第19話 隣の席が変わるまで
家へ着くと、弟が廊下の先から俺の紙袋を見た。
「それ、何買ったの」
「買ったっていうか、作った」
靴を脱いで答えると、弟は袋の口から中をのぞこうとした。まだ仕上げがあると伝えて居間の机へ移り、説明の紙を先に出す。母に置いていい場所を聞いてから広げると、弟は椅子の背に両手を掛けた。
「窓?」
「そう。三つある」
「一個曲がってる」
「そこ、開いてるんだよ」
俺が答えると、弟は一度こちらを見てから、もう一度布を見た。
「ああ、そういうやつ」
納得されると思っていなかったので、少し笑った。藤崎が言ったときには直せないところを助けてもらった気がしたのに、説明してみれば、本当にそういう模様に見えてくる。
説明どおりに乾かす場所を確保し、今日することと、待ってからすることを確かめた。すぐに物を入れて持ち歩くのはやめておく。窓のそばで模様の面を撮り、机の余計な物が写らない一枚を藤崎へ送った。
『無事に持って帰れた。開いてる方も、そのまま』
届いた返事には、彼女の袋の写真がついていた。黄色い丸の横に葉があり、余白へ影が少し落ちている。教室で隣から見ていたときより、丸が大きく感じた。
『こっちも帰りました。今日はちゃんと丸です』
『レモンの方も取っといて』
『そこ気に入ってるじゃん』
笑いながら、試し布も説明の紙と一緒に残した。作っていたときの俺たちの声までは写真に入らないが、彼女の返事を見ると、隣の机まで思い出せた。
その日の夜は、ずっとスマホを見ていたわけではなかった。夕食の後に家の片づけを手伝い、戻ってから大学の案内を調べた。試験前に書いた二つの授業名を見ながら探すと、似た言葉でも、読む資料や調べる場所は違うらしい。
一校の資料請求画面を開き、母に住所の入力を確かめてもらった。送信した後、母は机の端にあったメモを見た。
「見に行く日も調べるんだった?」
「うん。でも、まだ日程までは見てない。届いたの読んでからにする」
「それなら、封筒来たらそっちに渡すね」
母はそう言って居間へ戻った。これで進路が決まったわけではないが、学校の棚で読んだものを、家でも自分から取り寄せた。メモの『資料』の横へ、請求済みと書き足した。
日曜は家で過ごし、袋も必要な手順を終えてから、部屋の空いた場所へ掛けた。文庫本を一冊入れてみると、底が少しふくらむ。持つと模様の見え方も変わるので、藤崎が何度も持ち上げていた理由が分かった。
昼過ぎ、映画から戻った弟が『星の郵便局』の話をしに来た。友達と見たらしく、玄関から聞こえる声がまだ弾んでいた。
「面白かった。あの、看板食べるやつ」
「予告にいたやつ?」
「そう。ちゃんと理由あった」
「そこから先、まだ言わないで」
俺が止めると、弟は笑って、じゃあ見てから話す、と言った。話したいことが残っているのに、こちらが見るまで取っておけるのが少しうらやましい。俺も予告しか知らない動物の出番を、前より気にするようになった。
夕方、藤崎から、手帳と財布を入れた袋の写真が届いた。表紙の黄色が口のところに少しだけ見え、余計な物を詰めてはいなかった。
『入った。あとハンカチも』
『こっちは本入れた。重すぎるのは無理そう』
『おやつの場所、残しといてね』
行き先も日も決めていないのに、おやつだけはもう入るつもりらしい。俺は『薄い本にする』と送り、彼女から笑う猫が返ってきた。
袋を持って出かけるのは、もう少し先でいい。翌日は学校だから、いつもの鞄へ教科書を入れた。試験が終わったからといって、週末の宿題までなくなったわけではなかった。
数学のノートを探して本を寄せた拍子に、机の写真の袋が少し動いた。角が落ちそうになって慌てて押さえ、二枚とも手元へ戻す。橋の写真の後ろから、藤崎の顔が見えた。
彼女の方は、手帳と一緒に出かける準備までできている。俺はまだ机の上だが、見ないようにしまいたいわけではなかった。問題集を広げたときにも、端へ追いやらずに済む置き方を考えたい。
今ある物で立てかけようとして、滑りそうなのでやめた。写真は平らな場所へ戻し、その手前の紙を整理する。何を買えばいいかはまだ分からないが、置きたい場所の幅なら、先に測っておける。
定規を当てた数字をスマホへ残してから、宿題のページを開いた。写真を置く場所のメモが、店の営業時間の下へ増えていた。
月曜の朝、教室へ入ると、拓海が机に両肘をついていた。
「今日、何が返ってくると思う」
「時間割どおりなら、数学」
「分かってるんだけど、朝から確認したくなかった」
聞いたのはそっちだろ、と返しながら鞄を下ろす。藤崎はもう来ていて、高瀬さんとスマホの画面を見ていた。俺に気づくと、彼女は少し体の向きを変えた。
「おはよう。紗季にも袋見せてた」
「おはよう。窓がある方?」
高瀬さんが尋ねたので、俺はうなずいた。藤崎が自分の分と一緒に見せてよいか、昨日のメッセージで聞いてくれていた。
「葉っぱの大きさ、二人の並ぶと全然違うんだね」
「俺の方、木にしたら大きくなった」
「木はそれくらいあっていいんじゃない。莉緒のは、小さい枝みたいだし」
高瀬さんは画面を返して、妹ならどの色を選ぶだろうと言った。今度あれば妹と行くのも楽しそうだが、自分の分まで勝手に押されそうだとも言う。
「一人一枚なら、最初に分ければ?」
藤崎が提案すると、高瀬さんは笑った。
「分けた後で、こっちも押すって来る気がする」
「じゃあ、来てから交渉だね」
話しているうちに朝の予鈴が鳴った。高瀬さんが自分の席へ戻り、藤崎もスマホをしまう。隣で教科書を出す音を聞きながら、俺は数学の答案を入れるファイルを鞄から取り出した。
返ってきた数学は七十二点だった。最後の問題は、途中まで書いたところに小さい部分点がついている。答えまで届かなかったのは分かっていたが、式の途中にも間違いがあり、時間だけのせいにはできなかった。
隣から紙をめくる音がして、藤崎が一つの丸を指で押さえた。点数をのぞかないよう自分の解き直しへ目を戻していると、授業の後で彼女の方から答案を見せてきた。
「五十八。前よりは、できた」
「ここのやつ、合ってたんだ」
「うん。括弧、つけた。家でやり直したのと数字違ったけど、先に書いたら忘れなかった」
彼女が指したのは、自分で間違いを直していた種類の問題だった。その下には赤い線も残っていて、苦手なところが全部なくなったわけではない。
「そこ、俺、計算落とした」
俺も紙を寄せて見せると、藤崎は数字を見比べた。
「ほんとだ。三原、最後まで行ってるのに」
「途中で一個変わってた」
「これ、もらっていい丸だったのにね」
言い方が少しおかしくて、俺は笑った。もう終わった試験の点は変わらないが、次に似た式を見たら、ここの符号は確かめると思う。
二時間目に返った英語では、立場が反対になった。俺は六十四点で、藤崎は七十八点。前後を読んだつもりで、最後まで読んでいなかった設問がある。
「三原、こっちの言葉だけ見て選んだ?」
彼女に聞かれ、俺はうなずいた。
「そう。それなら合うと思った」
「後ろで話変わってる。ここ、でも、って」
「ほんとだ。俺、同じ話続いてると思ってた」
藤崎は答えだけでなく、本文の行へ指を移した。自分の紙で読み直す時間を待ってくれるので、分かったふりをする必要がない。
「ありがとう。ここ、家でもう一回読む」
「うん。私も数学残ってるし」
彼女は答案をしまいかけて、ふと手を止めた。
「電話でやったとこは、解けた?」
「解けた。そっちは?」
「私も。そこは、ちゃんと自分で分かった」
点数を見せ合ったときより、その返事の方が嬉しかった。俺たちは小さく笑って、それぞれのファイルへ紙を入れた。
昼食のとき、拓海は国語の返却は明日だと繰り返した後、週末に弟とゲームをした話へ切り替えた。高瀬さんも妹と遊ぶ候補を家で見たらしく、操作が難しすぎるものは避けたいと言う。
藤崎は弁当のふたを閉めながら、二人の話を聞いていた。俺が残していたおかずを食べ終えると、担任が教室へ戻り、黒板の端へ小さく金曜の予定を書いた。
「あ、席替え」
高瀬さんが先に気づいた。担任は、金曜のホームルームで行うから、そのつもりでいてくれ、と言って職員室へ戻る。
「もうそんな経った?」
拓海が振り返ったので、俺は教室を見回した。二年になってからの席にも、いつの間にか慣れていた。前へ手を伸ばせば拓海の椅子の背があり、横を向けば藤崎の机がある。
「次も前の方だったら、黒板見やすいな」
高瀬さんが言った。拓海は後ろすぎると板書が隠れることがあるから真ん中がいいらしい。二人の希望を聞いていると、藤崎が俺を見た。
「三原は、どの辺がいい?」
「窓の近くかな。端だと、出るとき楽だし」
「へえ。私、端だと物落としたとき転がってくから、ちょっと困る」
「どこでも落としてるだろ」
「今日はまだ落としてません」
彼女が笑ったので、俺もつられて笑った。隣の椅子が誰のものになるかは、くじを引くまで分からない。窓際がいいというのは本当だったが、それだけを考えて答えたわけでもなかった。
午後の授業で、俺の机へ消しゴムの細いかすが一つ飛んできた。藤崎は気づいて、声を出さずに手を伸ばす。俺が紙の端で集めると、彼女は口の形だけで、ごめん、と言った。
金曜からは、こういう小さいやり取りもなくなるかもしれない。板書へ目を戻したつもりで、しばらく同じ行を見ていた。
最後の体育は体育館で、拓海とバドミントンのラリーを続けた。強く打ち返すとすぐ外へ飛んでいくので、まず相手が打ちやすい高さへ返す。俺が天井近くを見上げる球を上げると、拓海は一歩下がり、肩を回した。
「高い高い。それ、帰ってくるまで長い」
「今のは、そうするつもりじゃなかった」
次は少し低く返そうとして、ネットに掛けた。拓海が笑いながら羽根を拾い、柄の方を俺へ向けずに投げて渡す。隣の区画からも靴の音と声が聞こえ、誰も俺たちの失敗だけを見ているわけではなかった。
交代の時間になり、俺は壁際へラケットを置いた。水を飲んでからタオルを取ろうとすると、少し離れたところで藤崎が高瀬さんと向かい合っていた。最初の一球は続いたが、次の球が二人の間で落ちる。藤崎は床の羽根を見て笑い、高瀬さんも片手を上げて何か言った。
何を話したかまでは聞こえない。それでも、彼女が次の球を拾うとき、まとめた髪の先が肩へ掛かるのを、しばらく見ていた。
「三原、タオル、下」
拓海に言われて手元を見ると、自分のタオルをベンチから落としていた。幸い靴のない方だったので、すぐに拾う。
「今、何探してたんだよ」
「タオル」
「見てる方向、全然違ったけど」
言い返せず水のふたを閉めると、拓海は笑って自分の区画へ戻った。俺も次の交代に備えて立ったが、今度は目の前の羽根をきちんと見ているつもりでも、少し遠いところへ打ち返してしまった。
着替えて教室へ戻った後、藤崎が机の横から声を掛けた。
「三原、結構遠くまで飛ばしてたね」
「あれ、狙ってない」
「知ってる。大野くん、すごい追ってたから」
彼女は笑って、首元に掛けていたタオルを鞄へしまった。
「藤崎の方も、一回、真ん中落ちてたな」
「あれは、お互い取れるって思ってたやつ。紗季と、今度は呼ぶって決めた」
相手が自分の方も見ていたと分かって、俺はロッカーの鍵をしまう手を止めた。こちらだけが遠くを見ていたのではなかったらしい。
「次、呼んだら二人とも行くかも」
「それ困る。じゃあ、名前まで言う」
彼女が軽く笑い、俺も、そこまでなら分かりそう、と答えた。教室の窓が開いていて、熱くなった腕へ風が当たる。席へ戻る前の短い会話だったが、体育の点数より長く覚えていそうだった。
火曜の放課後は、拓海と駅まで帰った。藤崎は高瀬さんと先に教室を出ている。別々の用事がある日は、今までも何度もあった。
拓海は返ってきた国語の点に一度だけ文句を言い、次にどこで漫画の続きを買うかを考えていた。俺が、そっちはもう次が出てるのか、と聞くと、前の巻を読んでから決めたいのだと答えた。
「買ってから違ったってなるより、まあ、ゆっくりでいいかなって」
「八巻待ったあとだと、ゆっくり強いな」
「あれは待たされた方。今回は自分で待ってる」
言い返されて笑った。駅の入口で別れ、俺は文具の棚を見に店へ寄った。写真を入れる物もあったが、厚いアルバムを一冊買うか迷い、今日は見ただけで帰る。
家で大学からの受付メールを確認していると、藤崎から、紗季と雑貨を見てきた、と連絡があった。買った物の写真ではなく、店で見た配色が面白かったという話だった。
『袋、自分で押したら、模様の間が気になった』
『俺も看板の四角見ると窓に見える』
『前からじゃない?』
図星だったので、『前より』とだけ返す。少しして彼女から、手帳の袋は立てて入れた方が出しやすい、と続いた。自分で試したことを、学校の外でも教えてくれる。
俺も写真を入れる物を見たが決まらなかった、と送った。彼女は急がなくていいと答えた後、『でも、決まったら見たいのはまだ同じ』と付け加えた。
夕食の後、父が俺の請求した大学の場所を聞いた。スマホの地図を見せると、父は自分の通勤経路とは途中まで同じだと言ったが、そこから先の乗り換えには詳しくなかった。
「いつも使う駅からなら、こっちに出るのかな」
「一本だと遠回りみたい。途中で変えると、少し早い」
候補の経路を見比べてみる。店や公園へ行く日なら、多少遠回りでも別の道を歩けばいい。しかし毎朝通うことを想像すると、乗り換え一回の差も気になった。
「まだ、ここ受けるって決めたわけじゃないけど」
「分かってるよ。行くなら、帰りも考えとくといいってだけ」
父は画面を返し、冷めかけたお茶を飲んだ。入試方式も学費もまだきちんと比べていないので、今夜だけで学校を一つに絞れるはずはなかった。
部屋へ戻り、メモの下へ『毎日通うなら』と書いた。好きな街へ一度行くことと、そこを生活の一部にすることは少し違う。試験で間違えた問題も、写真を入れる物も、決めたいことが一度に増えると、何から触ればいいか迷う。
俺は先に英語の紙を開いた。これは明日の朝、読み直せたか自分で確かめられる。大学の方は資料が届いてから、分からないところに印をつければよかった。
解き直しを終えてスマホを見ると、藤崎から追加の写真が届いていた。今日買った物ではなく、家で自分のトートにハンカチを入れた様子だった。端の折り方を変えたので、手帳が取り出しやすくなったらしい。
『入れる順番、前よりいい』
俺は写真を拡大しすぎず、何が変わったか見比べた。彼女は一つずつ触って、気になったところを確かめている。全部を一度で決めなくても、使ってから変えていいのだと思うと、机の紙も少し見やすくなった。
『手帳の角、引っかからなくなった?』
『そう。それが言いたかった』
返ってきた言葉を見て笑い、俺は問題集を閉じた。明日会ったら、図だけでは分からなかった折り方を聞いてみたい。勉強の用事の後に聞くことが、もう一つできていた。
水曜の朝は雨で、黒い傘の青いひもを確かめながら昇降口へ入った。藤崎の傘はまだなかったが、教室へ着いてノートを開いた頃に本人が来た。
「おはよう。雨、ちょっと強くなってた?」
「うん。信号のとこで。三原、早かったね」
彼女は鞄からハンカチを出し、持ち手についた水を拭いた。俺の机には、解き直した英語の紙がある。見せてと頼まれる前に、昨日読み違えたところへ丸をつけておいた。
「そこ、分かった?」
「うん。話が変わるとこ、一個前から読んだ」
「じゃあ、次は間違えなさそう」
「数字違うとまた迷うかも」
「英語だから、数字より人が変わるかもね」
確かにそうだった。俺が笑うと、藤崎も笑って椅子を引いた。雨の話から英語へ移るのに、連絡を入れる必要も、用件を作る必要もなかった。
彼女が教科書を出している横で、俺は聞こうか迷っていたことを口にした。
「藤崎、金曜、離れたらさ」
「うん?」
「朝、こんなふうに話せなくなるなと思って」
言い終えてから、席替えを嫌がっているように聞こえたかもしれないと思った。希望する席を変えてほしいわけでも、くじで隣を取ってほしいわけでもない。けれど説明を足す前に、藤崎がこちらを向いた。
「私も思ってた。あと、ちょっと聞きたいことあっても、すぐ聞けないね」
「数学とか?」
「それも。でも、今日の放課後、どうする、とか」
俺の紙ではなく顔を見て答えられたので、いったん目を落とした。彼女は椅子へ座り、机の横に掛けた鞄の紐を直した。
「でも、同じ教室にはいるし。会えなくなるわけじゃないよ」
「うん。それは、そうだけど」
「だから、遠くなったら、三原のとこ行っていい?」
思っていたより単純な言葉で聞かれて、俺はすぐにうなずいた。簡単なことのはずなのに、自分で言うまでには少し時間がかかった。
「俺も行く。別に、課題なくても」
「うん。課題、ない方が嬉しい日もあるし」
藤崎は声を出して笑い、それから教科書を机に置いた。
「じゃあ、今日は近いので。昨日の話、していい?」
「雑貨の店?」
「そう。紗季が言ってた使い方が、私と全然違ってさ」
話し始めた彼女の方へ、俺は椅子ごと少し向いた。金曜の席は、まだ決まっていない。今は隣の机の端へ落ちないように、彼女が置いたペンを指で少し戻した。




