【1】第4話 地下通路のチェックメイト
地下通路へ続く階段を駆け下りると、空気の質がガラリと変わった。
地上を覆っていた雨の匂いは消え、代わりに立ち込めるのは、湿ったコンクリートと鉄錆、そして長い時間滞留している淀んだ水の臭いだ。ここは新宿の地下を縦横無尽に走る、巨大な雨水幹線(地下放水路)の旧坑口だった。
カツン、カツンと、弦の革靴の音が無機質なコンクリートの四角い空間に反響する。
「あぁクソ……せっかくのスーツが台無しだ」
弦は片手で濡れた黒スーツの上着を肩に引っかけ、もう片方の手で完全にセットの崩れた前髪を強引に後ろへ掻き揚げた。整えられていた自慢の髪型は無残にも形を崩し、何筋もの黒髪が額に張り付いている。
前方の暗闇を、二つの怪しい真紅の光が先導していた。
例の黒猫だ。
猫は時折、振り返っては弦をその赤い目で見つめ、「早く来い」とでも言うように短く「ナァ」と鳴く。驚くべきことに、その足取りには迷いが一切ない。まるでこの複雑怪奇な地下の構造を、最初からすべて把握しているかのようだった。
「おい、お前。飼い猫にしては、随分と肝が据わってやがるな」
弦が苦笑しながら声をかけた、その時だった。
背後の階段から、ドタドタという無数の荒々しい足音と、激しい怒号が降ってきた。
「奥だ! 奥の旧通路へ逃げやがった!」
「ライトを照らせ! 逃がすな、あの野郎ごと猫を捕まえろ! チップを回収するんだ!」
何条もの強力なLEDライトの光軸が、迷路のような地下通路の壁を白々と照らし出し、急速に弦たちの背後へと迫ってくる。その数は十人近く。黒頭会もいよいよ本気だ。狭い閉鎖空間でこれだけの数に包囲されれば、いくら弦といえども素手で全員を制圧するのは物理的に不可能に近い。
「チッ、しつこい奴らだ。大井のハズレ馬券よりタチが悪いぜ」
弦は舌打ちをすると、クロの後を追ってさらに奥の通路へと足を速めた。
だが、運悪く突き当たったのは、頑丈な鉄格子の扉だった。かつて管理用として使われていたのだろうが、今は厳重に南京錠でロックされている。
「行き止まり、か……」
弦は錆びついた鉄格子を掴んで激しく揺さぶったが、ガチガチと不快な金属音をかき鳴らすだけでビクともしない。
背後からは、ヤクザたちの不気味な足音と、警棒を手のひらに打ち付けるペシペシという威嚇の音がどんどん近づいてくる。完全に袋のネズミだった。
「……マズイな。どうやらここが、俺の探偵事務所の終着駅らしい」
弦はあきらめたように息を吐き、ポケットから安タバコを一本くわえた。ジッポーを開け、親指でホイールを回す。最大の火力で灯った炎が、弦の鋭い横顔を照らし出した。
絶体絶命の状況。しかし、黒木は不敵に笑っていた。ふぅ、と一息つくと、猫に向かって言った。
「おい、黒猫。お前だけでもその鉄格子の隙間から逃げな。俺がここで、あの黒服のドブネズミどもを少しばかり引き留めておいてやる」
タバコの煙を吐き出し、弦は拳を固めた。
だが、足元にいたクロは動かなかった。それどころか、弦を見上げて呆れたように「フン」と鼻を鳴らしたように見えた。
次の瞬間、クロは信じられない行動に出た。
クロは、鉄格子のすぐ脇にある、壁の崩落しかけた古い通気ダクトの隙間へと飛び上がったのだ。人間一人分がギリギリ通れるかどうかの、暗く狭い横穴。猫はダクトの中から、もう一度その真紅の目を光らせて弦をじっと見つめた。
「……そこを通れってのか?」
弦はタバコを床に投げ捨て、靴の裏で踏み消した。
「おいおい、俺のスーツのローンがまた増えるぞ。だが……背に腹は代えられねえな!」
弦は肩をすくめると、崩れかけたコンクリートの隙間に無理やり身体をねじ込み、ダクトの中へと這い進んだ。スーツの生地がガリガリと削れる嫌な音が響くが、気にする余裕はない。
直後、弦がいた鉄格子の前に、ライトを構えた黒服の群れがなだれ込んできた。
「クソッ! 誰もいねえぞ!」
「あそこだ! 通気口の奥に逃げやがった! 追え!」
ダクトの入り口から、激しい怒号とライトの光が差し込んでくる。
狭いダクトの中を、クロは音もなく滑るように進んでいく。弦は四つん這いになりながら、必死でその後を追った。
どれほど進んだだろうか。狭く暗いダクトの中を、膝と肘を泥まみれにしながら四つん這いで進む時間の長さは、永遠にもほんの数分のようにも感じられた。時折、近くに感じる足音をやり過ごすために暗闇とダクトに同化する。そして、そんな果てしない神経戦を繰り広げている最中、突然、クロが足を止めた。
そこは、別の広い排水路の天井裏に位置する、キャットウォーク(狭い足場)の上だった。足元を見下ろすと、数メートル下には勢いよく濁流が流れる巨大な本流のプールがある。
そして、運悪くそのキャットウォークの先(出口側)からも、回り込んできた別の黒服の男が二人、ライトを照らしながら歩いてくるのが見えた。
「おい、こっちのルートにも網を張れ。さっきの男も必ずここを通るはずだ――」
男たちが弦の姿を捉えるのと、クロが動くのは同時だった。
漆黒の身体が、まるで闇そのものが躍動するように、音もなく宙を舞った。クロは、先頭の男の顔面に向けて正確無比に飛びかかったのだ。
「うわあああッ!? 猫かァッ!」
男が悲鳴を上げる。クロは鋭い爪を剥き出しにし、男の顔面を容赦なく引き裂いた。ライトが手からこぼれ落ち、暗闇の中で激しく回転しながら下のプールへと消えていく。
「よくやった、クロ!」
弦はその隙を見逃さなかった。狭い足場を一気に駆け抜け、顔を押さえてうずくまる男を肩で突き飛ばすと、もう一人の男の懐へ弾丸のように飛び込んだ。
相手がナイフを抜くよりも速く、弦の左拳が男の鳩尾を深くえぐる。
「ガハッ……!」
息を詰まらせて崩れ落ちる男の襟首を掴み、弦はそのまま背後のコンクリート壁へと叩きつけた。鈍い衝撃音が地下空間に響き渡り、二人のヤクザは完全に沈黙した。
「ふぅ……」
弦は乱れた息を整えながら、再び手櫛でオールバックの形を作り直そうとしたが、すでに汗と雨でどうにもならなくなっているのを諦め、小さく首を振った。
足元に、着地したクロがすたすたと歩み寄ってくる。
その真紅の瞳は、まるで「これくらい当然だ」とでも言いたげな、冷徹で誇り高い輝きを放っていた。
「おいおい……お前、本当にただの猫か? 元警視庁のこの俺と、これだけ完璧に呼吸が合うなんてな」
弦は膝をつき、クロの頭に手を伸ばそうとした。
だが、クロはフイッと顔を背け、触らせようとはしない。相変わらず愛想がない。だが、その態度がむしろ、弦には妙に心地よかった。
「ハッ、お高くとまりやがって。だが、助かったぜ。俺たちの流儀には、猫の手を借りるって項目も追加しとくべきだな」
二人の背後、ダクトの奥から再び無数の足音が近づいてくる。黒頭会の主力部隊が追いついてきたのだ。
「さて、お喋りはここまでだ。この先を出れば、歌舞伎町の区役所通り裏に出るはず。……行くぞ、クロ」
弦は不敵な笑みを浮かべ、黒猫と共に、地下通路の出口から地上へと続く階段を一気に駆け上がっていった。
雨の新宿の夜は、まだ始まったばかりだった。




