第17話 用事がなくても会いたい
月曜日、最初の試験が始まる前に、私は机の中をもう一度確かめた。
教科書もノートも鞄にしまってある。机の上にはシャーペンと消しゴム、まだ配られていない問題のための空いた場所だけがあった。
「消しゴム、落とすなよ」
隣で三原が小さく言った。私は机の真ん中へ白い消しゴムを寄せ、分かってる、と答える。
「今日は、そっちに転がす余裕ないので」
「俺も、拾う前に自分のやつ終わらせる」
彼が笑い、私もつられて笑った。先生が教室へ入ってくると、前を向いて椅子を引く。
名前を書いて、問題の番号を確かめる。電話のときに三原が一つ下の問題を見ていたことを思い出し、笑いそうになる前に最初の数字へ線を引いた。
見覚えのある計算でも、今日は途中で止まると少し焦る。時計を見てから、飛ばさず書いた方がいいと自分へ言い聞かせた。
三原が図書室の外でしてくれたみたいに、誰かが隣で待ってくれるわけではない。けれど、考える時間を取ってもいいと、一度座り直すことはできた。
最後まで全部できたわけではなかった。それでも、解けそうなところを先に埋めてから、残した一問へ戻る時間があった。
終わりの合図がして、答案が前へ送られていく。私はシャーペンを置き、机へ両手をついた。
「……最後、時間足りなかった」
先生が教室を出てから言うと、三原がこちらを見た。
「俺も。最後のやつ、途中まで」
「え、そこ、三原も?」
「うん。見たとき、できる気がしたんだけどな」
彼が問題の端をめくり、途中まで書いたところを指す。私は自分の紙と見比べかけて、すぐに閉じた。
「やめよ。次の英語まで気になる」
「そうだな。終わった方は、いったん置いとくか」
あっさりうなずいてくれたので、私は鞄から次の教科書を出した。見直すなら、英語の方だった。数学の答えは、今ここで私たちが考えても、もう変わらない。
試験の日は、いつもの授業の日より、家にいる時間が長かった。
早く帰れるのに、机へ向かうと、もう夕方になっている。昼食を食べてから始めるつもりが、洗面所で顔を洗い、少し休んだだけで時間を使ってしまう。
火曜日の午後、私は机の端へ小さな紙を置いた。やるページを三つ書き、先に一つだけ終わらせる。
スマホには紗季から、今日の漢字の一個、最後まで思い出せなかった、と連絡が来ていた。私も同じところで止まったので、それは私も、と返した。
その後で三原との画面を開きかけ、手を止めた。用事はなかった。ただ、昨日より少しできたことを言いたくなっただけだった。
金曜の電話の最後、空いているときにまた話そうと決めた。だから、連絡してはいけないわけではない。でも、彼も明日の分を進めているだろうし、今日は短く送ることにした。
『今日、最初にやる分終わった。休憩します』
送り、私は台所へ水を飲みに行った。部屋へ戻ると、返事が一つ来ている。
『俺はこれから国語。先に一個終わらせる』
猫が机から離れるスタンプを送ってから、私は次のページへ付箋を貼った。すぐに話し続けなくても、ちゃんと返事がある。それだけで、また机に戻りやすかった。
夕方、お姉ちゃんが早めに帰ってきた。洗濯物を持って私の部屋の前を通り、開いていた扉から顔を出す。
「土曜のやつ、予約できたんだって?」
「うん。十一時から。さっきお母さんにも言った」
「汚れていい服って、どのくらい汚れるの?」
「まだ分かんない。スタンプ押すだけだけど、インクつくかもって」
私が机の脇の案内を渡すと、お姉ちゃんは写真を見て、こういうのか、と言った。
「服に押すのとは違うけど、布に模様つけるんだね」
「そう。私、作るっていうの、まずやってみたくて」
お姉ちゃんはうなずき、案内を返した。何の学校へ行くか、そこからすぐ話を広げられなかったのがありがたかった。
雑誌でかわいいと思うことと、自分の手で形を作ることは違う。私はまだ、どちらをもっとやりたいのかも分かっていない。
「できたの、帰ったら見せて。私のにしないから」
「前、見せた袋、すぐ自分で使いたいって言ったじゃん」
「便利そうだったから。今回は自分の作ってきな」
お姉ちゃんは笑って扉を引いた。私も案内をファイルへ戻し、明日の試験範囲へ目を戻す。どういうものを作るかは、机に並んだノートを片づけてから考えたかった。
水曜日の夕方、私は机の上の紙を探していて、学校でもらった進路の案内を見つけた。興味のあるところへ付箋を貼ったまま、試験の範囲表の下へ入れていたものだった。
服や雑貨について学ぶという見出しだけでも、中にはいくつか違う説明がある。作る授業だけが並んでいるのかと思っていたら、店でどう見せるかを考えたり、使う人へ話を聞いたりすることも書いてあった。
私はその二つに別の色の付箋を貼った。雑誌でかわいいと思った袋が、どんな人へ向けて作られたのか。使いにくいところを聞いたら、作りたい形も変わるのだろうか。
読んでいるうちに時間がたちそうだったので、時計を確かめて冊子を閉じる。続きを見るのは、明日の試験が終わってからにした。
台所へ空のコップを持っていくと、お姉ちゃんが夕食の皿を出していた。
「お姉ちゃん、鞄選ぶとき、最初に見るの何?」
「大きさ。仕事で持ってく物が入らないと困るし」
「色とか、形より?」
「好きな形でも、入らないんじゃ使わないから。その後で色見る」
私がうなずくと、お姉ちゃんは、何か買うの、と聞いた。私は首を振り、学校の案内で、使う人のことを聞く話があったから、と答える。
「私だったら、先に色見てたかも。同じ鞄でも、選ぶ順番違うんだね」
「莉緒、あの巾着は使えてる?」
「うん。探す物はまとまった。でも、学校の鞄だと、袋ごと下に行く」
「それ、入れる場所変えたら?」
言われ、私は一度考えた。袋を変える方ばかり気にしていて、教科書と入れる順番までは決めていなかった。
部屋へ戻って鞄を開け、ノートの横へ袋を立ててみた。鞄を持ち上げると少し倒れたが、底へ沈むよりは取り出しやすい。明日使ってみて、また考えることにする。
私は冊子の付箋へ、何を入れるか、どこで使うか、と書き足した。これだけで作る仕事が向いていると分かったわけではない。それでも、かわいい写真を見る以外に、聞いてみたいことが一つできた。
土曜日に袋の実物を見たら、まず自分の手帳が入るか確かめようと思った。
木曜日、最後の答案を出すと、教室の中が一度に明るくなったようだった。
誰かが椅子にもたれ、別の誰かが机へ額をつける。私も背筋を伸ばし、握っていたシャーペンを筆箱へ戻した。
「終わった」
小さく言うと、隣で三原が、うん、と返した。
「今日、帰って問題集開かなくていいんだよね」
「提出するやつ、忘れてなければ」
「それは出した。そこは、できました」
私が胸を張ると、彼が笑った。結果はまだ分からないけれど、出すものは出し、受けるものは全部受けた。今日はそれでいいと思いたかった。
紗季が鞄を持って来て、お腹空いた、と言った。大野くんもすぐにうなずき、駅前で何か食べて帰ろうと三原へ声を掛ける。
「私も、一緒にいい?」
聞くと、三原が顔を上げた。
「うん。藤崎、何食べたい?」
呼び方には、少しずつ慣れてきたはずだった。けれど、考えずに出たみたいな声で呼ばれると、私は一瞬だけ返事が遅れる。
「……温かいの。うどんとか」
「いいな。俺も、そっちがいい」
大野くんが答えた。紗季も、家で作るつもりだったから連絡する、とスマホを出す。
四人で駅前の商業施設へ行き、食事のできる階で席を探した。まだ昼の少し前なので、四人で向かい合って座れる場所が空いている。
鞄を置いてから、それぞれ注文しに行った。私は温かいきつねうどんを買い、三原はわかめのうどんを選んだ。紗季と大野くんは別の店へ行き、少し遅れて戻ってきた。
「俺だけ、ご飯になった」
大野くんがトレーを置いた。カレーだった。
「うどんがいいって言ってなかった?」
私が聞くと、彼は、並んでる間にこっち見えた、と笑う。
「そのくらい、変わってもいいだろ」
「いいけど、私もちょっと迷ったから、負けた気がする」
「勝負してたの?」
紗季がサンドイッチの袋を開けながら言った。私は首を振り、今日はうどん、と自分のトレーを引き寄せる。
三原が横で笑い、熱いから気をつけて、と声を掛けた。私はすぐには食べず、先に少し湯気を逃がす。
前にココアを飲みに寄ったとき、熱いと分かっていて口をつけてしまった。それまで覚えられているのかもしれないと思うと、彼を見るのが少し照れくさかった。
食べ始めてからも、試験の話は長くは続かなかった。
紗季は今日帰ったら借りたい映画を探すと言い、大野くんは家に帰る前にゲーム店の棚を見たいと言った。三原も、この前見た続きの箱を確かめたいらしい。
「藤崎たち、急ぐ?」
「私は大丈夫。何か買うの?」
「今日は見たいだけ。買うかは、まだ分かんない」
私もうなずいた。紗季は少しなら一緒に見ると言い、食べ終えた後は四人で下の階へ行くことになった。
私には、ゲームの棚の違いはあまり分からなかった。似たような箱が並んでいるのに、三原と大野くんは、前にあった方がなくなっているとすぐ気づく。
「同じじゃないの?」
手を伸ばさずに箱の端を指すと、三原が隣の箱と見比べてくれた。
「絵が似てるけど、こっちは前のやつ。こっちが続き」
「じゃあ、最初こっちからやる?」
「一応。でも、続きからでも分かるようにはなってると思う」
大野くんが別の棚から戻り、三原へ箱を見せた。二人が話している間、私はパッケージの端の小さな絵を見ていた。
青い街の中を、丸い乗り物が走っている。遠くの窓まで細かく描かれていて、三原が好きそうだと思った。
「三原、これ、街の中歩けるの?」
聞くと、彼が目をやった。
「うん。途中で、店にも入れる」
「あ、やっぱり。こういうところ見てるのかなって」
「そこも、見てる」
返事をしてから、彼が少し笑った。私も嬉しくなり、もう一度箱の街を見た。何をして遊ぶものか全部分からなくても、彼が面白がる場所なら少し想像できる。
紗季が別の棚の対戦するゲームを見つけ、大野くんに聞いていた。妹と遊ぶなら二人で同じ画面を使えるものがいいらしい。
四人とも、その日は何も買わなかった。棚を見るだけで終わっても、欲しいものが増えたと大野くんは笑っていた。
店を出て時計を見ると、昼を随分過ぎている。紗季はこの後家で妹と会う予定があり、先に帰ると言った。
「土曜の袋、できたら見せてね」
「うん。私と三原、どっちがずれるか見てて」
「ずれる方で勝負しなくていいよ」
紗季の返事に、みんなで笑った。大野くんも別の用事で駅の方へ向かい、広場の端で手を振った。
三原と二人になると、私は先に、今日はありがとう、と言った。
「何が?」
「ご飯、一緒に。あと、ゲームのやつ、教えてくれて」
「うん。こっちこそ、付き合ってくれてありがとう」
そう返され、私は首を振った。
「あれ、私も見たかったから。青い街、かわいかった」
「買ったら、あの辺も見てみる」
彼はそう言い、鞄を持ち直した。私はその横へ並び、いつも途中まで一緒に帰る道へ入る。
試験が終わったから、もう少し寄り道することもできた。どこかで冷たいものを飲むのもよさそうだったけれど、今は家へ帰って一度ぼうっとしたい。
同時に、土曜日のことをもう少し話していたかった。
「土曜、終わった後、お昼も一緒に食べたいんだけど」
言うと、三原がこちらを見た。
「うん。俺も、そうしたかった。十二時で終わるし」
「何か、袋のこと、帰る前に話したい。変になったとか、ここ気に入ったとか」
「俺の方が、失敗の説明長くなるかもしれない」
「それ、聞くよ。自分で気づかないところあったら、教えるし」
私が返すと、彼は、じゃあ昼まで空けとく、とうなずいた。
会いたいと頼むために、勉強の質問を残しておかなくていい。土曜日は教室が終わった後も一緒にいたい。それだけを言えば、三原には伝わった。
「じゃあ、今日は帰って休む」
「うん。俺も、今日は問題集閉じる」
「見るとしたら、袋の模様の方ね」
「そっちは、まだ全然決まってない」
彼は笑った。私も何を押すかは決めていない。全部先に決めて行くより、実際の色を見て選びたかった。
分かれ道へ来ると、三原が立ち止まった。
「明日は、普通に授業だよな」
「そう。それは忘れたいけど、ある」
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
手を振って少し歩き、振り返ると、彼もまだこちらを見ていた。私はもう一度だけ手を上げ、今度は家の方へ向き直る。
何か言い残したわけではなかった。ただ、同じタイミングで振り返ったのが嬉しくて、歩く速さが少し変わった。
帰宅して制服を着替えると、私は鞄の中を机へ出した。
試験の範囲表は、端が少し曲がっている。最後まで使った付箋を全部は剥がさず、見直したいところだけ残す。点数が返ってきたとき、どこで止まったのか思い出せるようにしたかった。
手帳を姉にもらった袋から出し、今日の日付を開いた。試験が終わったことと、四人でうどんやカレーを食べたことを短く書く。
その途中で、カバーの内側から透明の袋が少しずれた。
月曜に印刷した、三原の写真だった。葉の写真と一緒に入れて持ち帰った後、私は手帳のカバーへ挟んでいた。貼りつける場所を決めるまでは、そこに入れておくつもりだった。
取り出して机に置くと、三原が川を見ている。
あの場所へ着いたとき、彼は先にスマホを構えた。自分が見たかった川が見えたときの顔を、私は写真で残したくなったのだった。
画面より小さな一枚を見てから、私は手帳の前の方を開いた。
六つの四角には、全部チェックが入っている。その下へ自分で書き足した一つだけ、まだ空いていた。
今度は、三原が行きたいところに行く。
桜瀬へ行った夜、私は日付の方に団子の味や街灯のことを書いた。そのまま満足して、こちらの四角はまだ塗っていなかった。
ペンギンのペンを取り、私はそこへチェックを入れた。
これを書いたときには、三原がどんな道を選ぶか、まだ知らなかった。水族館のときみたいな場所でも、お店のない道でも、一緒に歩いてみたかった。
実際に行ってみたら、目当ての川が最初の場所からはあまり見えなかったし、木の下を撮る方が面白い時間もあった。
予定のとおりに見せてもらうだけでは、あの一日にはならなかったと思う。
私は写真をもう一度見て、透明の袋へ戻した。三原の視線の先には川がある。でも、写真を撮っていた私の方にも、ちゃんと返事をしてくれた。
カバーへ挟み直してから、土曜日の予定を開く。十一時からの体験の下へ、お昼も一緒、と書き足した。
誰かと出かけたい日なら、友達を誘うことは今までもあった。けれど、この土曜日に、別の誰かが代わりに来れば同じとは思わなかった。
模様がずれたとき、隣で何て言うのか。私が選んだ色を見て、どこを気に入るのか。その返事を聞きたい相手が、三原だった。
金曜日、普通の授業が戻ってくると、試験が終わった気分は半分ほどしか続かなかった。
ノートはまた次のページへ進み、家でやるところも増える。休み時間に私が小さくため息をつくと、三原が教科書の端を指した。
「試験終わっても、ここは続くんだな」
「それ、昨日は考えないようにしてた」
「俺も。昨日の夜、今日の時間割見て思い出した」
私は笑って、次のノートを出した。隣で同じように準備している人がいるだけで、文句を言うのも少し楽しい。
放課後、土曜の時刻を二人で確かめた。十時四十分、駅前の時計の下。三原は家へ確認してあり、昼も一緒で大丈夫だと言った。
「服、どれが汚れていいか迷うね」
私が言うと、彼が少し困った顔をした。
「買った青いやつは、やめとく」
「うん。私も、桃色のは着ない」
「前の白いシャツ、袖口擦れてるけど、あれなら平気かな」
私は、買い替える理由になったシャツを思い出した。実物をじっくり見たことはないけれど、三原が大事に着ていたのは知っている。
「まだ着られるなら、いいと思う。私も前からあるTシャツにする。でも、真っ白だと押し間違えたときに目立ちそう」
「服にも押す前提なんだな」
「違う。押さないつもりだけど、心配してるだけ」
彼が笑い、私も言い返しながら鞄を持った。どんな服が似合うか考えていた前の買い物とは、少し違う準備だった。
家へ帰ると、私は薄い灰色のTシャツと、濃い色のパンツを出した。動きやすくて、机へ肘をついても気にならないものを選ぶ。
鏡の前で合わせてから、髪もまとめるつもりでゴムを一つ置いた。いつもの白いスニーカーは、つま先の汚れだけ軽く拭く。
準備を終えてスマホを見ると、三原から、明日、昼は何食べたい、と届いていた。
私は少し考え、答えを打った。
『今の気分は、カレー。でも明日変わったら言う』
『分かった。俺も、終わってから決めたい』
『じゃあ、そのとき二人で見よ』
返事をしてから、私は手帳を鞄へ入れた。ペンギンのペンはカバーに挟んである。明日は探さずに済むよう、袋の口へ指を入れて位置を確かめた。
前に書いた四角が一つ埋まっても、次にしたいことはなくならなかった。まだ体験もしていないのに、作った袋を持って、三原と外へ出るところを少しだけ想像してしまう。
その予定は今夜全部決めなくてもよかった。まずは明日、自分で選んだ色を、彼に見せたい。




