第21話 いちばん見せたい相手
土曜の朝、窓の模様を押したトートへ文庫本を入れようとして、俺は一度手を止めた。今日は拓海とゲームを見に行く。電車で長く座るわけでもなく、読むための本を持つ必要はなかった。
財布とハンカチを入れ、家から持っていく小さい水筒を横へ置く。袋の口が閉じないので、動いたとき何が見えるか確かめた。水筒を入れると片側へ寄るが、持ち手を握ると収まりは悪くない。
使っているところを見たいと言われたから、持つことばかり考えていた。中を埋めるために物を増やしては、せっかく小さい袋にした意味がなかった。
机には、昨日メモした写真立ての名前が残っている。透明な袋から二枚のプリントを出し、端を押さえながら大きさを測った。橋も、藤崎の写真も同じだった。対応する寸法と合うのを確かめてから、また袋へ戻す。
文具の店は今日通る道から少し外れている。拓海の買い物が先で、時間があれば寄らせてもらえばよかった。小遣いの残りを見て、二つ買える分を財布へ入れた。
部屋を出ると、母が居間の机へ封筒を置くところだった。大学から資料が届いたらしい。俺の名前を確かめて受け取り、まず封を開けた。
画面で見たものと同じ校舎の写真が、表紙に大きく載っていた。中をめくると、気になっていた授業の説明の近くに、学生が外を歩いて調べる写真もある。街へ行って何を見つけるかだけではなく、調べたものをまとめて人へ伝える課題があるらしかった。
知らない場所を歩くのが好きだから、全部面白いとは限らない。数字を比べるページを見ていると、俺はこういうのもできるだろうかと少し迷った。それでも、気になるところが増えたのだから、請求してよかったと思った。
「お父さん、夜なら見るって言ってたよ」
母に言われ、俺は帰ってから一緒に見たいと答えた。今から全部読んで外出の支度を忘れないよう、冊子は部屋の机へ戻す。取り寄せる前のメモと重ね、今度は実際に聞きたいところへ付箋を挟んだ。
出る時間を確かめにスマホを見ると、藤崎から、服を出す前の棚の写真が来ていた。まだ何も散らかっていないという報告で、『この状態、覚えとく』とある。
『途中で戻せなくなるなよ』
『お姉ちゃんにも言われた。そっちも気をつけてね』
俺は、大学の冊子来た、と一言添えた。『お。読むとこ増えたね』と返ってきて、机の紙の山を見たくなったが、今は出かける準備を先にする。
会わない土曜でも、相手が今日何をしているか少し分かる。夕方に袋の感想を送るときには、彼女の棚もきっと別の形になっているのだろうと思いながら、俺はトートを持った。
昼を家で済ませ、一時半の少し前に広場へ着くと、拓海が時計の台のそばに立っていた。俺の手元を見て、あ、と声を上げる。
「それ、実物か」
「うん。今日、使ってみる」
「木、思ったよりでかいな」
「窓から見ると、ちょっと邪魔かも」
俺が答えると、拓海は二つ目の四角を見て、でもそこ開いてるんだろ、と言った。写真の説明を藤崎から聞いたのかと思ったが、月曜、俺が教室で話したときにも横で聞いていた。
手元へ目を戻すと、作ったときの事情まで知っている人が少し増えていた。大げさに作品だと言うほどではなくても、普通に使うつもりで持ってこられるのはよかった。
「店、こっちから行く?」
俺が駅向こうの通路を指すと、拓海はうなずいた。今日は取り寄せ部品の受取りも、漫画の抜けた巻探しもない。話していたソフトの中古があれば見るというだけで、見つからなければ買わずに帰るつもりらしかった。
道の途中で、昨日教室に置いてきた物がないかという話になった。俺は机を替える前に確かめたので多分ないと答えたが、拓海は隣の男子に椅子の背へ掛けたタオルを指摘されたと言った。
「あれ、俺のじゃないと思ったんだよ」
「自分で掛けたんだろ」
「朝。放課後だと、もう別の物に見える」
そんなことあるかと笑っているうちに店へ着いた。自動ドアの前で話を切り、二人でゲームの棚へ向かう。
目当てのソフトはあったが、拓海が考えていた値段より高かった。新品よりは安いものの、今すぐ買ってよいか迷う額らしく、ケースを持ったまま裏の説明を読んでいる。
俺は横の棚で、前に弟と遊んだことのある別の作品を見つけた。家にはもうあるので買わず、続きのパッケージだけを眺める。拓海はしばらくしてケースを元の位置へ戻した。
その前に、拓海は裏の小さい画面写真を一つ指した。
「これ、二人でもできるらしいんだよ。ただ、同じ画面か分かんなくて」
「分かれてる方じゃない? そっちに書いてないかな」
二人で説明を読むと、遊ぶ人数とは別に、機器が何台いるかも書かれていた。家で弟と遊ぶなら、買ってから条件が違ったと分かるのは困る。俺も自分の家の物を確かめず、できると言い切るのはやめた。
「一人で進める方が気になってたんじゃないの」
「そうなんだけど。弟に言ったら、俺もやりたいってさ。順番に一人ずつでもいいけど、横から言われそう」
「そこ、右、とか?」
「それ。自分で見つけたいじゃん」
分かるので笑った。俺も、場所を歩いて探せる作品なら、行く前から正解の道だけ聞くより、一度違うところへ出てみたい。
先週、藤崎が店で聞いていた、青い街の箱も少し離れた棚にあった。俺は一度だけそちらを見たが、今は拓海の持っている方へ目を戻す。彼が気になるのは、街を眺めることより、途中で取れる道具の組み合わせらしい。
「こっちにすると、遠くまで届くんだけど、戻るの遅いみたい」
「じゃあ、外したら困るな」
「そう。それも自分でやってみたいんだけど、値段がな」
拓海はケースを傾けて表示を読み、息をついた。俺が好きそうだと言っても、それだけで買える額になるわけではない。迷った時間の分だけ、今日は見て終わりでもいいと思えた。
「今日はやめる。これだったら、もうちょっと考える」
「ネットで見たのより高い?」
「うん。状態違うから、同じじゃないんだけど。買ってから、あっちでもよかったなってなりそう」
残念そうではあっても、何も買わなかったことを俺に謝りはしなかった。俺も別の棚を見られたので、店を出てから、俺もちょっと寄りたい所ある、と言えた。
写真立てを見た店の話をすると、拓海は、いいよ、と簡単に答えた。
「何入れるの」
「この前、桜瀬で撮った写真。二枚」
「橋のやつ?」
「それと、藤崎の」
答えてから、二枚とも風景だとぼかすこともできたと思った。けれど印刷したのは本当だし、一緒に出かけたことを隠しているわけでもない。
拓海は一度俺を見た後、どんな立てるやつなの、と聞いた。肝心の写真をからかうのではなく形の話へ移ったので、俺も薄い透明の物だと説明できた。
「倒れない?」
「後ろに支えるとこある。机の幅、測った」
「そこまでやって買わないまま帰るの、すごいな」
「写真の方、測ってなかったから」
「ああ。そっちも要るか」
店へ入ると、昨日と同じ棚に候補があった。表示をもう一度見て、ひびや欠けがないのを確かめ、同じ物を二つ取る。一つ二百二十円で、二つで四百四十円だった。
会計を済ませ、店の袋に入った二つをトートの水筒とは反対側へ収めた。中で強くぶつからないよう位置を変える。自分の本を無理に持ってこなくてよかった。
拓海は、近くの公園まで歩いてから戻らないか、と言った。店の中にずっといたので、少し外の道も歩きたいらしい。俺もまだ帰るには早かったので、うなずいた。
公園は、去年一度、俺から拓海を誘って来た所だった。駅前から少し離れ、広い池を回る道がある。桜瀬のような高台の眺めではなく、水のすぐ近くを歩けるのが気に入っていた。
角を曲がると池へ降りる入口が見えた。拓海が、ここから入ったんだっけ、と足を緩める。
「前は反対から。今日、こっちの方が近い」
「じゃあ、一周しなくても戻れるな」
答えながら俺は、前に歩いた道を思い出していた。拓海は何度もスマホを見て、俺が水面の反射を撮っている間も、画面へ目を落としていた。退屈させてしまったと思ったのは、誘って少し経ってからだった。
今日は拓海の方から来たいと言ったのに、池が見えると昔の場面まで一緒に出てくる。俺は袋の持ち手を握り直し、あまり長く歩かずに戻る道を考えた。
池の端に花が咲いていたが、写真を撮る前に、拓海がその先の木を指した。
「ここ、もっと草あったよな」
「去年は、夏だったし」
「あ、そうか。蚊いたもんな」
拓海は足元を見ながら笑った。確かに、あのときは止まっているとすぐ刺されそうで、何度か場所を変えた。嫌だった記憶ばかりではないはずなのに、俺はスマホへ落ちる彼の視線だけをよく覚えていた。
歩道が広がったところにベンチがあり、二人で座った。拓海は近くの自販機で百五十円の缶のお茶を買い、俺は持参した水筒を出す。袋に入れた写真立てが傾かないよう、膝の横へ置いた。
「前来たとき、ここらへんで俺、ずっと携帯見てたよな」
拓海の方から言われ、ふたを開けていた手が止まった。
「うん。覚えてる」
「あれ、悪かった。耳のやつ気になってて」
「耳?」
「親父のイヤホン。片っぽ、家でなくしたと思ってた」
俺は拓海の横顔を見た。池の話から急に知らない物が出てきて、返事をするまで少しかかった。
「あの日?」
「そう。朝、返そうとしたら片方なかった。前の日借りて、自分の部屋で使ってたんだけど」
家を出る前に見つからず、父親が使うまでに戻したかったらしい。弟に机の下を見てもらっていて、連絡が来ていないか何度も確かめていたのだと言った。
「それ、言ってくれればよかったのに」
「なくしたって言いたくなかったんだよ。俺、物なくさないみたいなこと、前の日言ったから」
拓海は自分で言いながら笑い、缶を持つ手を膝へ置いた。
「見栄張るとこ、そこじゃなかった。結局、ケースの置き方変えたら机の後ろに落ちてて。弟にお前何してんのって言われた」
「見つかったんだ」
「うん。帰るちょっと前。帰りに普通に喋ってたと思うけど、そっちは覚えてない?」
聞かれて考えると、確かに、駅へ戻る途中では次に出るゲームの話をしていた。拓海がいつもどおりに話すので、早く公園を離れたかったのだと思っていた。
「俺、ここの道、退屈だったのかと思ってた」
言ってみると、拓海は少し驚いた顔をした。
「いや。池のとこ、あの、魚じゃないやつ見たじゃん」
「カメ?」
「それ。丸い石だと思って、お前、写真撮ってたら動いて」
あった。水面へ少し出た石の色が妙に濃いと思ってスマホを向けたら、頭が横へ動いた。俺が声を出し、拓海も笑って一緒にのぞいたのだった。
つまらなそうだったと思った日の中に、忘れていた笑い声が戻ってくる。全部を俺のせいにしておく方が、相手へ聞くより簡単だったのかもしれない。
「あのとき、聞けばよかったな」
「俺も、普通に言えばよかった。ごめん」
「うん。でも、今、聞けてよかった」
俺が答えると、拓海は少し照れたように缶を持ち上げた。
「今日も別に、無理に付き合ってないから。俺が来ようって言ったし」
「そこは分かってる」
「分かってるなら、いいけど」
拓海は笑ってお茶を飲んだ。俺も水筒へ口をつける。水の味が変わったわけではないが、ここから急いで駅へ戻る道を考えるのはやめた。
ベンチを立った後、俺は池の端へ少し寄っていいか聞いた。花のそばに木の葉の影が落ちていて、さっきから気になっていた。
「いいよ。俺、そこの橋の方見てくる」
「うん。撮ったら行く」
拓海は短い橋の上へ歩いていった。俺は通り道を空けた場所に立ち、花だけでなく水面を少し入れて撮る。葉の影が揺れるので一度では決まらなかったが、後ろを振り向いて相手の表情を確かめるのは一度だけにした。
拓海は手すりの向こうを見ている。スマホを出していなくても、今何を考えているかは見ただけでは分からない。分からないことを、全部つまらないの方へ入れなくてもよかった。
花を見上げる角度を変えていると、袋の持ち手が手首へ食い込んだ。俺はスマホをいったんしまい、袋を持ち替える。一つの手で何でもしようとするより、撮る間だけ置くか、一度やめるかした方がよさそうだった。
前なら、待たせる時間を短くしようとして、そのまま片手で何枚も撮っていたと思う。今日は急いでぶれた写真を増やすのをやめ、落ち着いてから一枚だけ撮り直した。
画面の隅に、細い橋の手すりが少し入った。花だけの写真より、今日歩いた場所が分かる。残す方を決めてから足を引き、後ろを通る人がいないのを確かめて橋へ向かった。
撮れた画面を見たとき、藤崎へ見せたいと思った。丸い花の色を、彼女なら何と呼ぶだろう。葉の影の方を面白がるかもしれない。
送るのは後にして、スマホをしまった。今日は拓海と来ている。橋へ近づくと、拓海が手すりから身を乗り出さず、顎で水の方を示した。
「いた。カメ」
「同じやつかは分かんないぞ」
「そこまで言ってない」
二人で見ていると、小さい頭が水へ沈んだ。撮る間もなく消えたが、拓海は去年もこんな速かったっけ、と笑っていた。写真がなくても、今度は退屈だった日の方へ覚えておかずに済みそうだった。
池の周りを少し歩いて、近い出口から駅の方へ戻った。拓海は空き缶を分別の箱へ入れ、俺も水筒を袋へ戻す。重さが片寄ったので持ち替えると、彼が、やっぱり一個で全部だと難しいな、と手元を見た。
「財布探すとき、本なかったのは助かった」
「いつも本入れてんの?」
「今日は、最初入れそうになった。読む時間ないのに」
拓海が笑ったので、俺も、袋があると入れる物考えるから、と答えた。持ち物を減らすのにも、実際一日使ってみる必要があった。
広場で別れる頃には、四時が近くなっていた。拓海は今日見た値段をもう一度家で比べ、買うかどうか決めると言った。
「付き合ってくれてありがと。写真のやつも買えたし、よかったな」
「うん。俺も、ちょっと聞きたかったこと聞けた」
「イヤホンの?」
「その前の、公園」
「ああ。次はさ、何も考えてなさそうなら、普通に聞いて」
拓海が笑う。俺は、毎回は聞かないぞ、と答え、彼も毎回なくさない、と言い返した。今度は二人で笑って、それぞれの道へ歩き出す。
家に着いてトートから中身を出すと、水筒のふたに触れたところが少し冷たくなっていた。濡れてはいないが、次は入れ方を変えてもよさそうだった。使った感想を忘れないうちに、写真と一緒に藤崎へ送る。
ハンカチを洗濯へ出し、水筒は台所へ持っていった。窓の袋は空にして、持ち手を部屋のフックへ掛ける。昨日まで飾ってあるだけに近かった布に、今日は底のふくらんだ跡がついていた。
早速使ったんだ、と母が部屋の前から声を掛けたので、ちょうど買った物も入ったと答えた。夜に資料を見る約束も確かめ、冊子は食後に居間へ持っていくことにする。遊びに行った日にも、帰ってからすることは残っていたが、今日はそのどちらも先延ばしにしたくなかった。
『一日使ってみた。水筒入るけど、片側重くなる』
送ってから、写真立ての包みを開けた。二枚の写真を別々に入れ、机の端へ並べる。光を反射しすぎない角度を探して支えを少し動かすと、座った位置から橋と藤崎の顔が見えた。
写真を撮ろうとして、背後に自分の名前を書いた紙があるのに気づいた。紙を片づけ、部屋の余計な物が入らないよう近くから写す。それを送ると、今度はすぐ返事が来た。
『決まったんだ。二つだったんだね』
『うん。一枚ずつの方が置きやすかった』
『私のも、ちゃんと見える』
藤崎の言葉を見て、机の実物へ目をやる。こっちを向く彼女は、その日と同じ顔でそこにいた。返事の続きには、今日服を片づけた写真がついている。
床に広げた服の脇から、桃色のブラウスを着た彼女の上半身が写っていた。下に着る物を探して、片づけの途中で試したらしい。顔はスマホに少し隠れていたが、鏡に向けた目の端が笑っていた。
『お姉ちゃんに、着てる場合じゃないって言われた』
『片づけ終わった?』
『今は終わった。その途中の写真』
俺は笑ってから、もう一度写真を見た。机の上にも、画面の中にも藤崎がいる。今日、池の花を撮ったときにも、真っ先に彼女のことを考えた。
楽しいことがあったら話したい相手は、拓海や家族にもいる。ただ、藤崎には何を見せたいかに加えて、見せたときの顔まで気になった。今も写真の服を褒める言葉を考えながら、次はそれを着た彼女と会いたいと思っている。
その気持ちを友達という言葉だけに収めようとすると、どこかが余った。
俺はスマホを一度机へ置いた。好きなのか、と自分に聞いてみても、顔が熱くなるだけで、すぐ否定する理由は見つからなかった。
気づいたからといって、今すぐ何でも言えるわけではない。けれど返事を出さないままにしたくはなくて、画面を持ち直した。
『その服、また着てきてほしい。今度、一緒に写真撮ろう』
送信してから、余計な説明を足しそうになり、やめた。着ているところを見たいのも、一緒に写りたいのも、どちらも本当だった。
少しして、『うん。三原も、青いの着てきてね』と返ってくる。続けて手を振る猫が届き、俺も同じように鳥を返した。
その後で池の花の写真を送った。藤崎は『影、花よりでっかい』と返したので、俺は部屋で一人、声を出して笑った。彼女がどこを見るかを、やっぱり聞いてよかった。
月曜の朝は、自分から彼女の席へ行く。もう決めてあることなのに、机の上でこちらを向く写真を見ると、声を掛ける最初の一言まで少し気になるようになっていた。




