分からない。分からないままでも、行きたいと先に伝えられたのはよかった。
自分の名前の横へ、バスケットボールと書いた欄を見た。勝てるところだけを選べば、見てほしいと言う機会も少なくなる。俺は次の体育で聞きたいパスの出し方を一つだけメモし、当日の予定の紙と一緒にしまった。
日曜に着る青いシャツは、今日はまだ出さない。クローゼットにあるのを知っているだけで、次に会う日の準備が少し進んだ気がした。




