【1】第9話 しけたライター、ありえない結末
「おい、ブラック。お前も大概、限界だな」
大聖堂に広がる静寂の中、弦は動かない右手を伸ばし、ブラックの濡れた頭をそっと撫でようとした。しかし、ブラックは小さく「シャー」と喉を鳴らし、その手を突っぱねる。
弦は苦笑し、ポケットからしけったハイライトの箱を取り出した。残りは最後の一本。だが、箱ごと雨水に浸かっており、完全にふやけている。
それでも弦はそれを口に挟み、濡れた指先でジッポーライターを強く弾いた。
――カキン。
虚しい金属音が響くだけで、火花すら散らない。
二度、三度。親指の皮膚が擦り切れるほどホイールを回したが、ジッポーはただ冷たい鉄の塊として沈黙している。
「ちっ……まじでしけってやがる」
弦が毒突いた、その時だった。
――ガギィン、と。
聖堂の重い鉄扉が、乱暴に外側から押し開けられた。
吹き込む突風と共に、無数の足音が堂内に流れ込んでくる。水溜まりを踏み荒らす音が、高い天井に反響して何倍にも膨れ上がった。
弦は口からタバコを落とすことなく、ゆっくりと立ち上がった。石柱の陰から姿を現した男たちの顔ぶれを見て、弦は小さく息を吐き出す。
入ってきたのは、先ほどの半グレのような組織の末端ではない。仕立ての良い高級な黒スーツに身を包んだ、黒頭会の「本流」の武闘派たち。その数、優に二十人を超える。
彼らは一言も発しない。ただ、統率された動きで大聖堂の出入り口を完全に塞ぎ、弦とブラックを包囲するようにじりじりと半円の陣形を敷いていく。
そして、その全員の手には、雨の光を鈍く反射する黒い鉄の塊。拳銃が握られていた。
二十口以上の銃口が、一斉に弦の眉間と、その足元にいるブラックへと向けられる。チェスで言えば、逃げ場のない完全なチェックメイト。土砂降りの雨の音は、一段と激しさを増していく。
絶体絶命。誰もが声を失うようなその空間で、弦は逃げる素振りすら見せず、ただ不敵に口の端を吊り上げた。
濡れた前髪の隙間から男たちを睨み据え、ポケットから火のつかないジッポーをもう一度取り出す。男たちの前で、わざとらしくカチカチと虚しい音を立ててみせた後、弦はニヤリと笑って、ぼそりと呟いた。
「おい。弾を撃つ前に、ちょっとだけ火い貸してくんねえかな? どうもしけっちまってよ」
その一言が、大聖堂の空気を一瞬で凍りつかせた。
死を目前にした探偵の、場違いな余裕。銃口を向けていたヤクザたちの顔に、明らかな動揺と、一瞬の「たじろぎ」が生じる。
「……おうおう、誰かと思えば黒木の旦那じゃないか」
包囲網の奥から、低く冷酷な声が聞こえた。弦が目を細めて見ると、黒頭会の幹部、長谷川だった。
「……なんだなんだ、長谷川さんよ、アンタが出てくるってことは、黒頭会も相当焦ってんだな」
「俺らも別にアンタに恨みがあるわけじゃねえ」
長谷川は落ち着いた声で話しかけてきた。
「こっちだってな、無用な殺生はゴメンなんだよ。その可愛い黒猫さえ渡してくれりゃあ、朝にはうまい飯でも食ってられるってもんだぜ」
「そりゃあ、ありがてえな。でも、うまい飯より大切なもんってのがあるんでね」
そう言うと、不意に弦は天井を見上げた。男たちが釣られて目線が上がる。そのわずかな「一瞬の隙」を、元刑事の黒木弦が見逃すはずがなかった。
「ブラック、跳べ!!」
弦の怒号と同時に、弦の左手が上着のポケットから何かを投げつけた。白石の部屋からガメてきた、目潰し用の高輝度ストロボ弾だ。
直後、暗闇の大聖堂の中に、太陽が爆発したかのような凄まじい閃光が炸裂した。
「うわあああッ!?」
「目が! 前が見えねえッ!」
静寂を守っていたヤクザたちが悲鳴を上げ、銃口が激しくブレる。数発の銃弾が放たれたが、それらはすべて虚しく天井のコンクリートを削るだけに終わった。
光が収まる前に、弦は地を這うような低さで突進していた。
目の前にいた大男の腕を掴み、その肉体を盾にするようにして回転する。背後から放たれた仲間内の銃弾が、盾にした男の背中に吸い込まれた。弦はその男が持っていた拳銃を強引に奪い取ると、容赦なく隣の男の膝皿を撃ち抜いた。
銃声が大聖堂の中に爆音となって狂い咲く。
それと同時に、もう一つの「影」が戦場を支配した。
「――ギチチチチッ!!」
ブラックだった。ストロボの光に一切怯むことなく、その真紅の瞳を爛々と輝かせた黒猫。その動きは、ヤクザたちにとって頭上を飛び交う悪魔そのものだった。
腐った長椅子の背を足場に、驚異的な跳躍力で男たちの顔面へと襲いかかる。一閃、二閃。ブラックが男たちに爪を立てた。
「ぎゃあッ! 猫だ! この猫、化け物かッ!」
「当てろ! 撃ち殺せ!」
大聖堂の中が、一瞬にして地獄絵図と化す。
弦の放つ銃弾と、肉体を損なう拳の風切り音。そして、ブラックの凶暴な咆哮と、男たちの血飛沫が雨に混ざって飛び散る。弦とブラックは、互いに背中を預け合うようにして、押し寄せる黒服の波を次々と泥水の中へと叩き落としていった。
だが、多勢に無勢という現実は、あまりにも冷酷だった。
一人を殴り倒した弦の背後から、別の男の鋭い蹴りが炸裂した。痛む左腕を庇った隙を突かれ、弦の巨体が床の水溜まりへと激しく叩きつけられる。
すかさず三人のヤクザが弦の上に圧し掛かり、その四肢を冷たいコンクリートに押さえつけた。
「ガハッ……!」
泥水をすすりながら、弦は必死に首を持ち上げた。
視線の先、ブラックもまた、四方から迫る強固な捕獲ネットに追い詰められていた。一匹の男が投げた防刃仕様の厚いコートが、ブラックの小さな身体を上から完全に覆い隠す。
「捕まえたぞ! この化け物猫め!」
二人のヤクザが、コートの上からブラックを強引に押さえつけようとする。
弦の視界の中で、ブラックが必死にコートの隙間から這い出ようと暴れるのが見えた。このままでは、ブラックは黒頭会の研究所へと連れ戻され、その肉体をバラバラに解体される。そんな最悪の結末が、弦の脳裏をよぎった。
「ブラック……ッ! 逃げろッ!!」
弦が声を枯らして叫ぶ。押さえつけられた腕に力を込め、男たちを跳ね除けようとするが、頭に突きつけられた銃口の冷たさがそれを阻む。
誰もが、黒頭会の「完全な勝利」を確信した、その瞬間だった。
捕獲ネットの代わりとなっていたコートの隙間から、するりとブラックが這い出た。その瞬間、ブラックは信じられない行動に出た。
ヤクザに立ち向かうのでもなく、弦を助けに向かうのでもない。
ブラックは激しい戦闘のストレスと、降り注ぐ雨の不快感、そして首の後ろにずっと残っていた異物感に、完全に限界を迎えていた。
ブラックはすぐ目の前にそびえ立つ、最も太い、ザラザラとしたコンクリートの石柱へと猛然と駆け寄り、自分の全体重をかけるようにしてその首の後ろ、肩のあたりを石柱の角に、ゴリゴリゴリッと、狂ったように、激しく擦りつけたのだ。
ヤクザの思惑も、国家の秘密も関係ない。ただ、この鬱陶しい「痒み」を今すぐ消し去りたいといった猫としての、あまりにも純粋で、気まぐれな野生の行動。
次の瞬間、頑丈に噛み合っていたはずのクリップ式カプセルが、テコの原理のように石柱の角に引っかかり、ついに限界を迎えた。
――パァンッ!!
バネが弾けるような鋭い音が大聖堂に響き渡る。
ブラックの首の後ろから外れた金属製のカプセルは、薄明かりの光を反射して小さく輝き、美しい放物線を描いて虚空を舞った。それは雨粒を弾きながら綺麗に回転し、そして――。
呆然とそれを見上げていた、長谷川の足元へと、カツン、と音を立てて転がった。
「……あ?」
長谷川が、自分の靴の先に落ちてきたカプセルを見つめる。
カプセルは壊れていない。その光景を横目で見ていた弦の顔が、驚愕と絶望に染まる。
「……マジかよ!」
弦は顔を歪め、コンクリートに顔を伏せたまま絶叫した。
「ちくしょう!! なんでそこで外れるんだよ、このバカ猫がァッ!!」
命を懸けて守り、街中を逃げ回ってきた数十億の国家機密。それが、猫の「痒いから擦りつけた」というあまりにも下らない理由で、いとも簡単に敵のボスの手元へと転がり落ちてしまったのだ。探偵としてのプライドも、ここまでの苦労も、すべてが茶番劇のようにひっくり返る。
足元に落ちたカプセルを拾い上げ、それが本物であることを確認した長谷川は、堪えきれず狂ったように高笑いを上げた。
「フハハハハッ! 面白い! 実に面白いぜ、黒木! わざわざここまで安全に運んでくれて感謝するぞ!」
長谷川はカプセルを大事そうにポケットに収めると、冷酷な目で弦とブラックを見下ろした。
「データさえ手に入れば、もはやこの猫も、黒木も用済みだ。……お前ら、引き上げるぞ。警察のハエどもが近付いている。こんなドブ川のような場所に長居する必要はない」
長谷川の命令により、弦を押さえつけていた男たちが一斉に手を離した。彼らにとって、データのない黒猫はただの凶暴な猫であり、弦はただの落ちぶれた元刑事でしかない。殺す価値も必要もない。
男たちは手際よく負傷者を回収すると、鉄扉の向こうへと消え、待機させていた大型車で雨の歌舞伎町へと走り去っていった。完全に、取り逃したのだ。
静寂が戻った大聖堂に、パトカーのサイレンの音が遠くから近づいてくる。
神崎麗華率いる警察の特殊部隊が突入してくるのだろう。だが、それはあまりにも遅すぎた。黒頭会はすでに、この街を、ひいては国家を揺るがす決定的な証拠を手にして、闇の奥へと消え去った後だった。
弦は仰向けにひっくり返り、割れた天井から落ちてくる雨水を顔面に受けながら、ただ虚しく笑った。
「ハハ……ハハハ。マジか……全部水の泡かよ」
体中が痛む。大赤字だ。スーツは破れ、腕は腫れ、切り札だったデータは敵の手に渡った。最悪の結末。
ふと横を見ると、首の後ろを縛っていた鬱陶しいクリップから解放されたブラックが、毛並みを整えるように優雅に自分の身体を舐めていた。そして、真紅の瞳で弦をチラリと見つめると、「フン」と鼻を鳴らした。まるで、「すっきりした」とでも言いたげな顔で。
「お前なぁ……」
弦はそれ以上、言葉が出なかった。
遠くから近づく赤色灯の光が、割れたステンドグラスを赤く染め始めていた。全てを失った大敗北の夜。しかし、探偵の胸の中には、なぜか不思議なほど清々しい風が吹き抜けていた。




