【1】第7話 首の後ろの導火線
『Bar Crossroads』を後にした時、夜の街を濡らしていた霧雨は、大粒の、しかし音のない本格的な雨へと変わっていた。
歌舞伎町の喧騒は、午前四時を回ると急激にその色彩を失っていく。ネオンの光は水溜まりに溶けてどろどろの油膜のように広がり、行き場を失った酔客たちがゾンビのように夜の底を彷徨っている。
「おい、ブラック。お前、自分がどれだけ厄介な火種か分かってんのか?」
弦は裂けたスーツの上着のポケットに手を突っ込み、懐に収まった黒猫に声をかけた。
ブラックはシャツの隙間から濡れた鼻先を覗かせ、「フン」と小さく鼻を鳴らしただけだった。その態度は、地下通路でヤクザの顔面を引き裂いた凶暴な生物のそれではなく、ただの生意気な猫のそれだ。
だが、弦の胸中にある危機感は、冷め切ったコーヒーよりも重く胃の腑に溜まっていた。
神崎麗華の警告が耳の奥でリフレインする。
「これ以上は、民間人の手におえる範疇を超えているわ」
あの合理主義の塊のような女が、わざわざ管轄外のバーにまで足を運んで自分に警告したのだ。国家権力の幹部が動くほどの何か。それが、今自分の懐でゴロゴロと体温を伝えてきているこの黒猫の、どこかに隠されているかもしれない。
「……まずは、この火種をどうにかしねえとな」
弦は前髪を強引に掻き揚げ、頭を振った。向かうべき場所は一つしかない。この街の淀んだデジタルをすべて吸い上げ、吐き出す男の塒だ。
大久保へと続く職安通り沿いの、一階に怪しげなアジア系食材店が入った雑居ビル。その最上階にある一室のドアを、弦は容赦なく拳で叩きつけた。
「おい、白石! 起きろ、夜逃げの時間だぞ」
返事はない。弦は構わずドアノブを掴み、あらかじめ知っている特殊な噛み合わせを力任せに回して、鍵を強引に解錠した。元刑事の技術は、こういう時にしか役に立たない。
「うわあああッ!? 触るな! スクリプトが走って――って、なんだよ黒木さんかよ……心臓に悪いなぁ、もう!」
部屋に踏み込むと、遮光カーテンで完全に日光を遮断された空間に、十数台のモニターが放つ冷徹なブルーの光が不気味に浮かび上がっていた。部屋の主である白石は、大量の空き缶とコード類に埋もれたオフィスチェアから飛び起きた。三十手前の、およそ日光とは無縁の青白い肌をした青年。それが、歌舞伎町の裏情報からサイバー空間の闇までを一本の指先で手繰り寄せる、天才ハッカーの本性だった。
「勘弁してよ、まだ二時間しか寝てないんだ。探偵の朝は早いって知ってるけど、午前四時は深夜の延長戦――」
「ブツの鑑定だ。お前しか頼めない」
弦がボロ雑巾のような上着を脱ぎ、懐からブラックを引っ張り出してデスクの上に置くと、白石のぼやきがピタリと止まった。
「……猫? 黒木さん、これはいったい?」
「ただの猫じゃねえよ。黒頭会と公安が血眼になって探してる猫かもしれねえ。ガラさんの情報通りなら、こいつのどこかに億単位のデータが眠ってる可能性が高い」
その言葉を聞いた瞬間、白石の目の色が変わった。ハッカーとしての本能が、眠気を一瞬で吹き飛ばしたらしい。
「へえ……。あの『黒頭会』がね。ちょっと見せて」
白石はデスクの引き出しから、医療用のような細いペンライトを取り出した。ブラックはデスクのキーボードを踏みつけながら、パソコンの画面に映る文字列を真紅の瞳でじっと見つめている。
「おい、ブラック。大人しくしてろよ。下手に噛んで、こいつの指をミンチにすんじゃねえぞ」
弦の忠告を無視して、白石が慎重に手を伸ばす。ペンライトの光がブラックの漆黒の毛並みを照らし、首の周りをなぞっていく。
「……皮膚の下に埋め込まれてる形跡はないね。ってことは……あ、これか」
白石の指先が、ブラックの首の後ろ、人間が猫を持ち上げる時に掴む分厚い皮のあたりで止まった。
「何が見つかった?」
「埋め込んでない。挟んでるんだ。超小型のカプセル」
白石がピンセットを使って、ブラックの長い毛を慎重に掻き分けた。そこにあったのは、大豆ほどの大きさもない、歪な黒い金属製のカプセルだった。それは毛に絡みついているのではない。カプセルの両端が、衣服のボタンや強力な洗濯バサミのように、ブラックの首の後ろの皮をパチンと深く噛み込んで固定されていた。
「これ、軍事用かどっかの特殊なクリップ式カプセルだ。内側に超微細な針が付いてて、皮膚をホールドしてる。……よし、ちょっとデータの非接触スキャンを試みる。黒木さん、その猫が暴れないように抑えてて」
白石がハンディタイプのスキャナーを近づけ、カプセルに向けて周波数を合わせ始めた。
「頼むぜ、ブラック。じっとしてろ」
弦が両手でブラックの身体を固定しようとした、その時だった。
「――グルルルルッ!」
ブラックの喉の奥から、地獄の底を這うような低い威嚇音が漏れた。真紅の瞳が、見たこともないほど凶暴に細められる。白石がピンセットで少し位置を調整しようとした瞬間、ブラックの右前足が閃光のように動いた。
「わ、わあああっ!?」
白石が悲鳴を上げて後ろのオフィスチェアごとひっくり返った。彼の右手の甲には、赤い一文字の引っかき傷が走り、じわじわと血が滲み出している。ブラックはキーボードの上で四肢を踏ん張り、背中の毛を逆立てて、弦と白石を交互に睨みつけていた。首の後ろのクリップを触られることを、本能的に激しく拒絶している。
「ててて……! 痛い! なんだよこの猫、まじで危ない!」
「だから言ったろ。無理に外そうとすれば、お前の指は全部持っていかれるってな」
弦は苦笑しながら、ブラックを落ち着かせるようにゆっくりと両手を挙げ、それ以上近づかない姿勢を示した。ブラックはなおも不機嫌そうに、真紅の瞳で二人を威嚇し続けている。
「触らぬ神に祟りなしか。カプセルを外すのは諦めるとして、白石、データの中身はどうだ? 何か引っかかったか?」
ひっくり返った椅子を起こし、傷口を眺めながら白石がモニターを見上げた。画面には、いくつかのプログレスバーが走り、やがて赤い警告灯のような文字が点滅した。
「……プロテクトが糞みたいに硬くて、中身は完全な暗号化の塊だ。ただ、インデックスのヘッダーの形式コードだけは読める。……うわ、これ、まじで国家機密レベルのデータ構造だよ」
ブルーの光に照らされた白石の顔から、完全に余裕が消え失せていた。彼の手指が、無意識にカタカタと震え始める。
「インデックスに、何が見えた」
「警視庁公安、それから内閣府の暗号化規格。それに混ざって、黒頭会のダミー会社の資金移動ログの形式……。細部までは見えない。でも、これが何なのかは、想像がつくよ」
部屋の中に、冷たい沈黙が落ちた。
モニターの光だけが、弦の汚れ果てたスーツの皺を冷酷に浮き彫りにしている。
黒頭会が血眼になってこの猫を追うのは当然だった。もしこのカプセルの中に眠っているのが、裏社会と国家の上層部を繋ぐ『目に見えない鎖』そのものであるならば。これが表に出れば、街の勢力図どころか、表の世界のパワーバランスすら一晩で崩壊するに違いない。
そんな爆弾かもしれない代物が今、目の前の生意気な黒猫の首の後ろに、ポロッとぶら下がっているのだ。
「……ハッ」
弦は、我慢できずに低く笑い声を漏らした。
あまりのスケールの大きさに、脳のネジが一本吹き飛んだような、奇妙な高揚感が胸の奥から湧き上がってくる。
「黒木さん、笑ってる場合じゃないって! これ、僕たちが持ってるだけで、明日には東京湾の底かもしれない案件だよ!? 今すぐその猫をどこかのゴミ箱に捨ててくるか、神崎さんに引き渡すべきだ!」
「白石」
弦はポケットからしけったハイライトを引っ張り出し、火をつけた。深く煙を吸い込み、天井に向けて吐き出す。
「ますます、あのガキの依頼の方が重くなっちまったな」
「……は? 何言ってるの?」
白石が信じられないものを見る目で弦を見つめる。
「いや、こっちの話だ」
弦の言葉に、ブラックがふっと真紅の目を細めた。まるで、弦が言いたかったことを理解しているかのように。
「よく分かんないけど、また馬鹿みたいな依頼に首突っ込んで、知らない間に大変なことになってるんでしょ、この元刑事は……」
白石は頭を抱えて机に突っ伏した。
「最高に面白いだろ?」
「いやいやいや! 人生終わるって!」
白石はそう言ったものの、すぐに諦めたように顔を上げた。その目には、恐怖と同時に、弦の無茶に巻き込まれるスリルを楽しんでいるような、ハッカー特有の歪んだ光が灯っていた。
「……分かったよ、付き合うよ。どうせ僕の人生、まともなレールからは外れてるしね。でも、どうするの? カプセルは外せない。データも完全には読めない。黒頭会は今もこの街全域で、目の色変えて『赤目の黒猫』を探してるんでしょ?」
「データが読み出せないってことは、黒頭会にとっても、警察にとっても、この猫を捕まえるしか選択肢はないってことだ。警察に引き渡したところでこいつの命まで保証はしてくれねえ。つまり、こいつを助けるためには、何とか俺たちでこのカプセルを外す算段を考えなきゃならねえ、ってことだ」
弦はタバコの灰を床に叩き落とし、不敵に口の端を吊り上げた。
「この場所も、麗華には筒抜けだろ? だったらまずはこの猫を丸ごと抱えて、安全な所に連れてってやらねえとな。奴らの包囲網を引っかき回して、ブラックの安全を確保する。白石、お前はPCの中から俺たちの逃走経路をナビゲートしろ。街中の防犯カメラの死角を繋いで、俺たちのための『見えない道』を作れ」
「言うのは簡単だけどさぁ……。相手は街のヤクザだけじゃないよ。神崎さんの息がかかった公安の目もある」
「上等だ。ドブネズミとハエどもに、路地裏の歩き方ってやつを教えてやろうじゃないか。上手く逃げ仰せたら、俺が何とかしてこのカプセルとやらをお前にくれてやる」
弦はデスクの上のブラックを再びひょいと抱き上げ、裂けたスーツの上着の懐へと滑り込ませた。ブラックは今回は威嚇することなく、弦の胸の温もりに収まり、真紅の瞳だけを外の世界へと向けている。
「行くぞ、ブラック。夜明け前の、一番暗い時間帯だ。逃げるにはうってつけだろ?」
弦は上着の襟を立て、白石の部屋のドアを開けた。
外はまだ、容赦のない冷たい雨が新宿の街を叩きつけている。首の後ろに国家の秘密をぶら下げた一匹の黒猫と、すべてを失った一人の探偵。二人の、歌舞伎町を舞台にした決死の逃走劇が、ここから本格的に幕を開けようとしていた。
雨の匂いと、安タバコの煙が、暗い廊下に静かに溶けて消えた。




