第2話 待ち合わせは九時四十分
浜坂駅の南口に着いたのは、待ち合わせの二十分前だった。
改札を抜けたところにある時計を確認し、俺は鞄からスマホを取り出した。九時四十分。昨日決めた時間を読み直しても、もちろん変わっていない。
電車を一本早めたのが原因だった。遅れて相手を待たせるよりはいいと思ったのだが、今度は、早く来すぎていることを知られたくなくなっている。
南口は、階段を下りると小さな広場へ出る。待ち合わせ場所に指定した案内板の横には、誰もいなかった。水族館の方向を示す青い矢印の下で、俺はシャツの袖を折り直した。
気温はちょうどよかった。昨日の予報より雲が少なく、歩けば少し暑くなるかもしれない。
スマホで水族館の混雑状況を確認していると、階段の方から声がした。
「三原?」
顔を上げた先に、白いスニーカーが見えた。そこから視線を上げて、ようやく藤崎さんの顔までたどり着く。
淡い水色のブラウスに、白っぽい色の長いスカート。普段はそのまま下ろしている髪が、今日は片側だけ耳の後ろで留められていた。肩には小さな鞄がかかっている。
制服姿は毎日見ている。それなのに、こちらへ歩いてくる彼女を見た瞬間、声をかけられる前に気づきたかったと思った。
「おはよう。早かったな」
「三原の方が早いじゃん。結構待った?」
「いや、一本前の電車で来ただけ」
「私も。初めて降りる駅だから、迷うかなって」
彼女は案内板を見て、ここだったんだね、と笑う。その横顔に、教室で見るのとは少し違う色の唇が見えた。
何か言った方がいいのかもしれない。でも服のことを突然言うのは、じろじろ見ていたように聞こえるだろうか。
「……靴、白い方にしたんだ」
悩んだ末に出た言葉に、藤崎さんが足元を見た。
「うん。いっぱい歩いても大丈夫な方」
「それなら、よかった」
「三原も紺のシャツだ。普通のやつ」
「その呼び方、定着させるなよ」
彼女が笑い、俺も息を吐いた。昨日のメッセージが一つあるだけで、話し始めるのが少し楽になる。
水族館へ向かおうとすると、彼女が待って、と鞄に手を入れた。青い絵柄の封筒が出てくる。
「先に渡しとく。なくしたら困るし」
「俺がなくす可能性は?」
「二人で一枚ずつなくす方が、まだ何とかなるかもしれない」
「一枚も何とかならないだろ」
チケットを受け取り、俺も財布を出した。千円札を二枚渡すと、藤崎さんは用意していたらしい二百円を、小さな財布から取り出した。
「はい、お釣り。ほんとにありがとね」
「こっちこそ。前売り買いそびれてたから」
「まだ行く日決めてなかったのに?」
「まあ、そうだけど」
藤崎さんがこちらを見て、ちょっとだけ笑う。無理に帳尻を合わせようとしたのが、ばれた気がした。
「じゃ、入場券は各自管理ってことで」
「了解。落としたら、俺は入口でクラゲの動画見る」
「ちゃんと探してよ。私も一緒に探すから」
彼女が封筒を鞄へしまったのを見てから、俺もチケットを財布の内側へ入れた。
駅前の道を抜けると、海へ向かって歩道が広くなった。街路樹の葉が日光を遮り、足元にまだらな影を落としている。
隣を歩く藤崎さんとは、鞄一つぶんくらいの間があった。教室なら、その間には机の端がある。何もないところで同じ距離を保とうとすると、歩く場所を余計に意識してしまう。
「昨日のレモンケーキ、もう食べた?」
「うん。一個だけ買った」
「一口目って、すっぱい? 甘い?」
「最初は甘い。あとからレモンが来る」
「いいなあ、それ。私、レモン味って書いてあるのに、ほぼ砂糖みたいなやつだとちょっと悔しい」
「分かる。酸味を期待して買ったんだからな」
「そう。それそれ」
彼女はうなずきながら歩く。向かいから来た自転車を避けるために少し寄ったとき、俺たちの袖が触れそうになった。
俺が横へずれると、今度は歩道の端に立っていた看板が近くなる。水族館の案内だと思って見たら、不動産屋の広告だった。
「どうしたの?」
「いや。矢印見つけたと思ったら、分譲地だった」
「今日そこまで買う予定はないかなあ」
「予算、かなり足りないな」
藤崎さんが笑い、今度は俺より先に、ちゃんと水族館の案内を見つけた。
十五分ほど歩くと、ガラス張りの建物が見えてきた。海の方へ張り出した屋根の下に、開館を待つ人の列ができている。小さな子どもを連れた家族や、俺たちと同じくらいの年齢の二人組が多かった。
「まだそんなに並んでないね」
「朝にしてよかったかも」
列の最後尾へ向かう途中、入口の横に大きな案内図を見つけた。藤崎さんも足を止め、ガラスに貼られた絵を見上げる。
「クラゲ、あっちだ」
「二階の奥だな」
「結構遠いね。道、確保しなきゃ」
「職員さんに迷惑だから、普通に歩いてくれ」
昨日と同じやり取りをしてから、二人で列に並んだ。
近くにいた子どもがペンギンのぬいぐるみを抱えている。藤崎さんはそれを見つけると、鞄からスマホを出して案内図を拡大した。
「ペンギン、外にいるんだ。帰る前に見たい」
「最初から行ってもいいよ。奥の方、あとから混むかもしれないし」
「でも、三原、クラゲ見たかったんでしょ」
「逃げないと思う」
「分かんないよ。全員で休憩入ってるかも」
「それなら一緒に休憩しよう」
藤崎さんはスマホの画面から顔を上げた。何か言いかけたようだったが、ちょうど列が動き、俺も前へ進んだ。
「じゃ、ペンギンから行っていい?」
「うん」
彼女が決めた方向へ、二人で入場した。
入口の先は薄暗く、青い光の中に近海の魚を集めた水槽が並んでいた。外のまぶしさに慣れていた目が、ゆっくり色を拾い始める。
藤崎さんは最初の水槽の前で立ち止まった。銀色の小さな魚が、同じ方向へ向かって泳いでいる。
「これ、先頭の子が止まったらどうなるんだろ」
「渋滞するんじゃないか」
「後ろの方、絶対ぶつかるよね」
俺たちが見ている間にも、魚の群れが一斉に向きを変えた。正面にいた一匹が群れの奥へ消え、別の魚が手前へ回ってくる。
「入れ替わってる」
「さっきの先頭がもう分からないな」
「私、あの子だと思って見てたのに」
「名前つける前でよかった」
藤崎さんは笑いながら、水槽脇の説明を読んだ。俺も隣からのぞき込む。魚の名前のほかに、群れが身を守ることに役立っていると書かれていた。
彼女が特別、魚に詳しいわけではないのは分かった。でも、分からないものを見つけるたびに、ちゃんと足を止める。そのおかげで、俺も気づかなかったところへ目が向いた。
「三原、あれ。岩の下」
指さされた先を見ると、細い脚が二本だけ出ている。
「何だろ。エビかな」
「え、そんな大きいの?」
「分かんない。説明にいるか見てみる」
展示されている生き物の一覧と見比べ、俺たちはしばらく岩の下を見張った。結局、奥へ引っ込んでしまって全身は見えなかったが、藤崎さんは、帰るまでにもう一回見よう、と言った。
それから屋外展示への矢印を見つけ、彼女がそちらへ歩き始めた。
途中の壁には、透明な水槽を上から見られる場所があった。藤崎さんはそこの角を曲がりかけて、急に足を止める。
「あれ。こっちって外?」
曲がった先には、売店の小さな入口があった。棚には、もうペンギンのぬいぐるみが座っている。
「ペンギンには会えたな」
「まだ動く方がいい」
案内板を見直すと、屋外展示は一つ手前の分かれ道だった。俺も彼女の後ろを何も考えずについてきていたので、笑える立場ではない。
「ごめん、私、堂々と間違えた」
「俺も同じくらい堂々とついてきたから」
「じゃあ二人の責任ってことで」
「ここに座ってるやつらの責任も、少しはある」
俺が棚を見ると、藤崎さんは口元を押さえて笑った。売店の人の邪魔にならないうちに、二人で通路へ戻る。
正しい道を進むと、明るい空の下へ出た。ガラス越しのプールには、ペンギンが数羽、勢いよく泳いでいる。その向こうの陸地では、別の数羽がじっと立っていた。
藤崎さんがすぐにプールへ寄る。俺も並んだところで、一羽が目の前を横切った。水の中の動きは、陸で見た印象よりずっと速い。
「待って。速すぎて撮れない」
彼女はスマホを構えていたが、画面には水しか残らなかったらしい。俺ものぞかせてもらうと、端に小さく黒い影が写っている。
「今のはいた証拠がある」
「これじゃ、何を見に来たのか分かんないじゃん」
「水」
「間違ってないけど」
もう一度撮ろうとしたところで、ペンギンがガラスの前を横切る。藤崎さんは今度こそ、と構えたが、画面より実物を目で追ってしまい、シャッターが遅れた。
彼女は撮れた写真を見て、肩を揺らした。
「見て。お尻だけ」
「進歩してる。さっきより本体が増えた」
「一日かけたら全部そろうかな」
「組み立てる前提なのか」
俺も笑いながらスマホを出した。連写にすればいいかもしれないと思ったのだが、構えたところでプールの前が急に静かになった。泳いでいたペンギンが、奥の階段へ向かったらしい。
「三原、持ってないねえ」
「俺がカメラ出すの待ってたのかもしれない」
「嫌われるの早いなあ」
陸へ上がった一羽が羽を広げ、体を震わせた。水滴が飛ぶのを、俺たちはガラス越しに見つめる。
その端で、一羽だけ、こちらに背を向けて立っているのを見つけた。
「さっきからあいつだけ、出勤したくない俺みたいだ」
「まだ働いてないじゃん」
「学校には行ってる」
「あ、端っこの子? 確かに月曜の朝っぽい」
「そこは否定してくれよ」
藤崎さんは俺とペンギンを交互に見た。その後、スマホを下ろして、今度はちゃんとこちらを向く。
「でも、今日の三原は、そんな感じしないよ」
「そう?」
「うん。来るの嫌じゃなかったんだなって、ちょっと安心した」
何と返すか迷っている間に、彼女はまたプールの方を向いた。
「私が急に誘ったからさ。実は断りにくかっただけだったら悪いなって」
「嫌なら断るよ」
それだけでは足りない気がして、俺も続けた。
「普通に来たかったし。今も楽しい」
藤崎さんの指が、スマホの端を軽く押さえた。
「……そっか。ならよかった」
その返事を聞いてから、俺はペンギンの方へ向き直った。さっきまで何も考えずに言えていたことが、今は少しだけ照れくさい。
端に立っていた一羽が、ようやくこちらを向いた。俺がそれを教えると、藤崎さんが、出勤した、と笑った。
屋内へ戻る手前に、日陰になったベンチがあった。飲み物を飲むために立ち止まると、藤崎さんも鞄から小さな水筒を出した。
「靴、疲れてない?」
「全然。スニーカーにして正解だった」
彼女は片足を少し前へ出して見せる。スカートの裾が風で揺れ、歩いているときには見えなかった細い模様が日に透けた。
「朝からちょっと迷ってたんだ。これだと、靴だけ浮くかなって」
「そういう組み合わせ、俺には分からないけど」
言いかけて、言葉を探す。分からないで終わらせたら、似合っていないと言ったように聞こえるかもしれない。
「でも、変だとは思わなかった。普通に、合ってると思う」
藤崎さんは水筒の蓋を持ったまま、こちらを見た。
「……ほんと?」
「うん。歩きにくそうでもないし」
「そこ、やっぱり大事なんだ」
「いや、それだけじゃなくて。色とかも」
彼女は自分の足元へ目を落とし、笑いながら蓋を閉めた。
「ありがと。じゃあ、これで来てよかった」
俺はペットボトルの蓋を締めるのに、いつもより時間をかけた。服を褒めるのは難しい。何も知らないのに評価するみたいになるのも嫌で、言い方を考えるほど、肝心なことが抜けていく。
藤崎さんは鞄に水筒をしまうと、俺のシャツの袖を見た。
「三原のも、いいね。紺、似合う」
「え、ああ。ありがとう」
「そこまでびっくりする?」
「服のこと、あんまり言われたことなくて」
「じゃあ、今日の分、覚えといて」
彼女はそう言い、ベンチの前から通路へ戻った。俺も一歩遅れてついていく。鞄の紐を肩へかけ直すとき、袖の折り方をもう一度だけ確かめた。
屋内へ戻る頃には、入口付近より人が増えていた。大きな水槽の前で立ち止まる人と、奥へ進む人の流れが交差している。
藤崎さんが鞄を前へ寄せ、俺の少し後ろへ並んだ。歩幅を落として振り返ると、彼女は目が合っただけで小さくうなずく。
先へ進もうとしたところで、横の通路から人が出てきた。俺は半歩止まり、藤崎さんの方を見た。彼女も止まったので、間に誰かを挟まずに済む。
「ここ、横から来るな」
「うん。三原、先行っていいよ。見えてるから」
「いや、急いでない」
通路が空くのを待ってから、二人で歩き出した。別に手を引く必要はないし、そんなことをする理由もない。ただ、さっきより隣との間隔が少し狭くなった。
階段の手前には、海の中を切り取ったような大水槽があった。天井まで届く青いガラスの向こうを、大きなエイが泳いでいる。
藤崎さんが足を止めたので、俺も同じように止まった。
「これ、近くで見ると大きいね」
「上の方にいると、余計に距離が分からないな」
「あの下、通ってみたい」
少し離れたところに、水槽の一部が頭上へ張り出した場所があった。空くのを待ってその下へ入ると、水の揺れる影が彼女の頬へ落ちた。
藤崎さんは上を見て、それからスマホを出した。魚を撮るのかと思ったら、内側のカメラへ切り替えている。
「三原、ちょっと入って」
「え」
「二人で撮ろ。さっきの写真、ペンギンのお尻しかないし」
「俺はその代わりになるのか」
「全然別枠です」
彼女が少しだけこちらへ寄り、画面の中に俺の肩が入った。自分がどこを見ればいいのか分からず、表示されている自分の顔を見てしまう。
「レンズ、ここ。あと、もうちょいこっち」
指示された方へ体を寄せると、彼女の髪が袖に触れた。画面を持つ腕との距離が近くなり、俺は変に背筋を伸ばす。
シャッター音がして、藤崎さんが写真を確認した。
「あ、待って。私の顔、半分切れてる」
見せられた写真には、緊張した俺の顔と、右目から先が画面の外へ消えた彼女が写っていた。頭上のエイは、ちょうど真ん中にいる。
「エイが主役になったな」
「それはいいんだけど、私もちょっと入れてほしかった」
「撮ったの藤崎さんだろ」
「三原入れなきゃって思ったら、自分の位置忘れた」
彼女は笑いながら撮り直そうとしたが、後ろで小さな子が順番を待っているのが見えた。俺が視線を向けると、藤崎さんも気づき、スマホを下ろした。
「あとで、もう一回ね」
「うん。今度は俺が撮る」
「私、ちゃんと端までいるからね」
端まで、という言い方がおかしくて、俺はまた笑ってしまった。水槽の下を離れると、藤崎さんからの通知がスマホに表示される。
届いたのは、今の失敗した写真だった。
『記念すべき一枚目』
隣を歩いている相手へメッセージを送る必要はないのに、彼女は画面を見て、俺の反応を待っている。
「これ、一枚目に数えるんだ」
「撮れたことは撮れたし。三原、いい顔してるよ」
「証明写真より固いと思うけど」
「うん。休日に証明写真撮りに来た顔」
俺は画面を閉じず、写真を端末へ保存した。失敗作でも、消す理由はなかった。
二階へ上がると、光の色が変わった。丸い水槽の中を、白や薄紫のクラゲが漂っている。照明の変化で、水全体がゆっくり色を変えていた。
「あ、いた。三原の主目的」
藤崎さんが少し声を落とした。周りの人も自然に話し声が小さくなっている。
俺は一番手前の水槽へ寄り、ガラスの向こうを見た。薄い体が縮んで、また開く。そのたびに、ほんの少しだけ場所が変わる。
動画では見ていた。でも、目の前で漂っているのを見ていると、背景の青い光まで深く感じた。
「こういうの、ずっと見ちゃうんだよな」
返事がないので横を見ると、藤崎さんも水槽を見つめていた。さっきまで構えていたスマホは、もう鞄へ戻っている。
「藤崎さん?」
「……うん。分かる。静かなのに、動いてるのが分かるから」
彼女はガラスに映った自分の顔を見てから、少し照れたように笑った。
「何か、変なこと言った?」
「いや。俺も、そういう感じ」
水槽の前に並んだまま、しばらく何も話さなかった。沈黙が生まれることを、駅で会ったときは気にしていた気がする。今は、何か言おうと考えるより、同じ水槽を見ていたかった。
藤崎さんが小さく息をつき、鞄の肩紐を持ち直した。
「あのさ、三原」
「うん」
「今日、ここにしてよかった」
彼女はクラゲを見たまま言った。俺も水槽へ視線を戻し、うなずく。
「俺も。ペンギンのお尻も撮れたし」
「そこ、忘れていいよ」
笑った声が、薄暗い展示室に小さく響いた。
藤崎さんは隣の水槽へ移る前に、もう一度だけこちらを向いた。
「お腹空いたら教えてね。三原、まだ見てたいかなって思って、私、言わないかもだから」
「藤崎さんは、もう空いてる?」
「……ちょっと」
「じゃあ、ここ見たら昼にしよう。あとでもう一回来られるし」
彼女の目が、ほっとしたように細くなった。
「うん。ありがと」
俺たちは最後にもう一つ、小さなクラゲの水槽を見てから、展示室を出た。
入口の方から、子どもが楽しそうに誰かを呼ぶ声が聞こえてくる。俺は時間を確かめ、スマホをしまった。
案内板の前で、藤崎さんが隣に来るのを待った。彼女は俺の肩越しに食事の場所を確かめ、何食べようか、と聞く。相談する相手がいることに、少しずつ慣れてきていた。
まだ昼にもなっていなかった。残りの時間を何で埋めようかとは、もう考えていなかった。




