第13話 隣にいる人も風景に
改札を通ると、桜瀬方面の電車は八分後だった。ホームの階段を上がる途中で、藤崎さんが鞄の肩ひもを持ち直す。
「今日、こっちにしてみた。両手が空く方がいいかなって」
小さめのリュックだった。白いTシャツに薄い緑のカーディガン、濃い色のジーンズという格好で、いつもより少し高い位置で髪を結んでいる。
「写真撮るなら、その方が楽かも。水もあるし」
「そう。入れてみたら、意外と重かった」
彼女は片方の肩だけを上げてみせた。俺も鞄の中のボトルを思い出す。歩く準備という点では、二人とも似たような荷物になっていた。
ホームの日陰に立ち、どの辺りから川が見えるかを話した。電車の窓からは橋そのものは見えないが、桜瀬の一つ手前で短い鉄橋を通る。
「川って、そこからつながってるの?」
「地図だと同じ川。でも、今日行く方はもっと幅が狭い」
「じゃあ、見えたら言って。私、駅の名前見てるうちに通り過ぎそう」
到着した電車には空いている席があった。二人で並んで座ると、彼女はリュックを膝へ載せ、窓の外へ顔を向けた。
街の裏側を通る線路からは、家のベランダや店の搬入口が見える。俺が前に撮りたかったのは、途中の建物の壁へ映る階段の影だった。けれど電車で通ると一瞬で、今日もスマホを出す前に流れていった。
「あ、今の」
隣で藤崎さんが声を上げたので、俺は画面をつけかけた手を止めた。
「階段?」
「え? 私、犬。屋根の上みたいなとこにいた」
「犬は見てなかった」
「階段、私も見てない」
同じ方を見ていたはずなのに、気にしていたものは違った。彼女が説明する犬の居場所を頭に描いていると、すぐ次の駅に着く。
「帰りもいるかな」
「あそこ、反対側になるけど。帰り、そっち見てみる」
「じゃあ私、階段探す。影、なくなってたりして」
「それは、あるかも」
俺が笑うと、彼女も笑った。写真にできなかったものまで、今日は話の種になる。
鉄橋の手前で声を掛けると、藤崎さんが窓へ少し身を寄せた。川を横切る間に、水面へ白い光が散る。スマホを向けるには短すぎたが、彼女は通り過ぎてからも、見えた、と嬉しそうに言った。
桜瀬駅の北口を出たのは、十三時二十分を少し過ぎた頃だった。
駅前にはバスの停留所があり、その向こうから細い道が商店の間へ延びている。案内図で川の方向を確かめ、俺たちは横断歩道を渡った。
休日でも人が多すぎず、前に来たときと同じ文具店が角にある。俺が覚えていたのは大きな赤い看板だったが、藤崎さんはショーウインドーの方で足を止めた。
「見て。これ、全部消しゴムだって」
ガラス越しに指した棚には、小さな野菜や果物が並んでいた。値札の隣に、消しゴム、と書かれている。
「こんな細いの、使ったら折れそう」
「三原、使う前提なんだ。私、並べたい」
「買ったら、たぶん使わないけど」
「だよね。じゃあ、私と同じ」
彼女は小さなとうもろこしをしばらく見てから、満足したように俺へ向き直った。入店するほどではなくても、足を止める理由にはなるらしい。
川へ向かう道は少しずつ下っていた。住宅の間から空が広く見え始め、手すりの青色が先に目へ入る。
「あれ?」
「うん。あの橋」
藤崎さんの歩く速さが少し上がった。俺も追いつき、車の通らない遊歩道へ下りる。
写真を撮った場所はすぐに分かった。手すりの案内板も、向こう岸の木もそのままだ。ただ、今日は前に来たときより葉が多く、橋の横には細長い影が何本も伸びている。
藤崎さんはスマホに保存した写真と実物を交互に見ていた。
「三原、ここ立ってた?」
「たぶん、もう少しこっち。案内板、そこに入ってるから」
「あ、本当だ。ここだと木が重なる」
彼女が横へ二歩動くと、画面の中と同じ形に橋が収まった。俺はその隣から、向こう岸の街灯を探す。
細い柱の先が長く曲がり、二つの照明が川へ顔を向けていた。言われて見れば、確かに首の長い鳥が並んでいるようだった。
「いた。二羽」
藤崎さんが小さな声で言った。
「街灯だけどな」
「ここ来たら直ると思ったのに、余計に鳥なんだけど」
俺も笑いながら画面を拡大した。片方の照明の上には本物の小さな鳥が留まっている。彼女に教えると、スマホを下ろして目を凝らした。
「え、どこ。あ、頭の上?」
「そう。今、動いた」
「鳥が鳥に乗ってる」
「そっちは本物の方」
藤崎さんが急いで写真を撮った。ところが、確認した画面には街灯しか写っていない。シャッターを押す前に飛んでしまったらしい。
彼女がその画面を俺へ見せる。
「証拠、なくなった」
「俺も見てたから。高瀬さんたちには言える」
「じゃあ、証人よろしく。写真だけ見せたら、鳥って街灯の方でしょって言われる」
俺はうなずき、自分のスマホでも街灯を撮った。撮りたいものが逃げることはよくあるが、逃げなかった方までおかしく見えたのは初めてだった。
彼女は写真を一枚だけ送り、少しして届いた返事を見て笑った。
「紗季、ちゃんと二羽いるねって。そうじゃない方の話は、月曜にする」
返信を終えると、彼女はスマホをしまわず、橋の入口へ立った。
「渡ろ。向こうから見たら、顔違うかもしれない」
「街灯に顔はないと思うけど」
「三原も、今、顔って言われて通じたじゃん」
それには言い返せず、俺は笑って隣へ並んだ。
橋の上からは、水の流れる向きがよく分かった。手前から見たときには隠れていた浅いところに、細い波が続いている。
俺が手すり越しに眺めていると、少し先を歩いていた藤崎さんが振り返った。
「三原、ここ撮る?」
「うん。もう少し先から、下流の方を」
「じゃあ、私、こっち見てる」
彼女は反対側の手すりへ寄った。道の中央を空けて立ち、足元の水を見ている。俺は通り過ぎる人を待ってから、川の曲がるところへ画面を向けた。
橋を入れるか、水だけにするか。迷って一枚ずつ撮っていると、背後で小さく笑う声がした。
「何?」
俺が振り返ると、藤崎さんは自分のスマホを胸の辺りで持っていた。
「三原、すごい真剣だった。今、話しかけない方がいいやつかなって」
「いや。そんな集中してない」
「ほんと? さっき、一歩進んで戻って、また同じとこ立ってた」
「手すりの端が入るか、見てたから」
説明すると、彼女は俺の隣へ来て川を見た。もう一度カメラを開き、端を入れた方と外した方を見せる。
「ああ、違う。こっちの方が、橋にいるって分かるね」
「俺も、そっちがいいかなと思って」
「でも、水のきらきらは、こっちが多い」
彼女が指すのは、手すりを外した方だった。俺は二枚を見比べ、消しかけた写真も残すことにした。
「藤崎さん、さっきの方から何見えた?」
「あっちの草。風来ると、一か所だけ順番に揺れるの」
教えられた方へ移ると、川の端にある背の高い草が波のように倒れていた。流れとは逆の向きで、まとまって揺れては戻る。
「これ、写真だと止まっちゃうんだよね」
「短い動画にすれば?」
「そっか。あ、今の風、もう一回ほしい」
「そこは、俺も呼べない」
藤崎さんは、だよね、と笑い、カメラを動画へ切り替えた。俺も隣で待っていると、しばらくして草の先が同じ方へ傾いた。
彼女は撮り終えた動画をその場で再生する。草が揺れる直前に、俺の、来た、という声まで入っていた。
「声、入ったな。もう一回撮る?」
「いいよ、これで。いつ揺れるか分かりやすいし」
彼女は音を下げて再生し直し、今度は画面の中の草を見た。俺もそちらへ目を戻す。知らない人が見れば、ただ草が揺れているだけの短い動画だった。
それでも、彼女が消さずに保存したのが、少し嬉しかった。
橋を渡りきると、街灯は鳥というより先の曲がった棒に見えた。
「顔、なくなった」
藤崎さんが残念そうに言う。俺は下から見上げ、写真を一枚撮ってから画面を見せた。
「この角度なら、まだちょっと」
「あ、本当。片足で立ってる」
もう一度彼女も撮り直すので、公園へ上がる前に、街灯の写真だけ随分増えた。
坂の入口には小さな案内図があった。公園へ向かう道は、短い階段と、木の間を曲がる坂に分かれている。
「坂の方から行こうと思ってる。こっち、途中にベンチあるみたい」
「うん。階段、近道なのかな」
「そうだと思う。上で合流してる」
「じゃあ、帰り見て決めよ。私、今はこっちがいい」
彼女が坂を指し、俺もうなずいた。案内図の向きと実際の道を確かめてから、二人で上がり始める。
緩いと思った坂も、続くと足へ重さが来た。木陰に入れば涼しいが、日が当たるところはもう暖かい。俺はシャツの袖を少し上げた。
「三原、水飲も」
途中のベンチが見えたところで藤崎さんが言った。
「うん。ここ、空いてる」
それぞれ鞄から水を取り出して座る。彼女はリュックを脇へ置き、ボトルのふたを開けた。
「私、川沿いって聞いたとき、全部平らな気分だった」
「坂あるって言ったぞ」
「聞いてた。でも、頭の中では平らだった」
俺は水を飲んでから笑った。確かに、写真には坂の道そのものは写っていなかった。
「まだ、上まで半分くらいあると思う」
「大丈夫。疲れたら、また言う。三原も言ってね」
「俺も今、座りたかった」
「じゃあ、休憩の意見、一緒だった」
藤崎さんは嬉しそうに言い、足を少し前へ伸ばした。
ベンチの向こうは木が多く、川はまだ見えない。枝の間を鳥が移るたび、葉の影が地面で揺れた。二人で水を飲んでいると、隣から小さく金具の音がする。
藤崎さんがリュックの脇のポケットへボトルを入れようとしていた。入るには入るが、口が狭く、片手では引っかかる。
「出すとき、あんなすぐだったのにな」
「ね。朝、入れたときはできたのに」
彼女は口を広げてから底まで押し込み、肩ひもを持った。
「こういうの、店で背負うだけだと分かんないね。歩いて、水飲んでみないと」
「店で、水まで飲まないからな」
「試すコーナーあったら、私、すごい買うの遅くなりそう」
ポケットを確かめながら話す彼女を見て、この前の雑誌のことを思い出した。かわいいから選んだものにも、使ってみて分かることがあるらしい。
少し休むと、藤崎さんの方から立ち上がった。俺もボトルをしまい、鞄を肩へ掛ける。
「上、川見えたらいいね」
「木が多いから、どうかな」
「見えなかったら、木の写真増える」
それはそれで困らないという言い方だったので、俺も、じゃあ行ってみよう、と答えた。
坂の先は、広い芝生になっていた。小さな遊具がある方には親子連れがいて、少し離れた木陰では本を開いている人もいる。
川に近い方へ歩くと、端に柵があった。その手前から見下ろしてみたが、水面は木の葉の間に細く見えるだけだった。
「……思ってたより、緑だな」
「うん。川、ちょっとだけ」
藤崎さんも隣で背筋を伸ばす。俺たちの立っている場所からは、青い橋の上半分がわずかにのぞいていた。
「葉っぱない頃なら、もっと見えたかも」
「冬とか?」
「たぶん。前、下から見たとき、もっと向こうまで透けてたから」
公園から川を見たかったのに、その川が見えない。少し困って彼女の顔を見ると、藤崎さんは空へスマホを向けていた。
「でも、上、すごいよ」
彼女に合わせて見上げると、枝の先が丸く空を囲んでいた。下ばかり見ていた俺は、葉の色が思ったより明るいことにも気づかなかった。
「ここ、緑の傘みたい」
「でかい傘だな」
「二人でも、全然入れる」
彼女がカメラの画面を見せる。葉の間から光が入っていて、見上げたままの形に写っていた。
俺もスマホを出したが、同じように構えても、空が白くなりすぎる。少し角度を変えると、今度は枝が画面の真ん中を横切った。
「ちょっと、俺にもその撮り方教えて」
「いいよ。私も、今たまたまできたんだけど」
藤崎さんが横へ来て、自分の画面と俺の画面を並べた。少しだけ後ろへ下がり、明るさを指で動かしてみる。
「こっち、暗くすると葉っぱ見える。あ、下げすぎた」
「今、夕方になった」
「戻します。まだ帰りたくないので」
笑いながら調整して、ようやく葉の形が残るくらいになった。俺が撮った一枚を見て、藤崎さんが、できた、と言う。
顔を上げると、思ったより近くに彼女がいた。肩が触れそうな距離で同じ画面を見ていたのだと分かり、俺は持っていたスマホを少し下げた。
「ありがとう。こっちの写真、俺も残す」
「うん。私、三原のも見たい」
彼女がすぐに自分の画面へ戻ったので、俺も写真を送り合う操作をした。撮り方は教わったのに、並べた二枚の葉の重なり方は違っている。
彼女が俺の写真を保存するところを、つい見てしまった。
「何?」
「いや。似たの、二枚あってもいいんだなって」
「同じじゃないじゃん。三原の方、ここ、光が丸くなってる」
指された辺りには、葉の隙間を抜けた小さな光があった。俺は撮ったとき、それを狙ったわけではない。
うまく撮れたかどうかより、彼女がそこを見つけてくれた方が嬉しかった。
公園の端を回る道に沿って歩くと、芝生の向こうに短い柵と、川の方向を示す案内が見えた。
「あっちにも、道あるみたい」
俺が指すと、藤崎さんが看板を確かめる。階段の出口とは別に、斜面を横へ回り込む園路が続いていた。
「川の方に出るのかな」
「少し行ってみたい。遠かったら、戻るけど」
「うん。私も行く」
道は公園の敷地の中で、ゆっくり下がっていた。木の間を何度か曲がり、明るくなった先へ出ると、柵の向こうに川が見えた。
青い橋の全体はまだ木に隠れていたが、水の流れは下から見るより長く続いている。俺たちは通り道を塞がないよう、脇の広くなったところへ寄った。
「見えた」
藤崎さんが言った。俺もうなずいて、川の向こうを見渡す。
駅から来た道は家に隠れ、遊歩道だけが水際に沿って伸びていた。その端に、人が二人、小さく並んで歩いている。
「さっき、俺たちがいたの、あの辺りかな」
「案内板のとこ? たぶん、もう少し右」
彼女が指した位置と橋を見比べると、確かにその辺りだった。さっきは上を見ていたのに、今はそこを見下ろしている。
俺はスマホを構えた。川の曲がるところと、家の屋根と、青い橋の端を一緒に入れる。
「三原、そこ、動かないで」
シャッターを押したところで、隣から声がした。
藤崎さんが俺の斜め後ろでスマホを持っている。何かと思ってそちらを向くと、彼女は画面から顔を上げた。
「写真、撮ってもいい? 川見てるとこ」
「俺?」
「うん。せっかく三原が行きたかったとこ来たから。ここにいる三原も撮りたい」
風景ではなく、俺を撮りたいらしい。
スマホを持ったまま立つのか、しまった方がいいのか分からず、一度手を下ろした。藤崎さんが少し笑う。
「そんな急に、ちゃんと立たなくていいよ」
「いや、どこ見ればいいんだ」
「さっきの川。私のこと、気にしないで」
そう言われると、余計に気になった。川へ目を戻しても、隣で彼女が動くたび、そちらを向きそうになる。
「……これ、結構難しいな」
俺が言うと、シャッターの音に続いて彼女が笑った。
「今、すごい困った顔してた」
「困ってるとこは、撮らなくていいだろ」
「言ったら、その顔しないじゃん」
彼女は撮った画面をこちらへ向けた。横を見ている俺と、その向こうの川が写っている。自分では気になる襟の曲がり方も、彼女は気にしていないようだった。
「これ、送っていい?」
「うん。変では、ないと思う」
「変じゃないよ。楽しそうだよ」
言われて見直すと、確かに口元が少し緩んでいた。撮られた自分を見て、そんなことを思ったのは珍しかった。
写真を受け取ってから、俺はスマホを持ち直した。
「じゃあ、藤崎さんも。そこ、もう少しいて」
「私も撮ってくれるの?」
「うん。同じとこ、来たし」
彼女がうなずいて川へ体を向ける。結んだ髪が風で揺れ、片手でそれを押さえたところを撮った。
ただ、顔がほとんど髪で隠れている。俺が画面を見て黙ると、彼女は先に笑い出した。
「今の、だめだったでしょ」
「顔が見えない」
「見せて。あ、ほんとだ。川見に来た髪の毛になってる」
「もう一枚、撮らせて」
「いいよ。今度は押さえとく」
次は、髪を耳の後ろへ寄せてから、彼女がこちらを向いた。まっすぐ見られると、画面の中なのに目が合う。
風景を撮るときと違って、どこまで入れるかを考えるより先に、シャッターを押していた。
「どう?」
「……今度は、大丈夫」
俺は画面を彼女へ見せた。藤崎さんは自分の顔を確かめ、満足したようにうなずく。
「うん。これ、ほしい。あと、髪のやつも」
「そっちも?」
「今日、風あったなって分かるから」
俺は二枚とも送った。自分のスマホにも残った写真を見ると、一枚目の方が少しだけ遠くから撮れている。その次では、彼女がこちらを向いていた。
もう一枚と言ってよかった。そんなことを思いながら、画面を閉じた。
帰りは公園の入口へ戻り、階段を下りた。川沿いへ出てからは、青い橋を渡らず、向こう岸の遊歩道を下流へ歩く。
少し先にはコンクリートの橋があり、そこを渡れば駅へ戻れる。途中の案内図とスマホの地図が同じ道を示していたので、俺たちはそのまま進んだ。
「下から見ると、さっきの場所、分かんないね」
藤崎さんが高台を振り返った。
「木の間だったから。あの、少し切れてるとこかな」
「三原が、こっち行きたいって言ってくれてよかった。私、最初のとこで、川はあんまり見えない公園だと思って帰ってたかも」
「俺も、看板なかったら分かんなかったけど」
「でも、見つけたの三原じゃん」
当たり前のように言われ、俺は歩きながら返事を探した。行き先を選んだ俺が、全部よかったことにしたくて連れ回しているのではないか。そんな心配も、少しだけあった。
けれど、彼女は休みたいときにはそう言い、俺が川ばかり見ている間に、上の葉を見つけてくれた。最後に川が見えた場所だけで、今日を楽しんだわけでもないらしい。
「藤崎さんの、緑の傘もよかった」
そう返すと、彼女がこちらを見た。
「あれ、帰ったら、お姉ちゃんに見せる。木の下、意外と涼しかったって」
「写真だけだと、涼しさは分かんないな」
「だから、私が言うんだよ。ここ、二人で水飲んで、いっぱい歩いてきたって」
「水飲んだの、一つ手前のベンチだけど」
「細かい」
彼女が笑い、俺も笑った。少しして、でも、それも言う、と付け足す声がした。
コンクリートの橋を渡ると、来たときとは反対から商店の並ぶ通りへ入った。駅へ近づく途中、藤崎さんが小さな団子屋の前で立ち止まる。
「私、これ食べたい。三原、少し待ってもらっていい?」
店先の札には、みたらしと醤油が一本ずつの値段で書かれていた。どちらも百二十円だった。
「俺も買う。醤油の方」
「あ、私、みたらしにする」
一本ずつ頼み、それぞれ代金を払った。包んでもらった団子を持ち、店の脇の食べてもいいと書かれたベンチへ座る。
「おやつ、買えたね。電車代引いても」
「まだ余ってる」
「使い切らなくていいんでしょ?」
「もちろん」
藤崎さんは嬉しそうにうなずき、たれを落とさないよう団子を口へ運んだ。俺も醤油の焦げたところを一口かじる。昼飯とは別に、歩いた後に食べるものが欲しかったのだと、食べてから気づいた。
水を飲み、少し休んでから駅へ向かった。改札の上の時計は十六時を過ぎている。まだ明るく、窓から階段の影を探す時間も残っていた。
帰りの電車では、二人で今日の写真を見せ合った。
鳥がいない街灯、草の動画、空を囲む葉。川だけ撮った一枚の隣に、俺の横顔も並んでいる。藤崎さんのスマホには、消しゴムの棚ではなく、店の外に置かれていた丸い植木鉢の写真まであった。
「それ、どこで撮った?」
「最初の文具屋さん。三原が看板見てたとき」
「全然気づかなかった」
「私も、橋の下のこんな石、見てない」
彼女が俺の画面の一枚を指す。水の流れを撮るとき、端に丸い石が入っていた。わざわざそこを撮ったつもりではなかったが、確かに形が面白い。
欲しいと言われた写真を送り、俺も植木鉢の一枚をもらった。同じ道を歩いてきたのに、自分の知らない今日が何枚もある。
途中で窓の外を見ていた藤崎さんが、あ、と声を上げた。
「階段、あった。影、短くなってた」
俺も顔を向けたが、建物はもう後ろへ流れていた。
「俺、見逃した」
「犬、探してた?」
「いや。写真、見てた」
自分の画面には、川の前でこちらを向いた彼女がいた。俺がスマホを少し下げると、藤崎さんは一度その写真を見てから、窓へ目を戻した。
「……じゃあ、また通るときだね」
「うん。犬も、見つからなかったし」
俺も外を見た。彼女の耳の近くで、結びきれなかった髪が少しだけ揺れていた。
最寄りの駅を出て、それぞれの帰り道へ分かれる前に、藤崎さんが足を止めた。
「今日の写真、まとめていい? 後で見つけやすいように」
「うん。俺もそうする。街灯ばっかり並ぶけど」
「ちゃんと三原もいるよ」
彼女は笑って言った。俺は受け取った自分の横顔を思い出し、ああ、と答える。
「次も、撮ってもらおうかな」
口にすると、藤崎さんがすぐにうなずいた。
「いいよ。じゃあ、私のもよろしく」
「うん。髪で隠れる前に撮る」
「隠れたのも、消さないでね」
分かったと答えると、彼女は満足そうに手を振った。俺も振り返してから、家の方へ歩き出す。
信号を待つ間に、写真をまとめる新しいアルバムを作った。名前を「桜瀬」にして、今日撮ったものと、彼女からもらったものを入れていく。
最後に選んだ二枚は、同じ場所で撮った俺と藤崎さんだった。どちらにも川が写っているが、それだけではない。俺は二枚を並べてからスマホをしまい、青になった横断歩道を渡った。




