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【1】第2話 ガラさんと大井競馬場

 大井競馬場。


 カクテル光線にギラギラと照らされたダートコースを、地響きを立てて鉄の塊のような競走馬たちが駆け抜けていく。蹄が叩き上げる泥しぶき、夜の闇に飛び散る汗、そしてスタンドを埋め尽くす観客たちの、欲望と怨嗟が入り混じった怒号。その怒号と共に吐き出されたタバコの煙。それらが一体となって辺り一面を覆い尽くす。


 ここには新宿のネオン街とはまた違う、鉄火場特有の濃厚なドブネズミの匂いが立ち込めていた。


 そのスタンドの最前列、冷え切ったモツ煮のプラスチック容器と、持ち主に見捨てられた無数のハズレ馬券の向こう側に、小柄な男が頭を抱えて立っていた。よれよれのジャンパーに、耳にはすっかりすり減った赤ペン。その男の足元にも、今日の結果を示すように数え切れないほどのハズレ馬券が積み上がっていた。


「カァーッ! なんでそこで垂れるんだよ12番! 直線向いた時は完全に勝ったと思ったぞ! あぁ、俺の今月の生活費、いや、先月と先々月の分まで合わせた大金が……。お前のその短い足のせいで一瞬にして宇宙の藻屑だ、このバカヤロー!」


 握りしめていた競馬新聞を地面に叩きつけ、文字通り地団駄を踏んでいる男。こいつこそが、新宿のあらゆるドブ川の底を這い回る情報屋、通称「ガラさん」だ。表の人間がアクセスできない裏社会の泥水をすすり、それを金に換えてはこうしてギャンブルに溶かす、救いようのない競馬狂いである。


 その後ろ姿に向けて、弦は一歩踏み出し、わざとらしく大きなため息を吐いてみせた。


「よぉ、ガラさん。今日も元気に全財産をドブに捨てて、日本経済を一人で回してるな」


 背後からの声に、ガラさんはビクッと肩を跳ね上げ、ネズミのような鋭い目で振り返った。弦の顔を見るなり、あからさまに嫌そうな顔をしてペッと足元に唾を吐く。


「……チッ、誰かと思えば黒木じゃねえか。なんだよ。カタブツのお前がこんな神聖な勝負の場に何の用だ? 見ての通り、今の俺は財布の中身も心の中も、シベリアの永久凍土より冷え切ってんだ。お前に奢るコーヒー一杯分のガマ口もありゃしねえよ。話しかけるな、貧乏がうつる」

「安心しろ、奢ってもらいに来たんじゃない。むしろ逆だ。絶望の淵にいるお前に、最高に美味い話だぜ?」


 弦は不敵に口の端を上げると、ポケットから五百円玉を一枚取り出した。あとで沙織に請求するつもりの、貴重な軍資金の一部だ。弦は五百円玉を弄ぶようにクルクルと回すと、ガラさんは執拗にそれを目で追った。


「おいおい、黒木。意地が悪いな。そんなはした金で俺を使おうってのか?」

「嫌なら良いんだぜ? まあ、俺にとっても大事な夕飯一食分だしな。やめとくか?」

「ま! 待て、黒木。今の俺はサバンナのライオンもびっくりするほど飢えてんだ」


 弦が親指でピンと弾くと、銀色のコインが夜間照明を浴びて綺麗に放物線を描く。ガラさんは、ハズレ馬券を掴む時以上の反射神経でそれを空中でキャッチした。即座に前歯でガチッと噛み、本物かどうかを確認してから、ふんぞり返る。


「……フン、ワンコインだが仕方ねえ。安物のホッピー一杯に、せいぜいハムカツが一枚付けられる程度だな。まあいい、今の俺には五百円でも神様に見える。で、元刑事がわざわざ大井まで俺を追いかけてきて、何が知りたい?」


 弦は周囲の騒音に紛れ込ませるように、声を一段低く落とした。カチッと決めたオールバックの下から、鋭い眼光が覗く。


「昨日から、新宿の歌舞伎町周辺で妙な動きがある。黒い服を着た、明らかにカタギじゃない男たちが、血眼になって『ある黒猫』を追い回してるらしい。特徴は、真っ黒な毛並みに、赤っぽい瞳、そして首に白い線があるって話だ。……ガラさん、お前の大好きなドブネズミたちの間で、何か噂は流れてないか?」


 その瞬間、ガラさんのネズミのような顔から、ギャンブルの負け惜しみによる締まりのない表情が一瞬で消え失せた。表情がピキリと凝固し、肌の色の土気色が一層強くなる。


 男は周囲の観客を鋭く警戒するように見回すと、弦の胸ぐらをグイと引っ張り、スタンドの影へと引きずり込んだ。


「おいおいおい、黒木……お前、正気か? どこでそのヤマを拾ってきた。冗談だろ?」

「冗談ならわざわざこんな加齢臭と馬糞の匂いがする場所まで来ないさ。沙織のバーの常連のガキが泣いてたんだよ。自分が可愛がってた猫がいなくなったってな。……ガラさんのその慌てぶりを見る限り、やっぱりただのペット捜しじゃねえな?」


 ガラさんは信じられないものを見る目で弦を見上げ、頭を抱えた。


「バカ言え、ただの猫なわけねえだろ! その猫の首にはな……いや、首輪はついてねえ。とにかく、その『赤目の黒猫』は今、新宿、いや東京中の裏社会で、数千万……下手をすりゃ億単位の賞金がかけられてる『特級危険物』だ。おい、お前が聞いたのは本当にその猫か?」

「億……? 猫が金塊でも丸呑みして逃げ回ってるってのか?」

「もっとタチが悪いぜ。金塊ならまだ可愛げがある。一週間前、お前もよく知ってる『黒頭会(こくとうかい)』の秘密金庫が、身内の裏切り者によって完全にハッキングされたんだよ。その際、組織が長年溜め込んできたアレやコレや……簡単に言えば、奴らが全部ぶっ飛ぶような『極秘データ』がすべて、特殊なマイクロチップに暗号化されて盗み出されたんだ」


 弦の脳裏に、刑事時代の記憶が呼び覚まされる。黒頭会。それは新宿の表も裏も貪り尽くす、冷酷非道な巨大組織。


「……なるほどな。で、そのチップが、なんで猫の話になるんだ?」

「裏切り者の足がつく寸前、そいつは追っ手を撒くために、たまたま近くにいた猫の……その、赤目の黒猫の体に隠したんだとよ。黒頭会の連中は、その猫の居場所を特定するために、系列のヤクザや半グレを総動員してドブ板選挙並みのローラー作戦を展開してるって話だ。文字通り、街中の黒猫を片っ端から捕まえるって勢いさ」


 ガラさんは先ほどの五百円玉をポケットの奥底に大事そうにねじ込むと、弦の肩をバシバシと力任せに叩いた。その手は、恐怖でわずかに震えている。ガラさんに目を向けると、額から冷や汗を垂らし、よれよれのジャンバーが汗に濡れていた。


「いいか、黒木。お前が元刑事の正義感だか何だか知らねえが、首を突っ込んでいいヤマじゃねえ。相手はあの黒頭会だぞ? 慈悲なんて言葉はあの薄汚い事務所の辞書にも載ってねえだろ。見つかればお前、その自慢のオールバックごとミンチにされて東京湾の魚の餌だ。このワンコインは貴重な情報料としてありがたく貰っとくが、悪いこたぁ言わねえ。ガキには『あの猫は遠いお星様になった』とでも言って、適当な三千円の三毛猫でも買って誤魔化しな!」


 その時、最終レースの始まりを告げるけたたましいファンファーレが、大井競馬場の夜空に鳴り響いた。スタンドのボルテージが最高潮に達し、観客たちの地鳴りのような歓声が二人を包み込む。


「あぁクソッ、最終が始まっちまう! 俺はこれに人生のすべてを、明日の食費を賭けなきゃならねえんだ! じゃあな黒木。いいか、絶対にあの猫には近づくんじゃねえぞ!」


 ガラさんはそう言い残すと、まるで取り憑かれたように、人混みを押し分けて馬券売り場へと脱兎のごとく走り去っていった。


 一人残された弦は、ぽつりとおいていかれた。雨が上がった大井の夜空を見上げ、苦笑交じりに手櫛でクシャクシャになったオールバックをきっちりと整え直す。


「……数億のデータを持った、黒猫、ねぇ」


 ただの可哀想な迷子猫だと思って引き受けた依頼が、新宿を丸ごと巻き込む大悪党どもとの全面戦争に化けやがった。


 だが、弦の胸の奥で、かつて失ったはずの刑事の血が、ドクドクと不敵なビートを刻み始めているのを感じていた。


「ハッ……いいじゃねえか。割に合わない大仕事ほど、男ってのが試される」


 弦はポケットの中で、もう一枚残っていた最後の五百円玉を親指で弄ぶ。そして、ポケットから安タバコを一本取り出すと、それに火をつけ、勢いよく煙を吐き出した。


 向かうべき場所は決まっている。大井競馬場を後にし、あの黒猫が最後に目撃されたという、歌舞伎町の最深部。そこは、ヤクザどもが目を光らせる「立ち入り禁止の路地裏」だった。


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