【1】第10話 それぞれの流儀
歌舞伎町に朝が来る。
降り続いた大雨は夜明けと共に上がり、雲の切れ間から差し込む冷たい朝光が、濡れたアスファルトを白く焼き光らせていた。
大聖堂での死闘から数時間。警察の執拗な事情聴取を、元刑事の経験と人脈を総動員して煙に巻き、ようやく解放された時には、午前八時を回っていた。
弦はゾンビのような足取りで、新宿区役所通りの雑居ビルへと向かっていた。
全身の骨がきしむように痛む。裂けたスーツの上着は生乾きの泥に汚れ、半グレの鉄パイプを受け止めた左腕は、内出血でどす黒く腫れ上がっている。ポケットの中を探っても、出てくるのは中身の消えたハイライトの空箱と、火の点かないジッポーライターだけ。財布の中身は文字通り、一円の硬貨すら残っていない。
「完全に、敗北だな……」
弦は誰に言うでもなく自嘲の笑みを漏らし、古い雑居ビルの階段を上った。事務所の鍵を開けようとするが、なかなか開けられない。やっとの思いで鍵を開けると、ふらふらとした足取りで中に入った。そして、事務所に入るとそのままソファーに倒れ込んだ。
しばらくして、遠くからドアを叩く音が聞こえた。音がだんだん大きくなる。いつの間にか眠っていた弦は、ようやくそれが事務所のドアを叩く音だと気づくと、痛む体を起こしてドアに向かって歩いた。なんとか辿り着いてドアを開けると、そこには大家が立っていた。満身創痍の弦を見るなり、驚いた表情でこう言った。
「ちょっとちょっと、黒木さん、大丈夫?! いったいどうしたの?」
「あー、いや、大丈夫だよ、いやあ、今日も綺麗だねえ」
「また適当なこと言って……。大丈夫ならいいんだけど……。あ、そうそう、あのね、地下の倉庫から変な音がするのよ。申し訳ないけど、ちょっと見てきてくれないかしら?」
ビルの地下にある備品倉庫。その暗い廊下の奥から、かすかに「ガサゴソ」という頼りない音が聞こえていた。大家の言う通り、確かに何かがそこにいるようだ。
弦はビルの管理人から預かった鍵を鍵穴に差し込み、重い鉄扉を開けた。ギギ、と軋む音と共に扉が開く。薄暗い倉庫の奥に足を踏み入れ、埃を被った古いデスクの裏を覗き込む。
「……ミャー」
そこには、首の周りにハッキリとした白い毛のラインを持つ、お腹を丸々と膨らませた黒猫がいた。ミクちゃんが探していた、本物の「クロ」だ。
どこかで泥水をすすって衰弱しているかと思いきや、倉庫に保管されていたビルのオーナー用の高級なおつまみ缶や、スルメの袋を盛大に食い破り、エアコンの結露水を舐めながら、何不自由なくサバイバルしていたらしい。出られなくなって少し退屈していただけのクロは、弦の顔を見ると、嬉しそうに足元へ擦り寄ってきた。
「……おい、お前。こんなところで優雅にバカンスを楽しんでやがったのか」
弦は肩の力を抜き、泥だらけの手でクロをそっと抱き上げた。
その一時間後。弦は歌舞伎町の路地裏で、なけなしの貯金箱を抱えて待っていた少女、ミクちゃんにクロを引き渡した。
「クロ! よかったあ、クロ……っ!」
涙を流しながら、ちぎれんばかりの勢いで黒猫を抱きしめる少女。クロもまた、嬉しそうに少女の頬を舐めている。弦はその光景を静かに見つめ、ただ無言で背を向けた。
ブタの貯金箱の約束は、完璧に果たされた。
だが、探偵も霞を食っては生きていけない。弦はその足で、すべての元凶であるあの場所へと向かう。
午前十時。開店前の『Bar Crossroads』のドアを叩き、弦はカウンターの中にいる沙織の前に、破れたスーツの上着と、病院の領収書を叩きつけた。
「さあ、沙織さん。請求書だ。アンタの持ち込んできた火種のせいで、俺の五体は無茶苦茶、このザマだ」
沙織は仕込みの手を止めることなく、弦を一瞥する。そして、仕込みのほうに目を戻すと、目も合わせずに冷徹な一言が返ってきた。
「あら、人聞きの悪いことを言わないで、黒木。私はただ、猫を保護してって頼んだだけよ」
「その猫をきっちりミクちゃんに引き渡してやったぜ」
「そうね、ありがとう」
沙織は感情の起伏を一切見せず、淡々と答える。
「……おいおい、話が違うだろう? このかかった費用、払ってほしいんだが」
「あら? 心外ね。ミクちゃんに『受け取れないな』なんてカッコつけて受け取らなかったのは、どこの誰だったかしら?」
「冗談きついぜ、沙織さん。これ――」
「弦さん」
沙織は弦の言葉をさえぎり、ピシャリと言い放った。
「私に転嫁するなんて男らしくないわね。さんざんツケておいて、まだ私にたかる気かしら? 今日の営業の邪魔よ」
「……マジか」
弦は「……手厳しいねえ」と短く毒突くと、叩きつけた領収書を回収することもなく、踵を返して店の裏口から路地裏へと出た。冷たい現実の風が、裂けた上着の隙間から吹き込んでくる。
だが、薄暗い路地裏のコンクリート壁に背を預け、弦が深く溜息をついた、その時だった。
「――相変わらず、ママの前だと形無しね、黒木さん」
不意にかけられた声に顔を上げると、店の裏口から、凛が静かに歩み寄ってくるところだった。
彼女の両手には、大きめのシックな紙袋が抱えられている。
「凛……。冷やかしなら、あとにしてくれ」
「冷やかしじゃないわよ。これ、ママからじゃなくて、私からの『差し入れ』」
凛は悪戯っぽく微笑みながら、弦の胸元にその紙袋を押し付けた。
「ママがね、あんたのサイズをちゃんと覚えてたから、私が代わりに買ってきたの。あんたが怪我だらけのボロ雑巾のままだと、うちの店の見栄えが悪いんだってさ」
弦が戸惑いながら紙袋の中を覗き込む。
そこには、弦が普段から愛用している仕立ての良い新品のブラックスーツと、しけっていないハイライトの新品のカートンが収まっていた。そして、そのタバコの箱の底に、小さくて厚みのない、茶封筒が厳重に忍ばせてあるのが見えた。
封筒の表には、沙織の美しい筆跡で『少しばかりの経費』とだけ手書きされていた。
中身を確認せずとも、その重みで分かる。大金ではない。だが、破れたスーツの弁償代と、白石への迷惑料、そして弦の怪我を治すための最低限の治療費が収まっていた。これが不器用で最高に粋な、沙織の流儀だった。
「……そいつは、ありがてえな」
弦の口の端に、自然とニヤリとした笑みが浮かんだ。
凛はそれを見届けると、「じゃあね」と短く手を振り、足早に店の中へと戻っていった。
弦は紙袋から新しいハイライトを一本引っ張り出し、口に挟んだ。ジッポーを弾く。今度は、鮮やかなオレンジ色の炎が一発で灯った。深く煙を吸い込み、雨上がりの澄んだ空へと吐き出す。大赤字は、どうにか帳消しになった。
正午。
弦は新しいブラックスーツに身を包み、ようやく自分の探偵事務所のドアを開けた。
長かった夜が終わり、部屋の中にはいつもの退屈な静寂が戻っている。溜息を一つ。肩を回しながら、お気に入りの特等席である革ソファに身を沈めようとした、その瞬間だった。
「……おい」
弦の動きがピタリと止まった。
ソファの中央。一番座り心地の良いその場所に、漆黒の毛並みを持った一匹の猫が、丸くなって寝そべっていた。
首の後ろの鬱陶しいクリップから解放され、本当の自由を手に入れたはずの、あの「ブラック」だった。
ブラックは弦の気配を察すると、優雅に身を起こし、その真紅の瞳を細めて弦をじっと見つめた。そして、何事もなかったかのように「フン」と鼻を鳴らし、再び前足の中に顔を埋めて目を閉じた。そこが自分の定位置だと言わんばかりの態度。
「お前……。自由の身になったんじゃねえのかよ。そもそもそこは、俺の席だぜ?」
呆れる弦の声を聞き流し、黒猫は微動だにしない。そして、「ナァ」と小さく鳴くと、あくびをした。
弦はしばらくの間、その生意気な居候を眺めていたが、やがて諦めたように小さく笑った。
懐のハイライトに手を伸ばす。
億単位の秘密は闇の奥へと消え去り、手元には少女の笑顔の記憶と、なぜか居着いてしまった厄介な黒猫が一匹。
ジッポーの火を見つめながら、弦は煙草に火を点け、紫煙の中に目を細めた。
あれから半年。
気まぐれな黒猫は、まだ俺の目の前にいる。
俺たちの関係に名前はない。ただ、半年前のあの最悪な夜から、この気まぐれな居候は俺の特等席を陣取り続けている――。




