眉の傷
その朝、櫓に上がっていた男が、灰の山の向こうを見て手を止めた。
村では櫓が止まると全部が止まる。誰かが叫んだわけでも、鐘が鳴ったわけでもないのに、篩の音が消えた瞬間に村じゅうが動きはじめた。井戸端の女が桶を置いて子供を家へ押し込み、袋を運んでいた男が籠をその場に伏せ、それが全部、声を立てないまま行われた。
メレがわたしの腕を掴んで、袋を積む小屋へ引っぱっていった。
積み上がった麻袋のいちばん奥、壁と袋のあいだの隙間へ押し込まれ、上から空の袋を何枚も掛けられた。灰の匂いが濃かった。布で口を覆う暇がなかった。
「息を吸うな」とメレが言った。「浅く吸え。咳が出たら、袖を噛め」
「メレ」
「返事をするな。何を言われても返事をするな。名前を呼ばれてもだ」
袋が動かされて、隙間が塞がった。
暗くなると、匂いのほうが強くなった。灰は袋の外へも出ていて、麻の目から漏れたものが壁との隙間に溜まり、そこへ押し込まれたわたしの膝の下で細かく崩れる感触があった。息を浅くすると、浅くしたぶん回数が増える。回数が増えれば、そのぶん吸う。どちらにしても同じだけ入ってくるのだと、途中で気がついた。
外の音は思ったよりよく聞こえた。馬が来て、止まり、人が降り、その靴が地面を踏む音まで届いた。灰の上を歩く音は乾いていて、砂の上とも土の上とも違う。
司祭ではなかった。声が若かった。
「巡察だ」とその声は言った。「買い付けではない。灰は要らない」
「今月ぶんは、もう」
「要らないと言った」
村の男が黙った。
「東の街道で拾った者から、この先の村の話が出た」と若い声は続けた。「名簿にない者が働いているという話だ」
「ここは誰の土地でもありません」
「知っている」と声は言った。「土地の話はしていない。人の話をしている」
「この村に、去年いなかった者は」
「灰を掘る村です」と村の男が言った。「毎年、誰かが減って、誰かが来ます」
「誰が来た」
「名前は訊きません」
短い間があった。
「訊かないのか」
「訊いても、答える者がおりませんので」
若い声は、それについて何も言わなかった。怒りもしなかった。そのことのほうが怖かった。
靴の音が散った。何人かが別々の方向へ歩いていく音がして、そのうちの一つがこちらへ近づいた。
小屋の戸が開いた。
外の光が入ってきて、袋の隙間から細く差し込んだ。わたしは息を止めた。止めてから、それが一番まずいやり方だと気づいた。止めた息はいつか吐かなければならない。
靴の音が袋の列に沿って歩いた。何かで袋を突いていた。柄の先か、鞘か、乾いたものが麻に当たる音が、規則正しく近づいてくる。
止まった。
わたしの上に掛けられた空の袋が、外から引かれた。
光が顔に当たって、目が開けられなかった。手で顔を覆いかけて、覆う前に、覆ったら余計に見られると思って、手を下ろした。
見上げた。
黒い髪を短く刈った男が、逆光の中でこちらを見下ろしていた。左の眉に古い傷があった。
彼は何も言わなかった。わたしも言わなかった。あの林のときと同じだった。違っていたのは、小屋の戸口にもう一人立っていたことと、そのもう一人がこちらを見ていたことだった。
あの林には、彼のほかに誰もいなかった。誰もいなかったから、彼は指を差すだけで済んだ。ここには目がある。目のあるところでは、指を差すのは嘘にならない。書かなければならない。
男は腰の後ろから薄い帳面を抜いて、開いた。
「名は」
わたしは、その意味が分かった。ひと月そこらのあいだに、わたしはこの村でそれを教わっていた。名前は身元ではなく、防具でも武器でもなく、帳面と引き合わせるための鍵にすぎない。合う鍵を出せば錠が開く。合わない鍵を出せば、錠は開かない。
穹堂の名簿に書かれている名を言えば、穴が埋まる。
わたしは口を開いた。
「アステ」
男の手が止まった。ほんのわずかだった。戸口の男には見えなかったはずの、短い止まり方だった。
「もう一度」
「アステ」
「家名は」
「ない」
彼は帳面へ目を落として、それから顔を上げないまま言った。
「綴りは」
わたしは書けなかった。母がその名を紙に書くのを、一度も見たことがなかった。
黙っていると、彼はしばらく待った。待ってから、自分で何か書きつけた。羽根が紙をこする音が短く続いて、止まった。わたしからは読めなかった。
彼が何と書いたのかを、わたしは知らない。それが正しいかどうかを確かめられる者は、その場にいなかった。書ける者がいなかった。
「村の子か」と、戸口のほうへ向けて彼は言った。
答えたのはメレだった。いつのまにか外に立っていた。
「うちの子です」
「灰咳は」
「まだ出ません」
「そうか」
彼は帳面を閉じ、脇に挟んで、小屋を出ていった。
それから村の男に何か短く告げる声がして、馬が引き出され、蹄の音が遠ざかった。音が完全に消えるまで、村の誰も動かなかった。
小屋の袋が外から動かされて、光が入った。メレだった。
彼女はわたしを引っぱり出すと、まず口の中を見て、次に目を見て、それから袖で顔の灰を拭った。何も訊かなかった。
村の男が戸口に立って、外を見たまま言った。
「あれは、袋を突いてただろう」
「突いてた」
「突いて、当たったのに、開けたのは一つだけだ」
メレは何も答えなかった。
わたしは袋のあいだに座ったまま、自分の手を見ていた。
指の先が、前より白かった。




