眉の傷
初日の朝、天幕へ入った。
中は、思っていたより暗かった。布を重ねてあるので、光が入らない。四隅と真ん中に、油の明かりが置いてあった。
油の明かりは、蝋燭より煙が少ない。少ないが、息は減る。
半日座っていると、頭が重くなった。灰海の縁を歩いたときと、少し似ていた。あれは灰のせいで、これは油のせいだった。原因が違うのに、体の感じが同じになるのが妙だった。
天幕の隅に、水を張った桶が置いてあった。息を楽にするためだと、あとで聞いた。
円卓ではなかった。円に並べた別々の卓だった。同じ大きさの卓を十、円に並べて、間隔を等しくしてある。同じ大きさにしたのは、大きさで揉めないためだった。
席の順は、決まっていた。
入口から見て右回りに、国の名が並んでいる。並べ方の根拠は、五十年前の署名の順だった。
五十年前の順を、いまも使っている。
五十年で、国の大きさは変わった。ロヴァニスは当時より豊かになった。ヴェルガルドは当時より貧しくなった。それでも、席の順は動かない。
動かさないのは、動かすと揉めるからだった。
一つの卓だけ、誰も座っていなかった。
わたしたちの席は、円の外側だった。低い床几が二つ。オルサが座り、わたしはその左に座った。左に座ったのは、彼女の聞こえるほうがそちらだからだった。
その席から円の中がどう見えるかを、わたしは前の日に確かめておいた。
九つの卓のうち、六つは顔が見える。三つは横顔だけだった。横顔だけの卓は、声で拾うしかない。
拾えるかどうかを、前の日に天幕へ入って試した。試させてくれと言ったら、三国見の者が入れてくれた。誰の領土でもない土地は、そういうところが緩かった。
膝の上に、板を置いた。板に紙を挟んで、その上に書く。ロヴァニスの取引所で、セリーナが同じものを抱えていた。
人が入ってきた。
一つの卓に、三人か四人ずつ。前に座るのが署名する者で、後ろが供の者だった。供の者は、書くための道具を持っていた。
どの国も、自分のところで書いていた。
自分のところで書いたものは、自分のところの帳面になる。十の帳面ができて、十とも少しずつ違うものになる。だから、その外に一つ、立会人の記が要る。
そういう仕組みだと、オルサが前の晩に説明した。
「十の帳面が違うと、どうなるんですか」
「揉めたときに、自分のを出す」と彼女は言った。「出し合って、合わんかったら、立会人の記を見る」
「立会人の記が間違ってたら」
「そこで終わりだ」
彼女は、そう言った。
「だから、立会人は外から連れてくる。どの国の者でもない者を連れてきて、書かせる」
わたしは、そのときはまだ、それを他人事として聞いていた。
アルディエルの卓は、右手のほうだった。
三人が座った。前の一人は年寄りで、司祭の服を着ていた。胸の紋章に、輪の中の線が四本あった。
後ろの二人のうち、一人が書く道具を出した。
もう一人は、出さなかった。
書かないほうの供の者を、どの卓も一人ずつ連れていた。
ロヴァニスの卓のそれは太った男で、剣を持っていなかった。ヴェルガルドのは、腕を袖の下に入れていた。ザルハーンのは、女だった。
どの国も、書く者と書かない者を一人ずつ置いていた。書かない者が何をするのかは、訊かなくても分かった。
腰に剣を下げていた。
黒い髪を短く刈っていた。左の眉に、古い傷があった。
わたしは、板の上の紙を見ていた。見ながら、息を数えた。数えないと、手が動きそうだった。
彼は、こちらを見ていなかった。
天幕の中を、順に見ていた。どの卓に誰が座って、誰が武器を持っていて、出口がどこにあるか。そういうものを見る目つきだった。
その目が、円の外へ来た。
立会人の席で、止まった。
わたしは、顔を上げなかった。
上げなくても、分かった。この人は、三年前、葦の中でわたしの顔を見ている。その前に、雨の上がった麦畑でも見ている。
背は伸びた。髪も伸びた。服も違う。腕は袖の下にある。
それでも、顔は顔だった。
長かった。数えるほどの間だったのかもしれない。
わたしは、板の紙に、その日の日付を書いた。書いてから、天幕に入った者の数を書いた。数えるのは、癖だった。癖が、いちばん役に立つ場所だった。
顔を上げたときには、彼はもう別のほうを見ていた。
わたしは、板の紙に一行書き足した。
アルディエル、供二名。うち一名、記録役。うち一名、帯剣。
名は書かなかった。書く決まりがなかった。書けば、書いた理由を訊かれる。
訊かれて答えられないことは書かない。それも、この三年半で覚えたことだった。
司祭が立ち上がって、開会の言葉を述べた。
長かった。祝福の言葉が半分だった。わたしは、それを全部書いた。
全部書いたのは、決まりだからではなかった。
決まりは、要点を書けとなっていた。要点というのが何かを、誰も定義していなかった。定義していないものは、書く者が決める。
わたしは、決めないことにした。
決めれば、決めた者の記録になる。決めなければ、その場の記録になる。手は疲れるが、そのほうが確かだった。
書きながら、オルサの手を見ていた。
膝の上に置いてある。動かない。
司祭が座ると、ロヴァニスの卓の者が立った。
そちらのほうが、話が速かった。前置きがなく、数から入った。
わたしは、書いた。
オルサの右手が、耳のほうへ上がった。
上がって、当てて、下りた。
わたしは、その回数を数えはじめた。




