荷と一緒に
荷が出る朝、村の誰も見送りに出なかった。
冷たいからではない。荷が出る朝に人が集まるのを外から見られれば、その荷に何か載っていると教えることになる。そういうことまで手順になっている村だった。
荷が出るのは決まった日ではなかった。買い付けの司祭が来る日は決まっているのに、荷が出る日は毎回ずらす。ずらしても袋の数は同じだけ出るから値には響かない。響かないところだけをずらす、というのが、この村が長くやってきたやり方だった。
メレは井戸のところにいた。桶を引き上げていて、わたしが前を通っても顔を上げなかった。
「行くのか」
「うん」
「そうか」
それだけだった。何歩か行ってから、後ろで彼女が言った。
「布は替えろ。染みたやつは効かない」
振り返ると、彼女はもう桶を運んでいた。石のようになった指が縄を掴んでいた。
それきり彼女は振り向かなかった。この村で人が減るとき、残る者はみんなそういう別れ方をした。桶を運びながら、あるいは籠を編みながら、手を止めないで済ませる。
井戸から櫓までのあいだに、村の者と何人かすれ違った。誰も何も言わなかった。籠を運ぶ手を止めた者もいなかった。ひと月そこら一緒に篩を回した相手の顔を、わたしはそのときちゃんと見た。見たところで、名前は一つも知らなかった。
トゥーは櫓の下にいた。篩の前に立って、わたしの持ち場のほうを直していた。わたしがもう来ないのだから直す必要はなかった。
「じゃあ」
彼は手を止めなかった。
「北は寒い」と、前にも言ったことを言った。それから少し考えるような間があって、続けた。「灰は、寒いところのほうが軽い」
「どういう意味」
「知らない。おれが来たとき、そう言われた」
彼は篩の枠に手をかけたまま、しばらくそのままでいた。
「持ってけ」
投げてよこしたのは、布の切れ端だった。灰よけに使う厚手のもので、洗った跡があった。洗ってあるということは、新しいのを分けてもらったのではなく、自分の使っていたものだということだった。
「あんたのは」
「もらう」
そう言って、彼は初めてこちらを見た。目のふちが赤かった。灰が入ればそうなる。この村では毎日そうなる。だからそれが何のせいかは、誰にも分からない。
彼は篩から手を離し、袖で顔を拭って、それきり櫓のほうを向いた。わたしは荷馬車のところへ行った。
連れて行くのは、食事の前に胸の前で環を描きかけてやめる、あの男だった。荷台に麻袋を積み直しながら、わたしを見もしないで顎で乗れと示した。
村が見えなくなるまで、彼は何も言わなかった。
荷台には麻袋が積んであった。中身は灰だった。北へ行くのに東へ売る灰を積んでいるのは、途中の集落で売り払うからで、荷のない車で街道を行くほうがよほど目立つ、というのが彼の言い分だった。
灰の山が地平の下へ沈み、櫓の先だけがしばらく残って、それも消えてから、彼はようやく口を開いた。
「名前が要る」
「え」
「村を出たら要る。訊かれて答えられない子供は目立つ。目立つ子供は覚えられる。覚えられた子供は、あとで照らし合わされる」
彼は御者台からこちらを振り向かないで話していた。
「なんでもいい。ただし一つに決めて、最後まで同じものを使え。途中で変えたやつはだいたい捕まる」
わたしは荷台の縁を握っていた。
「アステ」
「聞いた」と彼は言った。「その名で行け」
「聞いたって、いつ」
「あの朝だ。あんたが袋の間から引っぱり出されて、名を訊かれて、答えたときだ」
「小屋の外にいたの」
「村の全員が外にいた」とエルネスは言った。「あの日、家の中にいた者は一人もいない。中にいると、中に何かあるように見えるからな」
わたしは、あの朝のことを思い出していた。櫓が止まって、村じゅうが声を立てないまま動いた、あの手際のことを。
しばらくして、彼は付け足した。
「家名は」
「ない」
「北へ行けば要る。向こうは家名で人を並べる国だ。ないままだと、それはそれで目立つ」
わたしは答えられなかった。
「まあ、いい」と彼は言った。「向こうで訊かれたら、母親の名を言え。北はそういう並べ方をする」
わたしは母の名を知らなかった。
父は母を呼ぶのに名を使わなかった。おまえ、と言うか、何も言わないで用件だけを言うかのどちらかで、市場の女たちは奥さん、と呼んだ。母が自分の名を口にするところを、わたしは一度も見ていない。
そのことに、荷馬車の上で初めて気がついた。
呼ばれない名前は、無いのとどう違うのだろうと思った。
母は自分の名を憶えていたはずだった。憶えていて、毎日使わないと決めていた。北の言葉と同じやり方だった。使わないでいるものが、母の中にはいくつもあったことになる。
わたしに残していったのは、そのうちの一つだけだった。鉄が一本。
「おじさんの名前は」
「道では、おれのことをエルネスと呼べ」と彼は言った。「それがおれの名かどうかは訊くな」
道は西へ向かっていた。灰海の縁に沿って、掘り出した山の裾を回り込むように続いていて、車輪の下でずっと乾いた音がしていた。
「北へは、山を越えるの」
「越えない」とエルネスは言った。「回る」
「なにを」
彼は鞭の柄で、右手のほうを指した。ずっと右手には、平らで、灰色で、端の見えないものがあった。
「これを」
「回るのに、どのくらいかかるの」
「知らん」
「知らないの」
「戻ってきた者の話しか聞いてないからな」とエルネスは言った。「行ったきりの者が何日かかったかは、誰も知らん」
牛が首を振った。轍の下で、乾いた音が続いていた。




