【1】第5話 お仕置きの絆創膏と黒猫ブラック
地上へと続く錆びついた鉄扉を押し開けると、冷たい夜風が容赦なく叩きつけてきた。
深夜二時半の歌舞伎町。雨は小降りになっていたが、空気を重く湿らせる霧雨が、ネオンの毒々しい光を乱反射させている。
「……ハァ、最悪だ」
弦は建物の狭い隙間から這い出ると、深いため息をついた。既に足の筋肉はパンパンに張り、一晩中全力疾走したかのような疲労感が全身にのしかかってきた。
自慢の黒スーツは、地下通路のコンクリート壁に擦れてあちこちが白く汚れ、右の肩口にいたってはパカリと小さく裂けている。何より、カッチリと整えられていた髪型は完全に崩壊し、濡れた前髪が何筋も額に垂れ下がっていた。元警視庁捜査一課のプライドも、仕立てのいいローンスーツも、一晩で文字通りボロ雑巾のようだ。
ふと足元を見ると、漆黒の毛並みを濡らしたクロが、まるで自分の手柄を誇るように、ピンと尻尾を立てて弦を見上げていた。その真紅の瞳は、暗闇の中で相変わらず怪しく、しかしどこか悪戯っぽく光っている。
「お前な……。命拾いしたのは感謝するが、このスーツのクリーニング代、黒頭会に請求したいくらいだぜ」
弦がぼやくと、クロは「ナァ」と気のない声で鳴き、当然のように弦の革靴の先をトントンと叩いた。歩け、と言わんばかりに。
「分かってるよ。こんな格好で事務所に戻ったら、自分のツケの山を見るだけで吐き気がする。……あそこへ行くか」
弦は裂けた上着の襟を軽く正し、クロをひょいと抱き上げると、着崩したスーツの懐へと滑り込ませた。意外にも、猫は暴れることもなく、弦の体温を求めるように大人しく収まった。
目指すのは、歌舞伎町の喧騒から少し外れた、弦の事務所の向かいにある雑居ビルの二階。
年季の入った真鍮のプレートに『Bar Crossroads』と刻まれた、沙織ママの店だ。
店の正面入り口ではなく、ビル裏の細い非常階段を上がり、勝手知ったる厨房の裏口ドアを三回、二回、と独特のリズムでノックする。
すぐにカチャリと鍵が開く音がして、ドアが細く開いた。
「はいはい、誰……って、うわっ! 弦さん!?」
顔を出したのは、沙織ママの娘であり、この店の看板娘である凛だった。
少し大きめのエプロンをつけ、髪を後ろで一つにまとめた彼女は、弦の姿を見るなり丸い目をさらに丸くした。
「ちょっと、何その格好! 泥棒と格闘でもしてきたの!?」
「いや、泥棒っていうか、ちょっと質の悪いドブネズミどもにな。……ママは?」
「奥のカウンターで常連さんと話してるよ。って、それよりちょっとこっち入りなよ! 服はボロボロだし、顔、血が出てる!」
凛は慌てて弦の腕を掴み、厨房の隅にあるスタッフ用の丸椅子に強引に座らせた。
「ほら、上着脱いで。あーあ、せっかくのスーツが。またママに『ツケが溜まってるくせに高級品ばっかり着て』って怒られるよ」
「勘弁してくれ、耳が痛い」
弦が苦笑しながら上着を脱ぐと、その懐から「フニャァ」と小さな抗議の声が響いた。
ぬっと現れたのは、濡れた黒い頭。クロが弦のシャツの隙間から這い出てきて、厨房のステンレス製の作業台の上へと器用に飛び乗った。
「キャッ! 猫……!? 可愛い! ……じゃなくて黒猫? この子、ミクちゃんが捜してた……」
「ああ、この猫探し、えらい大変だったぜ」
「ふーん。……ん? でも変ね、首に白い線があるって言ってたけど……」
ハッとして弦は勢いよく振り返り、クロを見た。首に白い線……が、ない。
「……マジか! お前、クロじゃないのか!?」
「ナァ〜」
なんという失態。弦は頭を抱えた。何のために命を危険にさらし、あの汚い路地を這いつくばってきたのか。スーツのローン代を想像するだけで頭が痛い。
「……ああ」
しかし、この黒猫がいなければ、命を落としていたことも確かだ。もっとも、この黒猫がいなければ、危険にさらされることもなかったのだが。
「仕方ない。クロじゃねえなら、なんて呼ぶか。……そうだな、ブラック。お前はブラックだ」
凛が不思議そうに首を傾げると、クロではない黒猫は作業台の上でちょこんと座り、自分の前足をペロペロと舐め始めた。まるで自分の家のように寛いでいる。
「ちょっと待ってて。救急箱持ってくるから」
凛はパタパタと走り去り、すぐに古びたプラスチックの救急箱を抱えて戻ってきた。
弦の目の前に立つと、消毒液を浸した綿棒を手に、少し怒ったような、でも心配そうな顔で弦の顔を覗き込んできた。
「ちょっと動かないでね。……痛かったらしがみついてもいいから」
「おいおい、元刑事に向かってそりゃないぜ」
「はいはい、元刑事さん。じっとしてて」
凛の手が、弦の頬にそっと触れる。
消毒液が、地下通路で黒服の警棒をかすった頬の切り傷に染みた。弦がウッと小さく眉をひそめると、凛は「ごめん、痛かった?」と、声を少し和らげた。
「弦さんはいつもそう。頼まれたら断れないからって、すぐ一人で無茶して……。探偵って、もっとスマートに尾行とかする仕事じゃないの?」
「俺の辞書に『スマート』って言葉は最初から載ってないんだよ。……痛っ」
「わざと強く押したの。お仕置き」
凛はふくれた顔をしながらも、丁寧に、そっと絆創膏を弦の頬へと貼り付けた。
少し大人びたシャンプーの香りと、厨房のコーヒーの匂いが混ざり合って、弦の鼻腔をくすぐる。張り詰めていた身体の芯が、その温かさで少しずつ解けていくのが分かった。
「ほら、できた。男前が台無し」
「ありがとよ。これで少しはマシな探偵に見えるだろ」
「見えるわけないでしょ、前髪クシャクシャなのに」
凛はクスッと笑うと、今度は作業台の上のブラックに視線を移した。
「よし、と。次は……」
「ブラックだ」
「ブラックちゃんね。ちょっと体見せてね……あ、こっちも後ろ足のところに小さな擦り傷がある」
凛が優しく手を伸ばすと、あれだけ人間を警戒していたブラックが、なぜか大人しくその手を嗅ぎ、されるがままに怪我の手当てを受け入れ始めた。
「なんだよ、現金なやつだな。俺が触ろうとしたときは思いっきり爪を立てやがったくせに」
「ブラックちゃんは分かってるんだよ。誰が本当に優しいかってことをね」
凛はブラックの傷口に優しく薬を塗り、小さな包帯を巻いてやった。ブラックは喉を「ゴロゴロ」と鳴らし、凛の指に自分の頭を擦り付けている。
「……ふん。調子のいい猫だぜ」
弦はポケットから安タバコを引っ張り出したが、凛に「厨房は禁煙!」とピシャリと睨まれ、大人しくそれを耳の裏へと挟み直した。
「あぁ、ここにいたのね」
厨房ののれんをくぐって、紫色のドレッシーな着物に身を包んだ沙織ママが姿を現した。
大人の色気と、歌舞伎町を生き抜いてきた芯の強さを感じさせる鋭い目が、ボロボロの弦と、作業台の上の黒猫、そしてその横にある救急箱を交互に捉えた。
「随分と派手にやってくれたじゃない、弦。裏口が騒がしいと思ったら」
「ママ……すまねえ、ちょっと場所を借りてる」
「別にいいわよ。凛、弦に温かいコーヒーでも淹れてあげなさい。ツケにはしておいてあげるから」
沙織ママはふっと妖艶に微笑むと、ブラックの真紅の目をじっと見つめた。
「それで? その子はクロちゃん?」
「いや、違ったらしい」
「あら、残念ね」
弦が苦々しい、といった表情で言うと、沙織ママはふっと煙草の煙を吐き出すように息をついて答えた。
「その子、どうするの?」
「さあな、後で逃がしてやるかな」
しかし、黒頭会が血眼に探しているのがこの猫かもしれなかった。もう少し付き合う必要があるな、と、弦はブラックを眺めた。そして、崩れた髪をもう一度後ろへ掻き揚げ、不敵に笑った。
頬の絆創膏が、その笑みで少し突っ張る。
凛が淹れてくれた湯気の立つコーヒーを受け取り、一口すする。苦味が疲れた身体に染み渡る。
作業台の上では、手当てを終えたブラックが、まるで「俺の戦いはこれからだ」とでも言うように、弦のコーヒーの湯気を真紅の目でじっと見つめていた。
つかの間のオアシス。しかし、この平穏が長く続かないことを、元刑事の勘が告げていた。




