第1話 余った一枚の行き先
「三原って、水族館、一人でも行く?」
金曜日の昼休み、弁当の最後の卵焼きを口に入れようとしたところで、隣の席から声がした。
藤崎莉緒は机に頬杖をつき、俺のスマホをのぞき込んでいた。画面には白いクラゲが漂っている。昨夜見つけた水族館の公式動画を、音を消して再生していたところだった。
「行くけど。そんなに意外?」
「ううん。私、水族館って小学校の遠足で行ったきりだからさ。一人で行ったら、どれくらい見るものなのかなって」
「人によるんじゃないか。俺はわりと長い」
「何時間?」
「前に行ったところは四時間くらい」
藤崎さんの茶色い目が丸くなった。窓から入る風に髪が揺れ、耳につけた小さな銀色の飾りが見える。イヤリングなのか、そういう形のピアスなのか、俺には判別がつかない。
「四時間って、お魚の顔、全部覚えそう」
「向こうはたぶん俺のこと覚えないけどな」
「何回も来るやつだなあ、くらい思ってくれるかもよ」
「それは飼育員さんだろ」
彼女は声を立てて笑い、俺はようやく卵焼きを口に入れた。
二年になって一か月余り、藤崎さんとは隣の席である。最初はプリントを渡すくらいだった会話が、ゴールデンウィーク明けに少し増えた。俺が休日に撮った写真を整理していると、彼女が、川沿いの階段に写った猫を見つけたのだ。
それ以来、どこか行ったのかと時々聞かれる。駅前の新しい店を教えられることもある。今週は彼女が見つけたクレープの写真を、なぜか俺が二枚続けて見せられた。
そのクレープには、たぶん俺の昼飯より多くの材料が載っていた。
「ここ、駅からちょっと歩くところだよね」
藤崎さんの指先が画面の隅を示す。爪には薄い桃色のつやがあり、シャープペンシルを持っているときより目についた。
「うん。汐見アクアリウム。駅から十五分くらい」
「行ったことある?」
「まだない。春に展示が変わったから、ちょっと気になってる」
「へえ。……クラゲ増えたんだ」
「あ、それ見た?」
「うん、まあ」
彼女はスマホから目を離すと、自分の机に置いてあった小さな袋をつまんだ。中に入っていたのは、コンビニで売っている丸いチョコレートだった。
「一個いる?」
「卵焼きの直後に?」
「じゃあ、三十秒待つ?」
「待てばいいって問題でもないけど、もらう」
差し出された袋から一つ取る。藤崎さんは自分も一つ食べてから、もう一度だけ、止まった動画へ目を向けた。
そこへ廊下側から彼女を呼ぶ声がして、藤崎さんは袋の口を折り、椅子を引いた。
「じゃ、またあとで。お魚の予習、頑張って」
「試験は受けないぞ」
「全問、魚の顔写真だったらいけるかも」
笑いながら友達の方へ歩いていく背中を見送ってから、俺はスマホを伏せた。
藤崎さんは、誰とでもこんなふうに話す。教室の真ん中で笑っていることが多く、話題に取り残された人がいると、さっき言ってたの何だっけ、と自然に会話を戻す。俺に話しかけるのも、その延長なのだろう。
だから、クラゲの話をしていた彼女の返事が少しだけ遅れたことも、そのときは気に留めなかった。
六時間目が終わると、教室は一気に週末の音になった。椅子を引く音に、部活へ急ぐ足音が重なる。俺は配られた進路希望調査をクリアファイルへ入れ、机の横から鞄を取った。
「三原、今日、駅前寄る?」
前の席で鞄を肩にかけていた大野拓海が、振り返って聞いてくる。一年のときから同じクラスの友人で、授業中は眠そうなくせに、放課後になると声に張りが戻る。
「今日はまっすぐ帰る。お前は?」
「シューズ見たい。今の、底がもう怪しいんだよ」
「昨日もそれ言ってたな」
「昨日は怪しいだったけど、今日は確信に変わった」
足を上げて裏を見せようとするので、俺は机を避けた。拓海は笑って足を戻し、近くにいた男子に声をかける。少し迷ったが、今日は一緒に行くとは言わなかった。
明日どこへ行くか、帰ってから調べようと思っていた。土曜の天気は曇りらしい。川沿いを歩くか、前から気になっていた古本屋を探すか。どちらも、一人ならその場で変えられる。
教科書を鞄へ詰め終えたとき、隣で、薄い紙が机をこする音がした。
藤崎さんが、小さな封筒をノートの間から抜き出していた。中を確認して、一度戻し、今度は鞄の内ポケットへ入れようとする。その途中で一枚が滑り落ち、俺の靴の横へ飛んできた。
「あ、ごめん」
彼女より先にかがみ、紙の端を拾った。青い背景に白いクラゲが印刷されている。その下には、さっきの動画と同じ水族館の名前があった。
「ここのチケット、持ってたんだ」
「うん。ありがと」
返そうとしたところで、彼女の手元にもう一枚あるのが見えた。日付指定ではないらしく、下の方に有効期限が書かれている。今度の日曜日だった。
「明後日までなんだな」
「そう。気づいたら、もう期限近くてさ」
藤崎さんは二枚を重ね、絵柄を指でそろえた。昼休みと違って、もうこちらを見ていない。
「誰かと行く予定だった?」
口にしてから、余計なことを聞いたかもしれないと思った。
彼女の指が止まる。窓の外からは運動部の掛け声が聞こえていた。さっきまで騒がしかった教室には、俺たちのほかに数人しか残っていない。
「……誘おうと思ってた人は、いたんだけど」
「ああ」
「その人、彼女できたんだって」
返事を探している間に、藤崎さんが顔を上げた。
「いや、別に付き合ってたとかじゃないよ。私が勝手に、いいなって思ってただけ。だから、全然、その人がどうとかじゃなくて」
机の上でチケットを裏返し、彼女は笑った。普段と同じように口角が上がるのに、目がすぐ紙へ戻ってしまう。
「ちゃんと誘えばよかったなあ、とは思うけどね」
俺は鞄を机に置き直した。どういう顔をすれば正解なのか、さっぱり分からない。かわいそうだと思われるのも嫌だろうし、よくあることだと言われたくもないだろう。
「そっか」
結局、それしか言えなかった。
藤崎さんは俺を見て、一度まばたきした後、息を吐くように笑った。
「三原、そういうとき、何か言わなきゃって思ってるでしょ」
「顔に出た?」
「めっちゃ」
「経験のない分野だから、参考資料がない」
「私もだよ。振られた経験とか、別に積みたくないし」
そう言ってから彼女は、まだ告白もしてないんだけど、と付け足した。俺はうなずく。話を聞いていないふりをするより、それくらいはしたかった。
藤崎さんは封筒の口を指で開き、また閉じた。
「買ったときはさ、一回買っちゃえば誘えると思ったんだよね。余ってるから行きませんかって。でも、いつ誘おうって考えてるうちに、こうなった」
「余ってるって言っても、二枚とも自分で買ったんだろ」
「そうだよ。そこは聞かないでもらっていい?」
「ごめん」
彼女が小さく吹き出したので、少しだけ肩の力が抜けた。
俺は水族館のチケットを見た。知らない人のために買ったものだと分かってから見ると、昼休みに見たクラゲの色まで違って感じる。
「友達とは行かないのか」
「声かけようかなとは思ったんだけど、今さら日曜空いてるって聞くのもね。急だし。……あ、三原」
そこで彼女が顔を上げた。何か思いついたように俺を見た後、視線が一度だけ泳ぐ。
「日曜って、何してる?」
「まだ決めてない。どっか歩こうかな、くらい」
「そっか」
封筒の端が、彼女の指先で少し曲がった。
「一枚余ってるんだけど、行かない?」
さっき自分で聞いた言葉が、そのまま返ってきた。
俺は反射的に教室の入口を見てしまった。誰かが会話を聞いていて笑っている、ということはない。藤崎さんは俺の反応を見たまま、曖昧に笑っている。
「いや、無理にじゃなくて。三原、気になってるって言ってたから。興味なかったら誘わないし」
「日曜?」
「うん。期限切れる前に」
「俺と?」
「ほかに誰に聞いてると思ったの」
「一応、確認」
彼女が笑った。今度は、目が少し細くなった。
水族館には行きたかった。それは本当だ。一緒に行く相手が藤崎さんだという部分で、判断が急に難しくなっている。
学校で隣に座っているのと、休日に二人で出かけるのは違う。彼女の友達みたいに、ずっと話し続けられる自信はない。せっかくの休日を、気まずい時間にしてしまうかもしれない。
ただ、断る理由を考えている間に、藤崎さんの指がチケットの角を撫でた。
少なくとも、行きたい場所が同じなのは分かっている。
「俺、クラゲの前で結構止まるけど」
「うん」
「あと、魚の説明も普通に読む」
「いいじゃん。私、分かんないこと聞くかも」
「全部は分からないぞ」
「分かんない同士で読めばよくない?」
それを聞いて、返事は決まった。
「じゃあ、行く」
藤崎さんは、すぐには何も言わなかった。それからチケットを二枚とも封筒に戻すと、鞄の内ポケットへ丁寧にしまった。
「……よかった。じゃ、日曜ね」
「うん。チケット代、いくら?」
「え、いいよ。私が誘ったんだし、余らせてもしょうがないやつだし」
「余ってても、俺は入れるんだから払うよ」
彼女は少し考え、スマホで購入履歴を開いた。画面をこちらへ向ける前に、別の通知を指で払ったのが見えたが、内容までは読まなかった。
「前売りで千八百円。ほんとにいいの?」
「当日券より安いから、むしろ助かる」
「三原って、そういう言い方するんだ」
「どういう?」
「ううん。じゃあ、当日もらうね」
財布を出しかけていた手を止める。藤崎さんはスマホを持ったまま、俺を見上げた。
「連絡先、交換しよ。集合とか決めなきゃだし」
俺のスマホに、友達追加の画面が映った。互いの画面を向け合うだけなのに、さっきの進路希望調査を書くより緊張する。
表示された名前は『りお』だった。丸いアイコンには、白い皿に載ったプリンが写っている。
「これ、前に言ってた店?」
「そう。固めのやつ。三原、覚えてたんだ」
「名前は忘れたけど、プリンが揺れてる動画見せられたから」
「あれは見てほしくなるでしょ」
彼女が指を動かすと、俺のスマホが短く震えた。猫が片手を上げているスタンプだった。
俺も手元にあったスタンプを返す。画面の中で、丸い鳥が深々と頭を下げた。
「何、そのめっちゃ丁寧な鳥」
「俺が言いたいことを大体言ってくれる」
「じゃあ今日から、三原がこれくらいお辞儀してると思っとく」
「教室でやったら机にぶつかるな」
藤崎さんは笑いながら鞄を肩にかけた。昇降口まで一緒に歩いたが、階段の途中で友達に呼ばれ、彼女はそちらへ向かった。別れ際、俺に向かって小さく手を振る。
俺も片手を上げた後、靴箱の前でスマホを取り出した。
画面に残ったプリンのアイコンを見て、日曜の予定が決まったのだと、ようやく実感した。
家へ帰ると、弟がリビングでゲームをしていた。俺が冷蔵庫から麦茶を出しても振り返らず、画面の敵に向かって忙しそうに指を動かしている。
「兄ちゃん、日曜、家いる?」
「出かける。何で」
「友達呼ぶかも。二階うるさかったらごめん」
「まだ呼んでもいないのに謝るなよ」
「予約の謝罪」
適当な返事をしながら階段を上り、自分の部屋で鞄を下ろした。机には、連休に使った路線図のコピーが置いたままになっている。
スマホを開くと、藤崎さんからメッセージが来ていた。
『日曜、何時くらいがいい?』
水族館の公式サイトを開いて営業時間を調べる。十時開館、十八時閉館。日曜は昼から混むらしい。最寄りの浜坂駅までは、ここから電車で三十分ほどだった。
『朝からでよければ、十時くらいに着くようにする?』
送ってから、早すぎるかもしれないと思った。休みの日くらい寝ていたい人もいる。俺が勝手に朝から夜まで付き合わせるつもりだと思われたら困る。
補足を打つより先に、返事が来た。
『いいね! お昼も向こうで食べよ』
その一文を読んで、画面を見たまま口元が緩んだ。水族館だけ見て帰るつもりだったのが、昼飯まで含んだ予定になった。
『十時前に浜坂駅集合でどう?』
『九時四十分くらい?』
『それなら歩いてちょうどいいと思う』
『了解。出口分かんなかったら聞く』
俺は駅の案内図を開き、南口が分かりやすそうだと伝えた。彼女からは、また片手を上げた猫が返ってくる。
用件は終わったはずなのに、画面を閉じるタイミングが分からなかった。何かほかに決めることがあるかと考えていると、新しい文字が出た。
『三原、もし途中で帰りたくなったら言ってね』
俺は椅子へ座り直した。
教室では、自分が彼女を退屈させることばかり気にしていた。けれど、彼女も似たようなことを考えているのだろうか。
『藤崎さんも。疲れたら休もう』
送ってから、もう一言足した。
『でもクラゲは見てから帰る』
しばらくして、笑っている猫のスタンプが届いた。
『そこは譲れないんだ』
『今回の主目的だから』
『じゃあクラゲまでの道は私が確保しとく』
『どんな水族館を想像してるんだ』
返事を打ちながら、さっきまで感じていた緊張が薄れていた。教室で話すときと同じ調子で、文章を返せている。
やり取りが途切れたところで、俺は水族館周辺の地図を開いた。館内にも食事のできる場所はあるが、少し歩けば商業施設がある。昼に混んでいたときのために、いくつか候補を見ておいた。
一人なら、空いている店へ入ればいい。藤崎さんが何を食べたいのかは分からないので、勝手に一つに決めない方がいいだろう。
地図の保存済みの印が三つ増えたところで、机の時計を見る。いつもなら晩飯までに動画を一本見ている時間だった。
俺はスマホを充電器へつなぎ、クローゼットの扉を開けた。
白いシャツと紺のシャツを交互に持ち上げてみても、判断する基準がない。いつもの散歩なら、天気予報で気温を見て終わりだ。
結局、いったん両方戻した。日曜の朝に考えればいいことまで、今やる必要はない。
そう思って扉を閉めたのに、五分後には、紺のシャツだけ出して椅子にかけていた。
土曜日は、駅前の本屋へ行った。新刊を見て、雑誌の旅行特集をめくり、気になる記事のある一冊を買う。いつもなら、そのまま知らない道へ入ってみるところだが、駅の時計を見て、今日は帰ろうと決めた。
駅前の広場では、小さな焼き菓子の出店が並んでいた。看板に載ったレモンケーキの断面が目に入り、足を止める。藤崎さんが前に、酸っぱいお菓子は好きだと言っていた気がした。
買って持っていく理由はないし、明日まで置いておくより今日食べる方がおいしいだろう。しばらく看板を見てから、自分の分を一つ買った。
広場の端のベンチに座って袋を開けると、砂糖の薄い膜が少し指についた。生地は思ったよりしっとりしていて、レモンの酸味もちゃんとある。
スマホで出店の看板を撮った。会場名と、今日明日の開催時間が分かるようにする。食べ終えてから、藤崎さんとのトーク画面を開き、写真を選んだところで指が止まった。
こういうのを、突然送ってもいいものだろうか。
集合の相談はした。でも、今いる場所や食べたものを知らせるようなやり取りはしていない。用件もないのに連絡したと思われたら、何だか照れる。
迷って写真を閉じかけたとき、教室で彼女に見せられたクレープを思い出した。あれだって、俺に何か頼みたかったわけではないはずだ。
『駅前に出店が来てた。これ、結構レモン強い』
写真と一緒に送って、スマホを鞄へ入れる。ごみを片づけて立ち上がる頃には、返事が来ていた。
『え、おいしそう。明日までやってる?』
『うん。五時までみたい』
『帰りに間に合ったら見たい!』
俺は会場の場所を伝えてから、トーク画面の写真をもう一度見た。レモンケーキを一個買っただけなのに、明日の予定が少し増えた気がした。
その日の夕方、駅前の店から帰ってきたところで、藤崎さんから写真が届いた。
黒いローファーと、白いスニーカーが玄関に並んでいる。続けて短い文章が表示された。
『結構歩くよね。スニーカーの方がいいかな』
彼女がどんな格好で来るのか、そこまで具体的には考えていなかった。画面に写る靴を見て初めて、制服以外の藤崎さんと会うのだと気づく。
『駅からも歩くし、そっちの方が楽だと思う』
『だよね。そうする』
俺は玄関に置いた自分の靴を見た。いつものスニーカーは、つま先に昨日の土が少し残っていた。
靴を拭こうとしゃがんだところで、またスマホが震えた。
『三原って、明日どんな服?』
紺のシャツを選んだことを、急に報告する必要が生まれた。文字にすると大げさな気がして、色だけを簡単に伝える。
『紺のシャツと黒いズボン。普通のやつ』
『普通のやつ、了解。探すときのヒントにする』
『顔もヒントにしてくれ』
『あ、それが一番だった』
スマホを持ったまま笑ったところを、玄関へ来た弟に見られた。
「何」
「別に。靴、貸してほしいのかと思った」
「お前のは履けないだろ」
弟は俺の隣から自分の靴を取り、コンビニへ行くと言って出ていった。ドアが閉まると、家の中が少し静かになる。
俺は靴の土を落とし、乾いた布でつま先を拭いた。
明日は、ただ水族館へ行くだけだ。藤崎さんが誘おうとしていたのは別の人で、俺はそこへ行きたかった。それだけで成立する予定だと思う。
それでも、彼女が選んだ白いスニーカーを、明日ちゃんと見つけられるだろうかと考えた。
画面に、最後のメッセージが届く。
『じゃあ、明日よろしく。寝坊しないでね』
俺は目覚ましの設定を確かめてから、返事を打った。
『こちらこそ。九時四十分、南口で』
日曜の予定を誰かと決めるのは、久しぶりだった。




