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【1】第6話 過去の女と冷たいウイスキー

 黒木探偵事務所の向かいの雑居ビル。


 その二階にある『Bar Crossroads』の中には、新宿の混沌とした夜とは別の次元の空気が閉じ込められていた。窓の外、二階から見下ろす街には、未だ未練がましく降り続く霧雨がアスファルトを濡らしている。だが、このバーの中だけは、唯一まともな酸素が吸える場所だった。


 カウンターの片隅。凛が丁寧に淹れてくれた二杯目のコーヒーは、すでに冷め切っている。黒く染まった表面は、天井の琥珀色の照明を撥ね返し、鏡のように滑らかだ。灰皿から立ち上る一本の細い煙が、気流に弄ばれるようにして天井の影へと消えていく。時計の針は午前三時半。深夜の歌舞伎町特有の、気怠く、破滅の匂いを孕んだ重い静寂が、店の床板一枚にまで入念に染み渡っていく時間帯だった。


「あんたねぇ、少しは自分の立場ってものを考えたらどうなの?」


 背後からかけられた低く、冷徹な声に、弦はカップに伸ばした指先を止めた。


 のれんをくぐって入ってきたのは、仕立てのいいチャコールグレーのパンツスーツを着た女性。タイトにまとめられた黒髪、知的なフレームの眼鏡の奥にある、凍りつくような双眸。警察内部の重要ポストに就く幹部であり、弦の過去を知る女。神崎麗華(かんざき れいか)だ。


「夜中に男の職場に押しかけるなんて、相変わらず情熱的なこっちゃ。なあ、麗華」


 弦は振り返りもせず、口の端に薄い笑みを浮かべた。


 くしゃくしゃになったハイライトを取り出し、唇に挟む。ジッポーの、カキン、という硬質な音が店内に響く。燃え上がる炎が、ボロボロになった弦の横顔を真っ赤に照らし出す。その顔には、絶体絶命の夜をくぐり抜けてきた男だけが持つ、妙な余裕が張り付いている。


「冗談を言っている場合? 弦」


 麗華はコツコツとヒールを鳴らし、カウンターに近づくと、弦の隣のバースツールに腰掛けた。


 スーツには皺一つない。弦のボロボロになった黒のスーツとはあまりにも対照的だった。二人はかつて同じ組織の中で正義を追いかけていたが、ある時を境に彼女は組織に残り、弦は組織を去った。その時間の重みが、二人の間に静かに横たわっていた。


「今夜、歌舞伎町の地下雨水幹線にまで黒頭会の連中が押し寄せたそうね。しかも、素手でヤクザの構成員を二人、病院送りにした男がいるっていう目撃情報まで上がっている。……相変わらず安タバコ吸って、冴えない顔ね。これ以上、私の管轄でハエを狂わせないで頂戴」

「ハエとは人聞きが悪いな。俺はただ、ミクちゃんのクロを捜していただけの、善良な市民だぜ」


 弦が笑いながら煙を吐き出すと、カウンターの奥から沙織が静かに現れた。


「麗華さん。うちの店《ハコ》の常連をあんまりいじめないで頂戴。ただでさえ、今夜の弦はボロ雑巾みたいなんだから」


 沙織は麗華の前に、丸い氷が美しいロックグラスを滑らせた。現在の弦の拠り所である女と過去の弦を知る女。二人の視線が空間で交錯し、火花が散る。カウンターを挟んだ沈黙は、男の戦場よりも時に冷酷だ。


「お気遣いなく、沙織ママ。職務中ですので」


 麗華はウイスキーに目もくれず、真っ直ぐに弦を見た。鋭い視線が、頬に貼られた不格好な絆創膏で止まる。


「……その傷、凛ちゃんに貼ってもらったの?」

「あ? ああ、まぁな。専属主治医さ」


 厨房の奥で聞き耳を立てていた凛が、自分の名前が聞こえると視線を上げた。のれんの隙間から様子を窺う凛に気付いた麗華は、一瞬だけ視線を向ける。凛は目を逸らさなかったが、麗華は何も言わず、眼鏡の位置を直した。


「話を戻すわ。弦、あなたが今夜何を拾い上げたのかは知らない。ただ一つだけ言っておく。黒頭会の動きは異常よ。彼らは組織の存亡を賭けて、死に物狂いでそれを追っている。……これ以上は、民間人の手におえる範疇を超えているわ」


 麗華の声は低く、そして凍てついていた。彼女は言葉の裏に、どれほどの破滅が渦巻いているかを、わずかな視線の揺らぎだけで伝えていた。


「組織を離れたあなたが、これ以上首を突っ込む必要はないわ。命が惜しければ、すべてを私に渡しなさい。それがあなたのためでもある」


 麗華が細い手を弦の前に差し出した。その時だった。


 弦の着崩したシャツの懐が、モゾモゾと蠢いた。ボタンの隙間から、ぬっと二つの真紅の光が顔を出す。ブラックだ。


 ブラックは、差し出された麗華の手を一瞥すると、真紅の瞳を細め、「シャッ」と短く鋭い威嚇の声を上げた。そして、麗華が息を呑むよりも速く、再び弦の胸の奥深くへと潜り込んでしまった。


「ハッ、どうやらお断りだそうだぜ、麗華」


 弦は口の端を吊り上げ、麗華の手を押し返した。


「こうなっちまった以上、この猫を見捨てるって訳にはいかねえんだよ。お前らが裏で何を追ってようが知ったこっちゃねえが、俺たちの流儀じゃ、一度受けた依頼は最後まで全うすることになってる」

「馬鹿ね。そんな割に合わない小さな依頼のために、命を落とす気?」

「命の値段なんて、誰が決めるかで変わるもんだろ? 必死にここまでついて来たこの猫だってな、お前らの予算だか何だか知らねえ代物より、遥かに重いんだよ」

「本気で言ってるの?」

「悪かったな」


 弦は煙を吐き出すと、ゆっくりとスツールから腰を上げた。


 白く汚れた黒スーツの上着を羽織る。オールバックは崩れたままだが、その背中には、路地裏に身を隠した男の静かな矜持だけが滲んでいる。


 弦は頭の後ろに腕を回して伸びをすると、振り返って言った。


「帰るわ。主治医に貼ってもらった絆創膏が、お前の小言のせいで剥がれそうだ。ママ、コーヒー代はいつものツケにしておいてくれ」

「弦……!」


 麗華の制止の声を受け流しながら、弦はドアを開けた。カツカツと音を立てながら階段を下り、冷たい朝霧が立ち込める路上へと戻る。弦の戦いは、さらに深い泥沼へと引きずり込まれようとしていた。だが、男の足取りに迷いはなかった。


 懐で丸くなっている黒猫。探していた猫とは違った。今は、それでもいい。成り行きでこういうことにはなったが、この猫も見捨てるわけにはいかない。弦は、懐の中でぬくぬくとしているブラックを覗いた。それに気づいたブラックが、その真紅の瞳で弦を見つめ返す。


 弦は前を向いた。俺がやることは決まっている。ネオンが消えゆく街の端で、弦はただ思っていた。


 こいつを守る。それだけだ。


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