第20話 用事は、話したかったから
木曜の昼、藤崎が弁当の包みを片づけてから、進路の冊子を開いた。端に貼ってある付箋は、俺が前に見たときより二枚ほど増えている。
「ここの体験、ちょっと気になってる」
向かいの高瀬さんへ見せたページには、小さい布小物と、机に並べた材料の写真があった。作る回だけでなく、作ったものをどう見せるか考える回もあるらしい。
「まだ、申し込んでないけど。日にち、どっちか一つにした方がちゃんと見られそう」
「同じ日じゃないんだ」
高瀬さんが確かめると、藤崎はうなずいた。二日とも行けば分かることは増えるが、同じ週末には家の予定もある。全部空けてしまってから困るより、先に確かめたいと言う。
俺はページの端を指していいか聞き、短く書かれた説明を読んだ。
「こっちは、店みたいに並べるんだな」
「そう。写真の撮り方だけじゃなくて、置く場所も変えるみたい。紗季だったら、どっち先に見る?」
「私は作る方かな。でも、莉緒は土曜ちょっと作ってきたんでしょ。次、違う方見てもいいんじゃない?」
高瀬さんはページを返し、自分なら、見本と同じにできるかより道具を使えるかが心配だと話した。拓海が、俺は針に糸通す段階で時間取られる、と横から言う。
「それ、私も暗いと見えない」
藤崎が同意し、布用スタンプだったので糸は使わなかったと説明した。何でもできるから進むのではなく、どの作業が好きかも、これから確かめるのだろう。
俺は聞いていた途中で、土曜のトートが乾く場所へ置かれていた様子を思い出した。作った人は違っても、一列に並べると、黄色い丸がどこにあるかを探していた。
「藤崎の、全部並んだときも、すぐ分かった」
「袋?」
「うん。丸、下の角にあったから。ほかの人と色が一緒でも、場所が違った」
「そっか。私、自分のしか見てなかった。まだ触れないかなって」
彼女は笑って、自分の付箋へ短く書いた。何を書いたのかをのぞくのはやめて、俺は冊子から手を引く。
「今の、こっち見たいと思った理由になった。並べたらどう見えるか、私も見てみたい」
俺が選んでやったわけではなかった。話していた途中の小さい感想を、彼女が自分で拾っていた。それが嬉しくて、俺も、行けたらどんなだったか聞きたい、と答えた。
実際の申込みは、家の予定と案内の日をもう一度確かめてからにする。高瀬さんも自分の気になる学校を別に見ているので、同じ所へ一緒に行くとは決めなかった。
午後の授業が始まる前、藤崎は冊子を鞄へしまい、机の上へ英語のノートを出した。俺の方へ目を向けて、さっきの話ありがと、と小さく言う。
「俺、並んでたって話しただけだけど」
「うん。それ、私見てなかったから」
席が近いと、こういう言葉まで思いついたところで返せる。俺は自分の教科書を開き、隣の机との間に出ていた肘を少し引っ込めた。
金曜の最後の時間、担任が黒板へ座席の枠を書き終えると、教室の前へ小さい箱を置いた。
中には折った紙が入っている。前後の席で見え方に事情のある人を先に確認してから、残りの場所をくじで決めるという説明を聞いた。窓際へ行きたい気持ちは変わらないが、隣の席まで一緒に選ぶことはできなかった。
「三原、番号見たら教えて」
藤崎が小声で言った。俺もそっちのを教えてと答え、椅子を机の下へ入れて順番を待つ。前に立った拓海は、箱を振っても中身変わらないですよね、と聞いて担任に変わらないなと返されていた。
俺の引いた紙には、後ろから二番目の窓際に当たる番号が書いてあった。黒板の図と二度見比べる。希望どおりではあったが、元の席からは随分離れる。
隣から藤崎が紙を見せてきた。彼女は教室の中央寄りで、俺より二列右、一つ前だった。
「あ、遠い」
先に言ったのは彼女だった。声が思ったより普通だったので、俺も図を指で確かめながら答えた。
「振り向けば見えるくらい」
「うん。でも、さっきみたいには話せないね」
彼女は紙を畳み直して、机の中の教科書を鞄へ詰めた。手前に出したペンギンのペンは、いったん筆箱の横へ置く。それも見慣れた片づけ方だった。
全員の場所が決まってから、荷物を移す列を順番に呼ばれた。先に移動する人を待ち、俺は椅子と鞄を後ろへ持っていく。新しい机へ荷物を置き、今度は自分の元の場所へ残っていた物を確かめに戻った。
机そのものは入れ替えず、それぞれ中の物と椅子を移すだけなのに、教室の中では何度も人をよけた。前を通ろうとした人へ先を譲り、床へ置いた鞄を踏まれない位置へ寄せる。新しい場所で自分の椅子を入れてみると、窓の下の出っ張りへ背が当たらないか気になった。
少しだけ机から離し、座るときの幅を確かめる。前の机の人にも、後ろへ椅子を引くとき当たりそうなら言って、と声を掛けた。相手が、こっちも気をつける、と答えてくれたので、鞄を机の横へ掛け直す。
藤崎との机の間では、足を引くタイミングまで何となく分かるようになっていた。新しい場所では、そういうことからまた覚える。嫌なわけではないが、変わったのは黒板までの距離だけではないのだと、椅子へ座る前に気づいた。
藤崎が机の脚の周りをのぞき込んでいたので、何か落としたかと聞いた。
「ううん。今日はない。念のため」
「ペンなら、上にある」
「知ってる。そこは見えてます」
彼女は顔を上げて笑った。二人で机の下を最後に見てから、それぞれ違う方へ歩く。持ち主の変わった隣の席では、別の生徒がもう椅子の高さを確かめていた。
新しい場所は、前より窓の外がよく見えた。校庭の端の木と、その向こうに続く低い建物の屋根がある。教科書を机へ出して座ると、拓海が前の方から片手を上げた。
拓海は真ん中の列の前寄り、高瀬さんは廊下側の前から二番目だった。本人たちの希望と全く同じではないが、黒板は見やすそうだった。
藤崎の方へ目を移すと、彼女は新しく隣になった女子と話している。机の間へ鞄がはみ出していたらしく、置き方を相談して笑っていた。ここからでも、髪を耳へ掛ける手つきは分かる。
担任が連絡を再開したので、俺も黒板へ向き直った。提出物の締切を手帳ではなく自分のメモへ書く。隣からページをめくる音は聞こえたが、藤崎のものではなかった。
後ろの窓から入る風で、紙の端が少し浮く。ペンを置いて押さえたとき、視界の先で藤崎がこちらを振り向いた。彼女は黒板の方を一度確かめ、片手を小さく上げる。
俺もうなずき、それからすぐに前を向いた。授業中に呼び合う距離ではない。けれど、こちらを探して振り向いたのだと分かるだけで、つい口元が緩みそうになった。
ホームルームが終わると、教室はいつもより広く動いた。机の場所にまだ慣れず、まっすぐ来ようとして別の列へ入る人もいる。俺は鞄を肩へ掛け、藤崎へ何と声を掛けるか考えた。
立ったところで拓海がこちらへ来た。
「三原、明日って午後空いてる?」
「うん。今のところ」
「駅向こう行きたいんだけど。ゲームの中古の方、見たい」
拓海は木曜の昼に話していたソフトを探すつもりらしい。俺も見たかった棚があるので、その場で行くと答えた。
「何時?」
「一時半くらい。昼、家で食ってから」
「じゃあ、時計の下で」
いつもの広場で合意して、拓海は別の男子に借りたプリントを返しに行った。俺がその後ろを見ていると、横から藤崎の声がした。
「三原、帰る前に、ちょっといい?」
彼女は自分の鞄を持って立っていた。こちらへ来るのを見逃したらしく、さっきまでいた机の方へ一度目をやってしまう。
「うん。何?」
「それ、ここで聞かれると、用事なきゃ駄目みたいじゃん」
藤崎が笑ったので、水曜に話したことを思い出した。課題がなくても来る、という約束を、自分の最初の一言で難しくしていた。
「違う。何話すの、の方」
「うん、分かってる。ちょっと言ってみた」
そう言う彼女の鞄から、黄色い丸が少し見えていた。俺がそこへ目を落とすと、藤崎は中からトートを出した。
「今日、持ってきた。紗季にも実物見せたくて」
「教科書入れた?」
「無理。そっちはこっち」
彼女は元の学校用の鞄を示し、トートにはハンカチや小物だけ入れていると言った。大きい方へ畳んで入れてきて、昼休みに出していたらしい。
「持ってるとこ、見てほしかった」
短く言われ、俺は彼女の手元を見た。生成りの布が指のところで少し折れて、下の黄色い模様がこちらへ向いている。
「その服だと、黄色、目立つな」
「制服でも変じゃない?」
「うん。変じゃない。持ち手、短くてよかったかも」
「肩に掛けようとしなくて済むから?」
「それもあるけど。模様、下に見える」
俺の答えに、藤崎は少しだけ袋を持ち上げた。自分でも向きを確かめ、それから、よかった、と笑う。
「作ってたときと、ちょっと違うね」
「ちゃんと使う物になった」
「そう。だから、次は三原のも見たい」
まだ自分の部屋でしか使っていない俺は、次に持ってくると答えかけた。けれど学校へ見せるためだけに、わざわざ荷物を増やす必要もなかった。
「明日、拓海と出かけるから、それで使ってみる」
「あ、明日、二人で?」
「うん。一時半から駅の向こう」
「じゃあ、帰ってから、どんな感じだったか教えて」
藤崎はそう言って、袋を学校の鞄へ戻した。明日一緒に来るとは言わず、自分は姉と服を整理する予定だと話す。薄手の物が増え、置く場所を変えたいらしい。
教室を出ると、高瀬さんが廊下の窓のそばで待っていた。藤崎と一緒に帰る約束があったのだと分かり、俺は話を引き延ばしていなかったか気になった。
「高瀬さん、ごめん、待たせた?」
「私も今出たとこ。先生に提出のこと聞いてた」
高瀬さんは鞄を持ち替え、二人の新しい席、思ったより後ろだったね、と言った。藤崎が、三原のとこ行くのに一回列間違えた、と白状する。
「普通に来てたように見えたけど」
「その前に一回。隣の列から入れなくて戻った」
「俺も、元の席の方行きそうになった」
笑いながら階段を下りた。高瀬さんは、来週までには覚えるでしょ、と言い、自分は授業のたびに先生の目の前なので姿勢だけは直そうと思うと続けた。
昇降口で拓海も合流したが、駅へ向かう途中で別の道へ入った。家で頼まれた買い物があるという。明日の集合だけもう一度確かめ、三人で駅の方へ進む。
「三原くんは、今日、図書室行かなくてよかった?」
高瀬さんに聞かれ、俺はうなずいた。大学の資料を請求したと昼に話したので、その続きを調べると思ったらしい。
「まだ届いてないから。先に家で読んでみる」
「私も資料届いた。思ったより厚くて、最初、どこ見ればいいか分かんなかった」
何を学ぶところか先に見るつもりが、部屋の写真に目が止まったのだという。食事できる場所や、雨の日に外を歩かず移動できるかも気になったらしい。
「そういうのも、毎日なら大事だね」
藤崎が言った。俺も、父に通う方の時間を考えろと言われた、と話した。高校から大学へ行く話なのに、今の帰り道の距離が急に基準になる。
高瀬さんは、妹はパンフレットの食堂の写真しか見てなかった、と付け加えた。
「学校で食べるの、これ全部選べるのって」
「そこは私も見るかも。お昼、毎日だし」
藤崎が真剣な顔で答え、俺は笑った。
「カレーあるとこ、先に見つけそう」
「見る。でも、それだけで学校決めないよ」
「それは、分かってる」
彼女はこちらへ軽く肘を寄せる仕草をしたが、鞄が間にあって届かなかった。自分で鞄を見て笑うので、俺も、今のは何、と聞き、ちょっと言いすぎの合図、と答えられた。
高瀬さんは先に渡る道があるので信号のところで別れた。藤崎も手を振り、俺たちは青になるまで並んで待つ。昼より日差しが傾いていても、舗道にはまだ熱が残っていた。
「三原、今日は急ぐ?」
藤崎が聞いた。俺が、特には、と答えると、駅前の店を少し見てもいいかと言う。新しい服を買うのではなく、家の服を入れるための袋や仕切りを確かめたいらしい。
「明日片づけてから買うから、今日は見るだけなんだけど」
「うん。俺もちょっと見たい物ある」
写真を入れる物のことだと伝えると、藤崎は、置く場所測ったんだよね、と覚えていた。スマホのメモを開き、書いていた幅を見せる。彼女はそこだけを見てから、薄いのならありそう、と言った。
店へ入ると、藤崎はまず収納の棚へ向かった。俺は勝手に先の写真の棚へ行かず、服をどのくらい入れるつもりか聞いた。彼女は畳んだときの厚みを手で示したが、実際家のものを全部重ねたわけではないので途中で笑う。
「今の、あんまり当てになんない。やっぱり今日は見て終わり」
「高さ、変えられるやつもあるな」
「うん。でも、余ったとこにまた服詰めそうだから、それも困る」
試すように棚の展示品へ触れ、表示の寸法を自分のメモへ書く。値札を剥がしたり写真を勝手に撮ったりせず、必要な数字だけ確かめていた。
少し先の棚に、薄い透明の写真立てがあった。二枚を並べられるものではなかったが、一枚ずつなら机の端に置けそうだった。俺は一つ手に取り、底の幅をメモと見比べた。
「それ、写真、見える方広いね」
藤崎が横へ来た。俺は、今の袋から出すならどうだろう、と首を傾げる。
「袋のままだと、端、ちょっと余るかも。でも、中へ入ったら、その透明なのが守るんじゃない?」
「そっか。袋と二重にしなくてもいいのか」
家でずっと考えていたのは、今のままの二枚をどこへ置くかだった。端が折れない入れ物へ移すなら、同じ袋に入れておく必要はない。
表示の対応する大きさを確かめ、自分のプリントの縦横も後で確かめたいと思った。今日、紙の写真は持ってきていない。似た大きさだからと買わず、品物の名前と値段だけ記録する。
「三原、ほんとに今日は見る方なんだね」
「合わなかったら困るし」
「うん。分かる。私も今日買って、明日お姉ちゃんに、入らないよって言われそうだった」
二人で何も持たずに棚を離れた。来る前より分かったことがあるので、買わなかったから損した気はしなかった。
通路へ戻ると、藤崎が俺のメモの続きを聞いた。
「写真の大きさ測ったら、合いそう?」
「たぶん。家で袋から出して見てみる」
「端、持ってね。指のとこ残っちゃうから」
「そこは覚えてる」
印刷した日に二人で紙の端を持ったことを思い出した。藤崎は、なら安心、と答え、俺が品物を戻した場所を一度見た。
彼女の写真を入れる物だとは、棚の前では改めて言わなかった。それでも、どの二枚をどこへ置くつもりかは伝わっている。机の幅を覚えていてくれたことも含めて、家の中の小さい話がこちらだけのものではなくなっていた。
店の出口に、丸い鏡を使った小物の台があった。通り抜けるとき、藤崎が俺を呼び止めた。
「三原、襟、片方折れてる」
言われて手をやったが、どちらか分からなかった。俺が前の方だけ触ると、彼女は自分の首の横を指す。
「後ろから、そこ。右」
「こっち?」
「逆。……直していい?」
うなずくと、藤崎が一歩近づいた。俺は鞄の紐を肩の外側へずらし、少しだけ顎を引く。彼女の指が襟の端をつまんで、くるりと戻した。
首に直接触れたわけではなかった。それでも、横からこちらを見ていた顔が急に近くなり、息を止めたのを悟られないようにした。
「はい。たぶん、鞄で上がってた」
「ありがとう」
「もう平気。鏡、あるよ」
言われて丸い鏡を見ると、俺の肩の隣に彼女が写っていた。藤崎はもう一歩離れているのに、近かったときの声が耳のそばに残る。
「三原、暑い?」
「いや。大丈夫」
「首、押さえたままだよ」
まだ襟に手を当てていた。慌てて下ろすと、彼女は笑って店の外を指した。
「じゃあ、帰ろ。明日、暑かったら袋より水も忘れないでね」
「そっちも、服、出しすぎて寝るとこなくすなよ」
「それ、ありそうだから、言い返せない」
いつもの冗談へ戻れたので、俺も歩き出した。横顔をもう一度見たいが、今見たら理由を聞かれそうで、先に歩道の方へ目を向ける。
帰り道の分かれ目で、藤崎が足を止めた。トートは学校の鞄へ戻っていて、肩に掛けたのは一つだけだった。
「ねえ、今日、席変わってから思ったんだけど」
「うん」
「三原のとこ行くの、ちょっと緊張した」
あんなに普通に話していたのに、と思って顔を見る。彼女は道の端へ寄り、通る人の邪魔にならないよう鞄を持ち替えた。
「水曜、来ていいって聞いたの、私なのにね。用事、どこから話そうかなって」
「俺も、声掛けようとしてた」
「そうなの?」
「うん。でも、拓海が来たから、明日のこと話してた」
藤崎は分かったという顔でうなずいた。途中で会話へ入ってこなかったのは、話が終わるのを待っていたからかもしれない。
「待たせた?」
「そんなに。ちゃんと終わってから行った」
彼女は笑い、続けた。
「今日の、持ってるとこ見てほしかったの、本当だからね。何か作って会いに行ったわけじゃなくて」
「うん。俺も、見られてよかった」
答えると、彼女は鞄の中の袋を確かめるように、持ち手のあたりへ指を添えた。俺は今度こそ、自分から言いたかったことを続けた。
「月曜、俺から行く。まだ何話すか、決めてないけど」
「じゃあ、私も決めとかなきゃ駄目?」
「いや。話したかったら、で」
「うん。じゃあ、それで」
藤崎はその場で片手を上げた。俺も手を振って歩き出し、曲がる前に振り返る。彼女は少し先でこちらを見つけ、また笑った。
教室の端から中央までは、何歩もかからない。それなのに月曜の朝が、くじを引く前より待ち遠しくなっていた。




