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【1】第1話 ブタの貯金箱の依頼

 窓の外に輝く、歌舞伎町のギラギラとしたネオン。濡れたアスファルトを安っぽく照らすその輝きは、雨に打たれた窓ガラスを通して薄暗い事務所の壁に怪しげな光の模様を映し出していた。聞こえてくるのはパトカーのサイレンと、言い争う声。その事務所では男が一人、デスクで不敵な笑みを浮かべていた。


 カッチリと決めたオールバックと着崩した黒のスーツ。男の名は黒木弦。渋い手つきでジッポーを開けると、最大の火力で火を灯し、安タバコに火をつけた。


「……フッ。完璧だ」


 キザに言いかけたその時、背後のソファから冷ややかな声が響いた。


「ナァ」


 漆黒の毛並みに、真紅の瞳。ソファのクッションの真ん中に陣取っているのは、黒猫のブラックだ。弦のドヤ顔を、完全に冷めきった目で見つめている。


「……おい。人がせっかく格好よく決めてる時にそういう目をすんな。あと、そこは俺の指定席だ、どけ」


 ブラックは動かない。それどころか、顎でデスクの端にある空の猫缶をツンとしゃくった。


「はぁ……わかったよ」


 弦は引き出しから、金文字で『極・厳選まぐろ』と書かれた1缶800円の最高級キャットフードを取り出し、格好よく差し出す。


「さあ、食いな。お前の働きにはそれだけの価値がある」


 ブラックはフンフンと匂いを嗅ぐと、一度弦の顔を見てからプイッと顔を背け、ソファの裏へ歩き去ってしまった。小馬鹿にしたような気まぐれな態度。マグロの気分ではなかったらしい。


「お、おい! それ800円だぞ!? 俺の今日の晩飯知ってるのか? 頼むから一口でも食え!」


 台所には先ほど下の台湾料理屋で買ってきた、50円引きのラーメンが置いてある。黒木は必死で髪の毛をクシャクシャにしながら猫を追いかけた。俺たちの関係に名前はない。ただ、半年前のあの最悪な夜から、この気まぐれな居候は俺の特等席を陣取り続けている――。


◇


 時間を半年前へと巻き戻そう。


 その日も新宿は、じめじめとした湿気を孕んだ夜を容赦なく連れてきていた。外ではエアコンの室外機が音を立てて回り、雨に濡れたネオンがいつにも増してうるさく感じられる。


 「黒木探偵事務所」の家賃は二ヶ月滞納。デスクの上には、複数の督促状が束になって無造作に積み上げられている。そしてその脇に、中身が十円玉ばかりの小銭入れが寂しく転がっている。


「ねえ、黒木。いるんでしょ」


 ノックもなしに薄汚いドアがガチャっと開いた。入ってきたのは、このビルの斜め向かいにある老舗バーの雇われママ、沙織だった。派手なキツネ目のメイクだが、男ウケするファッションと立ち振る舞い。絵に描いたような新宿の夜の住人である。


「おやおや、ママさん。お出迎えの準備ができてなくてすみません。今ちょうど、国際的な大企業の裏工作を暴く大仕事の真っ最中で――」

「家賃の催促ならさっき大家から聞いたわよ。それより、あんたに仕事。割に合うかどうかは知らないけどね」


 沙織がパッと横に退くと、その背後に一人の小さな影が隠れていた。


 小学校に上がったばかりくらいの、黄色いカッパを着た女の子だ。ピンク色のプラスチック製のブタの貯金箱を、小さな両手で大事に抱きしめている。よく見ると、傷だらけのその貯金箱は何度か開けた形跡があり、底にある蓋の部分には何重にもセロハンテープで止め直した跡がある。


 女の子は、背の高い黒スーツの弦を、大きな潤んだ目で見上げた。


「……ここ、なんでもさがしてくれる、かっこいいおにいさんのおみせ?」

「お、おぅ。まあ、かっこいいお兄さんってのは俺のことだな。しかし、お嬢ちゃん。何の用だ? 迷子なら交番はあっちの――」

「クロを、さがしてほしいの」


 女の子は、その傷だらけのブタの貯金箱をデスクの上にドン、と置いた。チャリン、と軽い音が響く。


「クロは、まっくろなねこ。おめめがちょっと赤っぽくて、首に白い線があるの。昨日からおうちに帰ってこなくて……。おじちゃんたちがいっぱい追っかけてるって、クロ、いなくなっちゃったの」


 女の子の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。


 弦は一瞬、いつもの不敵な笑みを消し、元刑事としての鋭い目を光らせた。


「おじちゃんたち、が追っかけてる?」

「うん。くろい服着た、こわいおじちゃんたちが、クロを捕まえようとしてるって言ってた」


 沙織は黒木を見ながら、横から口を挟んだ。


「この子の名前はミクちゃん。うちの常連の娘だよ。なんでも、ミクちゃんが可愛がってた猫が帰ってこなくなったらしくてね。昨日あたりから変な男たちが黒猫を追い回してる、って話もあって。ミクちゃん、お小遣い全部持ってあんたのとこに来たんだよ」


 弦はデスクの上のブタの貯金箱を見た。重さからして、入っているのはせいぜい数百円、多くて数千円だろう。


 弦はふっと息を漏らし、再び調子のいい「探偵・黒木弦」の顔に戻って額をペシペシと叩いた。


「いや〜、お嬢ちゃん。気持ちは嬉しいんだけどね、俺の流儀として、そんな割に合わない小さな依頼は……ほら、俺はもっとこう、国家の命運を分けるような事件しか扱わないことにしててさ――」

「弦さん」


 沙織の声のトーンが、一瞬でドスの利いたオヤジ殺しの低音に変わった。弦を見る目が冷たく突き刺してくる。


「あんた、うちの店にウイスキーのツケ、いくら残ってるか分かって言ってるのかしら? 今月中に耳を揃えて返せないなら、明日からあんたに引くウイスキーが全部水道水になってるかもね。あと、大家に『あの部屋、夜逃げの準備してますよ』って吹き込んであげてもいいのよ?」

「……!」


 弦の額から前髪が一筋、ハラリと落ちた。


 引きつった笑いを浮かべながら、沙織に向かって手を擦り合わせる。


「ま、ママさん、冗談がキついなぁ! 水道水のウイスキーなんて、俺の繊細な舌が黙っちゃいませんよ。それに大家さんは私の大親友で……」

「じゃあ、この依頼、受けるわね?」

「……もちろん! 喜んで。黒木探偵事務所、猫一匹、新宿の底からでも引っ張り上げてみせましょう」


 弦は一度沙織に向かってニヤッと目配せすると、ミクちゃんの前で膝をつき、口の端をニィと上げた。


「よし、お嬢ちゃん。その依頼、この黒木弦が確かに引き受けた。お前の大事な『クロ』は、俺が必ず連れ戻してやる。だからその涙を拭きな」

「うん! おにいさん、ありがとう!」

「ただ、この金は受け取れないな。持って帰ってチョコレートでも買うんだな」


 ミクちゃんはパッと笑顔になり、沙織に連れられて事務所を後にした。


 静まり返った事務所で、弦はもう一度タバコに火をつけた。


「……まっくろな猫に、赤っぽい目、首に白い線、か」


 お嬢ちゃんは「怖いおじちゃんたち」と言った。ただの黒猫を、大の大人が血眼になって追いかける理由。


 新宿のドブ川の匂いが、ぷんぷんと漂ってきやがる。


「さてと……あいつなら何か掴んでるはずだ。……チッ、金もないってのに、今日は大井のナイター開催日かよ」


 弦はクシャクシャになった髪をもう一度手櫛でカチッとオールバックに固め直す。そのまま右手でポケットの寂しい小銭入れを掴むと、机の引き出しから剥き出しの五百円玉を数枚取り出し、小銭入れに入れた。


 そして、弦は事務所のドアを開け、雨の新宿の街へと駆け出していった。


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