【1】第3話 立ち入り禁止区域のクロ
大井から新宿へ戻る電車の窓には、再び激しさを増した雨が斜めの線をいくつも刻んでいた。
深夜十二時をまわった歌舞伎町。ネオンの光はさらに毒々しさを増している。傘の波をすり抜け、弦は喧騒の表通りから、一本の細い路地裏へと足を踏み入れた。
通称「立ち入り禁止の路地裏」。
頭上を無数の配管と古い電線がクモの巣のように覆い、昼なお暗いその場所は、深夜ともなれば完全に街の臓物である。室外機から吐き出される生暖かい風と、生ゴミの腐った臭いが、ヘビー級の湿気と混ざり合って鼻腔を突いた。見渡すと、配管から漏れる水滴がトタン屋根を不規則に叩き、不法投棄された家電が積まれている。
ガラさんの言っていた通りだった。
普段なら酔っ払いがひっくり返っているか、野良猫がゴミ漁りをしているだけの暗がりに、明らかに異質な気配が満ちていた。
(……いるな。それも、ゾロゾロと)
弦はカッチリと固めたオールバックの髪型を、雨に濡らさないよう律儀に守りながらビルのひさしの下に身を潜め、鋭い目を光らせた。
路地の各所に、傘も差さずに佇む男たちの姿がある。一目で仕立てが良いとわかる黒の高級スーツ。しかし、その耳には無線機用のイヤホンが光り、衣服の下には一様に、肉厚な一物が隠されているのが元刑事の目には一発で分かる。広域暴力団「黒頭会」の構成員たち。数億円の価値があるという「赤目の黒猫」を燻り出すための、文字通りのローラー作戦だ。
「おい、そっちのゴミ箱の裏は見たか?」
「あァ、いねえ。クソ猫め、どこに隠れやがった」
低く濁った声が配管に反響する。男たちの一人が、苛立ちをぶつけるように手にした金属製の警棒でペール缶を殴りつけた。ガシャァン、と夜の静寂を切り裂く高い音が響く。その暴力的な音に、弦は奥歯を噛み締めた。
(まったく、ただの迷子猫捜しが、ヤクザの巣窟への殴り込みになるとはな。沙織のやつ、本当に割に合わないツケを回収しにきやがる……)
愚痴を心の中でこぼしながらも、弦の身体はすでにプロのそれとして動いていた。気配を完全に消し、男たちの視線の死角を縫うようにして、路地のさらに奥、黒猫が徘徊していたという古い雑居ビルの隙間へと潜り込んでいく。
そうして、怪しげな黒服たちの包囲網をかい潜り、暗い裏路地のダストボックスを転々としながら猫を追いかけ続け、気がつけば日付が変わってから既に一時間近くが経過しようとしていた。
その時だった。
頭上の錆びついた非常階段の踊り場から、パサリ、と微かな音がした。雨の音にかき消されそうなほど小さな、しかし確実に四本の足が着地した音。
弦がハッと見上げると、確かにそこにいた。
暗闇の中で、怪しく、しかし気高く発光する二つの「真紅の瞳」。濡れて泥にまみれているが、夜の闇をそのまま切り取ったかのような、漆黒の美しい毛並み。
「……やっと見つけたぜ、クロ」
弦は思わず口の端を上げた。だが、再会の余韻に浸る時間は一秒も与えられなかった。
黒猫と弦の視線が交差した瞬間、その真紅の瞳が、何かを警告するようにカチリと見開かれたのだ。
「おい! 階段の上だ! 何か動いたぞ!」
路地の入り口にいた黒服の男が叫んだ。一斉にライトの強烈な光が非常階段を照らし出す。
眩しさに目を細めた黒猫は、短い威嚇の声を上げると、敏捷な動きで階段の隙間をすり抜け、さらに奥の狭いダクトの上へと跳ね上がった。
「待ちやがれ! クソ猫が、そっちに追い込め!」
「あ? おい、あそこに誰かいるぞ! 誰だお前は!」
ライトの光軸が、今度はひさしの下にいた弦の姿を捉えた。カチッと決まった黒スーツにオールバック。ヤクザたちからすれば、明らかに一般の酔っ払いでも、自分たちの身内でもない不審者だ。
「……おやおや。お仕事中、お邪魔したようですみませんね」
弦は咄嗟に、いつもの調子のいい「しがない探偵」の顔を作り、両手をひらひらとさせて愛想笑いを浮かべた。
「いやぁ、ちょっとうちの可愛い家猫が脱走しちまいましてね。そこのお嬢ちゃん……じゃなくて、そこの猫ちゃんを捜しにきただけなんです。みなさんも猫がお好きで? 奇遇ですねぇ、猫の手も借りたいってのはまさにこのこと――」
「あぁん? ナメた口叩いてんじゃねえぞ、コラ」
一番体格のいい男が、弦の胸ぐらを掴もうと太い腕を伸ばしてきた。その瞬間、弦の目が冷徹な元刑事のものへと切り替わった。
「おっと、触るなよ。このスーツ、まだローンが残ってんだ」
弦は男の手首を最小限の動きでパシッと叩き落とすと、そのまま相手の懐へ滑り込み、顎の下から手のひらで突き上げるような強烈なアッパー(掌底)を叩き込んだ。
ガツン! と鈍い音がして、大男の巨体が面白いように後ろへひっくり返り、雨の泥水を跳ね上げて派手にゴミ箱の山へと突っ込んだ。
「なっ……この野郎、カタギじゃねえ! 叩き潰せ!」
周囲の黒服たちが一斉に色めき立ち、衣服の裏から特殊警棒やナイフを引き抜く。その数、五人。雨が激しさを増す中、新宿の最深部で、男一人の孤独な乱闘劇が幕を開けた。
「ハッ! 傘持ってくりゃよかったぜ!」
弦は不敵に笑うと、迫り来る一本の警棒を紙一重でかわし、その男の腕を掴んで背負い投げの要領でアスファルトに叩きつけた。さらに、横から迫るナイフをヒラリとかわす。だが、紙一重でかわしたはずのナイフは、弦の黒スーツの脇をほんの数センチ切り裂いた。
「ああ! なんてことを!」
弦はそう嘆くと、着崩した黒スーツの上着をバサリと脱ぎ捨てて目隠し代わりに投げつける。そして、視界を奪われた男の腹へ、容赦のない前蹴りを一閃。
雨水を跳ね上げながら、弦の身体が躍動する。現役時代、数々の凶悪犯を素手で制圧してきたその技術は、探偵に身を落とした今でも完全に錆びついてはいなかった。
しかし、多勢に無勢。路地の奥から、さらにドタドタと新しい足音が近づいてくるのが聞こえる。黒頭会の増援だ。
「チッ、キリがねえ!」
弦が最後の一人を壁に叩きつけた時、ダクトの上から、あの黒猫が再び姿を現した。猫は、まるで弦の戦いぶりを品定めするかのように上から見下ろすと、その真紅の目を怪しく光らせ、路地のさらに奥、行き止まりのように見える古い地下通路の階段へと飛び降りていった。
「おい待て、そっちは――!」
背後から、無線機で応援を呼ぶヤクザたちの怒号が迫る。
「あぁクソ、髪が台無しだ!」
弦は雨で完全にクシャクシャになった髪を手櫛で強引に後ろへ掻き揚げると、脱ぎ捨てた上着を拾い上げ、黒猫の後を追って、闇が口を開ける地下通路の階段へと一気に駆け下りていった。




