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【1】第8話 屋上のキャットウォークと廃聖堂

 午前五時。夜明け前、歌舞伎町が最も深い眠りに落ちる時間。


 だが、アスファルトを激しく叩く雨音の隙間から、弦の耳は不穏な音を正確に聞き分けていた。ワンボックスカーのスライドドアが重く開閉する音。水溜まりを力任せに踏みつける、統率された複数の足音。


「黒木さん、聞こえる? 職安通りから区役所通り、さくら通りまで完全に塞がれた。奴ら、網を絞る気だ」


 ずぶ濡れのスーツのポケットの中で、ワイヤレスイヤホンから白石の緊迫した声が響く。


「早いな。ハエどもの羽音がうるさくて、目が覚めちまったよ」


 弦は路地裏のコンクリート壁に背を預け、懐のブラックを片手で庇いながら、細い路地の先を窺った。


 視界の先、雨に煙る大通りに黒い傘の集団が等間隔で並んでいるのが見えた。ただのヤクザの動員ではなさそうだ。街の隅々に配置された半グレのカラーギャングどもまでが、スマホを片手に路地裏を凝視していた。街全体が、一つの巨大な生き物のように「赤目の黒猫」を嗅ぎ回っている。


「白石、カメラの状況は?」

「最悪……。主要な交差点の防犯カメラは全部、黒頭会が出資してるフロント企業のサーバーに直結されてるね。今、僕がダミーのパケットを流して映像を数秒ずつフリーズさせてるけど、長くは持たなさそうだ。……あ、次の角、右に曲がって! そこだけ、三分前に僕がカメラの電源を物理的に落とした」

「助かる」


 弦は低く呟くと、上着の懐をそっと叩いた。


「おい、ブラック。ここからは一歩も顔を出すなよ。お前のその派手な目は、暗闇じゃあ格好の標的だ」


 ブラックは不機嫌そうに喉を鳴らしたが、状況を理解しているのか、弦のシャツの奥深くへと身を縮めた。地下通路での凶暴さが嘘のように、今は弦の体温に同化している。


 雨脚はさらに強まり、視界を白く遮ぎる。弦は白石の指示通り、カメラの死角となる暗渠(あんきょ)の隙間や、雑居ビルの狭い非常階段の裏を縫うようにして進んだ。


 しかし、歌舞伎町の裏路地を知り尽くしているのは、弦だけではなかった。


「――おい。そこにいるのは、黒木探偵事務所の旦那じゃねえか」


 背後からの声に、弦は足を止めた。


 振り返ると、ビニール傘を差した三人の男が、路地の出口を塞ぐように立っていた。手には、雨に濡れて鈍く光る鉄パイプと、サバイバルナイフ。黒頭会の下部組織の半グレだ。


「探偵の旦那。悪いが、その上着の懐に入ってる『借り物』を返してもらおうか。大人しく渡せば、命までは取らねえって上からの伝言だ」


 男たちがじりじりと距離を詰めてくる。鉄パイプがコンクリートの床を擦り、不快な金属音を立てた。


 弦はゆっくりと両手を挙げ、口の端に薄い笑みを浮かべた。


「おいおい、人聞きが悪いな。俺はただ、雨宿りしてるだけの善良な市民だぜ」

「とぼけてんじゃねえよ!」


 先頭の男がナイフを突き出し、一歩踏み込んできた。


 その瞬間、弦の懐から漆黒の影が弾け飛んだ。


「――ギャウッ!」


 ブラックだった。弦の胸元から飛び出した黒猫は、雨を切り裂いて男の顔面に跳びかかった。一閃したブラックの鋭い爪は、男の鼻頭から頬にかけてを容赦なく引き裂く。


「ぎゃあああッ!? 目が、目がァッ!」


 男がナイフを取り落とし、顔を押さえて水溜まりに転がった。


「ブラック、戻れ!」


 弦の叫びと同時に、残りの二人が逆上して鉄パイプを振り上げた。


 弦は迷わず踏み込み、一人目の懐に入ると、その顎に向けて容赦ないアッパーを叩き込んだ。骨の砕ける鈍い音が響き、男が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。三人目が振り下ろした鉄パイプを、弦は裂けた上着を巻き付けた左腕で強引に受け止め、右拳で男の鳩尾を深く抉った。


「ガハッ……!」


 三人が泥水の中に沈むまで、わずか数秒。


 ブラックはいつの間にか近くの自動販売機の上に飛び移り、その上から、冷徹な真紅の瞳で弦を見下ろしていた。


「お前なぁ……大人しくしてろって言ったろ」


 弦は痛む左腕をさすりながら、忌々しげにブラックを睨み返した。だが、説教をしている時間はない。


「黒木さん、大変だ! 今の騒ぎで、近くにいた別動隊がこっちに向かってる! 数は十人以上……完全に囲まれる!」


 イヤホンからの白石の悲鳴が、雨音を突き破ってきた。


「どこへ逃げればいい」

「地上はダメだ、どこへ行ってもカメラと検問に捕まる。……あ、あ、上だよ、上! 黒木さん。頭上だ!」

「上だと?」

「その自販機の横にある、古い非常階段を上って! 雑居ビルの屋上伝いなら、カメラのネットワークから完全に隔離されてる。僕がルートを計算する!」


 弦は上を仰ぎ見た。錆びついた鉄製の非常階段が、暗い空へと伸びている。


「行くぞ、ブラック!」


 弦が階段を駆け上がると、ブラックもまた壁を蹴り、弦の影を追うようにして垂直の鉄梯子を駆け上がっていった。


 ビルの五階。屋上に出た瞬間、激しい風雨が二人の身体を容赦なく叩いた。


 歌舞伎町の屋上群は、不夜城の華やかさとは裏腹に、巨大な貯水タンクやエアコンの室外機、ちぎれた電線が放置された、まるで機械の墓場のような荒涼とした世界だった。


「黒木さん、そのまま隣のビルに跳んで! 隙間は一メートル半、いける!」

「口で言うのは簡単だな、クソガキ!」


 弦は溜まりに溜まった雨水を蹴り、ビルの縁から虚空へと身体を投げ出した。滞空時間の一瞬、眼下に広がる歌舞伎町の歪んだネオンが視界を過る。


 ドサリ、と激しい衝撃と共に、隣のビルのコンクリート床に滑り込んだ。全身を襲う痛みを無視して立ち上がると、そのすぐ横に、一滴の雨にも怯まないブラックが、音もなく着地していた。


「次! 右斜め前の雑居ビルの屋上へ! そこを抜ければ、黒頭会の包囲網の外に出られる!」


 背後の非常階段から、ヤクザたちの怒号と足音が近づいてくるのが聞こえる。


 弦とブラックは、言葉を交わすこともなく、ただ生き残るという一点において、完全に呼吸を同期させていた。探偵の泥臭い執念と、野生の特級危険物のプライド。二つの影が、雨の降りしきる新宿の屋上を、獣のように跳び、駆けていく。


 最後のビルの縁へ向かって、弦は全力で足を踏み込んだ。


 その背後を、ブラックの漆黒の身体が、その影を追うように飛び出した。


 夜明け前の最も深い闇の中、二人の逃亡劇は、街中の監視の目を欺きながら、さらなる混迷の奥へと突き進んでいった。


 新宿区役所通りの喧騒から完全に切り離された、場違いな静寂。


 歌舞伎町の最果て、開発から取り残された袋小路の奥深くに、その廃聖堂は佇んでいる。かつて外国人向けの礼拝堂として使われ、その後は新興宗教の集会所になり、今では所有者さえ曖昧になったまま放置されている崩壊寸前の石造りの建築。


 屋上からの決死の逃走劇の果て、弦とブラックが辿り着いたのは、その埃と雨漏りの水溜まりに満ちた大聖堂の中だった。


 ステンドグラスの大部分は叩き割られ、そこから容赦なく冷たい豪雨が吹き込んでいる。床に並んだ木製の長椅子は腐り落ち、かつて祈りが捧げられていたであろう祭壇には、無数の不法投棄物と、薄汚れたコンクリートの石柱が、墓標のようにそびえ立っていた。


 パチ、パチ、と耳障りなノイズがイヤホンから流れる。白石のナビゲーションは、この分厚い石壁の奥までは届かない。完全に外部との通信は遮断されていた。


「ここまで来れば、流石のハエどもも、すぐには嗅ぎつけられねえか……」


 弦は堂内の中央、最も太い石柱に背中を預け、ずるずるとその場に腰くずおれた。


 全身が鉛のように重い。裂けたスーツの上着は雨水を吸って鎧のように冷たく肌に張り付き、半グレの鉄パイプを受け止めた左腕は、じわじわと熱を持って腫れ上がってきている。息を吐き出すたびに、肺の奥が焼けるように痛んだ。


 ふと懐を見ると、上着の隙間から、ブラックが這い出てきた。


 その漆黒の毛並みは雨で泥塗れになり、普段の傲慢な態度が嘘のように、小さく身体を震わせている。だが、その真紅の瞳だけは、暗闇の奥をじっと見据えていた。


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