第18話 少しずれた、お気に入り
土曜日、駅前広場の時計の下へ着くと、藤崎が鞄の中を確かめていた。
「おはよう。何か忘れた?」
声を掛けると、彼女は顔を上げて首を振った。
「ううん。八百円、出しやすい方にしただけ」
「俺も、ちょうどにしてきた」
財布へ入れるとき、百円玉を何枚も探したのを思い出して答えた。藤崎は笑い、鞄のファスナーを閉める。
薄い灰色のTシャツに濃い色のパンツで、髪は後ろへ一つにまとめていた。いつもの白いスニーカーも、今日は歩く距離より、立って作業することに向いていそうだった。
「三原、それ、前に言ってたシャツ?」
「うん。袖、ちょっと擦れてるけど、まだ着られるから」
俺は白いシャツの袖口を一度見た。今日は下に着たTシャツの上へ羽織り、作業のときにはまくるつもりだった。
「これなら、汚れても前よりは困らない」
「前よりは、なんだ」
「できれば汚さず帰りたい」
「それは私も。着てきた服にまで模様つける気はないので」
二人で笑い、交流館の方へ歩き出した。時計は十時四十分を少し過ぎている。予約した十一時までには、受付を済ませて落ち着けそうだった。
入口には今日開かれる催しの案内があり、二階の工作室を示す紙も貼られていた。掲示板の前で予定を相談していた日には、ここを上がったこともなかった。
「何か、学校の特別教室みたい」
階段を上りながら藤崎が言った。
「分かる。机、いっぱいある方の部屋」
「私、家庭科の机、広いから好きだった。物出しすぎても、ちょっと残る」
「残ったとこに、また出すだろ」
「今、否定できなかった」
彼女が笑ったところで、工作室の入口へ着いた。
受付で藤崎が二人分の予約を伝え、それぞれ八百円を払った。材料の袋と説明の紙を一つずつ受け取り、空いている席を教えてもらう。
参加者は俺たちだけではなく、親子で来ている人や、一人で机についている人もいた。俺たちは長い作業机の同じ側に並んで座る。
机には汚れを防ぐシートが敷かれ、中央にスタンプの型と色の見本が置かれていた。四角、葉、小さな丸。案内で見たより種類があり、どれを使うかを決めるだけでも時間がかかりそうだった。
袋から出てきたトートは、生成りの布でできていた。手帳や文庫本を入れるにはよさそうだが、教科書を何冊も運ぶほど大きくはない。
藤崎が持ち手を指へ掛け、膝の上で広げた。
「あ、このくらいなんだ。思ったより、使えそう」
「手帳、入る?」
「うん。袋ごとでも入ると思う。今は、入れないけど」
藤崎は鞄から手帳を取り出し、閉じたままトートの横へ並べた。布の端と比べている指先につられて見ると、透明なカバーの内側に写真が入っていた。
川の方を向いた横顔に、見覚えがある。というより、俺だった。
「それ、入れてたんだ」
思わず言うと、藤崎は手帳を少し傾けた。
「うん。ここなら折れないし。大きさ、ちょうどよかったから」
写真の入った透明な袋ごと、カバーへ収めてあるらしい。隣には、もう一枚、葉と空の写真が重なっていた。
「三原の方は、机に置いてるんだよね」
「うん。平らなとこ。まだ、何に入れるか決めてなくて」
「決まったら教えて。写真入れるの、私もいろいろ見てる」
彼女は普通に答えて、手帳と布の端をもう一度比べた。俺もトートを押さえ直したが、さっきとは違うところへ目が行きそうになる。
あのときは、俺を撮って何が面白いんだろうと思っていた。印刷したと聞いたときも驚いたのに、その写真は今日、彼女と一緒に駅まで来ていた。
「持ち歩くと、傷ついたりしない?」
ほかに何を言えばいいか分からず尋ねると、藤崎が顔を上げた。
「だから、袋に入れてるの。三原、写真の心配するんだ」
「せっかく印刷したから」
「うん。私も、そう思ってる」
そう言ってカバーを軽く指で押さえられると、自分まで大事にしまわれたようで、返事が遅れた。
藤崎は俺の顔を見て、少し笑った。
「これ、本人に見せると、ちょっと変な感じするね」
「俺も。自分の写真がそこにあるの、見慣れない」
「そのうち慣れて。たぶん、しばらくここにあるので」
「……分かった」
慣れるために何度も見せてもらうのもおかしいが、次にこの黄色い手帳を見かけたら、今日のことを思い出す気がした。
彼女は手帳を閉じたまま鞄へ戻し、今度はトートの口を両手で軽く広げた。
「うん。財布も一緒に入りそう。できたら、本当にこれで出かけられるね」
「俺も、文庫本くらいなら持っていける」
使うところを想像してから布を見ると、模様を押す場所も、少し考えやすくなった。
彼女は自分の鞄を椅子の下へ戻した。インクを使う前から中へ物を入れてしまわないよう、まずは空の袋を机へ置く。
俺も同じように広げてみた。何も模様のない布を見ると、急に、ここへ自分で押すのかと思った。
紙の端へ描く落書きとは違って、失敗したところだけ消すことはできない。
十一時になると、担当の人が道具の使い方を説明してくれた。先に別の布で試し、袋には中敷きを入れてから押す。濃さは色ごとに違うので、見本だけで決めず、試した方を見てよいという。
持ち帰るときの扱いや家での仕上げ方も、もらった説明の紙に書いてあるらしかった。俺は一度目を通してから、試すための小さな布を引き寄せた。
「まず、練習か」
「うん。よかった。いきなり本番だったら、私、真ん中から始めそうだった」
藤崎が袖を軽く上げた。俺も両方の袖口をまくり、布の上へ腕が触れないか確かめる。
道具を前にすると、予定を話していたときより緊張した。それでも、隣で彼女も型を持ち替えているので、自分だけが迷っているわけではなかった。
俺は窓に使えそうな四角い型を選び、藤崎は葉と小さな丸を手元へ置いた。
色の見本には、明るい黄色や水色の隣に、落ち着いた茶色もある。俺が紺色を見ていると、彼女が黄色の試し布を見せてきた。
「これ、思ったより薄いね」
「布の色と近いからかな。丸、ちゃんと分かるけど」
「うん。でも、もっとはっきり見えると思ってた。こっちも試す」
彼女は別の黄色を選び、先ほどとは少し離したところへ押した。比べてみると、同じような色でも、布へついた後は印象が違った。
俺も紺色をつけて四角を押した。持ち上げると、真ん中より角の方が濃くなっている。
「何か、窓、暗いな」
つい言うと、藤崎がこちらの布を見た。
「閉まってるお店?」
「そう見えるか」
「でも、壁の模様なら、こういうのもあるよね」
彼女は笑うだけで終わらず、別の見本を探してくれた。俺も担当の人へ濃くなるところを聞き、押すときの力を少し変えてもう一度試す。
次は全部同じ濃さにはならなかったが、さっきより四角の形が見えた。
「あ、こっちの方がいい」
藤崎が言ったので、俺も試し布を二つ並べて見る。道具が同じなら同じ形になると思っていたが、押し方でも結構違うらしい。
彼女の方では、丸が一つだけ横へ伸びていた。
「それ、動いた?」
「うん。持ち上げるとき、ちょっとずれた。これ、丸じゃなくて、レモンってことにできるかな」
「色は合ってる」
「形、そこまで似てないってこと?」
「言ってないけど」
俺が笑うと、彼女も試し布を持ったまま笑った。本番ではないので、失敗した形まで見せやすかった。
型を戻す前に軽く確かめ、使う道具を選び直す。俺は四角を中心にし、葉を一つ借りることにした。藤崎は黄色い丸と葉を、端から少しずつ置きたいらしい。
「三原、どう並べるの?」
「下の方に窓を三つ。あんまり、全部埋めない方にする」
「いいね。上、空いてたら、そこが持つとこから見えそう」
彼女が袋を持ち上げてくれた。平らに置いたときより、持った方が見えるところもある。
俺もその持ち方をまねして、模様をつける辺りを確かめた。鞄は机に広げて見るためのものではなかった。
本番の袋へ中敷きを入れ、俺は型を持ったまま位置を決めた。
最初の一つを置くまでが長い。左右の端から同じくらいにしようとしているうちに、どこが真ん中なのか、かえって分からなくなる。
藤崎が自分の型を置き、俺の手元を見た。
「三原、今、押すのと同じくらい見てる」
「一個目、ずれたら、全部そっち行きそうで」
「じゃあ、最初に袋、動かないようにする?」
彼女が机の端を指した。俺は布の角をそろえ、手前へ引きすぎていた持ち手を外へ逃がす。
もう一度だけ位置を確かめ、最初の四角を押した。
型を持ち上げると、思ったより小さな窓が布に残っている。俺が息をつくと、藤崎もなぜか一緒に肩を下ろした。
「私まで、今、待ってた」
「そっちの一個目も、見るから」
「見られると緊張する。……でも、見てて」
言い直す彼女に、俺はうなずいた。
藤崎は袋の下の角へ、黄色い丸を一つ押した。さっきより慎重に持ち上げ、見本と比べる。
「できた。今度、丸」
「うん。ちゃんと」
「よかった。全部レモンにするところだった」
彼女が笑い、自分の試し布を袋の横へ置いた。丸に近いものと、少し長くなったものを見比べ、次は葉を選ぶ。
俺も二つ目の窓へ進んだ。最初より速く押せたが、持ち上げたとき、ほんの少し傾いているのに気づく。
「あ」
俺の声に、藤崎が手を止めた。
「どうした?」
「こっち、斜めになった」
袋を見せると、彼女は最初の四角と見比べた。言われて見れば分かる程度だが、自分で押した俺には、そこだけ目立つ。
「ほんとだ。でも、こっちだけちょっと開いてる窓にも見える」
「建物、ゆがんでない?」
「建物はまだ描いてないでしょ」
言われ、俺は笑った。確かに、窓らしくしたいと言っていただけで、壁の線を引いたわけではなかった。
それでも、直せないかと型をもう一度近づけかけた。上から押すと重なってしまうと思い、途中で手を戻す。
「これ、触ると余計ずれそうだな」
「うん。私、今のままでも好きだよ。三つ目押してから、見てみたら?」
藤崎が言った。失敗をなかったことにしようとして、濃い四角を増やすよりはよさそうだった。
俺は残る一つを少し離して押した。三つ並べると、傾いた一つも、さっきほど悪目立ちしない。
「どう?」
彼女が尋ねた。
「うん。これなら、いいかも」
「私は、それ、いいと思う」
即答され、俺はもう一度布を見た。全部そろった見本とは違うが、自分がどこで迷って押したかは、見ればすぐ分かる。
そこを彼女にも覚えられているのが、少し面白かった。
藤崎は丸の脇へ葉を置き、試し布で確かめてから押していた。思いつくまま増やすのかと思っていたが、途中で何度か袋を離して見ている。
「もう一個、上につけたくなる」
「つけないの?」
「今、ちょっと迷ってる。ここ空いてると、持ったときすっきりするかなって」
彼女は型を持たずに、指で位置を示した。俺には空いたままでもよく見えるが、彼女は下の丸との間を気にしているらしい。
「俺は、そこ、空いてる方が好きかも」
聞かれてはいなかったが、思ったことを言うと、藤崎がこちらを見た。
「そっか。じゃあ、私も一回、これで持ってみる」
まだ濡れている模様へ触れないよう、持ち手だけで少し立てて確かめる。袋の形になると、下に集まった模様がちゃんと見えた。
「うん。このくらいがいい。今日は、ここまで」
彼女は自分で決めて、型を元の場所へ戻した。俺の方へ合わせたというより、持ってみて気に入ったようだった。
俺も借りていた葉を一つ、窓の端から少し離れた位置へ押した。木のつもりだったが、四角より大きいので、窓が急に小さく見える。
「木、すごい育ったな」
自分で言うと、藤崎が袋を見て笑った。
「いいじゃん。日陰、できる」
「中の人、窓から外見えないかも」
「じゃあ、隣の開いてる窓から見る」
傾いた四角を指され、俺も笑った。ずれたところは、いつの間にか彼女の中で開く窓になっていた。
作業を終えた人から机の奥の乾かす場所へ袋を置く。俺たちも担当の人に見てもらい、持ち帰り方を聞いた。触れる場所や家で行う仕上げを説明の紙でも確かめてから、道具を戻す。
手を洗って席へ戻ると、机には試し布だけが残っていた。袋と一緒に持ち帰れるので、藤崎は伸びた丸も、捨てずに自分の紙の上へ置く。
「それも、取っとくんだ」
「うん。こっち、最初にやったやつだし。袋と同じ色かも分かるから」
俺も最初の暗い四角を見た。できあがった方だけ見るより、なぜこうしたかを思い出しやすい。
自分の試し布もそろえ、説明の紙と重ねて持ち帰ることにした。
十二時前、乾かしていた袋を受け取り、折らずに持って帰れる紙の袋へ入れてもらった。まだすぐ使わず、家で説明どおりに仕上げてからにする。
受付を出る前、藤崎が紙袋の上から中をのぞいた。
「できたね」
「うん。一時間、結構すぐだった」
「私、もっと余ったらどうしようって思ってた。全然、足りたけど余らなかった」
型を探し、色を試し、置く位置を変えていたら、時計を見る余裕はあまりなかった。俺も、三つの窓で時間使った、と答える。
階段を下りると、外の光が朝より明るい。紙袋の底を支えるため、二人とも片手がふさがっていた。
「お昼、今もカレー?」
俺が聞くと、藤崎がうなずく。
「うん。今日は変わらなかった。三原は?」
「俺も、カレーがいい。近くの店、見てみよう」
駅前の通りを少し歩くと、入口に写真つきのメニューを置いた小さな店があった。二人で値段と料理を見て、空いているか中を確かめる。
店の人に案内されたのは、端のカウンターの二席だった。紙袋は横の荷物用のかごへ、模様の面が押されないようにして入れる。俺と藤崎は並んで座った。
彼女はチキンカレー、俺は野菜のカレーを選んだ。どちらも七百八十円で、辛さは選ばず店の普通のものにした。
「何か、完成したあとだと、お腹空いてたの分かる」
藤崎が水のグラスを持って言った。
「途中、全然考えてなかったな」
「私も。葉っぱ、もう一個つけるかしか考えてなかった」
彼女が笑い、俺も水を一口飲んだ。手を動かしていた時間の後では、料理を待って座っているだけでも気持ちがいい。
カレーが運ばれてくると、藤崎は紙袋の位置をもう一度確かめてからスプーンを取った。今度は服を汚す心配より、作ったものに料理をこぼさない方が気になるらしい。
「三原の袋、何入れるの?」
少し食べてから、藤崎が聞いた。
「本、買いに行くときとかかな。小さいのなら入るし」
「あの街歩きの本も入りそう?」
「うん。あれくらいなら。あと、店でもらった紙とか」
答えると、彼女は、なるほど、と自分の紙袋を見た。
「私、手帳と小さい財布にしようかな。大きい鞄持たなくていいときに」
「じゃあ、いつもより探すところ少なくなるな」
「そう。袋ごと下に行く問題もなくなる。ただ、持つもの増やすと、また入らなくなるんだよね」
言いながら笑う彼女は、今度は使うところを考えていた。作る前にどんな模様がいいか悩んでいた顔とは、少し違う。
「どこが一番、やってよかった?」
俺が聞くと、藤崎はスプーンを皿へ置き、少し考えた。
「色、試せたとこかな。見本だけで黄色決めてたら、もっと薄くなってたと思う。あと、持ってみて、何もないとこも残してよかった」
「俺も、全部埋めようとしたら、たぶん終わらなかった」
「三原の、窓三つでよかったよ。あの木も。四つ目足してたら、開いてる窓、分かんなくなる」
「あれ、もう正式に開いてる方なんだな」
「うん。私の中では、そうなってます」
彼女が楽しそうに答えたので、俺も、そのままでいいかと思った。次に見たら、俺にも開いている方に見えるかもしれない。
食べ終えて少し休み、それぞれ会計を済ませた。今日は参加費と昼食で千五百八十円。交通費がかからなかったので、考えていた範囲で収まった。
店を出るとき、藤崎が先に紙袋を持ち上げ、俺の分を取りやすい方へ少し寄せてくれた。
「ありがとう」
「うん。木、つぶさないように」
「そこ、そんなに立体じゃないけどな」
俺が返すと、彼女が笑った。壊れ物ではなくても、今日は丁寧に持って帰りたかった。
広場へ戻る途中、藤崎が、完成したの写真にしていい、と聞いた。
「もちろん。俺も、帰ったら撮る。今、出すと触りそうだし」
「じゃあ、私も家で。あとで見せて」
「うん。そっちのも、見たい」
彼女はうなずき、紙袋を持つ手を入れ替えた。持ち手を握り直すとき、もう片方の鞄が肩から少し下がり、腕で直そうとして止まる。
「三原、ちょっとだけ、こっち持ってもらっていい?」
差し出された紙袋を俺が受け取ると、藤崎は両手で自分の鞄を掛け直した。二つになった紙袋を並べて見ると、どちらも外からは同じ形だった。
「ありがと。どっち、私の?」
「こっち。丸い方」
「今、見えてないのに、丸い方って言った」
返しながら言われ、俺も笑った。彼女のものを渡してから、自分の袋の持ち手を握り直す。
短い時間でも、彼女の作ったものを預かっていたと思うと、妙に慎重になっていた。
広場のベンチは空いていたが、今日はもう店で休んだし、帰って仕上げの説明を確かめたい。二人で少しだけ時計の下に立ち、次は使っているところを見せ合おうと話した。
「私、これ持って、またどこか行きたい」
藤崎が自分の紙袋を見て言った。
「うん。俺も」
「今度は、スタンプの道具じゃなくて、中に入れるもの選びたいな。本とか、おやつとか」
「おやつなら、食べたら軽くなるな」
「そういう問題じゃないけど。おやつも、いいよね」
彼女は笑ってこちらを見た。俺も、行き先はまた相談しよう、と答える。
作った袋が完成したから、そこで終わりではなかった。持って出かければ、次に入れたいものも、使いにくいところも見つかるのだろう。
別れ際、藤崎が紙袋を持っていない方の手を上げた。
「じゃあ、帰ったら、窓、見せて」
「そっちも、丸、見せて」
「うん。ちゃんと丸い方ね」
俺は笑って手を振った。今日は最後まで、彼女の丸がレモンにならなかった。それを少しだけ残念がる冗談は、次に写真を送ってもらうときに言うことにした。




