聞こえないところ
四日目の夜、天幕から戻ると、オルサが土間で待っていた。
いつもは奥にいる。土間の卓に座っているのは、珍しかった。
「読め」
「なにをですか」
「今日のぶんだ。全部」
「読むだけですか」
「読め」
「聞こえますか」
「聞こえん」と彼女は言った。「聞こえんが、あんたが読むところを聞く」
わたしは、その言い方が分からなかった。
分からないまま、読みはじめた。読んでいるうちに、分かった。
この人は、言葉を聞いているのではなかった。わたしがどこで止まるか、どこで速くなるか、どこで声が変わるかを聞いていた。
聞こえない耳でも、それは拾えるらしかった。
わたしは、板から紙を出して、端から読んだ。
読むのに、また一刻かかった。彼女は途中で一度も止めなかった。
読み終わって、顔を上げた。
顔を上げると、彼女はこちらを見ていなかった。
卓の上を見ていた。何も置いていない卓だった。
その置き方に、覚えがあった。北の谷でグリムが皮を扱っていたときも、島でヘズが石を並べていたときも、話しにくいことを言う前に、手元のほうを見ていた。
「あんたは、二度書いたな」
わたしは、その意味が分からなかった。
「昼のあと、トルヴェクの者が数を言った」と彼女は言った。「稼働坑の数だ」
「言いました」
「あんたは、それを書いた。書いてから、少し止まった。それから、また書いた」
わたしは、板の紙を見た。
書いてある。稼働坑、四十一。
その下に、行を空けて、もう一度同じ数が書いてあった。二度書いていた。
「気づきませんでした」
「気づかんかったのに、書いた」
「なんで、二度書いたんでしょうか」
「あんたが知っておるからだ」と彼女は言った。「知っておることが出てくると、手が止まる。止まったところから書き直すと、二度になる」
「そんなことが、分かるんですか」
「三十年、人が嘘をつくところを見てきた」と彼女は言った。「嘘をつく者は、たいてい同じところで止まる」
「わたしは、嘘をついてません」
「ついておらん」と彼女は言った。「ついておらんが、隠しておる」
彼女は、卓の上で手を組んだ。
「あんたは、その数を知っておるな」
「知ってます」
「本当は、いくつだ」
わたしは、答えるまでに少しかかった。
言うかどうかを、そこで初めて迷わなかった。
三年半、言うかどうかを毎回迷ってきた。シグリに言うかどうか。セリーナに訊くかどうか。グリムに教えるかどうか。
この人には、もう全部言ってあった。三国見の宿の土間で、一刻かけて言った。嘘は一つもないと言われた。
言ってある相手に、また言うのは、迷わなくてよかった。
「鳴っている坑が四十一です。そのうち、まともに出るのが十一です」
オルサは、そのことについて何も言わなかった。
「わしは、あの数を言うときの声を聞いた」と彼女は言った。「上がらんかった」
「嘘じゃなかったんですか」
「嘘ではなかった」
わたしは、そこで少し止まった。
「稼働坑は四十一だと、あの人は思ってるんですね」
「思っておるのだろうな」
「知らないんですね」
「知らんのだ」
わたしは、その言い方を受け取った。
トルヴェクの卓に座っているのは、坑主ではなかった。坑主に雇われた者だった。坑主から渡された数を持ってきて、それを読んでいる。渡された数が正しいかどうかを、その人は確かめられない。
確かめる方法がない、とセリーナは言った。掘ってみないと分からないものを、掘る前に数えている。だから、掘っている人の言い値を使う。
言い値を持ってきた者は、嘘をついていない。
その仕組みを、わたしはトルヴェクで見た。
代理人は、秤の合計をごまかそうとした。あれは、その人が自分でやったことだった。だから、直させたら直した。間違えたことにして、直した。
今度は、違った。
天幕の中で数を言った者は、自分では何もしていない。渡されたものを読んでいる。読んだものが違っていても、その人には直しようがない。
直せない者だけが、堂々と言える。
「オルサさん」
「なんだ」
「嘘じゃない数が、間違ってることはありますよね」
「ある」
「それは、聞こえますか」
彼女は、しばらく黙っていた。
「聞こえん」
彼女は、右の耳に手をやった。当てて、下ろした。
「三十年、それをやってきた」と彼女は言った。「人が嘘をつく音は、全部聞こえた。人が間違えておる音は、一度も聞こえんかった」
わたしは、板の紙を膝の上に置いていた。
「わしに聞こえんところを聞かせろと、証文に書いた」と彼女は言った。「耳のことだと思っておったろう」
「思ってました」
「そっちも本当だ」と彼女は言った。「だが、そっちだけではなかった」
彼女は、こちらを見た。
「間違いは、数えられる者にしか聞こえん」
わたしは、その言葉を受け取った。
受け取って、しばらく何も言えなかった。
嘘を聞く者と、間違いを数える者が、この席に一人ずつ座っている。二人でないと、どちらも拾えない。
港の梁と荷車で、二人が別々に数える。北の谷では、刻みに行くとき二人で行った。疑うための決まりではなく、疑わずに済ませるための決まりだった。
この席も、そうなっていた。
そうなるように組んだのは、この人だった。証文に、読み書きのできる者がいいと書いた。




